第2話 願われすぎた神の暴走
人が多い場所は、匂いが混ざる。
甘い香の煙、焼き栗の油、古い木の湿り。冬の京都は冷たいはずなのに、観光地の手前だけ体温が溜まって、息が白くなる前に喉が乾く。歩く速度の違う人間が同じ道を流れ、靴底が石を擦って、シャッター音が小さく弾ける。誰も急いでいないように見えて、誰も止まらない。
私は止まる。
止まった理由は景色じゃない。人の塊の向こう側、社の前だけ空気が沈んでいる。沈むと言っても、暗いわけではない。むしろ明るい。提灯の赤、土産物の包装紙、スマホの画面。明るいのに、重い。空気が厚い布みたいにまとわりついて、胸の動きが小さくなる。
一条が横で歩調を落とした。彼は人混みの中でも妙に軽い。肩を抜いて、流れに乗るふりをしながら、必要なときだけ身体の角度を変える。こちらの背中を見失わない距離にいるのに、監視の気配がない。
「また、賑やかなとこだね」
彼は土産袋を避けて言った。口元に、いつもの薄い笑い。
「賑やかな場所ほど、薄いものが目立つ」
「薄いっていうか、今日は重い」
言い方は違うが、指している場所は同じだ。人の波が途切れる瞬間があって、その向こうに小さな社が見えた。鳥居は新しい塗り直しがされている。注連縄も新しい。紙垂も揺れている。ここだけ見れば、生きている。
けれど、賽銭箱の前の空気が沈み、地面が少し湿って、足音の響きが遅れる。音が遅れるだけで、身体が警戒する。理由を探そうとすると説明になる。説明は現場では邪魔だ。私は理由の代わりに手順を思い浮かべる。
依頼メッセージの送り主は管理窓口だ。件名に「願い札暴走」とある。位置情報はここ。観光地の端にある小さな社。参拝者は絶えないはずなのに、暴走している。
社の前で立ち止まると、私の肩が少し上がっているのが分かった。肩が上がると首が固くなる。首が固いと視野が狭くなる。視野が狭いと、紙の動きに遅れる。私は息を吐き、肩を落とした。息は白くならない。人の体温が多すぎる。
社の横に、絵馬掛けがある。木枠に絵馬がびっしりと重なっている。絵馬の上からさらに絵馬が吊られ、下の絵馬は見えない。風がないのに、木板が小さく鳴っている。音が揺れているのではなく、音の出どころがずれている。
絵馬の前で、若い女性が一人、社に向かって手を合わせていた。コートの袖口から白い手袋が見える。髪はきれいに巻かれているのに、毛先が少し乱れている。ここまで急いで来たのだろう。肩が小さく震えている。寒さの震えではない。寒さなら、全身に出る。
彼女は私たちに気づくと、すぐに近づいてきた。足元の石畳が濡れているのに、構わない歩き方。目が赤い。泣いた跡がある。泣いた直後ではない。泣いて、拭いて、また泣きそうな状態だ。
「遺品整理の方ですか」
声が高い。高い声は、必死のときに上がる。
「朔です」
私は名乗った。名乗るときの声を一定にする。一定にすると相手の反応が見えやすい。
「助けてください」
彼女は言った。すぐに、言葉が続かなかった。口が開いたまま、喉の奥が詰まる。詰まっているのに、彼女は言おうとする。言おうとすると、体が先に動く。指先が社の方を指した。
「神様が、変なんです。最近ずっと。願いが……願いが叶ってほしくて、私は毎日……参ってたのに。絵馬も、札も、ちゃんと。なのに、変なんです。鳴ってるんです。勝手に。風もないのに」
彼女の言葉は速い。速い言葉は穴を埋める。埋めようとしているのは説明ではなく、恐れだ。
「状況を確認します」
私はそう言って、社の前に立った。
「待って、お願い、ちゃんと見てください。神様を助けてください。私、ここにすごく救われたんです。だから、今度は私が……」
救われた。助けて。彼女は感情を投げてくる。投げてくるものを受け止める道具を、私は持っていない。受け止めようとすると、手が止まる。手が止まると、遺品が動く。遺品が動けば怪我をする。
「確認します」
繰り返すと、彼女の眉が寄った。伝わっていないのではなく、期待した反応が返ってこない。期待した反応が返らないとき、人は怒りに寄る。怒りは分かりやすいからだ。
一条が横から顔を出し、彼女に軽く手を振った。
