第7話 朔が生者を見ない理由
砥石の表面が、少しだけ減っている。
減り方は均一だ。均一なのに、指の腹が引っかかる。砥石に引っかかるのではない。指先のひびが、砥石の粒を拾う。拾うと、痛みが遅れて来る。遅れる痛みは、煤の性質に似ている。
私は刃物を研いでいた。封印用の小刀だ。切るためのものではない。切ってはいけないものに触れないための道具だ。刃を立てると、紙が裂ける。紙が裂けると、願いが散る。散った願いは回収できない。回収できないものは、現場に残る。
研ぐ音が町家の天井に吸われる。木の梁は音を柔らかくする。柔らかくなると、余計なことを考える。考えないために研いでいるのに、研ぐと考える。道具は正直だ。
一条が奥の間で、茶を淹れていた。湯気が立つ。湯気が立つと、湿りが増える。湿りが増えると、煤の匂いが輪郭を持つ。煤は乾いた匂いのはずなのに、湿りの中で輪郭が浮くのが嫌だった。
「なあ」
一条が声をかけた。軽い声の形をしているが、軽口ではない。
私は研ぎ続けた。砥石の上に水を落とし、刃の角度を一定に保つ。一定に保つと、手が勝手に動く。勝手に動く手は、話を聞く手だ。聞く手のまま、答えないことができる。
「昨日の名」
一条が言った。
刃が水を切る音が、ひとつだけ強くなった。強くなったのは、力を入れたからだ。力を入れると刃が削れすぎる。削れすぎると刃が薄くなる。薄い刃は欠ける。欠けた刃は、現場で人を傷つける。
私は力を抜いた。
「仕事の記録に書いた」
「書いたなら、言えるだろ」
「言えることと、言うことは違います」
一条が鼻で笑った。笑い方が短い。短い笑いは苛立ちを隠すときの笑いだ。
「いつもそうだ。お前、必要なことしか言わない。必要って何だよ。今、必要だろ」
私は刃を水で洗い、布で拭いた。拭く布は白い。白い布に、薄く黒い筋がついた。黒は煤だ。煤が布に移るとき、今日は糸のような線になる。線は風の性質を持っている。
「必要なのは、現場です」
「現場、現場。お前の現場って、死んだものだけだろ」
一条が言った。言い方が少し尖っている。尖りは、彼の中に余裕がない証拠だ。余裕がないのに、軽口をやめて聞く。彼も追い詰められている。
私は道具箱を閉めた。閉める音が大きいと、箱の中が揺れる。揺れると煤が舞う。舞わないように、ゆっくり閉める。ゆっくり閉めると、沈黙が長くなる。
沈黙の間に、電話が鳴った。固定電話だ。携帯ではなく固定電話にかかるのは、相手が古い。古い相手は、現場の匂いを知っていることが多い。
私は受話器を取った。
「朔です」
向こうの声は男だった。若くない。声が掠れている。掠れは煙草ではなく、夜勤の掠れだ。
「遺品整理の方で、合うてますか」
「はい」
「病院なんです。小児の、病棟の裏に、小さい祠があって」
病院という単語が耳に入った瞬間、喉の奥が乾いた。乾きは水分の乾きではない。空気が薄くなる乾きだ。薄くなると、呼吸が浅くなる。浅くなる呼吸は、吸い込みが小さい。小さい吸い込みは、臭いを拾う。拾った臭いが、頭の奥で残る。
「清掃の者です。ようけ騒ぎにはしたない。けど、子どもが言うんですわ。祠の前に、誰かおるって」
誰かいる。第四話と同じ言い方だ。違うのは場所だ。公園ではない。病院だ。
私は言葉を短くした。
「現場を確認します。住所を」
清掃員は住所と時間を言った。午後。面会時間の終わりに近い時間。病棟が少し静かになる時間だ。静かになると、残りが聞こえる。残りが聞こえる場所は危険だ。
電話を切ると、一条がじっとこちらを見ていた。目が冗談の目ではない。
「病院か」
「依頼です」
「行く気だな」
「行きます」
「俺も行く」
私は反射で拒否しそうになった。拒否すると理由が必要になる。理由を言うと、病院の匂いが室内に入る。入れたくない匂いだった。
一条は続けた。
「今日は、軽口言わない」
それは約束ではなく宣言だった。宣言をする相棒は、何かを知っている。知っているのに言わない。言わないのは、私と同じだ。
