第5話 一条の過去

 町家の一室は、冬になると音が増える。


 畳の下で木が縮み、引き戸の溝が乾いて擦れる。湯を沸かすと、鉄瓶の底が鳴り、湯気が梁に触れて小さく弾ける。外の路地を自転車が通れば、石畳の振動が床板に伝わって、棚の金具が薄く揺れる。


 私は朝から記録帳を開いていた。封印番号、分類、搬出先、保管期限。昨日の鈴の件は、保管先を「依頼人の手元」にして、注意事項を追記した。子どもの手に渡した遺品は、例外だ。例外は記録しておかないと、後で歪む。


 棚には道具が並ぶ。封印テープ、布、紐、簡易の結界札、記録用の鉛筆。封蝋の道具は使わなくなった。使う現場が減った。使う現場が減るのは、神が減ったからではなく、神を神として扱う手順が減ったからだ。


 湯呑みを机の端に置いたとき、戸が開いた。開く音が遅れる。遅れる音は、戸の問題ではなく、空気の問題だ。


 一条が入ってきた。コートの襟を立て、髪は少し濡れている。朝の霧か、路地の湿りか。濡れた髪から、冷たい匂いがする。


「おはよ」


 彼は軽く言った。軽い声の後ろに、息が長い。長い息は、体力が落ちているときに出る。


「おはよう」


 私は返した。返した声が机に当たって、少し硬く跳ねる。室内が乾いている。


 一条は黙って、机の前に立った。立ち方がいつもと違う。いつもは壁にもたれるか、棚を勝手に開ける。今日は動かない。動かないというより、動かす場所を決めている。


 彼が小さな箱を机に置いた。


 木箱。掌に乗る程度の大きさ。黒い漆が剥げ、角が白くなっている。箱の上に、薄い布が一枚巻いてある。布は古い。古い布の匂いがする。線香と湿りが混じった匂い。


「これ、俺のだ」


 彼は言った。言い方は軽いのに、箱の置き方が丁寧だ。丁寧な動作は、軽口より信用できる。


 私は箱を見た。箱の周囲に、薄い煤が落ちている。落ち方が粉ではない。繊維みたいに細い。音の煤ではない。数字の煤でもない。別の形だ。


「依頼がないものは扱えません」


 私は言った。業務規程の文言に近い。自分で作った規程だが、規程は規程だ。線を引かないと、現場が室内へ入る。室内に現場が入ると、生活の境界が薄くなる。


 一条が笑った。笑いは薄い。


「真面目」


「手順です」


「手順って言えば何でも通ると思ってる」


 彼はそう言いながら、箱に触れなかった。触れないということは、触れたくないということだ。触れたくないなら、箱は遺品に近い。


「開けません」


「開けなくていい。置いとくだけ」


「置くなら封印棚へ」


「封印棚、いっぱいだろ」


 いっぱいなのは事実だ。依頼が増えた。増え方が、季節の波ではない。局所的な流行でもない。種類が散っている。死に方が散っている。散っているのに、煤が濃い。


 私は箱から視線を外し、棚の空きスペースを確認した。空きはある。あるが、そこに置くと、箱の位置が固定される。固定されると、それは「保管」になる。保管は依頼の処理だ。依頼なしの処理はできない。


 そのとき、スマホが震えた。


 管理窓口の番号。寺からの依頼は、だいたいここを通る。


 私は通話を受けた。


「朔です」


『お世話になります。北のほうの寺院さんから依頼です。奥の祠の整理をお願いしたいと』


「内容」


『祠が崩れかけていて、中のものを移す必要があるそうです。ただ、記録がない。名前が分からないと。住職さんが困っていると』


 名前が分からない。祠の整理。記録がない。条件が揃うと、現場が重くなる。重い現場は、一条の顔に出ることがある。


 私は一条を見る。彼は目を逸らさない。逸らさない代わりに、瞬きが増えている。瞬きが増えるのは、目の乾きだ。乾きは体力の減りだ。


「受けます。時間は」


『今日の夕方に来てほしいと』


「分かりました」


 通話を切った。


 部屋に戻った音が、少し遅れて届く。遅れが増えている。これは煤の影響かもしれない。煤が室内の空気に混じると、音が遅れる。遅れは、境界が薄くなる合図だ。


 一条が言った。


「祠」


「行く」


「……うん」


 返事が短い。短い返事のとき、彼は軽口を挟まない。軽口がないと、部屋の空気が硬くなる。


 私は箱を布で包み直し、机の端に寄せた。


「帰ってから処理します。依頼が先です」


「処理って言い方」


「分類します」


「俺の箱も?」


「依頼が発生したら」


 一条は鼻で笑った。笑ったが、目が笑っていない。目が笑っていないとき、彼はよく眠れていない。


 午後、私たちは寺へ向かった。


 寺のあるあたりは、観光の中心から少し外れている。石畳は濡れ、落葉が溝に溜まり、雨水が黒く流れる。寺の門の前に、参拝客はまばらだ。まばらな人の足音は、ひとつひとつが目立つ。


