第8話「あなたの真実で、人が死んだ」
夜の部屋は、画面の光だけが浮いていた。机の上に置いたカップの縁が白く反射して、少し汚れているのが見える。洗えばいいのに、洗う気力が湧かない。指先が冷えていて、マウスを握るときに力が入りすぎる。
検索窓に、自分の名前を打つ。
過去の自分を探す行為が、こんなに手間のかかるものだとは思っていなかった。ヒットした記事は、まとめサイトに切り取られ、引用され、短くされている。どれも私の文章なのに、私の手から離れたものに見える。文章が勝手に歩く。歩いて、誰かの生活に入り込む。入り込んだ先で、何かを壊す。
アーカイブのページに辿りついた。日付が出る。数年前。事件名。関係者名。私は一度、息を吐いた。吐いたはずなのに、胸の奥が軽くならない。
タイトルは、正しかった。
誰にでも分かる言葉を選んで、誤解の余地を減らして、事実を並べた。守るべき人の側に立つ、と当時の私は自分で信じていた。信じていたから、書けた。
スクロールを指先で少し下げる。画面の文字が動く。動いた途端、私の指が止まる。止まったのは、怖いからじゃない。身体が先に拒んだ。読みたくないのに、読まなければならない。
私はもう一度スクロールを戻した。戻す動きが小刻みになる。確認したいのに、確認すると刺さる。刺さるのを避けるように、画面の上を行ったり来たりする。自分の指の迷いが、画面にそのまま出る。
文面も、正しかった。
引用元、関係者の証言、録音、資料の番号。誰が見ても否定しにくいように組んだ。反論されても揺れない柱を立てた。柱が立てば、真実は倒れない。倒れない真実が、人を救う。そう思っていた。
でも。
読み返すほどに、刃の形が見える。
断罪の言葉は使っていない。感情的な形容も控えている。淡々とした事実の列。それなのに、文章の順番が、読者の怒りの順番と同じになっている。読者が何に腹を立て、どこで拳を握り、どこで相手を許せなくなるか。それを先回りして、段落を置いている。
私は、怒りを設計していた。
喉の奥が乾く。唾を飲み込むとき、少し痛い。痛いのは、今でも身体が正しく反応しているからだと思いたい。痛みが消えたら、私はまた同じことをする。
スマホが机の上で震えた。画面に表示された名前は、知らない番号だった。知らない番号が、最近は怖い。怖いのに、出ないわけにもいかない。出ないと、また誰かの生活が締め上げられる気がする。根拠はないのに、そう思ってしまう。
「もしもし」
声が少し擦れた。水を飲むべきなのに、飲むと胃が重くなる気がして、飲めない。
「……あなたが、真琴さんですか」
女性の声。落ち着いている。落ち着いているからこそ、背筋が硬くなる。
「はい」
「会って話せますか。今日じゃなくていい。場所は、あなたが決めていい」
その言い方が、責める言い方じゃないのが怖かった。責められた方が簡単だ。謝って、反論して、逃げ道を作れる。淡々とした声は、逃げ道を塞ぐ。
「どちらさまですか」
「姉です」
短い答えだった。姉。誰の姉かは、言わなくても分かるように感じてしまう。私の体が、もう知っているみたいに固くなる。
「あなたの記事で死んだ人の、姉」
言葉は丁寧なのに、刃がある。刃は、怒鳴らない。静かに刺す。
私は、椅子の背に指をかけた。木の感触がざらついている。現実のざらつきがないと、頭が浮く。浮いた頭で言葉を返すと、私は正しさに逃げる。
「……分かりました」
「明日の午後、駅前の公園の隣の喫茶店。窓際。来られますか」
私は喉が乾きすぎて、返事をすると声が割れそうだった。だから短く頷くように声を出した。
「行きます」
通話が切れる。切れた後、室内の静けさが一段増した。私は画面に戻れない。戻ると、刃の形をもっと見てしまう。見れば見るほど、正しかった自分の輪郭が崩れる。崩れるのが怖い。怖いのに、崩れなければ前に進めない。
