第7話「器は作れるか――受け取る訓練」

 朝が来るのが早すぎた。昨日の夕方に鳴った鈴の音が、まだ耳の奥で冷たく転がっている。眠ったはずなのに、体のどこにも休んだ感触がない。目を開けた瞬間から、胃の奥が薄く痛む。


 南條遼介が消えた。


 消えた、と言い切るには情報が足りない。失踪届を出して、捜索願を出して、警察が動いて、という手順がある。でもこの街では、手順が意味を持たないことがある。意味を持たないものにすがると、私はまた自分の正しさを過信する。それがいちばん危ない。


 それでも私は、交番へ行くしかなかった。


 早朝の商店街は、開店準備の音だけがある。シャッターが擦れる音。段ボールを引きずる音。店の前を掃く箒の音。音は生活の証拠だ。生活が動いているのに、そこに南條の姿はない。


 交番は小さかった。窓ガラスの内側にカレンダーが貼ってある。日付の丸が古いまま止まっていた。私はそれを見て、喉の奥が乾いた。止まった日付は、誰かが更新する気力を失った跡に見える。


「すみません」


 私が声をかけると、若い巡査が椅子を引いた。引き方がぎこちない。背筋が妙に伸びている。緊張しているのが分かる。緊張の理由が、私か、話の内容か、街のルールか。私は断定しないように自分の舌を抑えた。


「どうされました」


 巡査は丁寧な声を出した。丁寧なのに、温度が低い。私の話を聞く前から、距離を取っている温度。


「昨日から連絡が取れない人がいます。旅で来ていた写真家で、宿にも戻っていない。朝になっても見つからなくて」


 言いながら、喉が少し締まる。真実を言うと死ぬ、というルールのせいなのか、単に緊張なのか、私は区別できない。区別できないまま話すと、私は自分の責任をごまかす。だから私は、体の反応をただ見ていた。唾が飲みにくい。手のひらに汗が滲む。心臓が早い。


 巡査は書類の束を出した。出したのに、ペン先が紙の上で一度止まる。目が私の顔ではなく、私の肩のあたりを見ている。視線が泳ぐと、人は何かを隠しているように見える。でも私は、ここで「隠している」と決めつけたくなかった。隠すのは悪意だけじゃない。恐怖でも隠す。


「お名前は」


「南條遼介。連絡先はこれです」


 私は名刺の写真を見せ、宿の名前も言った。巡査は頷きながら書く。書き方が機械的だ。聞いているのに、話が入っていないように見える。その空白が怖い。


「最後に見たのはいつですか」


「昨日の夕方。神社の近くで……」


 そこで私は言葉を止めた。神社、と言っただけで、喉が一段乾いた気がした。乾きは危険の合図だ。私は舌の裏を噛みしめ、続きを飲み込んだ。場所を言えば、町内会の耳に入る。入れば、南條の痕跡が消される。消される、という言い方も断定だ。私は思考を一度手放して、巡査の手元を見た。ペンが動いている。書類が埋まっていく。形式が出来上がる。


 形式は、現実の代わりになる。


 私が欲しいのは形式じゃない。南條の居場所だ。生死だ。どこで、何が起きたのかだ。けれどそれを今ここで求めたら、私はまた声が大きくなる。声が大きくなると、この街は私を罰する。罰は直接じゃない。生活の糸を切る。仕事を切る。居場所を切る。


 巡査は用紙を差し出した。


「こちらに、署名を」


 署名の欄は空白だった。私は自分の名前を書く。真琴。筆圧が強くなる。強くなるのは怒りだ。怒りは、誰かのための怒りに見えて、実は自分の無力さへの怒りでもある。私はそのことを知っている。


