第3話 稲荷の帳簿
商店街の朝は、湯気が先に歩く。
豆腐屋の店先で白い湯気が立ち、湯気の中から大豆の匂いが出てくる。漬物の樽を開ける音がして、塩と乳酸の尖った匂いが鼻の奥に残る。線香屋の前では、まだ火を入れていないはずの香が、木箱の隙間から薄く漏れていた。冬の空気は冷たいのに、商店街の屋根の下は人の息が溜まり、靴底の水気が石の隙間でぬめる。
呼び込みの声が飛び交う。挨拶が交差する。顔見知りの距離で言葉が繰り返される。
「おはようさん」
「今日も寒いなあ」
「豆腐、値ぇ上がったわ」
「ほな、またあとで」
言葉の中身は薄い。薄い言葉が毎日あると、そこだけ温度が保たれる。生きている場所の特徴だ。
私は商店街の入口で立ち止まり、鞄の肩紐を直した。肩に食い込む重さはいつも同じだが、今日は内側の感触が違う。第二話で封印した願い札の言葉が、まだ手袋の内側に残っている。紙のざらつきが、皮膚の溝に入り込んだまま消えない。
一条が隣で缶コーヒーを飲みながら、屋根の鉄骨を見上げた。
「なんか、平和だね」
「平和な場所ほど、歪みが目立つ」
「嫌な名言」
彼は笑いながら歩き出した。歩き方が軽い。商店街のリズムに馴染むふりが上手い。私はそれができない。人の言葉が多い場所では、音が多すぎて、現場の音が拾いにくい。
商店街の奥に、赤い鳥居が見えた。赤は剥げて、下地の木が白く出ている。鳥居の柱の根元には黒い水の筋が残り、古い埃が湿気で固まっている。鳥居の数は少ない。稲荷の入口の小さな列。観光の大きな神社の派手さではなく、生活の端に押し込まれた形だ。
その稲荷の前だけ、商店街の匂いが一段落ちた。
豆腐の甘さが薄くなり、漬物の酸が遠のき、代わりに墨の匂いがする。墨の匂いは、紙の匂いに混ざると、古い教室の匂いになる。黒板を拭いた雑巾の湿り。チョークの粉。そこに、線香の薄い煙が重なる。
稲荷は小さい。小さいのに、空気が詰まっている。詰まっているのに、重い。重いのに、薄い。相反する感触が同時にあるとき、だいたい遺品がある。
「ここは死ぬには賑やかすぎる」
私は口に出した。独り言のつもりだった。
一条が横目で私を見る。
「死ぬには、って言い方が仕事人だね。まあ、賑やかな場所でも死ぬときは死ぬけど」
「賑やかさに紛れる死は、歪みやすい」
「歪むと、俺たちが忙しくなる」
忙しくなる、という言い方は軽い。軽く言わないと、商店街の人間の目が刺さるからだ。ここは現場であり、同時に生活だ。生活の中で怪異を語ると、怪異は噂になる。噂になると、さらに歪む。
稲荷の前で、数人の店主が待っていた。揃いの法被ではない。コートの色もばらばら。けれど、立ち方が似ている。足の置き方が、同じ方向を向く人たち。商売の人間の立ち方だ。
代表らしい男が一歩前に出た。五十代後半。腹が出ているわけではないが、身体が厚い。日々、重い荷物を扱ってきた肩。声も低い。声が低い人間は、話を早く終わらせたいとき、語尾だけ丁寧になる。
「遺品整理の方で、朔さんやな」
「朔です」
「うちが商店街のまとめ役で。伊吹言います。今日は、すんませんな、急に」
伊吹は頭を下げた。頭を下げる角度が浅い。浅い角度は、相手を下に見ているというより、頭を下げること自体が日常の手順になっている人の角度だ。挨拶も取引も同じ動作で済ませる。
「依頼内容を確認します。帳簿が増える」
私が言うと、伊吹の目が少しだけ細くなる。こちらの言い方が早いと、向こうは警戒する。早い言い方は、余計な感情の入る余地がない。
「そう。増える。勝手に増える。困ってんねん。これ」
伊吹が横の店主に目配せすると、若い男が箱を抱えて前に出た。段ボール箱。ガムテープで雑に留めてある。箱の角が潰れている。何度も運んだ痕跡。紙は運ばれると、角から死ぬ。
「中、帳簿ですか」
「せや。売上帳」
伊吹が答えた。「売上」という言葉が先に出る。神さまの話ではない。稲荷の話ではない。困っているのは帳簿で、困っている理由は商売の邪魔だからだ。
