第6話 後始末は金にならない

 朝の町家は、音が先に起きる。


 路地を掃く箒の擦れる音。遠くの寺鐘の余韻。湯が沸く前の鉄瓶が、底で一度だけ鳴る。私はその音を聞きながら、机の上の紙束を揃えた。揃える動作で、今日の仕事の順番が決まる。順番が決まらないと、手が迷う。迷うと、現場が先に入り込む。


 封筒が三通。差出人の名前がない。町内会の判が押してあるものが一通。寺の名前が一通。見慣れない会社名が一通。封筒の角が硬いのは、紙が多いからだ。紙が多い依頼は、言い訳も多い。


 メールが四件。件名は似ている。「至急」「相談」「困っています」「お願い」。電話の着信が二件。不在着信が増えると、耳の奥がざらつく。ざらつきは煤の前触れと似ている。


 私は記録帳を開き、昨日の祠の項目を確認した。名の剥奪。境界。黒い革靴。スーツの裾。書いた字が、夜の間に少し滲んでいる。滲むのは湿気のせいではない。滲み方が細い。煤の滲みだ。


 指先が荒れている。手袋を外していなくても、乾燥が進む。ひびの上から布が擦れて、痛みが遅れてくる。遅れは、今日は良くない種類だ。音の遅れと同じで、境界が薄い。


 棚の端に、あの箱がある。朝置いたときより、周囲の煤が濃い。煤が増える速度が、室内では速すぎる。箱の布の端が、わずかに揺れている。風はない。揺れるなら、中身が動いている。動いているのに音がしないなら、動きが内側で起きている。


 一条は畳の上に寝転んでいた。寝転んでいるのは平気なふりだ。平気なふりをしているときほど、目の焦点が定まらない。彼は天井の梁を見ている。梁を見る目は、祠を見る目に似ていた。


「お前、今日は何件」


 声は軽い。軽い声の中に、息の足りなさがある。


「午前に二件、午後に一件。夕方に一件」


「四件か。働くね」


「依頼が増えた」


「知ってる」


 知っている、という言い方が嫌だった。知っているなら、理由も知っているのかもしれない。理由を言わないのは、言えないのではなく、言うと歪むからだ。


 戸が叩かれた。叩き方が丁寧だ。丁寧な叩き方は、用件が固い。固い用件は、言葉の後ろに書類がある。


「朔さん」


 外の声がした。男の声。年齢は若くない。声の出し方が、役所に近い。


 私は立って、戸を開けた。冷気が室内に流れ込む。流れ込む冷気が、煤の匂いを押し出した気がした。押し出された匂いを、相手が嗅いだかどうかは分からない。分からないが、相手の目は少し細くなった。


 スーツの男が立っていた。昨日、寺の帰りに見た男と同じ輪郭。顔立ちを覚える前に、靴を覚える。黒い革靴。雨に濡れても光り方が変わらない。磨いている靴だ。磨く癖は、仕事の癖だ。


「突然失礼します。こちらに、遺品整理の朔さんがいらっしゃると伺いまして」


「朔です」


 名乗ると、男は名刺を出した。出し方が早い。早い名刺は、先に立場を置くための道具だ。


 名刺には、京都市の部署名が印字されていた。文化財、観光、管理。そういう単語が並んでいる。文字の並びが、祠の空白よりも嫌だった。空白は欠落だが、文字は目的だ。


「文化資源の維持管理を担当しております、野崎と申します。近頃、いくつかの社や祠で、整理の依頼が増えていると聞きまして」


「増えています」


「現場が混乱すると困ります。観光地も多い。安全面の問題もあります。そこで、お願いがありまして」


 野崎は言葉を選んでいる。選んだ言葉の下に、本音がある。本音はだいたい同じだ。効率、統一、管理。


「処理を委託したい」


「委託」


「はい。現場で起きている現象を把握し、対応を標準化したい。あなたのような方が個人で抱えるには、負担が大きいでしょう。こちらで支援できる部分は支援します。その代わり、記録を提供していただきたい」


