第6話「真実を言っても死なない相手――“受け取れる器”」

 青年の沈黙は、答えの形をしていた。


 私はそれを見てしまったせいで、目を逸らせなかった。沈黙は言葉より残酷だ。言葉なら切り返せる。沈黙は、こちらの中で勝手に意味を増やす。意味が増えると、負けた気がする。負けた気がすると、私はまた正しさにしがみつく。


 ホームのベンチは冷たかった。膝の痛みがじわじわ遅れてくる。痛みが遅れてくるのは、私は今まで何度も、痛みを後回しにしてきたからだ。記事の締切、取材の段取り、証拠の整理。痛みは後でいい。後で、という言葉が現場を回す。後で、という言葉が人を壊す。


 青年は、私のスマホの画面を見ない。見ないのに、知っているみたいな顔をする。


「それ、まだ来るんだ」


 青年が言った。軽口でもなく、慰めでもない。事実を事実のまま置く声。


「……来る」


 私は唾を飲んだ。飲み込みが浅い。喉が乾いている。乾きは、この街の呪いのせいだけじゃない。自分の過去が乾かしている。


「君の真実で死んだって言われて、君はどうする」


 青年の問いは、喧嘩のための問いじゃない。試験みたいな問いだ。答え方で、私の価値を測られる気がして、腹が立つ。


「どうするって、何を」


「次も言うの」


 青年が繰り返した。


 私は言葉を探した。探している間に、脳裏に過去の取材対象が浮かぶ。顔を出したくないと言った人。家族のために黙っていた人。私が「真実を出せば救われる」と言った人。あのとき私は、自分の声が正しいと思っていた。正しいと思っていた声は、誰かの生活を踏み潰した。踏み潰された生活の中で、人は死ぬことがある。死は物理だけじゃない。第2話の告発者みたいに、息をしていても、居場所が消える死がある。居場所が消えた人が、最後に何を選ぶか。私はその先を、見ないふりをしてきた。


「私は」


 声が掠れた。


「言う方法を変える。死なない相手に、届ける」


 青年が少し笑った。笑ったのに目は笑っていない。


「相手を選べば、真実は安全になるって?」


「安全にする」


「できる?」


 できる、とは言えなかった。言えば自分を正当化することになる。正当化がいちばん危険だと、私は今、分かっている。分かっているのに、やめられないのが癖だ。


「君は、それになれる?」


 私はさっき青年にぶつけた言葉を、自分の中でもう一度繰り返した。真実を言っても死なない相手。受け取れる器。器があるなら、救いは作れる。器がないなら、嘘で延命するしかない。延命は、生きることの形の一つだ。分かっている。でも私は、延命だけで終わるのが嫌だ。


 青年は立ち上がった。ベンチの影が揺れる。揺れは短い。


「今日は帰る」


「逃げるの?」


 私は思っていたより強い声で言ってしまった。声が大きい。大きい声は、喫茶店主の顔を思い出させる。私はすぐに喉を押さえた。青年が私を見た。


「逃げじゃない。撤退」


 第2話で青年が言った言葉を、青年は同じ調子で言った。言い返せない。言い返せないのが悔しい。


「明日、また話す」


 青年はそう言って、ホームの階段を下りていった。


 残された私は、しばらく動けなかった。動くと、自分が崩れる気がした。崩れたら、また誰かに寄りかかる。寄りかかる相手がいない人は、この街で死ぬ。だから崩れたくない。


 翌朝、商店街の端にあるコンビニで水を買った。買うとき、レジの音が妙に大きく聞こえた。ここでは、音がすぐに意味を持つ。意味が増えるのが怖いのに、私は音に敏感になる。敏感になることで、守られるものもある。守られるものがあるから、人は敏感になる。


 私は喫茶店へ向かった。喫茶店主は、まだ店を開けていた。看板は出ている。出ているのに、扉が半分だけ閉まっている。半分だけ閉まっているのは、逃げるためだ。逃げ道を確保する店の姿は、生活の防衛線だ。


 扉を開けると、鈴が鳴った。鈴の音が、昨日より硬い。硬い音は、緊張だ。店主はカウンターの奥で、コーヒー豆の袋を折っていた。折り方が速い。速い手は、落ち着かない手だ。


