最終章
決定的な違いは、会話ではなく、空間把握能力だった。
言葉はまだ繋がっていた。受け答えもできていたし、冗談だって言えた。
だからお嫁ちゃんは、自分は思っているよりずっと大丈夫だと信じていた。
でも、包丁を持ったまま探していた背中を、私は忘れられない。
そこにあるものと、自分との距離が分からない。
持っているはずのものを、もう一度、もう一度と確かめる仕草。
空間を把握する力だけが、会話よりもずっと早く、静かに壊れていた。
それでもお嫁ちゃんは笑っていた。
ちゃんと話せている自分を、普通だと言い聞かせていた。
その日、久しぶりに私の好きなお菓子を作ろうとしていた。
材料を並べて、ひとつ足りないことに気づいた。
「買ってくるね」
一緒に行こうかと口にしかけて、私はやめた。
そのときのお嫁ちゃんの顔が、少しだけ誇らしそうだったからだ。
「すぐそこだから楽しみに待ってて」
それが、最後の会話になった。
交通事故だと聞かされたとき、頭が真っ白になった。
意味が分からなかった。
どうして。
どうして一人で行かせた。
どうして、もっと見ていなかった。
私は、何度も何度も、自分を責めた。
遺品整理の最中、引き出しの奥から一冊のノートが出てきた。
まだ新しい表紙。
それは、病気が分かってから、お嫁ちゃんが書き始めた日記だった。
「これは見ないでね」
そう言われていた。
分かっていたのに、手が止まらなかった。
最初のページには、短く、正直な言葉が並んでいた。
・病気になった。若年性アルツハイマーという記憶の病気らしい。...怖い。
次のページからは、必死に前を向こうとする文字が続いていた。
・頑張ろう。
・できることを探そう。
・迷惑をかけないようにしよう。
けれど、日が進むにつれて、言葉は少しずつ弱くなっていった。
・やっぱり無理だった。
・思っているより、できないことが多い。
・私、役に立っていない。
・今の私に、存在価値が何も無い気がする。
それでも、最後に書かれていたのは、いつも私のことだった。
・でも、隣にあなたがいる。それだけで、まだここにいていいと思える。
・私は愛されている、世界一の幸せ者だ
料理について書かれたページで、私は息を止めた。
包丁のこと、気を使ってくれてたの、ちゃんと分かってた。
分からないふりしてくれてたのも。
・不甲斐ないけど、あのときのあなたの優しい顔が見られたから、それはそれで幸せ。
最後のページは、遺書だった。
今日、私は元気で、気分が良いので。
私はあなたと、たくさんの感情、思い出を共有して、今日という日まで生きてこれました。
病人の私に、常に寄り添い、笑顔にしてくれたあなたのお嫁さんでいられたことは、誇りであり、一番の宝物です。
あなたが、これからも笑顔で過ごせることを、心より祈っています。
読んでる途中からずっと涙が止まらなかったが、最後は大声出しながら泣いた。
前を向かなければならない。
そうしないと、彼女に顔向けできなくなる。
だから私は決めた。
常に笑顔でいることを。
今は、まだ無理だ。
それでも、いつか。
笑顔で、お嫁ちゃんのお墓参りができるようになることを。
それを、私の目標にする。
忘れない。
でも、立ち止まらない。
彼女が、私に残してくれた未来を、生きていくために。
愛する貴方と、いつか無くなるかもしれない私 @nemurihime8621
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