「捜索の手配はします。宿にも確認します」


 巡査はそう言った。言い終えてから、少しだけ間が空いた。間の空き方が、言い足りない人の間だった。


「何か、心当たりは」


 巡査の問いは曖昧だった。事件性を探る問いというより、私に諦めさせる問いに聞こえた。私は喉が熱くなるのを感じた。熱くなると、声が出やすくなる。出やすい声は危ない。


「心当たりは、あります。でも」


 私はそこで止めた。止めたのは、巡査のためじゃない。私自身のためだ。私はここで真実を言って、巡査を巻き込みたくない。巻き込むと、巡査も壊れるかもしれない。壊れた人間が、私を恨む。私が恨まれるのは慣れている。でも恨まれた先で、人が死ぬのは、もう見たくない。


「分かりました」


 巡査は頷いた。頷き方が、ほっとしている頷きだった。私が言わなかったことに安堵している。安堵の裏に恐怖がある。恐怖の正体が何か、私はまだ掴めない。


 交番を出ると、商店街の人たちはもう店を開け始めていた。誰も私に声をかけない。目が合うと、すぐ逸らされる。逸らされる視線は、拒絶にも見えるし、配慮にも見える。関われば自分が壊れる、と知っている人の避け方だ。


 私は一瞬、口の中で言葉を転がした。どうして助けないの。どうして見捨てるの。そう言えば簡単だ。簡単な言葉ほど、相手を殴る。殴る言葉は、相手を黙らせる。黙らせると、私は勝った気になる。勝った気になることがいちばん危険だ。


 喫茶店に向かう途中、レジの音が聞こえた。乾いた電子音。生活が回っている音。南條が消えたのに、生活は回る。それは残酷じゃない。生活は止められない。止められないから、生きる。


 喫茶店の扉は半分閉まっていた。昨日よりさらに閉まっている。私はノックをしてから入った。鈴が鳴る。鈴の音が、朝の空気に薄く響く。


 店主はカウンターの奥で、棚の中身を段ボールに詰めていた。詰め方が手慣れている。引っ越しの手だ。逃げる人の手だ。


「店、閉めるんですか」


 私が言うと、店主は顔を上げずに答えた。


「閉める準備だ。開ける準備じゃない」


 言い方が短い。短い言葉は、余白を残す。余白に怒りが見える。


「南條さんが消えました」


 私は言った。言った瞬間、喉が少し乾く。店主は手を止めた。止めた後、ゆっくり息を吐く。


「そうか」


 それだけだった。驚きも怒りも、声には出ない。声に出すと、自分が壊れると知っている人の返事。


「交番へ行きました。届は出しました。でも」


「でも、だろ」


 店主が言った。


「動かない」


 私は頷いた。頷きながら、胸の奥に固い塊ができる。固い塊は焦りだ。焦りが大声を作る。大声は炎上を作る。炎上は、弱い人から壊す。


「器の話、続きがあるんですよね」


 私は言った。昨日のことを思い出す。店主は器は作れないと言った。でも、作れないで終わるなら、私は何もできない。何もできないなら、私はまた正しさで燃やす。燃やさないために、私は手段が欲しい。


 店主は段ボールのガムテープをちぎり、手のひらで押さえた。押さえ方が強い。


「受け取れる人ってのは、優しい人じゃない」


 店主は言った。


「境界線が引ける人だ。相手の痛みを見ても、全部は背負わない。背負わない仕組みを持ってる」


「仕組み」


「訓練でもいい」


 店主は私を見る。視線が真っ直ぐで、逃げない。逃げない目は、私の中の言い訳を剥がす。


「受け取る訓練がある」


 店主は指を三本立てた。


「一つ。受け取った真実を正義の材料にしない。断罪したくなるだろ。気持ちいいからな。気持ちいいのは毒だ」


 私は息を止めた。気持ちいい。言われた瞬間、心臓が小さく跳ねた。私は気持ちよさを知っている。真実を突きつけて、相手が黙る瞬間。コメント欄が沸く瞬間。正しいと言われる瞬間。その気持ちよさが、誰かの生活を壊す。