翌日、私は駅前の喫茶店へ向かった。店の前には小さなメニュー看板が出ている。珈琲、紅茶、トースト。真面目な字で書かれている。生活の匂いがする。生活の匂いがある場所で、私は人を死なせた話をする。
店内は静かだった。窓際に、女性が座っていた。年齢は私より少し上に見える。髪を一つにまとめ、薄いコートを膝にかけている。姿勢がいい。姿勢がいい人は、踏ん張っている人だ。踏ん張らないと倒れるから。
私は近づき、声をかけた。
「……真琴です」
女性は顔を上げた。目が赤いわけではない。泣いた跡もない。淡々と私を見た。見るだけで、責めない。
「来てくれてありがとう」
ありがとう、という言葉が重い。私はありがとうございます、と言いそうになって止めた。儀礼の言葉で、この場を薄めたくなかった。
店員が水を置きに来た。グラスの底がテーブルに触れる音が小さく鳴る。音が一つあるだけで、私は現実に戻れる。私はグラスに手を伸ばした。指先が少し震えている。震えを見られたくなくて、両手で包むように持った。
「あなたの記事は事実でした」
姉が言った。前置きのない言い方。事実、と言われると、私は反論できない。反論できない代わりに、胸の奥が少しだけ熱くなる。熱くなるのが嫌だった。事実が評価された瞬間に、私は救われた気になってしまう。救われるべきじゃない。
「でも、弟は死んだ」
姉は続けた。声の温度は変わらない。変わらないまま、言葉だけが落ちる。落ちた言葉は、受け取る側の胸に沈む。沈んで、動けなくする。
私は、息を吸った。吸った息が浅い。浅い息のまま、言葉を探す。探すときに、正しい言葉ほど先に出る。正しい言葉は、ここでは毒だ。
「……すみません」
私は言った。謝罪が先に出る。出た瞬間、私は自分が楽になるのを感じてしまって、腹が立った。楽になるのは言った側だけ。神の声が頭の中で響く。私は唇を噛んだ。
姉は首を振らなかった。頷きもしない。ただ、手を膝の上で重ねる。重ねた手の甲に、薄い血管が見える。生きている手だ。生きている手が、死んだ話をする。
「弟は、告発された側じゃない」
姉が言った。
私は眉が動くのを感じた。動いた眉を、すぐ戻した。驚きを見せると、私の罪が軽くなるような気がする。軽くしたくない。
「弟は、その場にいた。関わっただけ」
関わっただけ。その言葉が、私の中で意味を増やす。関わっただけの人間が、真実の刃に切られる。刃は狙いを外さないはずなのに、現実では外れる。外れて、関係ない人を傷つける。私は、それを知っていながら、刃を振った。
「記事が出て、まとめられて、拡散されて」
姉は淡々と続けた。
「弟の名前も、顔も、関係も、勝手に紐づけられた。職場に電話が来た。家の前に人が来た。弟は職を失った」
姉の言葉は、細部が少ない。少ない方が痛い。少ない言葉は、聞き手の想像で埋まる。想像は、現実より残酷になることがある。姉はそれを知っていて、必要なことだけ言っているように見えた。
「弟は、自分が悪いことをしたって言ってた。悪いことをしたわけじゃないのに」
姉が一度、目を伏せた。伏せ方が短い。泣かないための伏せ方だ。泣いたら崩れる。崩れたら、生活が続かない。
私は水を飲んだ。飲んだのに、喉が潤わない。潤わない喉で、言葉を出すと、私はまた正義に逃げる。
「……あなたは、私に何を」
私は聞いた。聞き方が卑怯だと思った。何を言えばいいか分からないから、相手に目的を言わせる。目的を言わせれば、私はその枠の中で答えを作れる。答えは、私を守る。
姉は私を見た。視線が揺れない。揺れない視線は、私の逃げ道を燃やす。
「責めたいわけじゃない」
姉が言った。
「責めても、弟は戻らない」
戻らない。戻らないという言葉は、静かな断罪だ。断罪は、怒鳴らない。戻らないと認めることが、いちばん痛い。
「でも、聞きたい」
姉が言う。