「こんにちは。助けるって言い方、難しいよ。まず、何が起きてるか見る」
彼女の視線が一条に移る。彼の口調は軽い。軽いものが差し込むと、人の硬さが少しだけゆるむ。
「……私、絵馬、書きすぎましたか」
彼女は小さく言った。責められる前に自分で責める形。責める形にすると、相手の反応が予測できる。
「書いた数を確認します」
私は絵馬掛けの前にしゃがんだ。目で数を追う。数は正確には取れない。重なりすぎている。けれど、彼女の絵馬だけでも十枚以上ある。紐の色が揃っている。文字の癖も同じだ。ひとつの願いが形を変えて繰り返されている。願いは葉っぱみたいに増える。葉っぱは軽く見えて、重なると重い。
木枠の下に、願い札の束が置かれていた。紙札が束ねられ、紐で縛られている。参拝者が自由に取って書けるように見せて、実際には誰かが補充している。補充しているのはこの社の側だ。願い札を増やす行為そのものが、社の仕事になっている。
私は立ち上がり、鞄を前に回した。手順を確認する。
「搬出経路を確保します。絵馬掛けの周囲、人が入らないように」
人混みの中で搬出は難しい。けれど、今日は運が悪いか、良いか。社の前だけ、人の流れが避ける。避ける理由は説明しない。避けるなら利用する。
一条がロープを取り出し、さらっと社の前に張った。観光客は不思議そうな顔をするが、近づかない。近づかない理由が、彼らにも分かっているのだろう。分からないものは、身体が避ける。
彼女はロープの外で、手袋を握りしめた。指先が白い。力を入れすぎている。
「私、ここが好きなんです。ここに来ると、落ち着くんです。だから、願いも……いっぱい書いたんです。だって、神様って叶えてくれるじゃないですか」
「叶えることを要求した?」
私は、事実の質問として聞いた。
彼女の顔が固まった。質問の刃が、彼女の胸を刺したように見えた。刺したのは言葉ではなく、構造だ。願いと要求は似ている。似ているから、区別しない。
「要求って……そんなつもりじゃ……私は、ただ、お願いしただけです。毎日、ちゃんと。お賽銭も。お礼も。神様が好きだから」
好き。彼女は言った。言った瞬間、目が揺れる。好きと言い切ると、責任が生まれる。責任が生まれると、怖くなる。彼女の喉が鳴った。
一条が肩をすくめた。
「好きって言葉、便利だよね。相手が生きてる前提で使える」
彼女が一条を睨む。睨みは言葉より遅い。遅いから、そこで止められる。
「いまは状況確認」
私は鞄の留め金を外した。
その瞬間、絵馬掛けが鳴った。
風はない。周囲の人の衣擦れもない。なのに、木板が一斉に鳴る。乾いた音が重なり、どこから鳴っているのか分からなくなる。音が一拍遅れて、耳に刺さる。
次に、紙が動いた。
願い札の束が、紐の結び目からほどける。ほどけるというより、結び目が自分で解ける。紙札がふわりと浮いた。浮いた紙は軽いはずなのに、動きが鋭い。刃物の動きに近い。紙の角が光を切る。
私は身体を横に滑らせた。頬に、紙が擦った。痛みは浅い。浅い痛みほど嫌な感触が残る。皮膚の表面が、紙で削られた。
一条が手を伸ばした。彼の指先が空を押すような動きをする。紙の束が一瞬、止まった。止まったのに、すぐにまた動く。紙が彼の指の間を抜けていく。抜けていくたびに、一条の肩が小さく揺れる。息が切れる兆候。彼の力は強いが、長くは持たない。
「抑える。早く触れ」
彼が短く言った。軽口の余裕がない。
私は手袋を外した。急ぐときほど、手袋を外す動作が乱れる。乱れると、指先が紙に触れる。触れた紙の記憶がいきなり流れ込む。流れ込むと、足が止まる。足が止まれば、紙に切られる。
私は動作を分解した。右手の手袋を引き、指先を出す。左手の手袋を引き、指先を出す。冷たい空気が皮膚に刺さる。刺さる感覚が、いまは目印になる。現実の目印だ。
紙札が頬の前を横切った。私は首を引いて避け、代わりに手を伸ばす。紙は、触れられるのを嫌がるように逃げる。逃げる動きは、意志のように見える。けれど、意志ではない。意志の形をした重さだ。
私は絵馬掛けの一番下にある絵馬を掴んだ。手の腹で木の表面を押さえる。木は冷たい。冷たいのに、体温が吸われる感じがない。吸われないということは、そこに受け取る側がいない。