「勝手に開く。勝手に書き足される。墨みたいなんが、じわっと出てな。最初は、誰かの悪戯かと思たんやけど」
伊吹は言いながら、周りの店主たちを見る。誰かの悪戯。つまり内部犯行の可能性を先に潰したい。店主の中に犯人がいると困る。困るのは信用が落ちるからだ。信用が落ちると売上が落ちる。売上が落ちると、さらに神に縋る。縋ると、また歪む。
「監視カメラは」
「あるけど、映らへんのよ。帳簿のとこだけ、なんか白うなって」
「白くなるのは、光量の問題ではなく、記録の拒否です」
私は言ってから、余計だったと思った。説明になりかける。伊吹たちの顔が、一瞬、分からない顔になる。分からない顔は、不安の入口だ。不安は噂に変わる。
一条が横で咳払いをした。
「要するに、映らない。人じゃない。そういうこと」
彼は雑にまとめた。雑にまとめると人は安心する。細かい説明より、雑な理解の方が生活に馴染む。
伊吹が頷いた。
「そうそう。そんな感じや。で、帳簿が増えたら困るんは、数字が変わるからや。税理士に説明できへんし。帳尻が合わん。余計な行が増えたら、そらもう」
税理士。帳尻。説明できない。言葉の並びが、稲荷の前で出る。ここは祈る場所というより、取引の窓口になっている。
私は段ボール箱を見た。箱から紙の匂いがする。古い紙の匂いではない。新しい紙と古い墨の匂いが混ざっている。混ざり方が不自然だ。墨が紙の中でまだ動いている。
「現場を見せてください」
「こっち」
伊吹が稲荷の横にある小さな社務所のような物置へ案内した。物置と呼ぶにはきれいだが、神社の社務所のように整ってはいない。商店街の人間が管理する場所だ。棚に掃除道具があり、古い提灯が積まれ、紙袋が束ねてある。奥に机が一つ。机の上に、帳簿が置かれていた。
帳簿は分厚い。表紙は茶色。背表紙に「売上帳」と手書きである。書き手の癖が強い。筆圧が強い。筆圧が強い文字は、書き手の欲が濃いことが多い。
帳簿の横に蝋燭が一本立っていた。火は点いていない。蝋燭の芯だけが黒い。火を点けた痕跡がある。火を点けて見張ったことがあるのだろう。
私は不用意に近づかず、距離を取って観察する。現場に入る前の手順だ。
床の粉を確認する。白い粉が薄く散っている。塩ではない。チョークの粉に近い。帳簿の周りだけに粉がある。粉があるということは、ここに線を引こうとした。線を引くのは境界を作るためだ。境界を作るのは、止めたいからだ。止めたいのに止まらなかった。
鳥居の影の濃さを確認する。物置の窓から、稲荷の鳥居が少し見える。鳥居の影が、朝の光の割に濃い。影が濃いときは、光の量が減っているのではなく、影の側が増えている。存在の密度が偏っている。
蝋燭の芯の揺れを見る。火は点いていないのに、芯がわずかに揺れている。揺れるのは風ではない。物置の扉は閉まっている。人の動きも止まっている。揺れるなら、空気が動いている。空気が動くなら、紙も動く。
帳簿の表紙が、ふっと浮いた。
風はない。扉は閉まっている。なのに、表紙が開く。開き方が、手でめくるように滑らかだ。ページが一枚、二枚、ゆっくりめくれる。めくれる速度が一定。一定だと、意志に見える。意志に見えると、人は勝手に感情を乗せる。私は感情を乗せない。手順だけ乗せる。
一条が低く言った。
「勝手に開く、ってこれか」
帳簿が開いたところで止まる。ページの中央に、墨がにじんでいた。にじみは古い墨ではない。今、にじんでいる。にじみが数字の形を取る。数字が増えていく。筆が動いた痕跡がないのに、数字が生まれる。
生まれる数字は、売上の数字だ。端数のつき方が生々しい。人間が書く端数。人間の欲が作る端数。
伊吹が唾を飲み込む音がした。
「ほらな。勝手に増えるんや。えらいことやろ」
「増え方に法則はありますか」
私は聞いた。