 記録。


 私は名刺を机の上に置かなかった。受け取った名刺を、手元に持ったままにした。机に置くと、交渉が始まる。始めない。


「記録は渡せません」


 野崎の瞬きが一度止まった。止まった瞬きは、想定外の返答に近い。想定外でも、彼はすぐ表情を整える。整える表情は、交渉に慣れている。


「なぜでしょう」


「仕事の規程です」


「規程は、あなたの内部のものですよね。公的な枠組みに合わせていただくことは、社会のためにもなる」


 社会のため。そういう言葉は便利だ。便利な言葉は、現場を踏む。


「記録は、遺品の一部です」


 私は言った。説明を増やさない。増やすと、相手はそこを削りに来る。削られると、空白になる。空白は名を奪う。


 野崎は息を吐いた。吐き方が浅い。浅い息は、急いでいる息だ。


「祠は観光資源でもあるんです。地元の方々の生活もある。工事もある。あなたの仕事が尊いのは理解しています。ただ、個人の信念で止まることと、止まれないことがある」


 私は野崎の靴を見る。昨日見た靴と同じ光り方。靴の縁に、乾いた泥が薄く付いている。寺の裏道の泥だ。昨日、近くまで来ていた。近くまで来て、名刺を出す機会を待っていた。


 一条が奥から出てきた。出てくる気配が遅い。遅いのは、彼がわざと遅らせているからだ。相手に、自分がここにいることを一拍遅れて知らせる。遅れは圧になる。


「お客さん?」


 彼は軽口の形で言った。軽口だが、目が笑っていない。


 野崎は一条を見て、一瞬だけ視線を迷わせた。迷いは、情報不足の迷いだ。彼は私のことを調べてきたが、一条までは把握していない。


「そちらは」


「ただの同居人」


 一条が言った。私は訂正しなかった。訂正すると説明になる。説明になると、相手はその説明を利用する。


 野崎は話を戻した。


「近々、現場を一度見せていただきたい。危険があるなら、危険の程度を確認し、工事関係者にも指示を出す必要がある」


 現場を見せてほしい。記録を渡せないなら、現場から取る。取るために現場に入る。入られると、歪む。


「依頼があれば同行は可能です」


「依頼を作ります。工事現場で、発掘物が出ています。改修中の小さな社です。地中から古いものが出て、職人が咳き込んだ。原因不明で工事が止まった。あなたが処理できるなら、今すぐ来てほしい」


 野崎の声が少し硬くなる。硬くなるのは、予定外の火種があるからだ。火種は、彼の部署にとっても厄介だ。厄介なものほど、早く片づけたい。片づけたいのは、彼の仕事でもある。私の仕事とは、片づけ方が違う。


 私は鞄を取りに行った。道具の点検をする。封印テープ、布、結界札、記録帳、手袋の替え。手袋の替えを入れたとき、指先がひりついた。ひびが深くなっている。深くなるほど、触れた記憶が入りやすい。入りやすいと、煤が濃くなる。


 一条が私の肩越しに言った。


「やめとけって言わない。どうせ行く」


「行く」


「なら、俺も行く」


 彼が「俺も」と言った。そういう言い方をする日は、彼が現場を知っている日だ。


 野崎は少しだけ安心したような顔をした。安心は、管理ができると思ったときに出る。彼は私たちを管理できると思っている。思わせるのは危険だが、今は現場の方が先だ。


 工事現場は、観光地の近くにあった。観光客の流れから一本外れただけで、空気が変わる。甘い菓子の匂いと、油の匂い。重機のエンジン音。ヘルメットに反射する冬の光。粉塵が空に薄く舞い、口に入る前に舌が乾く。