触れた瞬間、視界が薄くなる。
人の声が遠のき、代わりに、同じ言葉が押し寄せる。
願い、願い、願い。
同じ形の文字が雪崩みたいに落ちてくる。紙の上の文字が、声になる。声になったものが、社の中に積もる。積もって、床が見えなくなる。社の中に、言葉の層ができる。層は厚い。厚い層が、上から押してくる。
参拝者の列。列は途切れない。笑い声、シャッター音、足音。手を合わせる動作だけが繰り返される。手を合わせるたびに、願いが置かれる。置かれた願いが、すぐに次の願いで押される。押されて、紙が擦れる。紙の擦れる音が、社の中で鳴り続ける。
社の奥に、存在がいる。輪郭はある。けれど、顔が見えない。顔が見えないのは暗いからではない。顔という機能が擦り減っている。擦り減って、平らになっている。平らになったところに、願いの文字が貼りつく。
叶えて、叶えて、叶えて。
要求の形をした願いが落ちる。落ちるたびに、存在がそれを受け取る。受け取るというより、背負わされる。背負わされると、背中が曲がる。曲がると、次の願いが落ちやすくなる。落ちやすくなると、さらに背負わされる。
断れない。
断る言葉がない。断る言葉を持つと、嫌われる。嫌われると、参拝者が来なくなる。来なくなると、死ぬ。だから、断れない。断れないまま、叶えるふりをする。叶えるふりをすると、参拝者が増える。増えると、願いが増える。増えると、押し潰される。
押し潰される。
存在の口が動く。口は動くのに、出てくる言葉がない。代わりに、絵馬に書かれた願いの言葉が、そのまま口から出る。誰かの願いの言葉。誰かの願いの言葉が、誰かの口から出る。出るたびに、存在の中の声が削れる。削れて、残らない。
最後に、願いがひとつ、重く落ちる。
重い願いは数ではない。熱だ。絶対に叶えろという熱。叶えなければ意味がないという熱。叶えられなければ、お前は役に立たないという熱。熱が落ちてきて、存在の胸を押す。胸が潰れ、背骨が折れる音がする。音は遅れて、耳に届く。遅れた音が、ひどく現実的だ。
存在は、言葉を吐こうとする。吐けない。吐けない代わりに、願いの言葉を吐く。叶えて。叶えて。叶えて。
その言葉だけが残り、顔が消える。顔が消えると、参拝者は気づかない。気づかないまま、手を合わせる。手を合わせるたびに、願いが落ちる。
落ちる願いが、最後の支えを折る。
折れた瞬間、社の中の空気が重くなる。重くなって、動かない。動かない空気の中で、紙だけが舞う。紙は舞っているのに、風がない。風がないのに、舞う。舞う理由は、願いが動いているからだ。
記憶が引いた。
私は現場に戻った。頬の浅い痛みが残っている。指先が震えている。震えは恐れではなく、負荷だ。目の焦点が一瞬合わない。合わない焦点の向こうで、紙札がまだ舞っている。
一条が紙を押さえ続けている。彼の息が荒い。口元の笑いは消えている。彼が本気で抑えているときの顔は、眠たげではない。鋭い。鋭いのに、弱い。力が減っている。
「朔、言え」
彼が言った。何を言えと言っているのか分かった。現場の空気を、言葉で切り替える必要がある。切り替えないと、紙がさらに暴れる。
私は絵馬を布の上に置き、視線を依頼人の女性に向けた。彼女はロープの外で立ち尽くしている。顔が青い。涙が頬に残っている。泣いているのに、音が出ない。音が出ない泣き方は、身体の奥で崩れる。
「この方は、殺されたんじゃない」
私は言った。言葉が乾く。喉がさらに乾く。乾いた喉で言う言葉は、柔らかくならない。
「……押し潰された」
彼女の目が大きく開いた。開いたまま、瞬きを忘れる。瞬きを忘れると、涙が落ちる。涙は熱い。熱い涙が、冷たい空気に触れてすぐに冷える。冷えると、顔が固まる。
「押し潰されたって……誰に」
彼女の声が震えた。震えは寒さではない。自分の中の何かが崩れている。
「願いに」
私は短く答えた。
彼女は首を横に振った。否定の動作は速い。速い否定は、心の準備がない。
「違う。だって、願いって、いいことじゃないですか。お願いって……善意じゃないですか。私、神様のこと、好きで……助けてほしくて……」
