第一章

私たちは、二人とも三十五歳だった。

 医者の言葉を聞いたあと、しばらく何も話せなかった。

 しばらく日が経ってお嫁ちゃんは泣いた。

 「これから、できないことが増えるよね」

 「迷惑、かけちゃうよね」

 昨日食べたものを忘れる。

 少し前に話したことを、思い出せない。

 それが、彼女自身をいちばん怖がらせていた。

 「そのうち、二人の思い出も、忘れちゃうのかな」

 私は答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 それから、ノートを一冊作った。

 出会った日のこと。

 初めて手をつないだ日のこと。

 デートで行った場所。

 笑ったこと。

 喧嘩したこと。

 私たちの関係を、ひとつずつ書いた。

 毎日、そのノートを読んだ。

 思っていたより、記憶は安定していた。

 お嫁ちゃんの表情は、少しずつ落ち着いていった。

 「大丈夫だよ」

 そう言って、前よりも強く笑うようになった。

 昔のデートの話も、できた。

 それだけで、十分だった。

 それでも、近い記憶は抜け落ちやすい。

 「忘れてないよ」と言うけれど、

 その声は、少し揺れている。

 忘れられてもいい。

 そのときは、もう一度、初めましてから始めればいい。

 そう思えるようになった。

 今になって思う。

 あの時間は、

 神様がくれた、最後の慈悲だったのかもしれない。

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