第4話 子どもにしか見えなかった神(“見えなくなる”死)
子どもの笑い声は、遠いほど鋭い。
夕方の公園は、砂が冷える。遊具の鉄が冷たく、ブランコの鎖が細く鳴る。風は弱いのに、砂場の縁に積もった砂の粒が、靴底にまとわりつく。寒さは皮膚の外側から来るが、ここでは音が先に来る。笑い声が弾けるたび、空気が薄くなる。
私は公園の入口で止まった。止まった理由は単純だ。子どもが多い。子どもが多い場所は、現場の手順が増える。手順が増えると、余計な動きが必要になる。余計な動きは、言葉も増やす。
一条が私の横で、手をポケットに突っ込んだまま歩く。
「学校の近くって、なんか落ち着かないね」
「音が多い」
「それはいつもじゃないの」
彼は軽く言った。軽く言えるのは、ここがまだ現場の中心ではないからだ。
依頼メッセージに添付された地図は、公園の端を指していた。遊具から少し離れた場所。木が数本立ち、柵の向こうに小さな社がある。社は荒れていない。屋根の板もまだ整っている。けれど、落書きがある。子どもが触れた痕跡。触れられることは、ここでは生の証拠でもある。
社の前だけ、砂の匂いに線香の匂いが混じる。線香の匂いは強くない。強くないのに、鼻に残る。残る匂いは、誰かが最近ここに来たということだ。誰か、というより、子どもだろう。大人が線香を持ってくるなら、もっと整えようとする。子どもは整えない。置くだけだ。
「ここか」
一条が言った。社の前に立って、鳥居の柱を指で軽く叩く。乾いた音がする。音が乾いているなら、木はまだ死んでいない。死んでいないのに、見えなくなっているなら、死は別の形だ。
公園の反対側から、足音が近づいてきた。
保健室の先生だと、すぐ分かった。歩き方が速いのに、走らない。急いでいるが、急いだことを見せない。教師の歩き方。手にはファイル。ファイルの角が擦れている。何度も開かれて、何度も閉じられた角。そこに、仕事の量が出る。
先生は三十代後半くらい。髪は後ろでまとめている。化粧は薄い。薄いのではなく、する時間がない。目の下に薄い影がある。影は寝不足の影だ。寝不足の影は、笑っても消えない。
「遺品整理の方ですか」
「朔です」
「保健の宮本です。今日はすみません、放課後に」
宮本は頭を下げた。頭を下げる角度が深い。深い角度は礼儀ではなく、事情だ。謝る場面が多い人の角度だ。
「依頼内容を確認します。子どもが、社に誰かいると言う」
「はい。何人かが同じことを言いました。怖がっているというより、遊びの延長みたいで。でも、親が騒ぐ前に確認したいんです」
宮本の言葉は淡々としている。淡々としているのに、喉が乾いている感じがする。喉が乾くのは、声が減っているときだ。保健室の先生は、子どもの泣き声を毎日聞く。泣き声を毎日聞くと、声の方が擦れる。
「子ども本人は」
「今日は二人います。話せる子です。勝手に騒ぎ立てるタイプではないので」
騒ぎ立てるタイプではない。そう言うとき、大人は逆に心配している。騒ぎ立てない子ほど、内側に溜める。溜めると、見えないものが増える。見えないものが増える場所で、見えなくなる神の話が起きるのは、悪い偶然ではない。
宮本が公園のベンチに視線を向けた。ベンチのところに、子どもが二人座っている。ランドセルが足元に置かれ、手袋を膝の上に置いている。話しかけられるのを待っている姿勢。待っている姿勢は、大人に慣れている。大人に慣れている子は、学校で手順を覚えている。
私はベンチに近づく前に、足を止めた。止めたのは癖だ。子どもに近づくとき、距離の取り方が分からない。分からないときは止まる。止まると相手が不安になる。分かっていても、身体が先に止まる。
一条が先に歩いて行った。軽い足音で、ベンチの前に立つ。
「こんにちは」
子どもたちが一条を見る。男の子と女の子。どちらも小学三年か四年くらい。目が大きい。大きい目は、見える範囲が広い。広い範囲を見られると、大人は隠せない。
「こんにちは」
女の子が先に言った。声が小さい。小さいのに、芯がある。
男の子は少し遅れて言った。
「……こんにちは」
一条は膝を曲げて、子どもと目線を合わせる。目線を合わせるのが自然だ。自然にできる人は、子どもに慣れている。私はそれができない。慣れていないというより、過去の手順がない。
「君たちが言ってたんだって。ここに誰かいるって」
女の子が頷いた。