 柵の内側に、作業員が固まっていた。固まり方が不自然だ。事故が起きた固まり方。誰も中心に近づかない。近づかないのは、原因が分からないからだ。


 現場監督らしき男が野崎に駆け寄る。


「市の方ですか。いや、困ってまして。掘ってたら、変なもんが出たんです。風もないのに、黒い粉みたいなのが舞って。吸ったやつが咳き込んで、目も痛いって」


 黒い粉。煤だ。煤が風みたいに舞う。第八話以降の話だと思っていた現象が、ここで先に出た。早い。早い現象は、誰かが手を加えている可能性が高い。


 私は柵の内側に入り、靴の裏で地面の硬さを確かめた。土が湿っている。掘り返したばかりの湿り。湿りに混じって、古い木の匂いがする。腐った木ではない。長く閉じていた木の匂い。祠の匂いだ。


 穴の縁に、古い布の切れ端が見えた。布の上に、白い紙が貼り付いている。紙が貼り付くのは、願い札の類だ。願い札が湿りで溶け、土に貼り付く。その上に煤が乗る。煤が乗ると、紙は燃えない。燃えない紙は、いつまでも残る。


 一条が現場を見て言った。


「汚いな」


 汚い、という言葉が出るとき、一条は怒っている。怒りの言葉を彼は冗談に混ぜない。混ぜないから、軽口が消える。


 野崎が言った。


「危険性は」


「吸わないでください」


 私は作業員に向けて言った。声を張らない。張ると恐怖になる。恐怖になると、噂が増える。噂は現場を呼ぶ。


「マスクはしていますけど」


「濡らした布を口元に。近づかない。まず、ここを止める」


 現場監督が渋い顔をした。


「止めるって、工事は今日中に埋め戻す予定で」


 埋め戻す。埋め戻す言葉は、土の仕事の言葉だ。土の仕事では正しい。しかし、ここで埋め戻すと、終わりが歪む。歪んだ終わりは、後で噴き出す。


 私は穴の中を覗いた。覗くと、黒い煤が薄く揺れた。揺れ方が風ではない。呼吸に反応している。人の息を餌にしている。


「これ以上掘らないでください」


 野崎がすぐに言った。


「聞きましたね。作業中止。いったん全員離れて」


 野崎の声が硬い。硬い声は命令だ。命令は現場を動かすが、現場の中身は動かない。動かない中身を扱うのが、こちらの仕事だ。


 作業員が離れる。離れると、穴の周囲が静かになる。静かになると、煤の音が聞こえる。煤が擦れる音。紙がわずかに震える音。音が遅れて届く。遅れが増えている。境界が薄い。


 私は結界札を四隅に置いた。置き方は地面に沿わせる。立てると風を作る。風ができると煤が舞う。舞う煤は人に入る。


 手袋を外すか迷った。迷いは時間の無駄だが、ここは迷う必要がある。触れると最後が見える。最後は「終わる直前」だ。しかし今、ここにある煤は「終わったもの」の残り方が汚い。汚い残り方は、最後が短くない。短くない最後は、触れた瞬間に長く引く。


 一条が言った。


「朔。俺が抑える。お前は触れんな」


「抑えられるのか」


「抑えるふりはできる」


 ふり、という言い方が現実だ。彼は弱っている。祠の現場の反動が抜けていない。咳の回数が増えている。増えているのに、ここで無理をすると、彼は薄くなる。


 野崎が言った。


「あなたの相棒さんは大丈夫ですか」


「関係ありません」


 私は言った。関係がないわけではない。関係があるから、余計な言葉を増やせない。増やせない言葉は、刃になる。


 一条が穴の縁に立ち、片手を上げた。上げた手の指が少し震えている。震えは寒さではない。力の不足だ。


 煤が一度、風みたいに立ち上がった。


 風のように見えるのに、風ではない。黒い粒の密度が、人の形に沿って変わる。変わる密度は、誰かの最後の形だ。


 作業員の一人が咳き込んだ。距離は取っているのに、煤が届いた。届く煤は、空気の境界を越える。越えた煤は、祟りという言葉に近づく。近づくほど、噂が増える。


 一条が手を握り、空気を押さえ込むように動かした。動かした瞬間、煤の立ち上がりが鈍る。鈍るが、止まらない。止まらないのに一条の肩が落ちる。落ちる肩は、力を消耗している証拠だ。