私たちは道具を揃えた。封印箱、布、結界札、記録帳、手袋。今日は替えの手袋を多めに入れた。病院の消毒の匂いはゴムに残る。残る匂いは夜にも出る。夜に匂うと眠れない。眠れないと、明日の現場で手が遅れる。遅れる手は煤を呼ぶ。
冬の外気は冷たい。冷たい空気はまだ助かる。冷たいと、鼻が働く前に身体が固まる。固まると、余計な匂いが入らない。
病院に近づくにつれて、空気が変わった。温い。温い空気は建物の中から漏れる。漏れた温さに消毒の匂いが混じる。消毒の匂いは、汚れを消す匂いだ。消す匂いは、終わりを歪ませる匂いに似ている。
裏口に清掃員が待っていた。帽子のつばが少し汚れている。汚れは埃だ。埃の汚れは人の生活の汚れだ。煤の汚れとは違う。違うのに、今日はこちらの汚れの方が重い気がした。
「こちらです」
清掃員は丁寧だった。丁寧さの中に疲れがある。疲れは肩の落ち方に出る。落ちた肩は、誰かを支えすぎた肩だ。
病棟の裏へ回る。人が通らない通路。通らない通路は音が響く。靴音が硬く返る。返る音が遅れて聞こえる。遅れは薄さだ。薄さの中で、祠が見えた。
小さな祠。木が黒ずんでいる。黒ずみは雨の黒ずみではない。手の脂の黒ずみでもない。人の手が触れない黒ずみだ。触れない黒ずみは、忘れられた黒ずみだ。忘れられると死ぬ。そういう死ではないのに、ここには薄さがある。
祠の前に、折り紙が落ちていた。鶴ではない。簡単な舟。角が甘い。指が小さい折り方だ。
清掃員が言った。
「これ、子らが折って置いていくんですわ。けど、昨日から増えて。今日も一人が言うて。そこに、誰かおるって」
一条が周囲を見た。壁、排水溝、換気口、窓。病棟の窓のカーテン。カーテンの隙間から、淡い光が漏れている。漏れる光が白い。白い光は夜の白に似ている。
「子ども、今どこ」
一条が清掃員に聞いた。普段の彼なら私が聞く。今日は彼が先に聞く。橋渡しをするつもりだ。
「病室です。もうすぐ消灯前で」
「会わんでいい」
私は言った。言い方が硬い。硬い言い方は拒否だ。拒否は相手を傷つける。傷つけると、相手の言葉が尖る。尖ると現場が乱れる。乱さない。
「会わなくていい。折り紙を見れば足りる」
清掃員はうなずいた。うなずき方が少し早い。早い同意は、助けが欲しい同意だ。
「何がいるんですか」
清掃員が聞いた。
私は答えなかった。答えると説明になる。説明すると、祠の存在が病院の噂になる。噂になると、善意が集まる。集まる善意は第二話のように押しつぶす。押しつぶされたものは汚れる。
私は結界札を四隅に置いた。地面に沿わせる。病院の風は換気で動いている。換気の風は一定だ。一定の風は、煤を運ぶ。運ばせない。
折り紙に手を伸ばそうとして、止まった。止まるのは指先だ。指先が止まると、呼吸が遅れる。遅れた呼吸が喉に引っかかる。引っかかると咳が出る。咳はここでは出したくない。
私は手袋の口を見た。ゴムが指に食い込む。食い込むと皮膚が痛い。痛いのに、外さないと触れられない。触れないと、最後が見えない。見えないと、手順が立たない。
時間がかかった。たった数秒のはずなのに、手袋の端を摘む指が迷う。迷いが、折り紙の色を強く見せる。黄色。薄い黄色。病室の灯りの黄色と同じだ。
一条が何も言わない。清掃員も何も言わない。沈黙は視線になる。視線は圧になる。圧になると、余計に手が遅くなる。
私はようやく手袋を外した。外した指先が空気に触れる。空気が温い。温い空気が指のひびに入り、痛みが遅れて来る。遅れて来る痛みの間に、折り紙に触れた。
紙の感触が乾いている。乾いているのに、紙の奥に湿りがある。湿りは涙の湿りではない。吐息の湿りだ。病室の空気の湿り。湿りが折り紙に染みている。
最後の記憶が走った。
いつものように、一枚の紙の奥から映像が出る。音が先に来る。子どもの笑い声。笑い声は遠い。遠いのに耳の奥に近い。近いのに見えない。見えないのに分かる。分かる声の高さ。
白い天井。白い壁。消毒の匂い。温い空気。ベッドの柵。柵の向こうに小さな手。