「うん。いるよ」
「見えた?」
「見えた。声も聞こえた」
声も聞こえた。見えるだけではない。聞こえる。聞こえるなら、まだ完全には薄くなっていない。薄くなっている途中だ。
一条が笑う。
「声って、どんな声」
「鈴みたい」
女の子は言った。言い方が正確だ。鈴みたい、という比喩は子どもっぽいが、比喩が正確な子は観察が上手い。
男の子が口を挟む。
「あと、しゃべってた」
「しゃべってたんだ。何て」
男の子は少し考えた。考えるとき、目が上を見る。思い出すときの目線。
「……『ここ』って言ってた。『ここにいる』って」
ここにいる。言葉が短い。短い言葉は、存在の形が薄いときに出やすい。長い説明ができない。できないから、いる、とだけ言う。
私は一条の後ろから、そのやり取りを見ていた。見ているだけで、喉が乾く。乾く喉で言葉を出すと、変な音が混ざる。変な音が混ざると、子どもは笑うか、怯える。どちらも現場では余計だ。
一条が振り返る。
「朔、こっち」
呼ばれると、身体が硬くなる。硬くなるのを自分で感じた。硬くなるとき、背筋が伸びすぎる。伸びすぎると、威圧になる。
私は息を吐いて、ベンチの前まで歩いた。
「朔です」
名乗るときの声を一定にする。一定にすると、相手の反応が見やすい。
女の子が私を見る。男の子も私を見る。見る目がまっすぐだ。まっすぐな目は、隠せない。
「おじさん、ここ、触るの」
女の子が言った。触る、という単語が出る。子どもは手順を知らないのに、本質に近い言葉を出す。
「触れる必要がある」
私はそう答えた。答えが短い。短い答えは逃げだ。逃げの答えは子どもに伝わる。伝わると、子どもはさらに聞く。
「触ったら、どうなるの」
男の子が聞いた。声が少し震えている。震えは恐れではない。興味と緊張が混ざった震えだ。
私は言葉を探した。探す間が長い。長い間は、子どもを待たせる。待たせると不安になる。宮本が後ろで小さく息を吐いた。息の吐き方が、いつもの調整だ。教師はこういう場面で空気を保つ。
一条が横から、雑に助けた。
「最後だけ見える。最後っていうのは、終わる直前。だから、触るのはちょっと痛い」
痛い、という言葉は感情語ではない。身体の情報だ。身体の情報なら、現場で使える。
女の子が目を丸くする。
「最後って、死ぬってこと」
言葉が真っ直ぐだ。子どもは死を知らないわけではない。知っている子は知っている。学校には死がある。保健室にも死がある。ニュースにも死がある。死の語彙が早い子は、何かを見ている。
私は否定しなかった。否定すると嘘になる。
「薄くなる。見えなくなる。そういう終わり方もある」
私は言った。説明ではなく、分類として言う。分類は手順だ。
男の子が、ポケットから小さなものを取り出した。
鈴だった。
小さな鈴。銀色に見えるが、光が鈍い。新品の銀ではない。手の脂で曇った銀だ。曇り方が、子どもの手の曇り。子どもはこういうものを拾う。拾って、持って帰る。持って帰ることで、見えないものを家に連れていく。
「これ、落ちてた。社の中に」
男の子が差し出す。手が小さい。小さい手の上に鈴が乗っている。鈴は軽いはずなのに、見た目より沈んで見える。
私は受け取る前に、一瞬止まった。止まった理由は手順だ。遺品は持ち主から受け取るのが原則だ。持ち主が不明なら、現場で拾い上げる。子どもの手から受け取るのは、手順の外だ。手順の外は、危険だ。
宮本が言った。
「この子が持ってきたんです。家に持ち帰らないように、私が預かろうとしたんですけど、本人が、朔さんに渡したいって」
渡したい。子どもがそう言うとき、理由は単純でないことがある。子どもは理屈より感触で動く。感触があるなら、鈴はまだ薄くなりきっていない。
私は手袋を外す準備をした。手袋を外す動作は、現場ではいつも同じにする。焦ると指先が震える。震えると、触れた瞬間の流入が乱れる。乱れると、記憶が刺さる。
右手の手袋を外す。左手の手袋を外す。冷気が指に刺さる。刺さる冷気が、現実の釘だ。
男の子の手から鈴を受け取る。
受け取った瞬間、指先が小さく痺れた。痺れは数字の形ではない。今日は違う。痺れが鈴の輪郭になる。丸い輪郭。丸い輪郭は、続く音の形だ。
視界が白む。
白むのは光のせいではない。白い紙のようなものが、目の前に広がる。そこに、鈴の音が落ちる。落ちる音は、遠い。
最後の記憶が走る。