「ちっ」


 一条が舌打ちした。舌打ちは珍しい。珍しい舌打ちは、状況が悪い。


 煤が再び舞った。舞い方が強い。舞い方が強いと、抑えきれない。抑えきれないなら、触れて性質を見るしかない。性質が分からないものは、封印できない。


 私は手袋を外した。外す動作を短くする。短くしないと、迷いが煤を呼ぶ。


 穴の縁の布切れに指を伸ばした。伸ばした瞬間、煤が私の指先に絡んだ。絡む煤は、糸のように細い。糸のような煤は、境界の裂け目の煤だ。


 触れた。


 視界が一度だけ白む。白むのは、粉塵の白ではない。記憶の白だ。


 最後の記憶ではなく、最後の前の、汚れが作られる瞬間が見えた。


 地面の中。暗い。湿っている。木の箱がある。箱の中に札が積まれている。札には願いが書かれている。願いが古い。古い願いは、字が硬い。硬い字は、書いた人の手が硬い。硬い手は、生活が硬い。


 誰かがその箱を閉じた。


 閉じた手が、別の手に変わる。別の手は白い手袋をしている。白い手袋。現場の手袋ではない。研究用の手袋に近い。手袋の指先が、札の上を撫でる。撫でると、札の文字が薄く光る。光るのに、熱がない。熱がない光は、儀式ではない。


