第10話「街の契約――嘘で守る“制度”の正体」

 封印の社の前に立つと、空気の密度が変わったのが分かった。山の匂いに混じって、濡れた紙の匂いがする。墨を落とした後の机の匂い。ここに紙はないのに、喉が先に乾く。


 石段の一番上。注連縄の向こう側。苔の色が濃い。誰かが掃除した跡がないという意味じゃない。掃除したら、ここに触れることになる。触れたら、何かが起きると知っているような避け方だ。


 私は手袋を外した。指先が冷える。石は冬のように冷たい。


 封印の周囲の石縁に、文字が刻まれていた。古い。だけど消えていない。消しきれない、と言うほうが正しい。彫り直した痕もある。重ねた文字が、幾層にも見える。


 読むのは危険だ、と頭が言っているのに、目が止まらない。私は取材で、何度もこの感覚を選んできた。危険だからこそ、読む。危険だからこそ、書く。


 口の中の唾が一気に減った。飲み込もうとした瞬間、喉の奥が狭くなる。息が細くなる。言葉を声に出していないのに、身体だけが先に拒んだ。


 それでも、文字は読める。読めてしまう。


 真実。


 血。


 滅び。


 その単語が連なっただけで、胸の奥に小さな痛みが走った。古傷に触れたみたいな痛み。


 私は息を小さく吐いて、指で苔を払った。苔は水を含んでいて、指先にぬめりが残る。


 刻まれた文の一部が、苔の下から出た。


「真実は」


 ここで喉が詰まる。文字を追うだけなのに。頭の中で音にしようとすると、舌が重くなる。


 私は声にしないで、目だけで続けた。


 血を呼ぶ。


 血は街を滅ぼす。


 よって。


 語らせぬ。


 最後の四文字だけ、深い。力を入れて刻んだ跡がある。怒りじゃない。祈りでもない。疲労だ。二度と同じことを繰り返したくない人の、震える手の跡。


 背後で鈴が鳴った。


 乾いた金属音ではない。神社の鈴にしては小さい。生活の中で鳴るサイズだ。駄菓子屋の戸に付いた鈴みたいな音。


 音が鳴った瞬間、耳の奥が軽く圧迫された。目の焦点が一瞬だけずれる。目の前の文字が、ほんの少しだけ違う形に見えた。


 私は瞬きをした。もう一度見ると、同じ文字に戻っている。錯視じゃない。見え方が書き換えられた。音を合図に。


「今のが契約の動きだよ」


 神が言った。いつもの軽さを削った声。演技を捨てた声。


 私は振り返った。神は社の柱にもたれている。影が長い。昼なのに、ここだけ夕方みたいに影が濃い。


「鈴が鳴るたびに、言葉が変換される」


「変換って」


「言い換え。嘘にする」


 神は簡単に言う。簡単に言えるのが、腹立たしい。


「じゃあ、さっきの文字も」


「読んだ人間の喉が詰まるように、設計されてる」


 設計、という言葉が引っかかった。偶然じゃない。自然現象じゃない。作った。誰かが。


「誰が」


 神はすぐに答えない。沈黙が短い。短いのに、刺さる。私がここで欲しがっているのが答えだと分かっていて、あえて置いている沈黙。


「街」


 神は言った。


「正確には、街に残った人間たち」


 喫茶店主が社の横から出てきた。足取りがいつもより重い。片手に布巾を握っている。店を閉める準備の途中で、ここへ来たのだろう。布巾の端が湿っていて、手のひらに張り付いている。