彼女は言いながら、絵馬掛けを見た。絵馬掛けの木板が、また鳴った。彼女の言葉に反応するように、紙札がさらに舞う。言葉は現場に影響する。だから、言葉は危険だ。
「参ることと、要求することは違います」
私は事実として言った。
彼女の顔が変わった。赤かった目が、今度は怒りの形に固まる。怒りは熱を持つ。熱が出ると、言葉が鋭くなる。
「要求なんてしてない。私はただ、お願いしてた。毎日、ちゃんと。神様も、叶えてくれた時もあった。だから、もっと……もっとって思っただけで。もっとって、悪いんですか」
もっと。悪いかどうかではなく、重いかどうかだ。重いものは積もる。積もると潰れる。潰れると暴れる。暴れると人が怪我をする。
「悪いかどうかの話ではない」
私は言った。言い方が冷たいのは分かっている。分かっているから、変えるべきだとも思う。けれど、変えるときは余裕がいる。いまは余裕がない。紙が舞っている。
一条が低く唸った。
「朔、切りすぎ」
彼はそう言いながらも、紙を押さえる指を動かさない。余裕がないのは彼も同じだ。
私は依頼人の女性を見て、言葉を選んだ。選ぶと言っても、優しい言葉は持っていない。持っていないものは出せない。出せるのは手順だ。
「いまから処理に入ります。近づかないでください」
命令の形にすると、彼女の怒りがさらに燃える可能性がある。けれど、燃えてもいい。燃えている間は動きが大きい。大きい動きは予測できる。静かに泣かれる方が、現場では分からない。
「処理って、何をするんですか。燃やすんですか。捨てるんですか。そんなの、だめ。神様のものを、そんな」
「燃やしません」
私は言った。燃やすと、願いが拡散する。拡散すると、ここだけでなく別の場所が汚れる。汚れは増殖する。増殖すると、回収できない。
「封印保管します」
「封印……」
彼女の声が少し落ちた。知らない言葉に触れると、人は一瞬止まる。止まる間に、こちらが動ける。
私は布を広げ直し、鞄から紙用の箱と、封印用の袋を取り出した。袋は厚い。内側に薄い塩が縫い込まれている。塩は儀式ではない。紙の動きを鈍らせるための素材だ。素材として扱う。
「分類します。絵馬、願い札、紙札。紙は紙、木は木。混ぜない」
一条が舌打ちした。
「早く。俺、もう無理」
彼の息が切れる。紙が彼の指の隙間を抜け始める。抜けた紙が、私の目の前を横切った。目に入れば終わる。私は顔を横に逸らし、腕で避けた。紙が腕に当たり、コートの表面が擦れる。紙は柔らかいはずなのに、今日は硬い。硬さは願いの重さだ。
私は願い札の束に手を伸ばした。束は浮いている。浮いている束に触れるには、指先の角度を合わせる必要がある。角度がずれると、紙が指を切る。切られると血が出る。血が出ると、遺品が血に反応する。反応すると、さらに暴れる。
私は指を揃え、束の側面を押さえた。
触れた瞬間、紙の擦れる音が止まった。
束が重く落ちる。落ちるとき、空気が少しだけ軽くなる。一条の肩が落ち、彼は息を吸った。彼が押さえていた力が抜けると同時に、周囲の紙札も勢いを失う。勢いを失っても、まだ動く。動きが遅くなっただけだ。
私は願い札を厚い袋に入れ、袋の口を縛った。縛る動作を、二重にする。結び目が勝手に解けないように、結び目の上から封印テープを貼る。テープの端に日付と現場名を書く。文字を書くと、現場が固定される。固定することで、拡散を止める。
次に絵馬。絵馬は木だ。木は紙ほど鋭くはないが、記憶が深い。深い記憶は、触れたときに引きずる。引きずると、手が止まる。手が止まると、また紙が動く。だから、絵馬は最後だ。
私は紙札を箱に入れていく。箱の中で紙が鳴る。鳴り方が、さっきより小さい。小さい音は安心にはならない。小さい音ほど後で増える。
依頼人の女性はロープの外で、歯を食いしばって見ている。怒りが消えたわけではない。怒りの形が変わっている。怒りは自分に向かっているように見える。自分に向かう怒りは、言葉になりにくい。言葉にならないものは、身体に残る。
「私が……悪いってことですか」
彼女は言った。言葉は小さい。小さい言葉は刃だ。相手に刺すためではなく、自分を切るための刃。