「真実が人を救うなら、救われなかった人の分の責任は、誰が持つの」
責任。言葉を聞いた瞬間、私は息が詰まった。責任という言葉は、私が好きな言葉だ。好きだから、逃げに使ってきた。責任を取る、と言えば、私は正しい側に立てる。正しい側に立てば、痛みから少し遠ざかる。
姉は、その逃げ道を先に潰した。
私はテーブルの木目を見た。木目が途切れるところに、小さな傷がある。そこに視線を置くと、泣きそうにならない。泣きそうになるのは感情の問題じゃない。体が緩むと、言葉が崩れる。崩れた言葉は、相手の傷をさらにえぐる。
「分かりません」
私は言った。声が小さくなる。小さくなると、私の負けに見える。負けに見えるのが嫌だった。嫌なのに、ここでは負けるしかない。勝ったら、私はまた誰かを殺す。
「私は、事実を書けば救えると思ってた」
姉は何も言わない。言わないことで、私に続きを言わせる。続きを言うと、自分の言い訳が出る。言い訳を止めるために、私は言葉を選んだ。
「でも、私は、受け取る側の生活を」
喉が乾く。言葉が続かない。私は水をもう一度飲んだ。
「想像してなかった」
想像してなかった。言い方が薄い。薄い言い方は、責任逃れに見える。私はそれが嫌だった。嫌だから、もう少しだけ言葉を足す。
「想像しても、足りなかった」
姉が小さく頷いた。頷きは、許しじゃない。理解でもない。ただ、事実の確認の頷きだ。
「弟はね」
姉が言った。
「あなたの記事を読んで、最初は言ってた。正しいって。悪いことは悪いって言わなきゃいけないって」
私は胸が締まる。弟は、私の側にいた。私の側にいた人が死んだ。正しい側にいた人が死んだ。その矛盾が、私の世界を壊す。
「弟は、正しさが好きだった」
姉が言った。
「だから、正しさに殺された」
私は、言葉が出ない。正しさに殺された、という言い方は、私が書きたくなる言い方だ。比喩に逃げたくなる。逃げたくなるのに、姉の口から出た言葉は比喩じゃない。現実だ。現実が、私の文章の形をして私に返ってくる。
私は手のひらを握った。爪が食い込む。痛みがあると、私は今ここにいられる。
「真琴さん」
姉が言った。
「あなたに、もう一つだけ聞きたい」
私は顔を上げた。上げると、姉の目が見える。目の奥が乾いている。泣き尽くした乾きではなく、泣くことを許されない乾きだ。
「あなたは、これからも書くの」
私は息が止まった。書く。記者であること。真実を語る側にいること。その問いは、私の職業じゃなく、生き方を問う。
私は答えられなかった。答えれば、私は自分の正当化を始める。始めた瞬間、姉の傷を消費する。消費したくない。
沈黙が落ちる。沈黙の中で、店内の小さな音が耳に入る。スプーンが皿に当たる音。コーヒーが注がれる音。誰かの笑い声。生活が回っている音が、私の沈黙を責めない。責めないのが、逆に痛い。
「……分からない」
私は言った。分からない、という言葉は逃げだ。逃げだと分かっている。でも今は、逃げのまま止まるしかない。止まらないと、私はまた走って燃やす。
姉は頷いた。二度目の頷き。頷き方が少しだけ柔らかい。でもそれは許しじゃない。私は自分に言い聞かせた。許されたと思うな。許しを欲しがるな。
「分からないって言える人なら」
姉が言った。
「まだ、書くのかもしれない」
その言葉が、私の胸の奥に沈んだ。沈んだまま、浮かび上がれない。私は会計をして、店を出た。店を出ると冷たい風が頬に当たる。頬が冷えると、涙が出そうになる。涙が出そうになっても、私は出さない。出すと、自分のための涙になる。
帰り道、駅前の人波が普段より遠くに見えた。音が薄い。世界の輪郭が少し白くなる。白飛びのような感覚。私は足を止め、手すりに触れた。金属が冷たい。冷たい現実が、私を引き戻す。
背後に、気配が立った。