 店主は私を見ない。石の文字だけを見ていた。


「読むなって言ったのに」


 店主が小さく言う。


「読めてしまうんです」


 私は言った。言った瞬間、喉がまた狭くなる。読むだけでこうなるなら、語るのはどれだけ危険なんだ。


 店主は布巾を握り直した。


「ここから先は、昔の話になります」


 私は頷いた。頷くだけで、胸が少し軽くなる。言葉よりも楽だ。


「この街は、一度、真実で壊れた」


 店主はそう言った。


 私は眉をひそめた。言い方が妙だった。真実が壊した。人が壊した、じゃない。真実で壊れた。


「事件があったんですか」


「事件、というより」


 店主は言葉を探す。言葉を探す動きが、ここでは危険に見える。言葉が見つかった瞬間、喉が詰まるかもしれない。


「事故があった」


 店主はようやく言った。


「最初は事故だった。誰のせいでもない。そういう話だった」


 そういう話。つまり、そういう話にした、ということ。


「でも、町は小さい。狭い。誰かの不運は、誰かの生活に乗る」


 店主は社の柱を撫でた。撫でる指が少し震えている。


「事故のあと、商売が落ちた家があった。噂が増えた。責任の所在を求める声が出た。みんな、生活が苦しくなったとき、説明が欲しくなる」


 説明。理由。犯人。私は何度も見てきた。理由があると、納得できる気がする。納得できる気がすると、前に進める気がする。


「そのとき、真実を調べた人間がいた」


 店主は一度、私を見た。目が細い。責める目じゃない。ただ、確かめる目。


「外から来た記者だった。あなたみたいに、正しい人だった」


 私の背中が少し冷えた。正しい、という言葉が今は褒め言葉に聞こえない。


「記者は事実を掘った。関係者を探した。古い資料を集めた。町の人間が隠したことも、拾った」


 店主の声は淡々としている。淡々としているのに、音が重い。重いものを運ぶような声。


「記事が出た。正しい記事だった」


 私は息を吸った。喉が狭いのに、無理に入れた。肺が痛い。


「何が起きた」


 私は聞いた。短く。


 店主は少しだけ視線を下げた。


「正しい怒りが燃えた」


 それは、最初は必要だったのかもしれない。隠蔽されたことがあるなら、怒りは正しい。冤罪があったなら、怒りは正しい。事故を事故じゃなくしたなら、怒りは正しい。


「怒りが燃えて、真実が広がって、関係者が洗い出された」


 店主は言う。


「関係者の家族も洗い出された。関係者の関係者まで洗い出された」


 私は頭の中で、地図を描いた。狭い町の中に、線が伸びる。一本だった線が、枝分かれして網になる。逃げ場のない網。


「誰がどこまで責任を負うかの競争になった」


 店主の手が布巾を握り潰す。布が鳴る。湿った布が擦れる音。


「正しい側が、より正しくあろうとする。正しい側同士で、どっちが正しいかを争う。真実の扱い方じゃなく、正しさの優劣で」


 私は咽の奥が痛くなった。あのときの私が、同じことをしていた気がして。


「家族が割れた」


 店主は続ける。


「親が子を責めた。子が親を責めた。夫婦が割れた。店が潰れた。商店街が潰れた」


 シャッター商店街の光景が頭に重なる。ここは最初からこうだったわけじゃない。この姿になった。


「人が去った」


 店主の声が少しだけ掠れた。


「残った人間は、疲れた人間だけだった」


 私は足元の石を見た。苔の匂いが濃い。湿った匂いは、血の匂いにも似ている。似ているのが嫌だった。


「それで、契約を」


「祈ったんです」


 店主が言った。


「忘れたい。責め合いたくない。生き直したい」


 神が目を伏せた。伏せ方が、人間の後悔に似ている。


「その総意が、俺を産んだ」


 神は言った。声が軽くならない。


「忘却の総意。人の弱さの総意」


 私は言葉を飲み込んだ。飲み込んで、喉が痛い。言葉を出せば、ここでは誰かが死ぬ。だからではない。言葉がそのまま刃になると分かったからだ。


「誇らしくないの」


 私が聞くと、神は肩をすくめた。


「誇れるわけないだろ。俺は人間の弱さの産物だ」


 神は笑おうとして、やめた。笑い方を忘れたみたいな顔になる。


「でも、必要だった」


 その言葉に、店主が小さく頷いた。


 私の中で、二つの感覚がぶつかった。弱さを守る制度が必要なこと。弱さを守る制度が弱者を潰すことがあること。どちらも嘘じゃない。


 足音がした。複数。石段を上がってくる音。硬い靴底。急がない歩き方。急がないのに、止められない歩き方。


 町内会の幹部が現れた。先頭の男は、商店街で何度か見たことがある。いつも穏やかに挨拶をしていた。穏やかな顔のまま、ここに立っている。


「ここにいると思った」


 男は私に言う。声が低い。怒鳴らない。怒鳴らないから怖い。


「説明は聞いたか」


 私は答えなかった。答えると、言葉が増える。増えると危ない。私は頷きだけで済ませた。


 男は神を見る。


「外の人間に、どこまで話す」


「必要な分だけ」


 神が言う。


「必要な分だけ、って言い方が嫌いだな」


 男は言った。嫌悪というより、皮肉に近い。


「お前はいつも、必要な分だけで人を縛る」


 神が笑った。短い笑い。


「縛ってるのは俺じゃない。契約だろ」


 男は視線を私に戻す。


「我々は管理している」


 男は言った。


「支配ではない。運用だ」


 運用。制度の言葉。言い訳にも聞こえる。だけど、現実の言葉でもある。


「運用の目的は」


 私が聞くと、男は即答した。


「再発防止だ」


「再発」


「真実で街が壊れること」


 男は淡々と言う。淡々と言えることが、胸の奥に刺さる。これを何度も言ってきたのだろう。何度も正当化してきたのだろう。何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。