「悪いかどうかではない」
私は繰り返した。
繰り返すと、彼女の肩が落ちた。落ちた肩の動きで、彼女のコートの襟が少しずれて、首元が見えた。首元の皮膚が赤くなっている。掻いた跡。眠れていない人の肌だ。
一条がロープにもたれ、彼女を見た。彼の目が少し柔らかくなる。柔らかくなると、言葉が軽くなる。
「優しさってのは、相手を生かす形を選ぶことだよ」
彼は言った。
彼女は一条を見た。目が揺れる。揺れは理解に近い。理解に近い揺れは、涙に繋がる。涙が出ると、怒りが薄くなる。薄くなると、現場の空気が落ち着く。
「生かす形……」
「願いを投げるだけじゃなくて、引き際を選ぶってこと」
一条は続けた。彼の言葉は彼のものだが、私の仕事の形にも近い。引き際。終わり方。歪ませない。
私は箱の蓋を閉め、封印テープを貼った。貼り終えると、紙の動きが止まった。止まったというより、動く理由が薄くなった。薄くなれば、押さえられる。
私は絵馬掛けに残った絵馬を確認した。全部を回収する必要はない。暴走の核だけ回収すればいい。核は、彼女の絵馬だ。彼女の願いが重なりすぎて、社の中の圧になっている。圧が高いと、薄いものは潰れる。潰れると、言葉だけが残る。
私は彼女の絵馬を十枚ほど外し、布の上に置いた。絵馬に触れると、また記憶が走る可能性がある。けれど、さっきの記憶ほどの雪崩は来ない。核は願い札の束だった。束を封印したことで、圧が下がっている。
それでも、絵馬に触れた瞬間、指先が少し痺れた。痺れは痛みではない。汚れの手触りだ。私は痺れを無視し、分類袋に入れた。袋の口を縛り、記録を取る。どのくらいの数。どのくらいの重さ。重さは実際の重量ではなく、手に残る感触だ。感触も記録する。記録すると、後で再現できる。
作業が終わると、社の前の空気が少しだけ軽くなった。人の流れが戻る気配がある。観光客が遠巻きに見ていたのが、また近づき始める。近づくと、匂いが戻る。匂いが戻ると、現実が戻る。
依頼人の女性はロープの外で、手袋を握りしめたまま立っていた。握りしめた手袋が、汗で少し湿っている。湿ると、手袋は冷える。冷えると、手が震える。
「神様は……もう、だめなんですか」
彼女は聞いた。
質問の形は、答えを求めているようで、実際は自分の中の決定を外に出したいだけだ。外に出すと、決定が現実になる。現実になると、耐えられなくなる。だから、他人に言わせたい。
私は彼女を見た。見たからと言って、慰めの言葉は出ない。出すと嘘になる。嘘は現場を汚す。
「終わり方が歪んでいないなら、だめではない」
私は言った。
彼女が眉をひそめる。言葉が分かりにくい。分かりにくい言葉は、余計な説明を呼ぶ。説明をすると、彼女の感情がさらに絡まる。絡まると、引き際が遅れる。遅れると、また願いが積もる。
「ここは、もう、前と同じではありません」
私は事実だけを置いた。
彼女は唇を噛んだ。噛むと血が出る。血が出そうな噛み方だ。彼女はそれでも、私から目を逸らさない。逸らさないのは強さではない。逸らすと、崩れるからだ。
「私、どうしたらいいんですか」
どうしたらいい。答えを求めている。けれど、その答えを私が言うと、私が彼女の引き際を決めることになる。決めると依存が生まれる。依存は願いに似ている。依存は要求に変わりやすい。
「参ることと、要求することを分けてください」
私は繰り返した。
「それって……参るのをやめろってことですか」
「やめろとは言わない。形を変える」
形を変える。彼女はその言葉を口の中で転がした。転がして、飲み込めない。飲み込めないまま、目が潤む。涙が出る直前の目は、光を多く拾う。拾いすぎて、見えなくなる。
一条が横から、缶コーヒーを差し出した。いつの間に買ったのか分からない。彼はそういうところがある。手順の外にいるのに、必要なものを持ってくる。
「飲む? 手が震えてる」
彼女は一瞬躊躇して、受け取った。指先が缶に触れたとき、熱に驚いて手が少し緩む。緩むと、握りしめていたものが解ける。解けると、呼吸が戻る。
「……ありがとうございます」
彼女の声が小さくなる。小さくなると、怒りの熱が下がる。熱が下がると、現場の空気が安定する。