公園の端の社。夕方。子どもたちが遊具から走ってくる。靴の砂を落とし、社の前で止まる。止まって、手を合わせる。手を合わせる動作は雑だ。雑でも、そこに来ることが重要だ。
社の中に、存在がいる。
存在は大きくない。狐の耳のような形。けれど、稲荷のように商売繁盛の札を抱えてはいない。手が空だ。空の手で、鈴を持っている。鈴を鳴らすたび、子どもの笑い声が増える。増える笑い声が、存在の輪郭を少し濃くする。濃くなると、存在はそこにいることができる。
子どもたちは、存在に話しかける。
「今日、先生に怒られた」
「家でけんかした」
「明日、テスト」
「秘密にして」
言葉は願いではない。要求ではない。報告だ。報告は重くない。重くない言葉が、存在を支える。支えるというより、そこに置く。置かれた言葉が、存在の足場になる。
存在は答えない。答えない代わりに、鈴を鳴らす。鳴らすと子どもは笑う。笑うと、また来る。来ると、存在は生きる。
そして、時間が経つ。
子どもは成長する。
成長すると、社の前を通る速度が変わる。走っていた足が歩く。歩いていた足が止まらない。止まらない足は、振り返らない。
ある日、女の子が社の前を通る。ランドセルが少し大きく見える。髪型が変わる。声が低くなる。友達と歩いて、笑い方が変わる。
社の中の存在は、鈴を鳴らす。
鳴らしても、女の子は振り返らない。
振り返らないのは、忘れたからではない。忙しいからでもない。目に入らないからだ。見えなくなっている。見えなくなる瞬間は、音のない瞬間だ。
存在は追いかけられない。
追いかけられないから、ここにいるまま薄くなる。薄くなるのに、何かがちぎれる音はしない。ちぎれる音がしないのが、この死の形だ。
薄くなる。
存在の輪郭が、砂の粒みたいに崩れる。崩れて、空気に混じる。空気に混じると、残るのは鈴だけだ。鈴は床に落ちる。落ちる鈴の音が、小さく鳴る。鳴る音が、最後の声になる。
最後に、社の前を通る子どもがいる。
その子どもは鈴の音を聞く。聞いて、立ち止まる。立ち止まって、社を見る。
見る。
見るだけで、そこには何もいない。
その欠落が、残る。
記憶が引いた。
私は鈴を握ったまま、現場に戻った。握った指が冷たい。冷たいのに汗が出ている。汗で手のひらが湿る。湿ると鈴が滑る。滑ると落とす。落とすと、また鳴る。鳴ると、子どもが反応する。
私は鈴を落とさないように握り直した。握り直す動作が遅い。遅いと、子どもは待つ。待つと、言葉が増える。言葉が増えると、現場が揺れる。
喉が乾く。乾く喉で言葉を出すと、声が掠れる。掠れた声は不安を呼ぶ。
宮本が、小さく言った。
「見えましたか」
私は頷いた。頷きが小さい。小さい頷きは、答えとして弱い。弱い答えは、質問を呼ぶ。
男の子が私を見る。
「その人、どうなったの」
どうなった。子どもは結論を求める。結論は安心になる。安心は生活に必要だ。
私は答えられなかった。言葉が出ないのは感情ではない。言葉を選ぶ手順がない。子どもに死をどう渡すか、私は知らない。知らないものは出せない。
代わりに、手を動かした。
鞄から白い布を取り出す。布は薄いが、織りが細かい。鈴を布の中心に置く。布の端を折り、包む。包む動作は丁寧にする。丁寧にすると、終わりが歪まない。
包んだ鈴を、男の子に差し出した。
「あなたが持っていて」
男の子が目を丸くする。
「え、いいの」
「落とした場所に戻すのが理想だが、今は持ち帰らない方がいい。保管する。触りすぎない。振り回さない」
私は手順として言った。手順の言葉は硬い。硬い言葉の中に、ひとつだけ意味が混ざる。持っていて、という部分。持っていては、処分ではない。残すという判断だ。
女の子が笑った。
「なんか、宝物みたい」
宝物という言葉が、鈴の布包みに重なる。宝物は生者の言葉だ。生者の言葉が薄い死を拾い上げると、残り方が変わる。
男の子が布包みを受け取った。小さな手が布を握る。握り方が柔らかい。柔らかい握り方は、乱暴に扱わない握り方だ。
「触っちゃだめなの」
「触ってもいい。けれど、必要以上に振らない。必要なときだけ」
「必要なときって、いつ」
男の子が聞く。子どもは規則が好きだ。規則があると安心する。
私は一瞬考えた。考えると、喉が乾く。乾いた喉で出る言葉は短くなる。
「忘れたくないとき」
私はそう言った。