「二つ。その人の生活に必要な次の一手だけを一緒に決める。記事じゃない。行動だ。今夜どこで寝るか。明日どうやって仕事へ行くか。そういうこと」


 私は喉が乾いた。真実を語る、よりずっと地味だ。地味なのに、逃げられない重さがある。


「三つ。背負いすぎない仕組みを作る。誰か一人が全部抱えると、器は割れる。割れると、真実が暴れる」


 店主の言葉は、理屈なのに痛い。痛いのは、私が何度も器を割ってきたからだ。割ったのは私だと認めると、胃が苦しくなる。苦しくなるのに、私は目を逸らせない。


「それって」


 私は言った。


「真実を小さくすることじゃないですか」


 店主は首を横に振らない。肯定もしない。ただ、段ボールに手を置く。


「小さくしないと、人は飲めない」


 店主が言った。


「飲めないものを口に入れると、吐く。吐いたものは周りにかかる。かかった奴が死ぬ」


 私は唾を飲んだ。飲み込むとき、喉が少し痛い。痛いのは生きている証拠だ。私は自分に言い聞かせた。ここで怒るな。ここで勝つな。勝たないで、動け。


「やってみます」


 私は言った。言った声が小さい。小さい声は頼りない。頼りない声でしか、私は今は言えない。


 店主は段ボールの蓋を閉めた。


「やるなら、あの若いのに会え」


 第2話の告発者。社会的に死んだまま、店の裏方で働いている若者。私はその顔を思い出す。笑っていた。正しいことを言いたかった、と言って笑った。笑いが私の罪を刺した。


 私は店を出た。商店街の裏手へ回る。若者が働いているのは小さな青果店だった。表には立たせない、と店の主人が言ったらしい。客が嫌がるから。嫌がるのは客の自由だ。自由が誰かを殺すことがある。


 裏口から入ると、若者は段ボールを潰していた。潰す音が、鈍く響く。潰す音は、何かを消す音に似ている。


「……真琴さん」


 若者が私に気づいた。目が少しだけ揺れた。揺れは恐怖か、諦めか。私は断定しない。


「ごめん」


 私は言いかけて止まった。謝罪は簡単だ。簡単だから、謝罪に逃げると私はまた自分が楽になる。楽になるのは言った側だけだと、神が言った。私はその言葉を思い出す。


 喉が乾く。乾きが強い。私は自分の胸の中に、言いたい言葉が渋滞しているのを感じた。ごめん。すまなかった。私が悪い。あなたが正しい。全部、言えば終わる。言えば、私が救われる。


 私は舌を噛んだ。噛む痛みで、自分を現実に引き戻す。


「今」


 私は言った。


「いま、生きるために必要なことは何?」


 若者が瞬きをした。予想していなかった質問だという顔をする。私はその顔を見て、少しだけ胸が軽くなる。真実の話をしないことで、相手の目が戻る。戻る目は、生活の目だ。


「必要なこと」


 若者が繰り返した。手が止まる。止まった手が、ズボンの縫い目を触る。緊張の仕草。


「……明日、店に立てるように」


 若者は言った。


「笑える顔を作りたい」


 笑える顔。私は言葉を失った。真実でも正義でもない。生活の次の一手だ。明日、店に立つ。そのために笑う。笑うために何がいるのか。私は記者として、こんな質問をしたことがない。私はいつも、真実の核心へ行こうとした。核心へ行くのが仕事だと思っていた。でも核心は、人を殺すことがある。


「笑える顔って」


 私は聞いた。聞きながら、断罪の快楽を切る。私は今、誰も断罪しない。若者も、町内会も、客も、私も。


「作れますか」


 若者は苦く笑った。笑いが短い。短い笑いは、すぐに消える。


「無理です。笑ったら、嘘になる」


 嘘。若者が言った嘘という言葉は、神の嘘とは違う響きがした。若者の嘘は、自分を守るための嘘だ。守るための嘘は、卑怯じゃない。卑怯と決めつけると、私はまた人を追い詰める。


「じゃあ」


 私は言った。


「練習しよう」


 若者が目を丸くした。


「練習って」


「笑う練習」


 私は言った。自分で言って、馬鹿みたいだと思う。馬鹿みたいなのに、これが生活だ。生活は馬鹿みたいなことの積み重ねでできている。馬鹿みたいなことが、命を繋ぐ。


「鏡、ありますか」


 青果店の裏に小さな鏡があった。店主が髪を整えるための鏡だ。若者は鏡の前に立ち、顔を動かそうとして、動かせない。顔の筋肉が固い。固い筋肉は、怖さを溜めている筋肉だ。