小さな手が折り紙を差し出す。手の甲に、点滴の針の跡がある。絆創膏が貼ってある。絆創膏の端が少し浮いている。浮いた端が、本人の指でいじられている。いじる癖は待つ癖だ。
子どもの声が言う。
「これ、あげる」
声が直接耳に入る。入った瞬間、私はその声の主の顔を見ない。見ないまま、手だけを見る。手だけを見るのは癖だ。癖は過去だ。
折り紙が私の手の中に入る。入った紙は軽い。軽いのに、湿りがある。湿りが重い。重い湿りが、喉の奥を締める。締められると息が遅れる。
子どもが続ける。
「また、あした」
明日。
明日という言葉が、病室の壁に吸われる。吸われるとき、音が遅れて消える。遅れて消える音は、終わりの音だ。
私は自分の声で返すはずだった。返す言葉を探した。探すと時間が伸びる。伸びた時間の中で、子どもは笑った。笑いは軽い。軽い笑いは、身体の重さと釣り合わない。釣り合わない笑いは、残る。
そして、次の瞬間。
画面が飛ぶ。飛ぶのは記憶の飛び方だ。最後の記憶は直前しか映さない。直前だけが残る。残り続ける。
白い天井が、少しだけ暗くなる。消灯の暗さではない。暗さが薄い。薄い暗さが、世界から色を抜く。色が抜けると、折り紙の黄色が灰色になる。灰色になる黄色は、煤の色だ。
子どもの手が、柵の上で止まる。止まる手は、力が抜けた手だ。抜けた手は、戻らない手だ。
誰かが慌てて動く音。看護師の靴音。ベッドの柵が鳴る音。モニターの音。モニターの音が一定になる。一定になる音は、終わりの音だ。
終わりの瞬間だけが、何度も再生される。
私は折り紙から手を離そうとした。離す前に、別の映像が重なった。重なる映像は、私のものだ。私の過去が混じる。混じるのは、能力の暴走だ。暴走は、煤が増えたせいかもしれない。煤が増えると境界が薄い。薄い境界は、個人の境界も薄くする。
別の病室。白い天井。小さな手。折り紙。声。
同じだ。違うのは、声の呼び方だ。
「兄ちゃん」
その呼び方で、私は呼吸を止めた。止めると胸が痛い。痛い胸は過去の痛みだ。
幼い声が言う。
「また、あした」
明日。
明日が来ないことを、私は知っていた。知っているのに、その場では知らないふりをしていた。知らないふりをすることで、その場の明日を守ろうとした。守れないものを守ろうとする行為は、後で自分を削る。
削られた自分が、今、折り紙に触れた。
私は折り紙を落とした。落とすと紙が地面に触れる。触れた瞬間、折り紙が少しだけ震えた。風ではない。記憶の残りが震えた。
指先が痺れている。痺れが、折り紙の角と同じ形をしている。角が指に刺さるような痺れ。刺さる痺れは痛みの匂いを持つ。
一条が低い声で言った。
「朔」
名前を呼ばれた。呼ばれると、現場に戻る。戻るのに時間がかかる。時間がかかると、目の焦点が合わない。合わない焦点は、病室の白を引きずる。
清掃員が心配そうに見ていた。見ている目が現場の目ではない。人の目だ。人の目は、今を見ている。今を見られると、私は困る。困るのに、困ると言えない。
「大丈夫ですか」
清掃員が言った。
私は答えなかった。答えない代わりに、手袋を拾ってはめた。はめる動作が少し乱れる。乱れる動作は、手が震えているからだ。震えを寒さのせいにできない。病院の裏は温い。
一条が清掃員に言った。
「もう少しだけ時間もらえます? 俺ら、手順がいるんで」
手順、という言葉を一条が使った。普段の彼なら使わない。使ったのは、私の言葉を借りたのだ。借りられる言葉は重い。重いのに、助かった。
清掃員は頷き、少し離れた。離れる距離が適切だった。適切な距離は、現場を理解している距離だ。
私は祠の中を覗いた。祠の奥に、小さな箱がある。箱の横に、紙片が挟まっている。紙片は折り紙の切れ端。切れ端が増えている。増え方が規則的だ。規則的な増え方は、意図がある。意図は子どもの意図ではない。子どもの手は規則を作れない。規則は大人の手だ。