「だから、語らせない」


 男は続ける。


「語らせなければ、血は呼ばれない。血が呼ばれなければ、生活は続く」


 生活。ここまでずっと、生活が出てくる。真実の話なのに、生活の話になる。そうしないと、嘘っぽくなる。


「でも」


 私は言った。短く。喉が乾く。


「沈黙は、弱者を救うふりをして、加害者を温存する」


 第五話の母子の顔が浮かぶ。夜の逃走。嘘の転居理由。母の小さな声。


 男の目が、少しだけ揺れた。揺れたのは、反論を探したからじゃない。理解しているからだ。


「加害者を温存するのは、運用の欠陥だ」


 男は言った。


「だが、真実で壊れるのも、まず弱者だ」


 同じ言葉が戻ってくる。逃げ道のない構造。


「誰のための秩序だ」


 私は聞いた。


 男は一拍置いた。短いが、慎重な沈黙。


「街のためだ」


「個人は」


「切り捨てられることもある」


 男は言う。冷たい。だけど、冷たいことを冷たいまま言うのは、誠実でもある。


「切り捨てた人間の生活はどうする」


 私が問うと、男は視線を外した。外した先は、社の文字だった。


「切り捨てた結果、街が生き延びた」


 男は言った。


「それが現実だ」


 私は言葉を失いかけた。反論は簡単だ。個人を切り捨てて生き延びる街は正しいのか。でも、それを言った瞬間、私はまた正しさの競争に入る。


 私は息を整えようとした。整えようとする息が、うまく整わない。ここは息が入りにくい。


 神が私の横に立った。距離が近い。近いのに、暖かくない。暖かさがないのに、妙に安心するのが嫌だった。


「言うなよ」


 神が小さく言う。


「何を」


「正しいこと全部」


 神は私を見ないで言った。


「全部言うと、君も燃える」


 燃える、という単語が、皮膚に熱を走らせた。燃えるのは相手だけじゃない。語る側も燃える。


 町内会の男が、私のスマホを見た。視線が一瞬で終わる。情報の取り方に慣れている人間の視線。


「外へ持ち出そうとするな」


 男が言った。


「この街の外の空気は、ここより軽い。軽いから、よく燃える」


 軽いから燃える。そうだ。ネットの空気は軽い。軽い言葉が飛び交う。軽い言葉が重い人を落とす。


「外の人間は、受け取り方を知らない」


 男は言った。


「受け取り方を知らない人間に、重い真実を渡せば、誰かが死ぬ」


 私は喫茶店主の言葉を思い出した。受け取れる人は優しい人じゃない。境界線が引ける人。


「だから、ここで止める」


 男が言った。


 止める方法は、暴力だけじゃない。仕事を回さない。居場所を削る。生活を締め上げる。私は第七話で見た。あのときの町内会の幹部の顔が重なる。恐怖が論理に化けていた。


「恐れてるんですね」


 私が言うと、男は否定しなかった。


「恐れている」


 男は言った。


「恐れは、経験から来る」


 経験。店主が語った過去。焦土。ここは一度燃えた。


 私は石の文字を見る。真実は血を呼ぶ。血は街を滅ぼす。よって語らせぬ。疲れた手の跡。


「じゃあ、弱者はどうすればいい」


 私は言った。


「語らずに逃げろ、で終わりか」


 男は口を閉じた。閉じたまま、答えない。答えがないのだろう。


 神が口を開いた。


「終わりじゃない」


 神は言う。