青年だ。嘘の神。いつもと同じ顔で、いつもと同じ距離で立っている。いつもと同じなのに、今日は一歩も近づいてこない。近づかないのが、気遣いに見えてしまって腹が立つ。気遣いをされる資格なんて、私にはない。
「会ったんだ」
青年が言った。断定でも質問でもない言い方。知っているのに、確認しない。余白を残す話し方だ。余白があると、私は自分で答えを作りたくなる。作りたくなるのが危ない。
「……あなたが、知ってるのは」
私は言った。言い方が尖る。尖ると、私は敵を作れる。敵を作れば、私は正義になれる。正義になれば、痛みを外に投げられる。投げたくなるのに、投げるとまた誰かが死ぬ。
「私の過去まで、街は知ってる」
青年は頷かない。否定もしない。沈黙は肯定に見える。私は喉が乾く。
「あなたの街の呪いは、私の真実と同じだ」
私は言った。
「起源は何」
青年の目が一瞬だけ細くなる。細くなるのは警戒か、痛みか。私は断定しない。断定せずに、青年の目の揺れを覚える。覚えるのが仕事だ。今の私は、書くことを迷っているのに、覚えることだけはやめられない。
「君が壊した人は」
青年が言った。
「この街の外で死んだ」
外で。外で死んだ。私はその言葉に一瞬だけ救われそうになった。外なら、街の呪いとは無関係だと自分に言い訳できる。言い訳が出る前に、青年が続けた。
「けれど、似ている」
青年は言う。
「君も、嘘で救えない側の人間だ」
救えない側。言い方が腹立たしい。私は救うために書いた。救うために走った。救えない側だと言われると、私の過去が全部否定される。否定されたくなくて、反論が喉まで出る。出る前に、喉が乾いて言葉が引っかかる。引っかかった言葉が、私を止めた。
青年は私を責めない。責めないのが怖い。敵が責めてくれれば、私は反撃できる。反撃は気持ちいい。気持ちいいのは毒だ。
「私が悪かったのか」
私は思わず口にしそうになって、止めた。止めると、胸が苦しい。苦しいのに、口にしたい。答えが欲しい。答えがあれば、私は自分を裁ける。裁けば、終わる。終われば、楽になる。楽になるのは、言った側だけ。
青年が私の顔を見た。見ただけで、私の中の欲が露わになる気がした。答えが欲しい。赦しが欲しい。言い訳が欲しい。全部、私の側の欲だ。
「答えが欲しい?」
青年が言った。
私は頷きかけた。頷けば、青年は嘘を渡してくれるかもしれない。嘘で救う神が、私に嘘をくれるなら、私は今の痛みから逃げられる。逃げたい。逃げたいのに、逃げると、姉の言葉を裏切る。弟の死を消費する。
頷きかけた首を、私は途中で止めた。止めた瞬間、首の筋が痛い。痛いのがありがたい。痛いと、逃げが止まる。
青年が冷たく言った。
「自分に嘘を渡すな」
短い。短いから刺さる。
「嘘は薬だ。用法を間違えると死ぬ」
死ぬ。青年が死ぬという言葉を使うとき、その死は物理だけじゃない。生活の死も含む。私は昨日までそれを学んだはずなのに、今の私はまだ、答えという薬を欲しがっている。
私は手すりから手を離した。離すと、指先が少し痺れている。冷えていたからだ。冷えは現実だ。現実の冷えは、私に逃げ道を与えない。
「……じゃあ」
私は言った。
「私は、どうすればいい」
言い方が、弱い。弱い言い方が嫌だった。嫌なのに、今の私は強い言葉を出せない。強い言葉は、また誰かを燃やす。
青年は答えなかった。答えない沈黙が落ちる。沈黙の中で、駅前の雑踏が戻ってくる。戻ってくる音は、私の痛みを祝福しない。祝福しないのが救いだ。痛みは祝福されるべきじゃない。痛みはただ、そこにある。
「真琴」
青年が私の名前を呼んだ。名前の呼び方が、いつもより少しだけ低い。低い声は、止める声だ。
「君は、責任を取るって言葉が好きだね」
私は息を止めた。好きだと言われると、私の癖が暴かれる。癖は直さないといけない。でも癖は、自分の骨格でもある。骨格を折ると、人は立てない。
