第9話「真実の重さ――死の閾値」
神社の裏手へ回る道は、昼でも夕方みたいな色をしていた。木が密で、光がまっすぐ落ちない。落ちた光は苔に吸われて、足元に残らない。歩くほど、空気が湿っていく。
喉が詰まる。息が胸の上で止まり、肺の底まで届かない。唾を飲み込もうとして、喉仏が動く前に引っかかる。私は口の中を舌で確かめた。乾いてはいない。乾いていないのに、飲めない。
それがこの街の異常だと、もう分かっている。怖いという言葉に頼りたくない。代わりに自分の身体の変化を数える。手の甲が少し粟立つ。指先が冷える。首筋に汗が浮く。歩いていないのに、息だけが早い。
先を歩く喫茶店主の背中が、いつもより小さく見える。店主は振り返らない。振り返らないのは、優しさじゃない。振り返って目が合うと、いまさら引き返せなくなるからだろう。
私の横に、神がいる。神は歩く音がしない。枯れ葉の上を踏んでも、葉が割れる音がしない。音がしないから、時々私は神がいるか確かめる。確かめるたびに、神はそこにいる。そこにいるのに、人じゃない。
「ここだ」
店主が足を止めた。目の前に、古い石段がある。苔がつき、端が丸く削れている。石段を上ると、さらに奥へ続く細い道が見えた。道の先は暗い。暗いのに、息が冷える。
「封印は、その奥。社の裏だ」
店主の声は低い。低い声は、喉を守る声だ。声を大きくすると、この街では何かが起きる。そういう経験則が、店主の身体に染みている。
私は頷いた。頷くと首の筋が少し痛い。息が浅いせいで、首だけが固くなる。
同行した住民が二人いる。町内会の幹部ではない。表に立つ人間ではなく、いつも商店街の端で仕事を回しているタイプの人だ。顔見知りになってしまった人たち。関わっただけで壊れる、と言いながら、関わってくれている人たち。
そのうちの一人が、石段の前で立ち止まり、口を開いた。中年の男性。手の指が太く、爪の間に黒い汚れが残っている。仕事で落ちない汚れだ。
「あの年のことを……」
言いかけた瞬間に、男性の膝が崩れた。落ちる、というより、床が抜けたみたいに体が沈んだ。私は反射で手を伸ばした。腕を掴む。腕の筋肉が硬い。硬いのに力が抜ける。
「大丈夫ですか」
声が出た。声が出た瞬間、喉がさらに詰まる。詰まるのは、自分の声がこの場の空気を刺激したからだと感じる。理屈じゃない。皮膚の感覚だ。
男性は目を見開いているのに、声が出ない。唇が動く。唇だけが言葉の形を作る。声は出ないのに、何かが漏れそうになる。言葉だけが、口の外へ出たがっているように見える。音のない叫び。私は背中が冷えた。
医療の発作みたいに見える。けれど違う。発作なら、痛みの顔になる。苦しみの顔になる。男性の顔は、痛みより、言葉に引っ張られている顔だ。喉の奥が別の手で掴まれている顔。
神が一歩近づいた。神の手に鈴がある。小さな鈴。第何話目からか、私はその鈴の音を聞くたびに、胸が冷えるようになった。
鈴が鳴った。
音は高くて短い。短いのに、空気が一瞬だけ薄くなった。薄くなって、すぐ戻る。戻った空気の中で、男性の唇の動きが止まる。止まった途端、男性の肩が上下し、息が入る。荒い息。現実の呼吸。
私は腕を支えたまま、神を見た。
「救ってるの」
声がかすれた。かすれるのは、喉が締まっているからだ。締まっているのに、言葉を吐き出したい。
「それとも、殺してるの」
神は私を見返さない。男性の脈を指で確かめ、頷く。手首に触れる指先が冷たい。冷たいのに丁寧だ。
「言ったね」
神が言った。さっきと同じだ。言った、という判定。言葉を口に出しただけで、命が揺れる。
「もう遅い。今のは止めた。次は止まらない」