「法則……毎晩、閉めたあとに増えることもあれば、昼でも増える。増えるときは勝手に増える。うちの誰かが書いたんちゃう。誰かが書いたんやったら、筆跡で分かる。これ、筆跡がない」
筆跡がない、と言い切るのが面白い。筆跡がないのではなく、筆跡が一致しないだけだろう。筆跡が一致しないというのは、誰の筆でもないという意味ではなく、筆という道具を経由していないという意味だ。
一条が帳簿を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「こいつ、金勘定で死んだな」
伊吹が顔をしかめた。
「死んだって……神さんやろ。死ぬとか、そんな」
「死ぬよ。参られなくても死ぬし、願われても死ぬ。今日のは、数えられて死んだ」
一条の言葉は乱暴だが、乱暴な方が生活の人間には分かりやすい。伊吹たちの表情が、少しだけ落ち着く。落ち着くのは、理解したからではない。相手の言葉が雑だからだ。雑だと深く考えなくて済む。
私は鞄を床に置き、留め金を外した。
「作業に入ります。近づかないでください」
伊吹たちが一歩下がる。下がると、空気が少し整う。現場に人の息が少ない方が、紙の動きが読みやすい。
私は手袋を外す。右手、左手。指先に冷気が刺さる。刺さる冷気は現実の合図だ。現実の合図がないと、帳簿の数字に引きずられる。
帳簿に触れる前に、周辺の物を整理する。机の上の筆記具をどける。紙片をまとめる。蝋燭を倒れない位置に移す。動線を確保する。搬出経路の確保。ここは物置だが、狭い。狭い場所で紙が動くと、刃になる。
「触るの?」
一条が言った。
「触れないと、最後の記憶が見えない」
「見たくない記憶っぽい」
「見ないと終わり方が分からない」
私は帳簿の端に指を置いた。紙は乾いているはずなのに、湿っている。湿りは水ではない。湿りは墨だ。墨が紙の中でまだ生きている。生きている墨は、数字を増やす。
触れた瞬間、指先が痺れた。
痺れは痛みではなく、反復の感触だ。同じ形が何度も押し付けられるときの痺れ。数字の形が、指の腹に刻まれるような感触。
視界が薄くなる。薄くなるというより、紙の白が増える。白が増えると、黒が浮く。黒は数字だ。数字が浮く。数字が浮くと、人間の声が消える。
最後の記憶が流れ込む。
商店街の稲荷。賑やかな音の中で、手を合わせる人たちがいる。店主たちだ。店主たちは手を合わせる。手を合わせる動作は丁寧だ。丁寧なのに、目は稲荷の奥を見ていない。目は自分の店の方を見ている。店のシャッター、商品棚、客の顔。頭の中に数字がある。売上の数字。仕入れの数字。人件費の数字。
手を合わせるたびに、口が動く。言葉は「商売繁盛」だ。けれど、言葉の中身は「増やせ」だ。繁盛の意味が、そこにはない。繁盛は、人が来て、物が動いて、生活が回ることだ。生活が回ることは、数字だけではない。けれど、店主たちは数字だけを見ている。
稲荷の奥に、存在がいる。赤い鳥居の影の中。存在は最初、形がある。狐のような耳。小さな手。笑う口。笑う口が、店主たちの言葉を聞いている。聞いて、頷いている。
頷くと、帳簿が開く。
帳簿は机の上にあるのではない。稲荷の奥に、古い帳簿がある。帳簿は紙の束。紙の束が神の身体の一部になっている。神は紙に触れる。触れると墨が動く。墨が動くと数字が増える。
最初は、増えることに意味があった。増える数字は「繁盛」の結果の一部だった。結果の一部が増えると、人間は喜ぶ。喜ぶと参る。参ると神は生きる。生きると、また増える。
増えることが繰り返される。
繰り返されるうちに、神の中から「意味」が削れる。繁盛の意味。人が来る意味。店主が笑う意味。店主が怒る意味。生活の意味。意味は、数字と関係のないところにある。関係のないところから削れる。削れると、残るのは数字だけになる。
神は「増やす」だけになる。
増やすことが仕事になる。仕事になると、止められない。止めると、参られない。参られないと、死ぬ。だから、増やす。