 境内に入ると、線香の匂いが濃くなる。濃い匂いは、祈りの量ではなく、燃やした量だ。燃やした量が多いとき、寺は忙しい。忙しい寺は、祠のことを後回しにする。


 住職は門の内側で待っていた。六十代。背中がまっすぐで、声が小さい。小さい声は、喉の奥を使う。喉の奥を使う声は、法話の声だ。


「朔さんですね。遠いところ、すみません」


「依頼内容を確認します。奥の祠の整理」


「はい。祠が古くて、雨漏りもありまして。中のものを移したい。ただ、名前が分からない」


 住職は困っている顔をした。困っている顔だが、焦ってはいない。焦りがないのは、寺の時間が長いからだ。長い時間の中で、焦りは削れる。削れた焦りの代わりに、責任だけが残る。


 私たちは本堂を横に抜け、裏の小道へ入った。裏の小道は苔が濡れ、足元が滑る。滑るとき、身体が反射で力む。力むと呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、現場の匂いを拾いすぎる。


 一条は黙って歩く。足音が軽いのに、息が重い。息が重いと、存在が薄い場所では目立つ。目立つと、拾われる。拾われるのは危険だ。


 祠は、竹林の手前にあった。小さい。石の台座に木の屋根。屋根の端が欠けている。欠けたところから雨が入り、木が黒く変色している。祠の前に、供え物はない。供え物がないのに、線香の匂いがする。匂いは、誰かが最近火を入れた証拠だ。火を入れたのは住職だろう。住職は火を入れても、名前を知らない。


「ここです」


 住職が言った。


 私は祠の正面に立ち、目視で結界の有無を確認した。結界札は貼られていない。砂も撒かれていない。かわりに、地面に薄い線がある。線は、古い。古い線は、誰かが以前ここに手を入れた証拠だ。


 一条が祠を見たまま言った。


「ここ、嫌な感じする」


「理由」


「名前がないから」


 名前がない、というのは情報だ。情報がないと、分類ができない。分類ができないと、終わり方を確定できない。確定できない終わり方は、いつまでも現場に残る。


 住職が祠の扉を少しだけ開けた。開けた瞬間、湿った匂いが出る。湿った紙の匂いと、封蝋の甘い匂い。封蝋の匂いは、古い契約の匂いだ。


「中に、札があるはずなんですが」


 住職が灯りを向ける。小さな灯り。灯りが揺れると、影が増える。影が増えると、祠の中が深く見える。


 祠の中に、札があった。札は木札ではない。薄い板に墨が乗っている。墨が薄い。薄い墨は、擦られた痕跡だ。擦られた痕跡が、均一だ。自然な風化ではない。人の手で削った形だ。


 名前の部分だけが空白になっている。


 空白を見ると、喉が乾く。乾く喉は、声を出す前に詰まる。詰まると、呼吸が一拍遅れる。


 一条が言った。


「な。これ」


 彼の声が掠れている。掠れは疲労か、空白の影響か。掠れはどちらにせよ現場の異常だ。


「空白です」


 私は確認として言った。確認の言葉は必要だ。必要な言葉を使わないと、現場が勝手に意味を作る。意味が勝手に作られると、噂になる。噂になると、現場は増える。


 一条が続けた。


「名前が残らない神は、死ぬより先に消える」


 彼は淡々と言った。淡々と言うときほど、内容が重い。


 私は祠の内側を観察した。札の下に、巻物の切れ端がある。切れ端は布のように見えるが、紙だ。紙に蝋が落ちた跡がある。封蝋だろう。封蝋は欠けて、赤い破片が底に溜まっている。鈴もある。鈴は欠けている。欠けた鈴は鳴らない。鳴らない鈴は、境界の警告にならない。