「終わらせないための運用だ」


「運用で救われない人がいる」


 私が言うと、神は小さく笑った。


「救うって言葉、嫌いなんだよ」


 第九話の包帯の手つきを思い出す。丁寧すぎる手つき。


「死なせたくない。それだけ」


 神はそう言った。言い切ると、鈴が鳴った。鳴ったのは神が鳴らしたんじゃない。社の奥のどこか。契約が反応した音。


 私は肩をすくめるように息を吐いた。息が白い気がした。白くはない。そう見えるくらい、冷たく感じた。


 そのとき、封印の隙間から声がした。


「真琴さん」


 写真家の声だ。掠れている。掠れているのに、届く。


 私は封印の石へ近づいた。足元の苔が滑る。手をつこうとして、手を引っ込める。触れたら、契約が動く。


「ここにいるの」


 私は言った。声が震えているのが分かった。感情語を言わなくても、声が勝手に出す。


「いるよ」


 写真家が言う。


「暗いけど、いる。呼吸はある」


 呼吸。生活の言葉。生きている。


「俺は真実を受け取った」


 写真家は続けた。


「受け取った。でも、燃えてない」


 封印の中の声は、笑いを含んでいない。勝利の声ではない。観察の声だ。


「燃えてるのは街だ」


 その一言が、空気を変えた。町内会の男の顔が硬くなる。怖い。怖いから怒る。怒るから運用が冷酷になる。私はその流れを見た。


 神の指がわずかに動いた。指先が白くなる。自分でも気づいていない緊張。


「お前」


 町内会の男が封印に向かって言いかけて、喉を押さえた。契約が動いた。鈴が鳴った。男の言葉が、別の形に変わったのが分かった。言おうとした内容が、口の中で溶けた。


 男は言葉を捨てた。言葉を捨てて、目で脅す。目で脅すのは契約の外だ。言葉じゃないから。


「燃えてるのは街だって、どういう意味」


 私は写真家に聞いた。


 写真家は一度、息を吐いた。封印の奥からの息は、湿って聞こえた。


「この街は、真実を受け取った瞬間に、自分で自分を殺しにかかる」


 写真家が言う。


「契約が、受け取り手の喉を裂こうとする。受け取った人間を殺して、真実を無かったことにする」


 私は目の前の文字を見る。語らせぬ。語らせなければ血は呼ばれない。そのためなら、受け取り手を殺す。それが運用の極致。


「俺が燃えてないのは」


 写真家が続ける。


「俺が器だからじゃない。ここに、聞いてる人がいるからだ」


 私は息を止めた。共同で抱える。第九話で私が口にした言葉が、実際の形になった。


「ひとりで抱えたら、俺も燃えてた」


 写真家が言う。


「ここにいる誰かが、俺の代わりに一部を持ってる。だから俺は壊れない」


 私は神を見る。神は封印を見たまま動かない。表情が読めない。読めないのに、揺れているのが分かる。


 揺れは弱点だ。私はその弱点に、救いの匂いを嗅いだ。匂いがしただけで、胸が苦しくなる。救い、という言葉がここでは危険だ。


「聞いたか」


 私が神に言うと、神は小さく頷いた。


「聞いた」


「それでも、器は作れないって言うの」


 神は目を細めた。


「器を作る、って言い方が嫌いだって言っただろ」


「じゃあ何」


「設計だ」


 神が言った。短い。刃がある。


「共同で抱える設計」