 白い手袋の手が、何かを混ぜる。


 黒い粉。煤。煤ではないはずの粉が、ここで生まれている。粉は願い札に染み込み、札が一枚ずつ「軽く」なる。軽くなると、箱の中で札が浮く。浮く札は、風を待つ。


 風は、上から来た。


 重機の振動。地面が揺れる。揺れが境界を叩く。叩かれると裂け目が広がる。裂け目が広がると、黒い粉が風の形を取る。取った風が、人の喉を狙う。


 そのとき、誰かの声があった。


 声は聞こえない。聞こえないのに、言葉だけが分かる。分かる言葉は短い。


 回収。


 記録。


 移送。


 言葉が事務的だ。事務的な言葉は、死を物として扱う言葉だ。物として扱うと、終わりが歪む。歪むと汚れが生まれる。


 記憶が切れた。


 私は現場に戻った。指先が痺れている。痺れが、風の形を持っている。風の煤は、皮膚の内側に入り込みやすい。入り込むと、指の線が黒く見える。


 一条が膝をついた。膝をつく動作が早い。早い膝つきは、倒れる前の膝つきだ。


「一条」


 私は呼んだ。呼ぶとき、声が少し低くなる。低くなる声は、身体が緊張している証拠だ。


 一条は笑って見せた。見せた笑いが薄い。


「大丈夫」


 大丈夫ではない。大丈夫の言い方が、息を隠す言い方だった。


 野崎が焦った声で言った。


「救急を」


「呼ばなくていい」


 一条が言った。言った後で咳き込んだ。咳が長い。長い咳は、肺の奥が削れている。


 私は穴の縁から手を離し、すぐに手袋をはめた。手袋をはめると、痺れが布越しに残る。残る痺れは、煤の性質が強い。


 私は野崎を見る。野崎の顔は、現象に対する困惑と、工程に対する焦りで固まっている。固まるとき、人は効率を持ち出す。効率は刃だ。


 私は言った。


「終わりを掘り返すな。歪む」


 言い方は短くした。短くしないと、怒りの言葉になる。怒りの言葉は現場を乱す。乱すと、煤が舞う。


 野崎は眉を寄せた。


「工事は、止められません。オカルトで工程は変えられない」


 オカルト。そういう分類で片づけるのが、彼の手順だ。彼の手順は、こちらの手順と衝突する。衝突すると、現場が増える。


 私は言葉を探した。探すと喉が乾く。乾く喉で言葉を出すと、硬くなる。硬い言葉でしか、彼の世界には届かない。


「現象として、粉塵が有害です。吸った人が咳き込んでいる。数時間でいい。止めてください」


 野崎の目が少し動いた。動く目は、理解ではなく計算だ。計算は悪ではない。計算があるから社会は動く。ただ、計算だけで終わりを扱うと汚れる。


 現場監督が言った。


「数時間なら……今日のうちに埋め戻しが」


 私は視線を穴に戻した。穴の中の煤は、まだ揺れている。揺れが弱くなったのは、一条が抑えた分と、私が触れて性質が見えた分だ。性質が見えたなら、手順が立つ。


 私は条件を並べた。


「三時間。工事は一時停止。遺品の搬出は私が行う。記録は渡しません。その代わり、報告書を出します。現象のみ。危険性と、必要な措置のみ。あなたの部署が必要とする範囲で書く」


 野崎が言った。


「記録は渡せないのに、報告書は出せる?」


「出せます。記録は、遺品の最後を歪ませないためのものです。報告書は、人を守るためのものです。別です」


 私は自分の口から「人を守る」という言葉が出たことに気づいた。普段は使わない言葉だ。守るは、一条の言葉に近い。近い言葉を使うと、喉が乾く。乾くが、今は必要だ。


 野崎は少し黙った。黙る時間が短い。短い黙りは、決断が速いということだ。決断が速い人間は、後で引き換えを求める。


「分かりました。三時間。現場の立入は制限します。ただし、こちらも責任があります。危険性の説明は、最低限ください」


「現象のみです」


「それでいい」


 私は結界札を追加した。穴の周囲に、湿らせた布を置く。布は煤を吸う。吸った布は後で封印する。封印は、燃やさない。燃やすと拡散する。拡散する煤は、風になる。


 遺品の搬出手順はこうだ。


 まず、地中から出た札束を一枚ずつ剥がす。剥がすとき、無理に引かない。引くと、札が裂ける。裂けると、煤が噴く。噴く煤は吸われる。


 札の周囲の土を布で拭う。拭う布は一枚ごとに変える。変えないと、煤が移る。移った煤は、別の札の性質を歪ませる。


 札束を布で包み、封印テープで固定する。固定は強すぎない。強すぎると、札が中で擦れ、煤が舞つ。舞った煤は布の内側で溜まり、後で噴く。


 私はその手順を、作業員にも見えるように淡々とやった。説明はしない。動作で示す。動作を見せると、人は余計なことをしない。余計なことをしない現場は、安全だ。


 一条は柵の外で座っていた。座り方が悪い。背中が丸い。丸い背中は、痛みを隠す背中だ。


 私は札束を三つ搬出したところで、指先の痺れが強くなった。手袋越しに、風の形が動く。動く痺れは、煤が生きている証拠だ。生きている煤は、誰かが混ぜた煤だ。自然の煤ではない。


 野崎が近づいてきた。


「あなたは、こういうものを、ずっと一人で」


「一人ではない」


 私は一条を見る。彼は目を閉じている。閉じた目は休んでいる目ではなく、耐えている目だ。


 野崎は視線を一条に移し、また私に戻した。


「組織化した方がいい。あなたが倒れたら、誰がこれを」


「後始末は金にならない」


 私は言った。言葉が先に出た。言葉が先に出るとき、身体が少し前に出る。前に出る身体は、止めたい何かがある。


 野崎が眉を動かした。


「金、ですか」


「金になるものは、記録が残る。金にならないものは、空白になる。空白は、奪われる」


 野崎は一瞬だけ黙った。黙り方が、聞き返す黙りだった。彼は意味を取れていない。取れていないのに、取ろうとしている。取ろうとすると、質問が増える。質問が増えると、説明回になる。説明回にしない。


 私は封印袋を締め、報告書用のメモを取った。


 現象。黒色粉塵。吸入で咳嗽、眼刺激。発生源。地中の札束、布、箱。混入物あり。人工的な混入の可能性。工程停止の必要。封印搬出済み。再発防止策。掘削前の確認手順。立入制限。作業員への注意。