 境界。


 ここは境界を扱っていた場所だ。そう判断できる配置だった。巻物、封蝋、鈴。いずれも、内と外を分けるための道具だ。


「住職。祠を開けたのは、いつからですか」


「数日前です。雨が入り始めて。中が濡れるのは良くないと思いまして」


「誰かがここを触った形跡はありますか」


「ありません。鍵もありませんし、普段は近づきません。私も、存在をよく知らない」


 存在をよく知らない。寺にある祠の存在を、住職が知らない。寺が長い時間を持つとき、こういう場所が生まれる。誰も触らない場所。触らない場所は、触られないまま薄くなる。薄くなると、悪意が入りやすい。


 一条が小さく笑った。笑いは乾いている。


「守ってたやつほど、忘れられる」


 私は答えない。答えると説明になる。説明になると、住職は納得してしまう。納得すると、危機感が薄れる。薄れると、同じことが繰り返される。


 私は作業に入る準備をした。


「作業手順。遺品の分類、記録、封印、搬出。名前が分からない場合、最後の記憶で役割を確認します」


 住職が頷いた。


「お願いします」


 私は手袋を外した。右手、左手。冷気が刺さる。刺さる冷気は、境界を感じさせる。境界を感じないと、境界の裂け目に触れる。


 一条は祠から目を逸らさない。目を逸らさないのに、瞬きが少ない。瞬きが少ないとき、彼は見ているのではなく、耐えている。


 私は巻物の切れ端に指を触れた。


 触れた瞬間、指先が熱くなる。熱は火傷の熱ではない。封蝋の熱だ。封蝋は時間が経っても、契約の熱を残すことがある。


 視界が狭まる。狭まるというより、奥行きが伸びる。祠の中が、別の場所に繋がる。繋がる場所は、夜だ。


 最後の記憶が流れ込む。


 夜の境内。雨。雨が竹を叩き、葉が弾ける。祠の前に、人がいる。人の影が複数。傘の形。足元の泥。足が早い。早い足は焦りの足だ。


 祠の中の存在が、こちらを見ている。


 存在は男の姿に近い。けれど、皮膚の質感が人間と違う。影の濃さが一定ではない。境界の側に立つ者の影だ。影が濃くなったり薄くなったりする。


 存在は巻物を手にしている。巻物は境界の文言だ。文言は読まれない。読まれないけれど、存在が握っているだけで境界が保たれる。保たれると、外の災厄が内に入れない。入れないことが、仕事だ。


 外に、黒いものがいる。


 黒いものは形がない。形がないのに、雨を重くする。雨が重くなると、竹の音が遅れる。音が遅れると、境界が薄くなる。


 祠の前の人々は、存在に向かって頭を下げている。下げ方が深い。深い下げ方は、恐れの下げ方だ。恐れは願いに似ているが、違う。恐れは要求ではなく、押し付けだ。守れ、という押し付け。


 存在は頷く。頷くと、鈴が鳴る。鳴る鈴は境界の合図だ。合図が鳴ると、黒いものが外で止まる。止まるのは、境界があるからだ。


 時間が経つ。


 雨の夜が何度もある。黒いものが何度も来る。来るたび、存在は鈴を鳴らし、巻物を握り、封蝋を新しくする。封蝋は割れても、また封じる。封じることが仕事だ。


 人々は、守られる。


 守られると、守られていることに慣れる。慣れると、感謝が減る。感謝が減ると、供え物が減る。供え物が減ると、祠は雨漏りする。雨漏りすると、巻物が濡れる。濡れると、文字が薄くなる。薄くなる文字は、役割の薄れだ。


 ある日、昼間に人が来る。


 昼間に来る人は、傘ではなく道具を持っている。槌。鉈。縄。表情が硬い。硬い表情は、決めた表情だ。決めた表情は、話し合いの余地がない。


 人が言う。


 言葉は聞こえない。雨の音が大きいわけではないのに、言葉が欠ける。言葉が欠けるとき、記憶の側が拒否している。


 存在は祠の中から出ようとする。出られない。出られないのは、境界の内側に縛られているからだ。縛りは契約だ。契約は封蝋だ。封蝋がある限り、存在はここから離れられない。