 私は喫茶店主の三つのルールを思い出す。断罪の材料にしない。生活の次の一手だけ決める。背負いすぎない仕組みを作る。


「設計なら」


 私は言った。


「作れる」


 町内会の男が顔をしかめた。恐怖が走る顔だ。恐怖が走ると、運用は固くなる。固くなると、弱者が潰れる。だから私は、次の言葉を慎重に選んだ。


「壊すためじゃない」


 私は言う。


「燃やすためじゃない。生活を続けるため」


 それでも、喉が乾く。言葉は危険だ。言葉は燃料だ。


 男が言った。


「外の人間に、そんな設計ができるのか」


 挑発じゃない。疑問だ。疑問の形をした恐れだ。


 私は答える前に、息を吸った。吸うと喉が痛い。痛いのに吸う。吸わないと、言葉が出ない。


「できるかどうかは」


 私は言った。


「やってみないと分からない」


 写真家が封印の中で笑った。短い笑い。明るくない笑い。


「それだよ」


 写真家が言う。


「正しいかどうかじゃない。やるかどうか」


 その言葉に、私は胸が少しだけ熱くなるのを感じた。熱くなるのは危険だ。熱は燃える。


 神が私の横で小さく言った。


「聞こえたな」


「何が」


「君が、また燃えようとしてる音」


 私は返せなかった。返せないのが答えだ。


 喫茶店主が一歩前に出た。布巾を握った手が、少しだけ上がる。


「この街は、運用で生き延びた。でも、その運用で殺された人もいる」


 店主が言った。声が震えていないのが怖い。震えないのは、覚悟の声だ。


「だから、もう一度だけ、やり直す必要がある」


 町内会の男が唇を噛んだ。噛むと、顔が少し歪む。人間の歪みだ。ここまで冷たい言葉を使ってきたのに、結局人間の顔になる。


「やり直せば、また燃える」


 男が言う。


「また死者が出る」


 神が言った。


「死者は出る」


 男が驚いた顔をした。私も少し驚いた。神はいつも死なせたくないと言っていた。なのに、死者は出ると言った。


 神は続けた。


「出る可能性はゼロにならない。ゼロにしようとするから、運用が冷酷になる」


 私は息を止めた。言葉が、胸に落ちる。私がいつも欲しがっていたのは、ゼロだった。正しさでゼロにしたかった。被害をゼロにしたかった。犠牲をゼロにしたかった。だから刃になった。


「だから、話す」


 神が言う。


「最初の相談者の話をする」


 私は神を見る。神の目は笑っていない。笑っていないのに、柔らかい。


 町内会の男が言った。


「そんなものを話したら」


 鈴が鳴った。男の言葉が途中で止まる。契約が止める。契約は、ここでも働く。


「契約が止める、か」


 私が言うと、神は首を傾げた。


「止めるのは契約だけじゃない」


 神は言った。


「君の喉も止める」


 私は喉に手を当てた。乾いている。脈が早い。自分が興奮しているのが分かる。語る側の興奮。真実で生きている者の興奮。


「真琴」


 神が私の名前を呼んだ。名前を呼ばれると、身体が少しだけ静かになる。


「君はそれを受け取っても、生きていられるか」


 写真家の声が封印の中から重なる。


「受け取ったら、人生ごと抱えることになる」


 私は答えを探した。答えは見つからない。見つからないけれど、ここまで来て、引けないのも分かっている。引けないのが依存だと神は言った。依存だとしても、私はまだ真実を手放せない。