女の子が私を見る。目が少し細くなる。子どもが大人の言葉を測るときの目だ。
「忘れたくないって、誰のこと」
誰のこと。答えると説明になる。説明になると、薄い死が言葉で固まる。固まると、子どもは抱えすぎる。抱えすぎると、生活が歪む。
一条が横から割って入った。
「社の中にいた人のこと。見えなくなっちゃったから、鈴だけ残った。鈴はね、音が出るうちは、ここにいたって言える」
彼は子ども向けに言葉を選ぶ。選ぶ余裕がある。余裕があるのは、彼が橋だからだ。生者と現場の間の橋。
男の子が布包みを胸に抱えた。胸に抱えると、落とさない。落とさない動作は、大事にする動作だ。
宮本が小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。子どもが持っている方が、安心するかもしれません」
宮本の言い方は現実だ。安心するかもしれない。現実は断定しない。断定しないのは、毎日子どもが変わるからだ。
私は手袋をはめ直した。指先に残る痺れが、鈴の輪郭のまま残っている。輪郭が残るのは、煤の予兆だ。今日の煤は音の形になるかもしれない。
子どもたちが宮本に促されて、公園の出口へ向かった。歩きながら、布包みを時々見ている。見ているだけで音は鳴らない。鳴らないのに、そこにある。そこにあるだけで、誰かがいたことが残る。
一条が子どもたちの背中を見送り、私に言った。
「お前、今のは慰めだ」
「慰めではない」
「慰めだよ。言葉じゃなくて、手でやるやつ」
私は否定しなかった。否定すると嘘になる。嘘は現場を汚す。汚れは煤になる。煤は増える。
公園を離れると、夕方の冷気が強くなる。砂の匂いが薄れ、線香の匂いが残る。残る匂いは、薄い死の匂いだ。
帰り道、一条が急に歩調を落とした。
落としただけではない。身体が揺れた。足の運びが一瞬ずれて、肩が落ちる。落ちた肩は、力の切れ目だ。
「一条」
私は呼んだ。呼ぶ声が少し遅れた。遅れると、支える動作も遅れる。
私は手を伸ばそうとしたが、距離が分からない。肩を掴むのか、肘を掴むのか。掴むと痛いかもしれない。掴まないと倒れるかもしれない。手が宙で迷う。迷う手は情けない。情けない手は、相手に見せたくない。
一条が私の迷う手を見て、口元だけで笑った。笑いは薄い。薄い笑いは、弱っているときの笑いだ。
「俺のこと、片づけるなよ」
「……仕事です」
私はそう返した。仕事という言葉は逃げ道だ。逃げ道だが、今は必要だ。必要な言葉は使う。
一条は笑ったまま咳き込んだ。咳は短い。短い咳ほど、肺の奥が疲れている。第二話、第三話、そして今日。彼は力を使い続けている。神格が薄いのに、現場で無理をしている。
私は支えようとして、結局、彼の腕の袖を指先で掴んだ。掴み方が弱い。弱い掴み方は、支えにならない。支えにならないのに、触れてしまう。触れると、互いの温度が伝わる。伝わる温度が薄い。人の温度ではない。
一条が咳を止め、息を整えようとした。整えられない息が、冬の空気に白く混じる。
「次は、お前が俺を見失う番かもな」
彼は冗談みたいに言った。冗談にすることで、現場の重さを薄める。薄めても、薄い死は消えない。
私は答えなかった。答える言葉がない。言葉がない代わりに、袖を掴む指に少しだけ力を入れた。力は小さい。小さい力は、間違えないための力だ。
スマホが震えた。新しい依頼ではない。管理窓口からの確認事項。連絡の文面が短い。短い文面は忙しさを示す。忙しさは現場の増殖だ。
一条が画面を見ずに言った。
「次、俺の話、だろ」
「……そうなる」
「やめとけって言っても、やるんだろ」
「依頼なら」
「依頼じゃなくても、やるんだろ」
彼は笑って、また咳をした。咳のあと、口元に少し赤が見えた。血ではない。唇が切れただけだ。切れただけでも、現場では嫌な色だ。
私は手袋の内側を確かめた。指先の煤は、今日は数字ではない。音の形だ。鈴の輪郭が、煤になりかけている。薄く、丸い線。丸い線は、どこかに繋がる。繋がる先が一条かどうかは、まだ分からない。
公園の夕暮れの笑い声は、もう聞こえない。聞こえないのに、耳の奥に残る。残る音は、見えなくなる死の反対側だ。生者の音が残る限り、薄い死は完全には消えない。
次、開くしかない。
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