私は最後に、社の中を確認した。棚の上に残っているものはない。願い札の補充箱の中身も、今日は触れない。触れると、別の層が動く可能性がある。いまは暴走を止めるのが優先だ。
私は鞄を閉め、手袋をはめ直した。手袋の内側が、さっきより冷たい。指先に痺れが残っている。痺れは、汚れの痕跡だ。
依頼人の女性が、最後に社を見た。見たとき、彼女の眉が少し下がった。泣きそうな顔ではなく、疲れた顔だ。疲れた顔は、引き際に近い。
「……私、また来ちゃうと思う。でも、絵馬は……もう、たくさん書かない」
彼女は言った。約束ではない。決意でもない。現実的な自己申告。自己申告は、他人に宣言するより強い。宣言は演技になりやすいが、自己申告は疲労が混じる。
「それでいい」
私は短く言った。
彼女は小さく頷き、ロープの外を離れていった。人混みに紛れる背中は小さい。小さい背中ほど、重いものを抱えているように見える。見えるだけだ。私は見えるものだけを記録する。
搬出に入る。
観光客の流れの端を縫って歩く。鞄の重さが肩に食い込む。重いのは中身ではなく、手に残る感触だ。願い札の束は封印したのに、言葉のざらつきが手袋の内側に残っている。
一条が隣で歩く。彼はさっきより口数が少ない。息が整っていない。整っていない息は、弱さのサインだ。彼の力が弱いことを、私は現場で見た。見たから記録する。記録すると、次の現場で期待値を調整できる。
「今日の、あれ」
一条が言った。
「押し潰された」
「言い方、刺さるね」
「事実だ」
「事実って言葉、便利だよね。人の胸に刺さっても、抜かなくていい」
彼は皮肉っぽく言った。けれど、皮肉の温度が低い。低い皮肉は、自分に向いている。
私は答えずに歩いた。答えると、会話が説明に寄る。説明に寄ると、今日の現場の重さが濃くなる。濃くなると、煤が増える。
路地を一本外れたところで、人の流れが少し切れた。空気が冷たくなり、息が白くなる。白い息は境目だ。境目に来ると、身体がようやく現場の外に出たと認識する。
そのとき、手袋の内側がざらりとした。
私は歩きながら手袋を少しずらし、指先を見た。
黒い煤が、第一話のときより濃く残っている。薄い粉ではない。湿った汚れのように、皮膚の溝に入り込んでいる。払っても落ちない。落ちないものが増えると、次に触れる遺品が汚れを拾いやすくなる。汚れは媒介になる。
一条がそれを見て、すぐに自分の手袋を私の方に投げて寄越した。新品の手袋。厚い。内側が少し硬い。
「それ、隠せ」
「隠しても消えない」
「消えないなら、見せるな」
彼の声が短い。短い声は焦りに近い。焦りは失敗に繋がる。失敗は怪我に繋がる。怪我は汚れを増やす。
私は手袋を受け取り、上から重ねてはめた。煤のざらつきが、厚い布の向こうに押し込まれる。押し込まれても、消えない。消えないものを押し込むと、内側で育つ。育つと、いつか溢れる。
一条が歩きながら、ぽつりと言った。
「人間が手を突っ込み始めた」
突っ込む。言い方は乱暴だが、彼の中では正確なのだろう。今日の依頼人の女性は、悪意はなかった。むしろ善意だった。善意ほど扱いが難しい。悪意は境界がはっきりしている。善意は境界がない。
「過剰な願いは、汚れになる」
私は自分の記録として言った。
「願いが汚れになるなら、人間はずっと汚いね」
彼は笑わなかった。笑わない一条は、現場が深い。
スマホが震えた。
管理窓口から新しい依頼が入った。画面の通知文は短い。短い通知は急ぎの合図だ。
商店街の古い稲荷。帳簿がひとりでに増える。至急。
帳簿。増える。紙。紙は願いよりも静かに汚れる。静かに汚れるものは、気づいたときには手遅れになる。
私は画面を閉じ、鞄の重さを肩で確かめた。煤のざらつきが、厚い手袋の内側でまだ生きている。指先の痺れが消えない。消えない痺れは、次の現場の予告だ。
「次」
一条が言った。
「開くしかない」
私は歩いた。冬の京都の冷気が、ようやく喉を冷やす。冷えると、言葉が乾く。乾いた言葉で、私は次の現場に向かった。
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