「口角だけ」


 私は言った。


「上げようとしなくていい。まず、動くか確かめる」


 若者は口角を少しだけ動かした。動いた。動いた瞬間、若者の目が少し濡れる。濡れるのは悔しさか、痛みか。私は断定しない。断定しないで、ただ隣に立つ。


「できた」


 私は言った。


「今の、嘘じゃない。筋肉が動いたって事実」


 若者は鼻で笑った。今度は少し長い笑いだった。長い笑いは、息が戻っている証拠だ。


「……真琴さん、変わりましたね」


 若者が言った。


「前は、もっと、突っ込んでくる人だった」


 私は喉が乾く。突っ込んでくる人。私はその言葉に刺される。刺されるのに、言い返さない。言い返すと、また断罪になる。


「変わってる途中」


 私は言った。言った声が小さい。小さい声でしか、私は自分を語れない。


「真実の話をしないんですか」


 若者が聞いた。真実を求めるのは自然だ。自然な欲望を責めない。責めると、被害者叩きになる。私はその落とし穴を避けたい。


「今日はしない」


 私は言った。


「今日のあなたに必要なのは、明日店に立つことだと思った」


 若者が黙った。黙りは拒絶じゃない。考えている黙りだと、私は願った。願うことは推測だ。でも推測は断定じゃない。推測の余白が、相手を縛らない。


「……ありがとう」


 若者が言った。声が小さい。小さい声は、まだ痛い声だ。


 私は青果店を出た。外に出ると、商店街の空気が少し冷たい。冷たさは、視線の冷たさだ。誰かが見ている。見ているのに、声をかけない。声をかけないのは、この街の防衛だ。


 帰り道、町内会の幹部が私を呼び止めた。幹部は三人いた。全員、身なりがきちんとしている。きちんとしているのは、生活を持っている証拠だ。生活を持っている人ほど、恐怖を持っている。失うものがあるからだ。


「記者さん」


 幹部の一人が言った。声は穏やかだ。穏やかな声は、刃を隠す。


「あなたは街を壊す」


 私は息を吸った。壊す。直接的な言葉だ。直接的な言葉ほど、人を怒らせる。怒らせると私は大声になる。大声になると、私は負ける。私は自分の舌を押さえた。


「壊しているのは、街の方だと思います」


 私は言った。言い方が硬い。硬い言い方は、また正義に寄る。私は気づいて、少しだけ声を落とした。


「南條さんが消えた。あなたたちは何か知ってますか」


 幹部は首を振らない。頷かない。沈黙の形で、答えを先延ばしにする。


「外の人を巻き込んだのは、あなたです」


 別の幹部が言った。言い方は責める言い方じゃない。事実の形に見せかける言い方だ。事実に見せかけた価値判断は、議論を止める。私はそれを知っている。


「巻き込んだくせに、被害者面をしないでください」


 幹部の声は穏やかだ。穏やかだから刺さる。刺さる言葉は、私の喉を乾かす。


 私は言い返したくなった。私は被害者じゃない。私は探している。私は助けたい。私は正しい。そう言えば気持ちいい。気持ちいいのは毒だ。店主の言葉を思い出す。断罪の快楽を切れ。


「あなたたちは」


 私は言った。


「どうして、真実を封じるんですか。封じるのは暴力だ」


 言い終えた瞬間、自分の声が少し大きくなっているのが分かった。私は一歩遅れて、しまった、と思う。大声は加速装置だ。


 幹部の一人が、少しだけ眉を寄せた。


「暴力は、声の方です」


 幹部は言った。


「真実を共有したら、責任の押し付け合いが始まる。最初に死ぬのは弱い人だ。あなたはそれを知らないのですか」


 私は息が止まった。言葉が、私の中の何かに当たる。押し付け合い。最初に死ぬのは弱い人。第2話の告発者。第5話の母親。声を上げたくても上げられない人。上げたら死ぬ人。死ぬのは物理じゃない。生活の死が先に来る。