増やすだけの神は、言葉も数字になる。祝詞の形をした言葉が、帳簿の行になる。行が増え、欄が増え、ページが増える。ページが増えると、紙が厚くなる。厚くなると、神の身体が重くなる。重くなると、動けなくなる。動けなくなっても増やす。増やすために、動けないまま手を伸ばす。
ある日、店主たちが顔を揃える。手を合わせる動作は変わらない。けれど、目が冷たい。目が数字だけになっている。店主たちは口を動かす。
結果が出ない。
増えない。
意味がない。
神は「増やす」だけの機械になっているのに、増やすことが期待に追いつかない。期待は増殖する。期待は数字の速度で増える。増える期待に追いつけないと、切り捨てられる。
切り捨ては、参られないことではない。参られる。参られるのに、見られない。見られないというのは、存在が透明になることだ。店主たちは稲荷に来る。来て、手を合わせる。合わせながら、心は別の場所に行っている。別の商売の神。別の縁起物。別の儲け話。
神はそこにいる。いるのに、見られない。見られないと、神は自分が神だと確信できない。確信できないと、数字だけが残る。数字は確信ではない。数字は外側の評価だ。外側の評価だけで存在すると、内側が空になる。
空になった神は、帳簿を開く。開いて、増やす。増やす。増やす。増やす。増やしても、誰も見ない。見ないから、増やす理由も薄れる。薄れるのに、手は止まらない。止め方が分からない。
最後に、帳簿が勝手に開く。
勝手に開くというのは、誰も開かないということだ。誰も開かないのに、帳簿だけが開く。帳簿は「見られたい」。見られたいという言葉は感情だ。感情と言うと説明になる。けれど、帳簿の開き方は、誰かに見せたい動きだった。見せたい動きのまま、見せる相手がいない。
その欠落が、紙を動かす。
記憶が引いた。
私は現場に戻った。指先の痺れが強くなっている。痺れが、数字の形を持つ。指の腹に、縦線と横線の感触が残る。視界の端に、数字の残像が浮く。浮いた数字は現実の物ではないのに、現実のように重い。
一条が私の顔を覗き込む。
「顔、白い」
「白いのは紙のせいだ」
「数字のせいだろ」
彼は言い当てる。言い当てられると、こちらの余計な説明が減る。
伊吹が遠巻きに聞いた。
「どうなんですか。これ、直るんですか。増えへんようになるんですか」
直る、という言葉が軽い。軽い言葉で怪異を扱うと、怪異は生活に入り込む。入り込むと、増える。
「帳簿を閉じます」
私は答えた。
「閉じる?」
「開き続けることが歪みです。閉じることで終わり方を固定します」
固定、という言葉は説明に近い。伊吹は分かったふりをした顔をした。分かったふりは、生活の防御だ。
一条が帳簿を見下ろし、低く言った。
「商売繁盛が、計算に変わった。増やすだけで、意味が死んだ」
伊吹が不機嫌そうに眉を寄せる。
「うちは別に、神さんを殺すつもりなんか……」
「つもりの話じゃない」
私は言った。言葉が冷たいのは分かっている。分かっていても、現場では変えない。変えると、作業がぶれる。
「処理手順に入ります。帳簿の追加記載を止める。封印。搬出」
私は鞄から、綴じ紐と封印テープを出した。紙は燃やさない。燃やすと拡散する。拡散は最悪だ。帳簿の中の「増やす」が外に漏れると、商店街のどの帳簿も増え始める。増え始めたら止まらない。
私は帳簿の端を持ち上げ、机の上に置いた布の上へ移す。布は白い。白い布は墨を吸う。吸うことで、墨の動きを鈍らせる。
帳簿が抵抗するように、ページをめくろうとした。めくれる速度が早い。紙の擦れる音が尖る。尖る音は刃だ。私はページの端を押さえ、めくれないように固定した。固定は力ではなく角度だ。角度を合わせると紙は止まる。
一条が隣で、口の中で小さく何かを呟いた。祝詞の形をした言葉だろう。音が薄い。薄い音は、彼の力が弱い証拠だ。彼は神であるはずなのに、神としての音が薄い。