「責任は」
青年が続ける。
「人を殺すよ」
殺す。青年の言葉は短い。短い言葉は、私の中で何度も反響する。責任が人を殺す。姉の弟も、正しさや責任の言葉に縛られて死んだのかもしれない。私はその可能性を否定できない。
私は、言葉を切り替えた。責任じゃない言葉で、立とうとする。立つには、別の骨格が要る。
「私は」
私は言った。
「真実を手放せない」
言うと喉が乾く。乾きは危険だ。でもこれは、正義の宣言じゃない。自分の弱さの告白に近い。弱さを告白するのは、逃げにもなる。逃げにしないために、私は続けた。
「だから、やり方を変える」
青年は黙っている。黙っているから、私は続ける。
「真実を語るなら」
私は言った。
「受け取り手の人生ごと、抱えるべきだった」
抱える。南條の言葉が頭に浮かぶ。相手の人生ごと抱える覚悟。覚悟がなかった。覚悟がなかったのに、私は刃を振った。
「でも、私一人じゃ抱えられない」
私は言った。ここで言うべきは、英雄の言葉じゃない。共同の言葉だ。
「受け取る器を作る。器を一人にしない。共同で抱える設計を作る」
青年の目が細くなる。怒りに見える。私は断定しない。ただ、空気が少し冷えるのを感じた。冷えると、街の呪いが近づく気がする。
「あなたの嘘の支配を終わらせる」
私は言った。言い切ると、喉が痛い。痛いのに、口から出た。出た言葉は、宣戦布告だ。宣戦布告はドラマになる。ドラマになると、読者が気持ちよくなる。気持ちよさは毒だ。私はその毒を意識しながら、言葉を短くした。
青年が笑った。薄い笑い。薄い笑いは、私を小さくする笑いだ。
「支配」
青年が言った。
「君はその言葉が好きだね。敵を作ると、楽になるから」
私は言い返したくなった。でも言い返すと、私はまた正しさに逃げる。私は言い返さない代わりに、呼吸を整えた。整えると、喉の乾きが少しだけ戻る。
「楽になりたいわけじゃない」
私は言った。
「痛いまま、やる」
青年は笑わなかった。笑わないのが、肯定に見えるのが嫌だった。肯定されると、私はまた正しい側に立った気になる。立ちたくない。立った瞬間に、また誰かが死ぬ。
私はその場を離れた。青年は追ってこない。追ってこないのが、優しさに見えてしまう。見えてしまうのが嫌で、私は歩幅を少し早めた。
夜、私は名簿のことを確かめるために動いた。確かめる、と言っても、この街では確かめるという行為が罠になる。核心に触れると、鈴が鳴る。視界が白く飛ぶ。言葉が喉で詰まる。それでも私は、今夜だけは逃げられなかった。姉の問いが、私の背中を押す。押すのは正義じゃない。押すのは、死者の重さだ。
古い住民記録は、役場の片隅にあった。閲覧の申請をすると、担当者の目が一瞬だけ泳ぐ。泳ぐ目は恐怖だ。私は恐怖を責めない。責めると、私は声を大きくする。声が大きくなると、生活が締め上げられる。
担当者は淡々と手続きを進めた。進め方が機械的だ。機械的な手続きは、心を守る壁になる。壁がないと、この街では人が壊れる。
記録の中に、姉の姓があった。数十年前の転出記録。住所。家族構成。私は指先で紙の端を押さえた。紙が少しざらつく。ざらつきが、私の胃を重くする。
遺族は、この街の出身だった。
私が外で起こした死は、偶然でも無関係でもなかった。街の契約圏に近いところで起きていた。近い、という言い方は曖昧だ。でも曖昧にしておかないと、私は断定へ走る。断定へ走ると、私は物語を作り、正義を作り、燃やす。
役場を出た瞬間、遠くで鈴が鳴った。
音は小さい。小さいのに、胸の奥が一段冷える。視界が一瞬だけ白く飛んだ。街灯の光が強すぎる。白飛びの後、輪郭が戻る。戻った輪郭は、さっきより硬い。街が言っている。核心に触れるな。
私は立ち止まり、手のひらを見た。震えている。震えは恐怖か、興奮か。私は区別できない。区別できないまま走るのが、いちばん危ない。