「だから」


 幹部が続ける。


「ここでは、真実は持ち回りにしない。持ち回りにした瞬間、生活が崩れる。崩れた生活を支える余力が、この街にはない」


 幹部の言葉には、恐怖が混じっている。恐怖は経験則から来る。経験則は、過去に誰かが死んだ証拠だ。私はその証拠を見たい。見たいから突っ込むと、また燃える。燃えると、弱い人が死ぬ。


 幹部はさらに言った。


「あなたがやっているのは、器を増やすことだ。器を増やせば、真実が広がる。真実が広がれば、支えきれない。支えきれない真実は、街を殺す」


 街を殺す。言い方が大きい。大きい言い方は、相手を正当化するための言い方でもある。でもその中に、確かに現実の恐怖がある。私はそれを否定したくなかった。否定すると、私は単純悪を作る。単純悪を作ると、物語は楽になる。楽になると、読者は正しさに寄る。寄った正しさは、現実の誰かを殴る。


「……分かりました」


 私は言った。分かった、と言い切れない。分かりました、は仮置きだ。仮置きにすることで、余白を残す。


「でも、南條さんを探します。生活の話は、それからです」


 幹部は私を見た。見て、少しだけ目を細める。目を細めるのは、諦めの合図に見えた。


「探すなら、探せばいい」


 幹部が言った。


「ただし、あなたが関わった人の仕事は、減る」


 脅しではない言い方だった。事実の予告の言い方だった。予告の方が残酷だ。残酷さは、生活を締め上げる形で来る。


 私は喉が乾いた。乾きが痛い。痛いのに、私は幹部に何も言い返せなかった。言い返すと、私はまた声が大きくなる。大きくなると、若者の仕事が消える。店主の店が潰れる。母親の逃げ道が塞がる。私はその想像を止められなかった。


 幹部たちは去っていった。去り際に、誰も振り返らない。振り返らないのは、罪悪感を持たないためだ。罪悪感を持つと壊れる。壊れるのが怖い。


 私は路地に入った。息を吐く。吐いた息が白い。白い息は冬の証拠だ。冬は、音がよく響く。響く音は噂になる。私は肩をすくめ、喉を押さえた。


「器を増やすな」


 背後から声がした。低い声。青年の声。


 私は振り向いた。青年はいつもの場所に立っている。いつも通りの顔。いつも通りの目。いつも通りなのに、今日は少しだけ、目の下に影があるように見える。影は疲れか、怒りか。私は断定しない。


「器は作れない」


 青年が言った。断定の言い方。神の断定は冷たい。冷たいから怖い。


「作れないって、あなたは言う」


 私は言った。声を大きくしないように注意する。注意しても、心臓の音がうるさい。


「でも南條さんは器だった。器がいた。だから、作れないで終わりじゃない」


 青年が一歩近づいた。近づくと、空気が冷える。冷えは超常の冷えだ。私は背中が少し冷たくなる。


「作ろうとする人間が、まず壊れる」


 青年の言葉は短い。短いから重い。


「君が壊れたら、君が救えたはずの人間が死ぬ」


「だったら私は壊れる」


 私は言ってしまった。言ってしまった瞬間、自分の言い方が勇敢に聞こえるのが嫌だった。勇敢に聞こえる言葉は、自己陶酔の匂いがする。自己陶酔は、依存に近い。


 青年の目が細くなった。


「それは勇気じゃない」


 青年が言った。


「依存だ」


 依存。言葉が刺さる。刺さるのに、私は動けない。依存という言葉は、私が真実で生きていることを暴く。真実を追っている自分に価値があると思っている自分を暴く。暴かれると、私は裸になる。裸のままでは寒い。寒いから、私はまた正しさを着る。