帳簿のページの動きが、一瞬止まった。止まったが、すぐにまた動く。動くたびに、墨がにじむ。にじみが数字になろうとする。
「足りない」
一条が短く言った。
「分かってる」
私は帳簿の背に綴じ紐を通した。針を使わず、既存の穴を利用する。既存の穴は、今までの手順の痕跡だ。痕跡を使うと、歪みが少ない。新しい穴を開けると、新しい歪みが生まれる。
紐を通し、きつく締める。締め方は均等。均等に締めないと、紙のどこかが浮く。浮くと、そこからめくれる。めくれると増える。
私は最後のページを開いた。最後のページには、まだ何も書かれていない。空白だ。空白は便利だ。空白に「終」と書けば、終わりをこちらが決めることになる。終わりを決めると、帳簿の中の「増やす」が抵抗する。抵抗すると暴れる。暴れれば怪我をする。
空白のまま綴じる。
空白のまま閉じるというのは、終わりを押し付けないということだ。押し付けないことで、増殖の動機を切る。動機が切れると、紙は落ち着く。
私は空白をそのままにして、ページを閉じた。閉じた瞬間、指先の痺れが少し引いた。引いた痺れの代わりに、頭の中の数字の残像が薄く残る。薄く残る残像は、煤に近い。
一条がもう一度、薄い祝詞を呟いた。今度は、私がその言葉の間に紐を締める音を重ねた。言葉が弱いなら、手順で補う。手順は神格ではないが、現場では強い。
帳簿の表紙が、静かになった。
めくれない。動かない。墨のにじみも止まる。止まると、物置の空気が少し軽くなる。さっきまで詰まっていた墨の匂いが薄れ、商店街の漬物の匂いが戻ってくる。匂いが戻ると、現実が戻る。
伊吹がほっと息を吐いた。
「止まった……?」
「止まっています。いまは」
「いまは、って」
「いまは、です」
私は言った。ここで「もう大丈夫」と言うと嘘になる。嘘は現場を汚す。汚れは煤になる。煤は増える。
伊吹の顔が険しくなる。
「ほな、また増えるんですか」
「増えるなら、原因は帳簿の外です」
私は布で帳簿を包みながら言った。包むのは搬出のためだ。布は封印ではない。封印は後でする。
「あなたたちの中に、増やしたい誰かがいる」
伊吹の顔が固まった。店主たちが互いを見た。互いを見ると、疑いが生まれる。疑いは商売に毒だ。毒は噂になる。噂は現場を汚す。
「何やそれ。うちの誰かが、って言うんか」
伊吹の声が低くなる。怒りの形だ。怒りは分かりやすい。分かりやすい怒りなら、こちらは手順に集中できる。
「人間の悪意とは限りません。合理でも起きます。数字を増やしたい気持ちは、誰にでもあります」
私は言った。言葉が硬い。硬い言葉は角が立つ。角が立ってもいい。角が立つことで、彼らは自分の中の「増やす」を見直すかもしれない。見直さなくても、現場の種として残る。連作短編には、種が必要だ。
一条が横で肩をすくめた。
「疑うのが嫌なら、帳簿を増やすのをやめればいい」
「商売やで」
「商売なら、神さまに全部押し付けるな」
一条の言葉は刃物みたいに短い。店主たちが眉をひそめる。ひそめても、反論しない。反論すると、自分の中の欲が表に出るからだ。
私は帳簿を封印袋に入れ、封印テープを貼った。日付、現場、分類。記録を残す。記録は、後始末の一部だ。
封印が終わると、物置の床の粉が少しだけ落ち着いたように見えた。粉はただの粉だ。粉が落ち着いたように見えるのは、私の感覚だ。感覚は記録する。記録すると、次の現場で比較できる。
伊吹が咳払いをして、無理に笑った。
「まあ、助かりましたわ。ほんまに。これで税理士に……」
税理士という言葉が、また出る。稲荷の前で税理士。生活の祈りが計算に変わった場所では、神も数字で死ぬ。
「依頼は完了です。ただし、注意点があります」
「何です」
「帳簿を増やす話を面白がって広めないでください。噂は増殖します」