一条が祠の前にしゃがんだ。しゃがむ動作が遅い。遅いしゃがみは、身体が重い証拠だ。彼は咳を堪えている。堪えると喉が鳴る。喉の鳴りが乾いている。
「混じったな」
一条が言った。
「見えた」
「お前の」
私は頷かなかった。頷くと確定になる。確定すると、言葉にしなければならない。言葉にすると、過去が現場に入る。入ると、私は仕事ができなくなる。
一条は続けた。
「だからお前、生きてるやつの顔見ないのか」
生きてるやつの顔。今を見ている顔。今を見ている顔は、明日の顔になる。明日の顔が、終わりの顔になる。その切り替わりを私は耐えられない。耐えられないと言えば済むことではない。耐えられないから、最初から見ない。見なければ切り替わりの瞬間を知らないふりができる。
私は道具箱から小さな布袋を出した。布袋の中に、乾いた砂を入れてある。砂は湿りを吸う。湿りを吸うと、記憶が薄くなる。薄くなるのは、消すのではなく、散らすことだ。散らすと、最後が一点に固まらない。固まらない最後は、暴れない。
「折り紙は燃やさない」
私は言った。声がいつもより硬い。硬い声は、自分に言い聞かせる声だ。
「置く」
「どこに」
「病棟の窓辺」
一条が私を見た。目が少しだけ柔らかい。柔らかい目は、冗談ではない。
「会わないのか」
「会わない」
「会えない、だろ」
私は答えなかった。答えないのは逃げだ。逃げは見えない。見えない逃げは、仕事に混ぜると手順になる。手順になると、逃げではなく距離になる。
私は折り紙を一枚ずつ集めた。素手では触らない。触るとまた混じる。混じると、現場の最後が私の最後になる。そういう混じり方は危険だ。
折り紙を布で包み、砂を少量入れた。砂を入れると紙が少し重くなる。重くなると、風に舞いにくい。舞いにくいと、祠に残りにくい。残りにくいと、記憶が薄くなる。
清掃員を呼んだ。呼ぶとき、声が短くなる。短い声は、感情が混ざらない声だ。
「これを、病棟の窓辺に」
私は布包みを差し出した。清掃員が受け取る。受け取る手が温い。温い手が、布の上から記憶を温めるように見えて、視線を逸らした。
「窓辺?」
「換気の風が当たる場所。人が触れない場所」
「分かりました」
清掃員は疑問を飲み込んだ。飲み込むと喉が動く。喉が動くと、こちらの喉が乾く。乾く喉は、言葉を減らす。
「子どもには」
清掃員が言いかけた。
「言わないでください」
私は言った。言い方が少し強い。強い言い方は、拒絶に聞こえる。拒絶ではない。これ以上子どもに「そこにいる」を言わせたくない。言わせると、祠は子どもの目だけの神になる。子どもの目だけの神は薄い。薄い神は、見えなくなる瞬間が残酷だ。
清掃員は黙って頷いた。頷きの後、そっと付け足した。
「……子どもら、よう頑張ってます。おとなが言うたら怒られることでも、笑って言うんです。明日、って」
明日。明日という言葉が、また喉に刺さった。刺さる喉で、私は返事をしなかった。返事をすると、声が揺れる。揺れた声は感情語になる。感情語は禁句寄りだ。
清掃員が去る。去る背中が廊下の角に消える。消えると、病棟の窓の光だけが残る。
一条が小さく言った。
「お前、今のは慰めだ」
慰めという言葉を使われると、胸のあたりが固くなる。固くなるのは否定したいからだ。否定したいのに否定できない。否定できないのは、私はその折り紙を残したからだ。残すのは後始末だ。後始末は、残すことだ。
私は言葉を選んだ。選ぶのに時間がかかる。時間がかかると、一条は待つ。待つことができるのは、彼が今だけは軽口をやめているからだ。
「私は、生きてる人の今が分からない」
声は平坦だった。平坦にしないと、喉が揺れる。揺れた喉は咳になる。
「最後しか見えないから」
言った瞬間、空気が少し冷えた気がした。冷えたのは外気ではない。言葉が場の温度を下げた。言葉は刃物だ。刃物は温度を奪う。
一条が息を吐いた。吐き方がゆっくりだ。ゆっくり吐く息は、相手の話を受け取る息だ。
「だからお前、終わりを丁寧に扱う」