 青年は私の手首を掴んだ。掴む手が熱い。人の手の温度に近い。近いのに、人じゃない手触り。掴まれると、脈が早いのが分かる。青年の指が、私の脈を確かめる。確かめる仕草が医者みたいで、腹が立つ。腹が立つのに、喉が乾いて声が出ない。


「震えてる」


 青年が言った。


「君は語る側の興奮で生きてる。だから危ない」


 私は唇を噛んだ。噛むと血の味がする。血の味は現実だ。現実が痛いと、私はまだ止まれる。


「興奮じゃない」


 私は言った。


「責任だ」


 青年は笑わない。笑わないのが、否定より怖い。


「責任なら、背負い方を変えろ」


 青年の言葉は、店主の三つのルールに似ていた。似ているのが腹立たしい。似ているのに、青年は私の敵だ。敵なのに、同じことを言う。敵味方の線が曖昧になると、私は判断が難しくなる。判断が難しいと、読者も割れる。割れるところに議論が生まれる。議論が生まれると、現実の誰かを殴る危険も増える。私はその危険を意識した。


「南條さんを返して」


 私は言った。短い言葉だけを出す。短い言葉は、誤魔化しにくい。


 青年は答えなかった。沈黙。沈黙は答えの形だ。私はその沈黙に腹が立った。腹が立つのに、私は声を上げない。声を上げると、また誰かが死ぬ。


 青年は私の手首を離した。


「探すなら、夜だ」


 青年が言った。


「今、街は目が覚めてる。目が覚めてると、契約がよく働く」


 契約。第10話で明かされるはずの言葉が、ここで匂いとして出る。匂いだけで、喉が乾く。


「あなた、知ってるんだ」


 私は言った。


 青年は答えない。答えないことで、私に考えさせる。考えさせるのは、余白を作る手だ。余白は刃にもなる。私はその刃で、自分を切りそうになる。


 その夜、私は宿へ行った。南條が泊まっていた宿。帳場の人は私を見ると、笑顔を作った。作った笑顔が固い。固い笑顔は、怖い笑顔だ。


「お連れ様、戻られてませんか」


 私は聞いた。言い方は丁寧にする。丁寧にしないと、話が進まない。


「……戻られてません」


 帳場の人は答えた。答えながら、指先が帳簿の端を擦る。擦る指先は緊張だ。


「お荷物だけ、残ってます」


 帳場の人はそう言って、鍵のついた引き出しを開けた。南條のカメラバッグはない。でも小さなポーチと、充電器と、折り畳まれた服があった。服はきちんと畳まれている。きちんと畳む人は、急に消えない。急に消えるときは、畳む暇がない。畳まれているのに、本人はいない。その矛盾が怖い。


「勝手に見てもいいですか」


 私は帳場の人に聞いた。帳場の人は一瞬だけ目を逸らし、頷いた。頷き方が、責任を避ける頷きだった。私は責めない。責めると、私はまた声が大きくなる。


 ポーチの中に、SDカードがあった。私は指先でつまみ、手のひらに乗せた。小さくて軽い。軽いのに、これが真実の塊になることがある。私は喉が乾く。


 帳場の人に借りた古いノートパソコンで、SDカードの中身を見た。写真が並ぶ。商店街、喫茶店、社、そして社の奥の影。昨日見た封印の写真がある。さらに、名簿の写真があった。古い紙の名簿。端が茶色く変色している。紙の匂いが画面越しにでも分かる気がした。


 名簿の端に、姓が写っている。


 私はその姓を見た瞬間、背中が冷えた。


 過去に私が取材した対象の家族。私のスマホに「あなたの真実で、あの人は死んだ」と送ってきた遺族の姓。それが、名簿の端に載っている。


 どうして。


 この街は、私の過去を知っている。


 知っているだけじゃない。私の過去を、この街の中枢に繋げている。名簿は誰の名簿だ。契約の名簿か。犠牲者の名簿か。相談者の名簿か。私は頭の中で言葉が増え始めるのを感じた。増えた言葉は危ない。増えた言葉は、私を断定へ連れていく。