 人が祠の外側を壊す。


 壊す音は大きい。木が裂ける音。石がずれる音。縄が切れる音。音は大きいのに、どこか薄い。薄いのは、壊しているのが木ではなく境界だからだ。


 境界が裂ける。


 裂け目から、黒いものが入る。


 黒いものは、祠の内側に溢れる。溢れると、巻物の文字が一気に薄くなる。薄くなる文字は、契約の崩壊だ。


 存在が鈴を鳴らそうとする。鈴が欠ける。欠けた鈴は鳴らない。鳴らない鈴は合図にならない。


 存在は自分の名を呼ぼうとする。


 名が出ない。


 名が出ないのではない。名が削られる。削られる感触がある。喉の奥から、文字が抜き取られる。抜き取られると、息が空になる。空になる息は、声にならない。


 誰かが、名を奪った。


 人か、組織か、別のものか。奪う手つきだけが分かる。奪う手つきは、慣れている。慣れている手つきは、何度もやっている手つきだ。


 存在は境界を守ろうとする。守ろうとするのに、名がないと、守っている理由が消える。理由が消えると、身体が薄くなる。薄くなって、黒いものに飲まれる。


 飲まれる直前、存在は誰かを見た。


 こちらではない。祠の外側。壊している人々の後ろ。濡れた地面に、黒い革靴がある。革靴の横に、スーツの裾が揺れる。顔は見えない。顔は見えないのに、存在がそちらを見ているのが分かる。


 革靴の男が、何かを手にしている。


 紙か、札か。小さくて白いもの。白いものが、祠の空白に吸い込まれる。


 そこで記憶が切れた。


 私は祠の前に戻った。指先が痺れている。痺れは封蝋の赤の形を持っている。赤の形が、皮膚の内側に残る。


 一条が私を見ていた。見ている目が鋭い。鋭いのに、焦点が揺れる。揺れる焦点は、体力の限界だ。


「見た?」


「見ました」


「何を」


 質問が短い。短い質問は、答えを限定する。限定しないと、彼が崩れる。


「あなたは、境界を守っていた」


 一条が小さく頷く。


「……で」


「祠が壊された。境界が裂けた」


 頷きが止まる。


「名が削られた」


 そこで一条の口元が歪んだ。歪みは笑いに見えるが、笑いではない。口角が上がっていない。


「やっぱり」


 彼は言った。言い方は軽いのに、声が掠れている。


 住職が不安そうに聞いた。


「その……ここに祀られていたのは、どなたですか」


 私は空白の札を見る。札の空白は、名前の空白だ。空白を埋めることはできない。埋めると嘘になる。嘘を名前にすると、別のものが生まれる。生まれた別のものは、もっと汚い。


「名前は残っていません。役割だけが残っている。境界を守る存在でした」


 住職が手を合わせた。


「そうでしたか……」


 住職は「そうでしたか」と言った。そうでしたか、という言葉は、理解の言葉ではなく受け入れの言葉だ。寺の人間は、受け入れる訓練をしている。受け入れるとき、余計な噂は出にくい。助かる。


 一条が低く言った。


「名前が残らない神は、死ぬより先に消える。だから俺は、終われない」


 終われない、という言い方は、彼にしては真っ直ぐだ。真っ直ぐな言葉は、誤魔化しが効かない。


 私は遺品を分類し、記録する作業に戻った。巻物の切れ端、封蝋の破片、欠けた鈴、空白の札。分類欄に「境界用具」と書き、備考に「名の剥奪」と記した。剥奪は私の推測ではない。記憶にあった。