喫茶店主の顔が浮かんだ。境界線。背負いすぎない仕組み。私は自分の中で繰り返した。私は一人で抱えない。一人で抱えないために、誰と繋ぐ。誰を巻き込む。巻き込むとき、相手の生活をどう守る。
私が今やっているのは、巻き込むことだ。南條を巻き込み、姉を巻き込み、街の担当者を巻き込み、そして自分を巻き込む。
巻き込むなら、器がいる。器は資質じゃない。設計だ。設計を作る。作る、と言うと傲慢に聞こえる。傲慢の匂いがする。私は傲慢を嫌った。傲慢の匂いがしたら、すぐ止まる。止まるのが、訓練だ。
帰り道、喫茶店主の店の前で足が止まった。店はまだ閉まっている。シャッターの隙間から、暗い店内が見える。私はノックをするのをやめた。今夜、私は一人で考えるべきだと思った。考えるときに、誰かを頼ると、私はまた責任を外に投げる。
それでも、扉の前に立っているだけで、喉の乾きが少し戻る。生活の匂いがする場所にいると、私は正しさの火力が弱まる。
そのとき、背後から足音が聞こえた。軽い足音。店主だ。店主は鍵を取り出し、私を見る。目が赤くはない。泣いた跡もない。ただ、疲れている。
「……調べたのか」
店主が言った。短い言葉。
「はい」
私が答えると、店主は鍵を回した。シャッターが少し上がる。鈴は鳴らない。鈴が鳴らないのが、少しだけ安心だ。
店主は店内の灯りをつけず、暗いまま私を奥へ手招きした。暗い店内で、椅子の脚が床を擦る音がする。生活の音が、闇の中で大きい。
「封印の場所がある」
店主が言った。声が低い。低い声は、覚悟の声だ。
私は喉が乾いた。乾きは危険だ。でも今夜は、避けられない。
「写真家も」
店主が続けた。
「真実も、全部」
その言葉が落ちた瞬間、遠くでまた鈴が鳴った気がした。実際に鳴ったのか、私の記憶が鳴らしたのか分からない。分からないまま、胸の奥が冷える。冷えるのが現実だ。
私は店主を見た。店主の手が少し震えている。震えは恐怖だ。恐怖を責めない。責めると、私は声を大きくする。声を大きくすると、店主の生活が締め上げられる。
「行きます」
私は言った。短く。短い言葉だけを出す。短い言葉は、誤魔化しにくい。
店主は頷いた。頷き方が硬い。硬い頷きは、逃げない頷きだ。逃げない頷きは、時に人を壊す。私はそれを知っている。
店主が私の方へ一歩近づいた。近づくと、店主の声がさらに低くなる。
「真琴」
店主が言った。
「行くなら、一つだけ覚えとけ」
私は頷いた。
「真実は、武器だ」
店主は言った。
「武器は、守るために持つ。でも守るって言葉は、すぐ人を殺す」
私は息が止まる。青年の言葉と重なる。責任は人を殺す。守るという言葉も、人を殺す。
「だから」
店主が続ける。
「今日は勝つな。勝とうとするな。生きて帰れ」
生きて帰れ。生活の言葉だ。私はその言葉を胸に置いた。置いたまま、持ち上げない。持ち上げると、正しさになる。正しさになると、私はまた加害になる。
店を出ると、夜の空気が冷たい。冷たさの中で、私は姉の問いを思い出した。
これからも書くの。
私はまだ答えられない。
でも一つだけ、確かになったことがある。
私は、受け取り手の地獄を知らないまま、語っていた。
知らないまま語ることが、どれだけ人を殺すかを、私は今夜、身体で覚える。
その覚え方が、また誰かを傷つけるかもしれない。傷つけるかもしれないと分かっているのに、私は歩く。歩くしかない。止まったら、また正しさで燃えてしまう。
私は店主の後ろを歩きながら、手のひらを強く握った。爪が食い込む痛みが、私を現実につなぎ止める。
鈴の音が、どこかで待っている。
私の真実で、人が死んだ。
その事実を抱えたまま、私は次の扉へ向かう。
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