伊吹が頷いた。頷きはしたが、守るかどうかは別だ。商店街の噂は商品だ。商品は回る。回ると増える。増えると汚れる。
搬出に入る。
商店街の屋根の下へ戻ると、匂いがまた混ざった。豆腐の湯気、漬物の酸、線香の甘い煙。そこに、封印袋の中の墨の匂いが混じる。混じり方が嫌だ。嫌だという感情語は使わない。代わりに、喉が乾く。舌が紙みたいに固くなる。唾が出ない。
一条が私の横を歩きながら言った。
「今日のは、嫌な仕事だね」
「嫌な仕事ほど、手順が必要」
「手順で生きてる」
「手順で終わりを歪ませない」
「優しくないね」
「優しくない方が、残る」
一条は鼻で笑った。笑いが薄い。薄い笑いは、現場がまだ身体に残っている証拠だ。
商店街の角で、小さな子どもが走ってきた。ランドセルではない。まだ幼い。帽子をかぶって、手には焼き芋の袋。袋の湯気が子どもの頬を赤くしている。
子どもは私たちの前で急に止まり、身体を横にずらして道を譲った。譲るというより、ぶつからないように避けた動きだ。子どもは私の鞄を見る。鞄の中に何があるか知らないのに、避ける。子どもはそういうところがある。薄いものを避ける動きが、本能に近い。
「おじさん、ごめんね」
子どもが言った。礼儀の形。誰かに教えられた言葉。
私は頷こうとして、頷けなかった。頷く動作が遅れる。遅れると、子どもは不安になる。子どもは不安になるとすぐ泣く。泣くと周囲が騒ぐ。騒ぐと現場が汚れる。汚れは煤になる。煤は増える。
私は言葉を探した。探す間が長い。
「……大丈夫」
ようやく出た言葉は、手順みたいな言葉だ。子どもは少し首を傾げたが、すぐに走っていった。走っていく足音が軽い。軽い足音が遠ざかると、私は肩の力が抜ける。
一条が横で私を見る。
「お前、子どもが苦手だな」
言われた瞬間、身体が硬直した。硬直は短い。短い硬直ほど、自分でも気づく。指先が冷える。喉がさらに乾く。呼吸が一拍遅れる。
「苦手ではない」
「苦手だよ。今、礼が言えなかった」
「言う必要はない」
「必要あるよ。生きてる相手には」
彼の言葉は軽口の形をしているのに、刃がある。刃があるのは、私の反応が彼にも見えたからだろう。
私は答えなかった。答えると説明になる。説明になると、思い出が動く。動くと、煤が増える。
商店街の出口に出ると、冷気が顔に当たり、息が白くなった。白い息を見ると、現場が一段落したと身体が理解する。理解すると、手袋の内側の感触が戻ってくる。
私は歩きながら、手袋を少しずらした。
指先に煤が残っている。
第二話の煤とは違う。今日の煤は、形を持っている。細い線が交差して、数字のような形になる。数字の残像が煤になって、皮膚の溝に入り込む。払っても落ちない。落ちない煤は、性質を持つ。性質を持つ煤は、次の遺品に影響する。
一条がそれを見て、舌打ちした。
「出てるな」
「増えている」
「増えてるっていうか、変わってる。数字の汚れだ」
数字の汚れ。言い方が合っている。合っているから、私は訂正しない。
「死に方の欠片が、残る」
「お前が引き受けてる」
一条が言った。彼の声がいつもより低い。低い声は、冗談ではない。
私は手袋を戻し、煤を隠した。隠しても消えない。消えないものを抱えたまま次へ行く。それが仕事だ。
スマホが震えた。
管理窓口から新しい依頼。短い文章。短い文章は急ぎの合図だ。
子どもにしか見えなかった神。至急。
一条が画面を覗き込んだ。
「子ども回か。さっきの話、伏線回収の準備?」
「準備ではない。依頼だ」
「依頼って便利だね。逃げ道になる」
「逃げない。行く」
私は歩き出した。冬の京都の冷気が、商店街の温度を剥がしていく。剥がれたところに、数字の煤のざらつきが残る。残るざらつきは、手袋の内側で形を変えながら、次の現場へついてくる。
次、開くしかない。
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