 文字を書くとき、指が痛む。痛みは遅れてくる。遅れてくる痛みは、今日の煤の性質に似ている。遅れて効く汚れ。遅れて効く汚れは、社会の汚れに近い。


 三時間で、主要な札束は搬出できた。穴の中の煤は弱まり、風のような立ち上がりは止まった。止まったが、消えてはいない。消えないものは、後でまた出る。だから、ここは「終わり」ではない。「一時停止」だ。


 野崎が現場監督に指示を出し、作業は最低限の覆いで保留になった。覆いは境界だ。境界があるうちは、裂け目は広がりにくい。


 帰り道、私は一条の歩幅に合わせた。合わせると、こちらの歩幅が遅くなる。遅くなると、路地の湿りがよく見える。湿りに混じる匂いが、今日は少し違う。線香の匂いより、粉の匂いが残っている。粉の匂いは工事の匂い。工事の匂いは、制度の匂いだ。


 一条が言った。


「さっきの、白い手袋」


「見えた」


「やっぱり人間が混ぜてる」


「可能性が高い」


「可能性って言うな。断定しろ」


 彼は軽口ではなく、苛立ちで言った。苛立ちは身体の熱になる。熱が出ると、咳が増える。彼は咳をした。短く、乾いた咳。


「断定は、手順が揃ってから」


「真面目」


「手順です」


 私は言った。手順という言葉が、今日は自分を守る言葉になっている。


 町家の前まで戻ると、野崎がまだ近くにいた。彼は車に乗らず、路地の角で電話をしていた。電話の声は聞こえない。聞こえないのに、言葉の硬さだけが分かる。硬い言葉は、報告先が上だ。


 電話が終わると、野崎は私たちに歩み寄った。歩み寄り方が速い。速い歩み寄りは、言うべきことを決めている。


「報告書、今日中に出せますか」


「現象のみ。まとめます」


「助かります」


 助かります、という言い方は本心だろう。彼も今日、火種を抱えたくない。


 野崎は少し言い淀んだ。言い淀むとき、彼は個人的な話を混ぜる。混ぜることで距離を詰める。距離を詰めて、記録に手を伸ばす。


「……あなた、昔」


 私は止まった。止まるのは身体が先だ。子どもの前で止まったときと同じ止まり方。止まると、喉が乾く。乾くと、息が一拍遅れる。


 野崎が続けた。


「あなた、昔、――の関係者ですよね」


 名前が出た。出た瞬間、視界の端が白くなる。白くなるのは、粉塵ではない。記憶の白だ。


 一条が眉を上げた。


「何だそれ」


 野崎は言いかけて、口を閉じた。閉じた口は、カードを切った後の口だ。切った後に引くのは、相手の反応を見るためだ。


 私は一条の言葉を止めた。止め方は手だ。言葉では止められない。言葉だと、野崎が拾う。


「帰ります」


 私はそう言った。声が低い。低い声は、怒りに近い反応だろう。怒りという言葉を使わなくても、声が先に変わる。


 野崎は軽く頭を下げた。


「また連絡します。あなたに協力してもらう必要がある」


 必要。必要という言葉は、相手を道具にする言葉だ。道具にされると、終わりが歪む。歪むと煤が増える。


 町家の戸を閉めると、音が遅れた。遅れが確定した。室内の空気が、朝より重い。重いのに、温度がない。


 一条が靴を脱ぎながら言った。


「さっきの名前、何」


「関係ない」


「関係あるから、あいつ言ったんだろ」


 私は答えなかった。答えると、あの名前がここに入る。入ると、箱の煤が反応する気がした。反応する煤は、風になる。風になると、室内が現場になる。


 机の端の箱を見る。箱の布の端が、またわずかに揺れている。揺れが、さっきよりはっきりしている。はっきりしている揺れは、内側が目を覚ましている揺れだ。


 私は記録帳を開き、今日の項目を書き始めた。


 工事現場。粉塵。人工混入の可能性。白い手袋。回収、記録、移送。野崎。過去の名。


 書き終えたとき、手袋の内側がざらついた。煤が、風の形を持ったまま増えている。増える煤は、私の指先を削る。削れた指先で触れる記憶は、もっと深く入る。


 次、開くしかない。

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