「止めたって何」
私は男性の肩を抱え、地面に座らせた。男性の目がこちらを見る。目は怯えている。怯えは私へ向いているわけじゃない。自分の喉へ向いている。言葉を持っていることが怖い人の目。
店主が小さく首を振った。声を出すな、と言っている。でも私は今、声を出さずにいられない。声を出すことが、私の癖だ。声を出すことで、私は正義に立てる。正義に立てると、痛みが遠ざかる。遠ざけたい。遠ざけたら、また人が死ぬ。
私は歯を食いしばった。声の代わりに息を吐く。吐く息が細い。細い息のまま、神へ言葉を投げる。
「これが、真実の連鎖死ってこと」
神がようやく私を見る。目が薄い。薄い目は、感情がない目ではない。感情を見せないために薄くしている目だ。
「そう」
神が言った。
「真実には重さがある」
その言葉を聞いた瞬間、私は前に言われたことを思い出した。喫茶店主の言葉。真実の摂取量。飲める量と、喉を裂く量。
「軽い真実は飲める。重い真実は喉を裂く」
神が続ける。声は静かだ。静かだから、こちらの身体の反応が際立つ。私は唾を飲み込めないまま、喉を押さえた。
「君の世界でも同じだろ」
神は言った。
「暴露は正しい。でも受け取り手は燃える」
燃える、という言葉が、私の中で過去記事のコメント欄の温度と繋がる。正しさが増えるほど、火力が上がる。火力が上がるほど、燃えるものが増える。燃えるものが増えるほど、関係ない人が巻き込まれる。
姉の淡々とした声が、胸の奥で鳴った。弟は正しさが好きだった。だから正しさに殺された。
私は男性の肩に手を置いた。震えている。震えは寒さじゃない。喉が握られた記憶の震えだ。
「じゃあ、あなたの嘘は何」
私は言った。
「重い真実を、飲めるようにする薬だって言うの」
神は鈴を指先で転がした。鈴の金属が光を拾って、薄い光が揺れる。
「嘘の処方だ」
神は言う。
「重い真実は分割する」
短く言う。短い言葉は、処方箋みたいに冷たい。
「一度に全貌を飲ませない。細くして、喉に通る形にする」
神の声が、危機管理の声に聞こえるのが嫌だった。理屈として成立している。成立しているから、反論しにくい。
「受け取り手は複数にする」
神が続ける。
「一人に抱えさせるな。共同で抱えろ」
共同で抱える。私はそれを言い始めたばかりだ。神はそれを、すでに知っている。知っていて、やっている。やっているのに、街は支配されている。
「結論を断罪にしない」
神が言う。
「修復の手順へ落とす。生活を戻すための一手にする」
生活を戻す。私はそれを聞いて、喫茶店主の店の床の音を思い出した。椅子の脚が擦れる音。レジの音。生活の音は人を救う。救う、という言葉が嫌いだと言っていた神が、生活の言葉を使う。
私は腹の底が冷えた。冷えたのは、神の言葉が正しいからじゃない。正しいのに、神のやり方が、私には支配に見えるからだ。
「分割して、分散して、修復へ落とす」
私は繰り返した。声が小さい。小さい声は、私の中で噛み砕く声だ。
「それで、この街は何を守ってるの」
神は答えない。答えない沈黙がある。沈黙はこの街の武器だ。沈黙は暴力にも慈悲にもなる。私はその両方をもう知っている。
店主が口を開いた。
「真琴さん」
声が震えている。震えは怖さだ。怖さを責めない。
「先に行くなら、そいつを休ませろ。今は、喉が裂けかけてる」
私は男性の顔を見る。男性は目を閉じて、息を整えようとしている。息が整わない。喉が動くたび、恐怖で喉が締まる。恐怖が喉を締める。この街の異常は、身体で成立している。
「分かった」