私は頷いた。頷くしかなかった。否定できない事実だ。
祠の前に残った空気はまだ薄い。薄い空気の中で、子どもの声だけが残る。残る声は、明日の声だ。明日の声を私は聞けない。聞けないから、祠の前に立つと呼吸が乱れる。
私は最後の確認をした。結界札の位置。祠の扉の隙間。折り紙の残りがないか。排水溝に紙片が落ちていないか。落ちている紙片は拾い、布に包む。包む布の端が黒くなる。黒くなるのは煤だ。今日の煤は、風の形を持っている。風は病棟の換気の風に混じりやすい。混じらせない。
清掃員が戻ってきた。
「置いてきました」
彼は短く言った。短い言い方は、病棟の静けさに合わせた言い方だ。
「子どもには、言わんときました。けど、一人、窓の方見て笑うてました」
笑う。笑う子ども。笑う子どもは、今を生きている。今を生きている子どもが明日を言う。明日が来るかどうかは分からない。分からないのに、明日という言葉は出る。出る言葉を止めたくない。止めたくないのに、私は明日を聞けない。
私は礼を言うべきだった。礼の言葉が喉で止まった。止まると、声が出ない。出ないと失礼になる。失礼になると、相手が困る。困る相手の顔を見るのが、私は苦手だ。
一条が代わりに言った。
「助かった。あんた、仕事できるな」
軽口ではない。事実を短く言っただけだ。清掃員が少しだけ笑った。笑いは疲れをほどく。ほどけると、現場が終わる。
帰り道、病院の裏口を出た瞬間、外気が冷たくて助かった。冷たさは顔の皮膚を刺す。刺す冷たさは、今に戻す。
一条が歩きながら言った。
「さっきの、混じったやつ。お前、何回も見たんだな」
何回も。私は答えなかった。答えると回数になる。回数になると、数え始める。数え始めると終わりが増える。増える終わりは、私を削る。
一条は言葉を変えた。
「弟か」
弟という単語が、胸の奥に落ちた。落ちたまま、跳ねない。跳ねないのは、衝撃が大きいからだ。大きい衝撃は、音にならない。
私は歩幅を変えずに言った。
「仕事です」
一条が苦く笑った。苦い笑いは、理解の笑いだ。理解されるのは、怖いに近い。怖いという言葉は使わない。代わりに、喉が乾く。乾いた喉で唾を飲み込む。飲み込みが遅れる。遅れた飲み込みが、胸の内側で引っかかる。
町家に戻ると、机の上に封筒が一通増えていた。誰が置いたのか分からない。無記名の封筒。無記名は匂いが濃い。濃い匂いは組織の匂いだ。
封筒を開けると、紙が一枚。短い文。
遺品整理を拒む家がある。あなたにしかできない。至急連絡。
署名はない。電話番号だけが印字されている。印字が綺麗だ。綺麗な印字は、個人ではない。個人ではない印字は、制度の印字だ。
一条が紙を覗き込んだ。
「来たな」
彼の声が低くなる。低い声は、怒りに近い声だ。怒りは彼の中で熱になる。熱になると咳が増える。彼は短く咳をした。
「生者が、神の死を握ってる」
一条が言った。握っているのは、死ではなく利害だ。利害は握りやすい。握りやすいものほど、人は手放さない。手放さないと、終わりが歪む。歪むと煤が増える。
私は封筒を机の端に置いた。端に置くと、視界の端に入る。端に入ると、いつでも次を開ける。
記録帳を開いた。今日の項目を書く。
病院裏の祠。折り紙。子どもの声。明日。能力の混入。過去の混入。窓辺。風に晒す。記憶を薄める。
書いている途中で、手袋の内側がざらついた。煤が増えている。増え方が、風の線を描くように指の腹に集まっている。集まる煤は性質を持つ。性質を持つ煤は、こちらの境界を削る。
私は手袋を外さずに、指先を見た。布越しに黒い線が見える。線は折り紙の角に似ている。角は明日の角だ。
一条が奥で湯を沸かし直した。湯気が立つ。湯気が立つと、室内の湿りが増える。湿りが増えると、煤の匂いが輪郭を持つ。
私は封筒を閉じた。閉じる音は小さくした。小さく閉じても、次は開く。開くしかない。
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