第3話:死なないなら、それはノーダメージだ
目が覚めた瞬間、世界は完全に「別物」へ書き換えられていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日の光が、網膜を刺すような情報量となって脳に流れ込んでくる。
階下の住人が漏らす微かな寝息。数ブロック先を走る大型トラックの排気音。壁の裏側を流れる水道水の震動。
昨日まで雑音として聞き流していた全てが、今は鮮明なデータとして処理できる。
劇薬『ヴォイド・ゼロ』が、俺の脳神経さえも強引にアップデートした証拠だ。
ゆっくりと起き上がり、自分の拳を眺める。
肌は白く、一見すれば軟弱な高校生のままだ。
だが、試しに握り込んでみると、指の節々から信じられないほどの反発力が返ってくる。
密度が違う。
これまでの俺の身体が「安物のスポンジ」だとしたら、今の肉体は「高純度の炭素鋼」に等しい。
本来なら、数十年の修練と数億円規模の強化処置を経てようやく到達するはずの領域。
それを、俺はたった一夜。地獄の激痛を対価に、強引に強奪したのだ。
「……ふぅ。時間か」
壁の時計は登校時刻を指している。
鏡に映る俺の瞳は、自分でも驚くほど冷たく、鋭い光を湛えていた。
前世の社畜時代。死ぬ直前のプレゼンで、無理難題を押し付けるクライアントを論理でねじ伏せた時の、あの感覚に近い。
準備は整った。
今日の俺は、昨日までの俺ではない。
◇
通学路。校門まであと数百メートルという地点で、その「熱」は待ち構えていた。
木戸だ。
昨日の取り巻き二人を連れ、道の真ん中でこれ見よがしに掌から火花を散らしている。
周囲の生徒たちは、トラブルに巻き込まれるのを恐れて不気味な空白の中、大きく迂回して通り過ぎていく。
「よお、光石。今日も俺の実践値を上げる相手をしてくれよ」
木戸がニヤつきながら歩み寄ってくる。
その指先には、昨日よりも一層激しい紅蓮の炎が渦巻いていた。
Aランク・火炎操作。エリートとされる階級。
彼にとって、俺をいたぶることは自分の実践値を上げることと、優位性を再確認するための安っぽい娯楽に過ぎない。
「……どけよ、木戸。学校に遅れる」
「あぁ? なんだその態度は。少し体が丈夫だからって、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
木戸の逆鱗に触れたらしい。
彼は迷わず、巨大な火炎の奔流を俺の顔面目掛けて放った。
回避する隙も与えない、近距離からの全力放射。
周囲から短い悲鳴が上がる。
熱波が視界を埋め尽くす。
普通の人間なら、良くて重度の火傷。最悪、一瞬で炭化して絶命する威力。
パチパチと、俺の着ている制服が火を吹き、瞬く間に燃え広がっていく。
ところが。
俺の足は、一歩も引かなかった。
「……熱いな。だが、それだけだ」
激しく燃え上がる炎の中から、俺は平然と言い放った。
木戸が目を見開く。
制服は燃え尽き、上半身は剥き出しの状態。
だが、その下の皮膚は、焼ける端から白銀の光を放って再生していた。
破壊の速度を、再生の速度が完全に上回っている。
熱が肉を焼くたびに、細胞は以前よりもさらに高密度に、熱に強く再構成されていく。
これはもはや「治療」ではない。
敵の攻撃を餌にした「即時進化」だ。
「な、なんだよそれ……! なんで倒れねえんだよ!」
木戸が焦り、二射、三射と火炎を連発する。
俺はその火中に足を踏み入れ、無造作に歩み寄る。
灰となった制服の残骸が宙に舞い、剥き出しになった俺の胸筋は、炎を浴びるたびに神々しいほどの光沢を帯びていく。
火中を悠然と歩く俺の姿は、彼らの目には死神か何かに見えたはずだ。