 私は一度、目を閉じた。閉じると、南條の声が蘇る。


 相手の人生ごと抱える覚悟がいる。


 覚悟。私は覚悟を問い続けられている。問いに答えないまま、私はまた人を巻き込む。巻き込んだ先で、人が消える。私はそれを止めたい。止めるために、私ができるのは何だ。


 店主の三つのルールが頭に浮かぶ。


 受け取った真実を正義の材料にしない。

 生活の次の一手だけを決める。

 背負いすぎない仕組みを作る。


 私はSDカードを握りしめた。握ると痛い。痛いのが現実だ。現実の痛みで、私は自分の頭の中の暴走を止める。


 宿を出ると、夜の空気が重い。商店街は静かで、シャッターの隙間から薄い光が漏れている。漏れる光は生活の残り火だ。残り火に触れると、火傷することがある。火傷しても、人は火に近づく。温かいからだ。


 私は社へ向かった。社の前に立つと、暗い。暗い中に、昨日拾った写真の形が頭の中で浮かぶ。扉の形。黒い影。触った跡。


 背後に気配があった。青年だ。いつもの通り、音もなく立っている。


「名簿を見た」


 私は青年に言った。言い方は短くする。短い言葉だけを投げる。


 青年は私を見た。目の光が少しだけ揺れる。揺れるのは嫌がっているのか、驚いているのか。私は断定しない。


「この街は私の過去を知ってる」


 私は言った。


「最初の相談者は誰」


 青年は答えない。沈黙が落ちる。落ちた沈黙は、鈴の音に似ている。冷たい。


「私の真実で死んだ人なの」


 私は問いを重ねた。重ねるのは危ない。追及は断罪の快楽に近い。私は自分の心臓の音を聞いた。早い。早い音は興奮だ。興奮は依存だ。青年が言った言葉が刺さる。私は息を吐き、声を落とした。


「違うなら、違うって言って」


 青年は少しだけ笑った。薄い笑い。薄い笑いは、嘘の笑いだと私は知っている。


「違う」


 青年が言った。


 違う。短い言葉。短いから確かに聞こえる。確かに聞こえるのに、青年の目が嘘をついているように見える。嘘をついている、と断定したくなる。でも私は断定しない。断定しない代わりに、青年の目の揺れを覚える。覚えるのが、私の仕事だ。


 そのとき、社の奥で風が動いた。木の葉が擦れる音。小さな音。小さな音なのに、空気が一段冷える。冷えの中に、鈴の気配がある。鳴っていないのに、鳴る前の緊張がある。


「南條さんは」


 私は言った。


「そこにいるの」


 青年は答えない。答えない沈黙が、私の中で意味を増やす。意味を増やすと、私は勝手に物語を作る。物語を作ると、私は正義を作る。正義を作ると、私は燃やす。


 燃やさないために、私は受け取る側へ踏み出さなければならない。


「器は作れないって、あなたは言う」


 私は青年に言った。


「でも、訓練ならできる。境界線を引く訓練。背負わない仕組みを作る訓練。受け取る技術を、増やす」


 青年の目が細くなる。怒りか、痛みか。私は断定しない。


「それは、器を作るのと同じだ」


 青年が言った。


「同じじゃない」


 私は言った。言い返しが硬い。硬いのに、声は大きくしない。


「生まれつきの資質を増やすんじゃない。共同で抱える設計を作る。誰か一人を器にしない。器を一人にしない」


 私は言いながら、店主の三つ目のルールを思い出す。背負いすぎない仕組みを作る。これが答えかもしれない。第12話で回収されるべき結論の匂いが、ここで立つ。


 青年は私を見た。見て、少しだけ視線を落とした。落とす視線は、迷いに見える。神が迷うのは弱点だ。弱点が見えると、相手が人間に見える。人間に見えると、私は判断を誤ることがある。私は自分の心臓の音をもう一度聞いた。早い。早いのを、落ち着かせる。