私は言った。男性を店主に預ける。店主は男性の背中に手を当て、呼吸のリズムを合わせる。優しさではない。技術だ。受け取る訓練。境界線。背負いすぎない仕組み。
私は石段へ足を向けた。踏み出すと、足の裏が冷える。冷えるのに汗が出る。汗は額に浮かび、目に入りそうになる。目が痛い。痛いのに、拭う余裕がない。
石段を上るたび、足首が重くなる。重さは筋肉じゃない。重さは空気だ。空気が足首に絡み、引き留める。引き留められているのに、前へ進む。進むたび、喉が鳴る。鳴る音が、自分のものじゃないみたいに遠い。
社の裏に出た。木造の小さな社だ。屋根の下に影が溜まり、影の中で何かが息をしている気配がある。気配だけで、姿は見えない。見えないのに、視線が集まる。
町内会の若手が、少し遅れて追いついてきた。顔色が悪い。青白い。怒りより先に、恐怖が立っている顔だ。
「もうやめてください」
若手は言った。声が掠れている。掠れは怒鳴り慣れていない人の声だ。
「ここまでやったら、戻れなくなる」
戻れない、という言葉に、私は反射で立ち止まった。戻れない場所を、私はいくつも知っている。記事を出した後の夜。コメント欄を閉じた後の朝。遺族の顔を見た後の帰り道。
「戻れないのは、もう分かってる」
私は言った。声は大きくない。大きくすると、喉が裂ける。
「だから、ここで止めるなら、理由を言って」
若手は唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。言葉を飲み込む癖の人だ。
「真実を共有したら」
若手が言う。
「責任の押し付け合いが始まる。誰が悪いか、誰が許されるか、誰が一番苦しんだか。競争になる」
競争、という言葉が、空気を切る。切られた空気が冷える。
「最初に死ぬのは」
若手は言葉を止めた。止めたのは、優しさじゃない。止めないと、喉が裂けるからだ。
「弱い人だ」
私は目を閉じた。目を閉じると、視界が白くなる。白くなるのは、涙じゃない。血が引く感覚だ。
「だから、黙らせる」
若手が続ける。
「黙ってもらう。生活を守るために」
生活、という言葉が出た瞬間、神が一歩前に出た。足音はない。なのに、空気が動く。
「それは沈黙の強制だ」
神が言った。
「沈黙は薬にもなる。だが、量を間違えると毒だ」
若手が神を見る。神を見る目は、人を見る目じゃない。異物を見る目だ。異物は排除するか、封じる。
「だから封じてる」
若手が言う。
「ここに。社の奥に。真実ごと」
言った瞬間、若手の目が揺れた。揺れは迷いだ。迷いは、壊れやすい。
次の瞬間、若手が動いた。速い動きじゃない。必死な動きだ。私の肩を押す。倒れる。背中が石に当たる。息が抜ける。
若手の手が、私の口を塞ぐ。口の中に、若手の手の匂いが入る。汗と鉄の匂い。息が入らない。視界が狭まる。耳鳴りがする。
言葉を奪う、という行為が、こんなに直接的だとは思わなかった。記事で奪う言葉。制度で奪う言葉。どれも間接的だった。これは直接だ。生理だ。
神が若手の腕を払った。払う動作は小さい。小さいのに、若手の体が弾かれる。弾かれて、若手は尻餅をつく。
私は咳き込んだ。喉が痛い。痛みは、まだ生きている証拠だ。
若手は泣いていた。泣いているのに、声が出ない。声が出ない泣き方。恐怖が先に立つ泣き方。
「連鎖する」
若手が絞り出すように言った。
「一人が言えば、次も言う。次も言う。止まらない。止まらなくて、みんな壊れる」
私は地面に手をついた。手のひらが冷たい。石の冷たさだ。
「だから、封じる」
若手は繰り返した。
神が若手を見る。その目に、怒りはない。怒りより、疲労がある。長く見てきた人の目だ。
「恐怖が理由なら」