木戸の取り巻きたちが、腰を抜かして尻餅をついた。
「バケモノかよ……!」
「バケモノ? 失礼だな。これはお前らが笑った、俺の異能の結果だぞ」
俺は炎を突き破り、木戸の喉元を掴み上げた。
Aランクアタッカー。その首筋が、俺の指先でミシミシと悲鳴を上げる。
昨日までの俺なら、触れることすら叶わなかった相手。
それが今は、ゴミ箱に捨てられた空き缶よりも脆く感じる。
「ひ、ひぃっ……! あ、謝る! 悪かった、光石!」
「謝る必要はない。お前の火炎はいい『栄養』になった。……それよりも」
俺は自分の燃え尽きた上半身に視線を落とし、それから木戸の着ている新品の制服を見た。
「お前のせいで俺の服が燃えた。責任は取ってもらうぞ。――それを脱げ」
「え……? あ、うわあああああッ!?」
俺は抵抗する木戸を地面に叩きつけ、無理やり制服の上着を剥ぎ取った。
取り巻きたちが絶叫しながら逃げ出していくが、構わない。
木戸はシャツ一枚になり、地面で震えながら俺を仰ぎ見ている。
「サイズは少し大きいが、まあ筋肉を増やせばいいか。……じゃあな、木戸」
奪った制服を肩にかけ、俺は感情の欠片もない瞳で彼を見送った。
復讐のカタルシスなんて、今の俺には不要だ。
必要なのは、結果。そして、より効率的に、合理的に生き残るための手段だけだ。
◇
その夜。自室の狭い空間で、俺はさらなる地獄に足を踏み入れていた。
テーブルの上には、追加で手に入れた『ヴォイド・ゼロ』の小瓶。
そして、手元には護身用のタクティカル・ナイフ。
「……始めるか」
俺はためらうことなく、ナイフの刃を自分の前腕に突き立てた。
筋肉を裂き、骨に到達する嫌な感触。
脳を突き抜けるような激痛。
だが、俺の心は驚くほど凪いでいた。
前世のブラック企業時代。
三徹目の深夜、指先の感覚が消え、視界が二重になり、内臓が悲鳴を上げていたあの夜。
あの時、俺は「痛覚」を「仕事が終わっていないというアラート」として処理していた。
その狂った適応能力が、今、最悪の形で花開いている。
ザシュッ、とナイフを引き抜く。
即座に【超速再生】が発動。断面から盛り上がる新しい肉が、以前よりも強固な筋繊維を編み上げていく。
そこにすかさず『ヴォイド・ゼロ』を数滴、直接傷口に垂らす。
「――――ッ!!!」
傷が焼け、意識が白濁する。
血管の中にカミソリを流し込まれたような、超高密度の苦痛。
だが、これだ。
この「破壊」と「再生」の衝突こそが、最短ルートで俺を最強へと押し上げる。
壊して、治す。
治して、また壊す。
骨を折り、再生の反動でカルシウムの密度を極限まで高める。
腱を切り、以前よりも強靭なバネへと再編する。
普通の人間なら一度で精神が壊れる行為を、俺は一晩に数百回繰り返した。
死ななければ、それはノーダメージだ。
痛覚はただの「更新通知」に過ぎない。
前世で培った「命を削って成果を出す」という社畜の思考が、異能と融合し、完全に倫理の壁を突破していた。
窓の外は、いつの間にか白み始めている。
音が消えた部屋の中、床に落ちたナイフが血溜まりに沈んでいる。
俺は全身の汗を拭い、奪った木戸の制服に袖を通した。
「……足りない」
この程度では、世界を、あの「機構」を叩き潰すには足りない。
もっと壊さなきゃならない。
もっと、地獄を飲み込まなきゃならない。
光石壮真の狂気は、もはや誰にも止められない。
最弱の回復職。その仮面の下で、人類最強の「盾」が、じわじわとその質量を増していた。
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