「入るな」


 青年が言った。声が低い。低い声は、止める声だ。


「今はまだ」


 私は息を吸った。吸った息が浅い。浅い息のまま、私は社の奥を見た。黒い影は見えない。でも、そこにあることだけは分かる。見えないものを見えると思い込むのが、私の癖だ。癖を抑えるために、私は目の前の木の幹の手触りを確かめた。ざらざらしている。ざらざらが現実だ。


「南條さんの人生を抱える覚悟がいる」


 私は呟いた。呟きは、自分に言う言葉だ。


 青年が小さく息を吐いた。吐いた息が白い。白い息は人のものに見える。人じゃないのに、人みたいに見えるのが怖い。


「君は、抱えられない」


 青年が言った。


「今の君は、燃やす」


 私は唇を噛んだ。否定したい。否定すれば気持ちいい。気持ちいいのは毒だ。私は否定しない代わりに、言う。


「だから訓練する」


 私は言った。


「受け取る訓練を、今夜からする」


 青年は私を見た。見て、何も言わなかった。沈黙は答えの形だ。私はその沈黙を、拒絶としては受け取らないことにした。拒絶だと決めると、私はまた燃える。燃えないために、私は沈黙を余白として置く。


 帰り道、私は商店街の暗い道を歩きながら、若者の鏡の前の顔を思い出した。口角が少し動いた。動いた事実。事実は小さい。小さい事実が命を繋ぐ。真実は大きいほど人を殺す。小さくして飲む。飲むための器を、一人にさせない。


 宿で見た名簿の姓が頭から離れない。過去がこの街に繋がっている。繋がっているなら、私がここにいる理由も、偶然じゃないのかもしれない。偶然じゃないと決めつけると、私は物語の主人公になってしまう。主人公になると、自己正当化が始まる。自己正当化は痛みを消す。痛みが消えると、私はまた同じことをする。


 私は痛みを残したまま、歩いた。


 夜更け、スマホが震えた。画面には、見慣れた名前が表示されている。過去の取材対象の家族。あのメッセージが、また届いた。


 あなたの真実で、あの人は死んだ。


 文字を見た瞬間、膝が少し抜けた。体が先に反応する。感情語はまだ出ない。出すと、私は自分を慰める。慰めると、私はまた楽になる。楽になるのは言った側だけだ。


 青年の声が、背後から聞こえた気がした。


 まだ言う?


 私はスマホを握りしめ、画面を消した。消す動作は、逃げに見える。逃げかもしれない。でも撤退は敗北じゃない。撤退だ、と青年が言った。言ったのは青年だ。青年の言葉に救われるのが嫌だった。嫌なのに、私は今、その言葉に縋っている。


 私はベッドに座り、呼吸を整えた。整えるのは、訓練だ。受け取る訓練。まず、真実を正義の材料にしない。断罪の快楽を切る。次に、生活の次の一手だけを決める。今夜、私は眠る。眠って、明日動く。背負いすぎない仕組みを作る。店主、若者、母親、私は一人で抱えない。抱えないために、誰と繋ぐのか。私はその問いを、紙に書きたくなった。書くと、真実が固定される。固定されると、また呪いが絡む。私は紙を出さずに、頭の中でだけ問いを転がした。


 そして、最後に残ったのは一つだった。


 南條遼介は、どこにいる。


 社の奥にある扉の向こうか。契約の中枢か。名簿の場所か。私はまだ入れない。入れば燃える。燃えれば、誰かが死ぬ。


 だから私は、燃えないための訓練を続けるしかない。


 真実を言うために、まず真実を受け取る側になる。


 その決意を、私は声にしなかった。声にすると、正しさになる。正しさになると、私はまた加速装置になる。


 暗い部屋で、私はただ手のひらを見た。手のひらの線は、昨日と同じだ。同じなのに、昨日より少しだけ震えが少ない。少しだけ、というのが大事だ。少しだけの変化が、命を繋ぐ。


 次の朝、私は青年にもう一度聞くことになる。


 最初の相談者は誰。


 私の真実で死んだ人なのか。


 青年は笑って「違う」と言う。


 でも、その目が嘘をついている。


 私はその嘘を、断罪しないまま受け取れるだろうか。

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