神が言った。
「それは理解できる」
理解できる、と言われて、若手の肩が少し落ちた。理解は、救いになる。救いになるから、危険だ。
神は私に向き直った。
「真琴」
名前を呼ばれる。名前で呼ばれると、逃げ場がなくなる。
「ここから先は、重い」
神が言う。
「君のやり方でも、死ぬ可能性がある」
私は喉を押さえた。押さえても、詰まりは消えない。
「それでも、やる」
私は言った。声は震えている。震えは決意じゃない。興奮だ。神が言った通りだ。私は真実で生きている。
「なら」
神が言った。
「条件がある」
「何」
「一人で抱えるな」
神の声が低い。
「ここで語る真実は、分割する。受け取る人間を、決める。断罪はしない。今夜決めるのは、生活の一手だけだ」
私は頷いた。頷くと、首が痛い。痛みは、制限の印だ。
社の裏手に回る。古い扉がある。鍵はない。鍵がないことが、ここが契約だという証拠だ。契約は鍵を必要としない。
扉の隙間から、声がした。
「真琴さん」
声は、聞き覚えがある。
「ここに、あなたの名前がある」
写真家の声だ。掠れている。掠れは、長く喋れない喉の声だ。
私は扉に手を伸ばした。手が震える。震えは止まらない。止めない。
「中に何がある」
私は聞いた。
「名簿」
写真家が言う。
「契約者の名簿。過去と現在の」
喫茶店主が私の横に立った。手が震えている。震えは恐怖だ。
「真琴さん」
店主が言う。
「開けたら、戻れない」
私は店主を見る。店主の目は、生活の目だ。戻れない場所を知っている目。
「戻らない」
私は言った。
神が鈴を鳴らさなかった。鳴らさない選択。選択が、ここにある。
私は扉を押した。
中は暗い。暗いのに、白いものが見える。名簿だ。古い紙。紙の端が擦り切れている。名前が並んでいる。並び方に、序列はない。古い名前と新しい名前が、同じ列にある。
私は目を凝らした。凝らすと、視界が一瞬白く飛ぶ。飛んで戻る。その繰り返し。
そこに、私の名前があった。
真琴。
フルネームで、刻まれている。
喉が鳴る。音が出ない。出ない音が、胸を叩く。
「いつから」
私は聞いた。
「君が、人を殺した日から」
神が言った。
殺した、という言葉が、私の中で反射しなかった。反射しないのは、もう知っているからだ。
「あなたは」
私は神を見る。
「最初の相談者を、私だと言わなかった」
「言えば、君は壊れた」
神が言う。
「壊れたら、ここまで来なかった」
私は名簿から目を離せない。離すと、視界が崩れそうだ。
「私は」
私は言葉を探す。探して、見つからない。
「それでも、語る」
神が目を細めた。
「語るなら」
神が言う。
「受け取る器を、ここで示せ」
私は深く息を吸おうとした。吸えない。吸えないまま、息を吐く。
「一人で抱えない」
私は言った。
「分割する。分散する。断罪しない」
声は震えている。震えていても、言う。
「ここで語るのは、全貌じゃない。生活を戻すための一手だけ」
沈黙が落ちた。沈黙は重い。重いのに、今回は裂けない。
神が一歩下がった。
「続けなさい」
私は名簿を閉じた。閉じる音が、小さく鳴る。生活の音だ。
「この街は」
私は言った。
「真実で人を殺す。でも、真実なしでも人は死ぬ」
言葉が、喉を通る。痛い。痛いけど、裂けない。
「だから、やり方を変える」
誰も反論しない。反論できない空気じゃない。考えている空気だ。
私は初めて、この街で、沈黙が刃じゃないと感じた。
刃は、これから振るわれる。
それが、私の仕事だ。
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