「封印して搬出します。祠は物理的に補修を。境界は、仮の札で補います」


 私は簡易の結界札を取り出し、祠の内側に貼った。貼り方は四隅。中心に貼ると、中心が嘘になる。嘘は破られる。


 一条が祠を見つめたまま言った。


「俺、遺品になれない」


「遺品になれないなら、現場が終わっていない」


 私は言った。事実だけを言う。事実は刃だが、刃を鈍らせると現場が汚れる。


 一条は笑った。今度は少しだけ軽口に近い笑い。


「終わってねえから、苦しい」


 苦しい、という言葉は感情語に近いが、身体の情報としても扱える。彼の息は浅い。咳が増えている。血色も薄い。苦しいのは事実だ。


 私は手袋をはめ直し、封印袋を閉じた。閉じた封印袋は、今日の現場を室内に持ち込まないための境界だ。


「終わらせる方法を探します」


 私の口から、その言葉が出た。出た後で、喉が乾いた。乾いた喉は、言葉が余計だったと知らせる。しかし、取り消せない。取り消すと嘘になる。


 一条がこちらを見る。目が少し丸くなる。丸くなる目は、驚きの目だ。驚きは、彼に残っている。


「慰め?」


「手順です。終わりが歪んでいるなら、整える」


「お前の手順って、たまに優しいこと言うね」


 優しい、という言葉を彼が使う。私は返さない。返すと説明になる。説明になると、その言葉が重くなる。重くなると、彼がそれに縋る。縋ると、現場が汚れる。


 住職が封印袋を見て言った。


「このようなものが、寺にあったとは……」


「今後、祠の記録を残してください。名前が残らないと、守り方が変わります」


「はい」


 住職は深く頭を下げた。


 寺を出る頃には、空が暗くなっていた。境内の石はさらに湿り、足音が吸われる。吸われる音は、周囲の気配を拾いにくくする。拾いにくいときほど、背中が寒い。


 門を出て、路地へ曲がったところで、私は足を止めた。


 視界の端に、スーツの男がいる。


 男は壁際に立ち、スマホを耳に当てているふりをしている。ふりが上手い。上手いふりは、日常の中に溶ける。溶ける人間は危険だ。危険なのは、現場に入れるからだ。


 一条も気づいていた。気づいたのに、軽口が出ない。出ない代わりに、顎が少し上がる。上がる顎は、警戒だ。


 男の目がこちらを追う。追い方が露骨ではない。露骨ではない追い方は、監視に慣れている。慣れている監視は組織の匂いがする。


 私は封印袋を持ち直した。持ち直す動作で、袋の位置を身体の内側に寄せる。寄せると、相手の目線から少し隠れる。完全には隠れないが、見せないという意思は残る。


 一条が低く言った。


「来たか」


「知っているのか」


「匂いがする。手を突っ込む匂い」


 手を突っ込む。第二話で彼が言った言葉が重なる。人間が手を突っ込み始めた。具体の形が、目の前に出てきた。


 スーツの男は、こちらに近づいてこない。近づかないのに、距離は詰める。詰め方がうまい。詰め方がうまい人間は、言葉でも詰める。


 私は歩き出した。歩き出すと、石畳の湿りが靴底に残る。残る湿りは、足音を鈍らせる。鈍らせる足音は、追われているときに不利だ。


 一条が並んで歩く。肩が少しだけ傾く。傾きは、さっきの現場の反動だ。反動は短くならない。反動が長いと、次の現場で倒れる。


「お前、大丈夫か」


 私は言った。言った後で、自分の言葉が不器用だと思う。大丈夫か、は便利だが薄い。薄い言葉は、薄い死に似ている。


 一条が鼻で笑った。


「大丈夫じゃないから、箱を置いた」


「箱はまだ開けていない」


「開けるなよ」


「依頼がない」


「依頼は作れるだろ。お前なら」


 作れる。作るという言い方は嫌だ。依頼は与えられるものだ。自分で作ると、後始末が歪む。


 スーツの男が、路地の角でこちらを見ていた。視線が刺さらない。刺さらない視線は、毒が遅れて効く。


 私は視線を返さず、足の運びを一定にした。一定にすると、手順が保てる。手順が保てれば、焦りは出ない。焦りは現場を汚す。


 町家に戻る道の途中、手袋の内側がざらついた。煤が増えている。今日の煤は赤い封蝋の形を帯びている。帯びる煤は、死に方の欠片だ。欠片が揃うほど、私の指先は汚れる。汚れが濃くなるほど、音が遅れる。


 家の戸を開けるとき、戸の音がまた遅れた。遅れが確定している。室内の空気が変わっている。変わっている空気は、箱のせいか、祠のせいか、監視のせいか。いずれにせよ、境界が薄い。


 一条が先に上がり、靴を揃えた。揃え方が珍しく丁寧だ。丁寧な動作は、終わりを意識している動作に見える。


「朔」


 彼が呼んだ。呼び方が短い。


「何だ」


「俺のこと、片づけるなよ」


 公園で言った言葉と同じだ。同じ言葉が繰り返されるとき、意味は増える。増える意味は重い。重くなる前に、手順に戻す必要がある。


「片づけません。終わりを歪ませないだけです」


 私は言った。言い終わると、喉が乾く。乾いた喉が、次の言葉を拒否する。拒否してくれるのは助かる。


 棚の前で、机の端に置いたままの箱が見えた。箱の周囲の煤が、朝より濃くなっている。濃くなる速度が早い。早い汚れは、人間の手が入っているときに起きやすい。


 外の路地で、誰かの足音が止まった気がした。止まった足音は、聞き間違いでもいい。聞き間違いでも、記録する価値はある。


 私は記録帳を開き、新しい頁に今日の現場を書き始めた。


 無名の祠。名の剥奪。境界の裂け目。黒い革靴。スーツの裾。


 書き終えたとき、スマホが震えた。管理窓口の通知。依頼がまた入った。短い文面。急増。


 次、開くしかない。

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