 私は短く言った。


「ひとりじゃない」


 神は一瞬だけ目を細めた。笑う寸前の顔。でも笑わない。


「その言葉、信じたいな」


 神が言う。


 町内会の男が呟いた。呟きは契約の外だと思っているように、息だけで落とす。


「信じるから、燃えるんだ」


 私はその言葉を聞いて、胸が痛んだ。痛むのは、生きている証拠だ。


 神が封印に手を触れようとして、止めた。触れたら、契約が動く。契約が動けば、言葉が変換される。最初の相談者の話は、契約の中心に触れる。中心に触れれば、誰かが死ぬかもしれない。


 神は手を下ろして言った。


「夜にする」


「なぜ」


「人が集まるから」


 神の言い方は淡々としている。淡々としているのに、刃がある。人が集まるのは、共同で抱えるため。分散するため。受け取り手を複数にするため。


「集会を開く」


 私が言うと、神は頷いた。


「聞く側のルールを先に置け」


 神が言う。


「断罪禁止。拡散禁止。今夜決めるのは生活の一手だけ」


 私は息を吐いた。喉が痛い。痛いのに、少しだけ希望が混じるのが分かった。希望は危険だ。希望は人を燃やす。


 写真家が封印の中で言った。


「真琴さん」


「何」


「ここに、あなたの名前が刻まれてる」


 私は背中が冷えた。冷えたのは恐怖だけじゃない。過去がここに来た。街が私の過去を知っている。その気配が、冷えとして出た。


「嘘だろ」


 私は言った。言った瞬間、喉が狭くなる。否定した言葉が、契約に触れた気がした。


 鈴が鳴った。遠い鈴。社の奥。契約が反応した音。


 神が私を見た。


「嘘じゃない」


 神は言った。短い。刺さる。


「だから話す」


 私は唇を噛んだ。血の味がしそうで怖かった。血は街を滅ぼす。よって語らせぬ。刻まれた疲労の文字。


 私は言った。


「聞く」


 神が頷いた。頷き方が、妙に丁寧だった。丁寧な所作が、生活の人間のものに見えるのが嫌だった。神は人じゃない。なのに、人の弱さから生まれた。


 町内会の男が一歩下がった。下がるのは撤退だ。撤退は敗北じゃない、と神は言っていた。撤退は運用だ。生きるための動きだ。


 男は言った。


「死者が出たら、責任は誰が取る」


 私は答えられなかった。責任という言葉が、私の胸を刺した。責任は人を殺す、と神が言った声が、耳の奥で鳴る。


 神が男に言った。


「責任は分散する」


 男が眉をひそめる。


「そんな都合のいい」


「都合のいい仕組みを作るんだよ」


 神は言った。


「都合の悪いものを、ひとりに押し付けるのが、今までの運用だった」


 私はその言葉に、遺族の姉の声を重ねた。救われなかった人の分の責任は誰が持つの。私がひとりで持とうとして、ひとりで燃えた。


 封印の中で、写真家が低く言った。


「早く」


 その一言が、今の現実だった。理屈の前に、呼吸がある。生活がある。生きている人が、暗い場所で待っている。


 私は頷いた。頷きながら、自分の喉に触れた。乾いている。詰まりやすい。だけど、今日はまだ声が出る。


 神が最後に言った。


「最初の相談者の話をする」


 神は一拍置いた。


「ただし、真琴」


 私の名前が呼ばれると、また身体が静かになる。名前は錨だ。


「君はそれを受け取っても、生きていられるか」


 私は答えを探して、見つからないまま、言った。


「生きるために、聞く」


 それが私の今の真実だった。重い。喉を裂きそうな重さ。でも、今はまだ、吐き出せる。


 鈴が鳴った。今度は、私の耳のすぐ近くで鳴った気がした。契約が、私の言葉を聞いている。私の喉を見ている。


 私は息を吸った。痛い。痛いまま、前に進んだ。

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