「来たのか」


 店主が言った。声が低い。低い声は、怒りというより諦めだ。


「すみません」


 私は頭を下げた。頭を下げるのは簡単だ。頭を下げても、状況は変わらない。変わらないのが分かっているのに、私は下げる。そういう癖も、私にはある。


「もう関わるなって言った」


「分かってます。でも」


 私は言葉を探した。店主はそれを待たない。


「昨日、町内会が来た」


 店主が言う。


「噂が広がってる。あなたが、真実を言っても死なない方法を探してるって」


 私の喉が乾いた。噂は速い。噂は誰の顔も持たない。顔がないから止められない。


「噂が、あなたを殺す」


 店主が、ぽつりと言った。殺す、という単語が、喫茶店の匂いを変える。コーヒーの匂いが急に苦くなる。


「俺は、たまたま生き延びただけだ」


「たまたまじゃない。条件がある」


 私は言った。言って、しまった、と思った。断定は危うい。断定は人を追い詰める。私は自分の断定で、何人も追い詰めてきた。


 店主は顔を上げた。


「条件があるなら、もう一度言う。相手だ。相手が受け取れないと死ぬ。受け取れる相手なら、生きる」


「受け取れる相手って何ですか」


 私は聞いた。聞きながら、答えが怖い。答えが怖いのに、聞く。


 店主は小さく笑った。笑いは乾いている。


「受け取れる器だよ。聞いても壊れない人。聞いても自分を守れる人。線引きができる人」


 線引き。私は思った。線引きができる人は、優しいだけの人じゃない。優しいだけだと、真実に飲み込まれる。飲み込まれると、溺れる。溺れた人は、誰かを引きずる。引きずられた人が死ぬ。


「器は、作れるんですか」


 私は尋ねた。店主は首を振った。


「俺は作れないと思う。生き方が器になる。今から急に器になれる人はいない」


 その言葉が、胸の奥に刺さった。器は作れない。もしそうなら、真実は限られた相手にしか届けられない。限られた相手にしか届かない真実は、世の中を変えない。変えないなら、私は何のために書いてきた。


 店の外で、靴音がした。軽い靴音。観光客の靴音だ。店主が顔を強張らせ、扉が開いた。


 入ってきたのは男だった。背が高く、カメラバッグを肩にかけている。服は地味だが、靴が新しい。新しい靴は旅の靴だ。旅の人間は、この街の空気を知らない。知らないから、言葉が軽い。軽い言葉が、死を呼ぶことがある。


「すみません、ここ、写真撮ってもいいですか」


 男が言った。声が明るい。明るい声が、喫茶店の空気に合わない。でも合わないからこそ、私の目が離れない。


 店主が短く答える前に、青年が店の隅に現れた。現れ方がいつも通り自然すぎて、私は一瞬、青年が最初からいた気がした。青年は男を見て、嫌そうな顔をした。


「外を巻き込むな」


 青年が私に向けて言った。小声なのに、圧がある。


「巻き込んでない。たまたま来た」


 私は言った。嘘じゃない。嘘じゃないのに、言い方は嘘っぽい。青年が眉を寄せる。


 男は私たちの空気に気づかず、店の中を見回した。


「いい雰囲気ですね。昭和っぽい。街全体が、ちょっと時間が止まってるみたいだ」


 時間が止まっている。外部者の言葉は軽い。軽いのに、本質を突くことがある。この街は、言葉が止まっている。止まっているから、生活が固まる。固まった生活の中で、暴力が増える。


「あなた、写真家ですか」


 私は男に声をかけた。男が振り向く。目が真っ直ぐだ。真っ直ぐな目は、攻撃じゃない。好奇心だ。好奇心の目は、受け取れる器に近いことがある。受け取る準備が、目に出る。


「はい。旅してます。撮って、展示して、また旅して」


 男は笑った。笑いが自然だ。自然な笑いは、線引きができる人の笑いに見えた。無理に場を繋ぐ笑いではない。


 青年が私の隣で、短く舌打ちした。舌打ちは焦りだ。焦りは、危険の予告だ。


「ここは、撮らない方がいい」


 青年が男に言った。言い方が雑だ。雑な言い方は、外部者を反発させる。


「え、なんでですか」


 男が首を傾げる。その仕草が柔らかい。柔らかいのに、引かない目をしている。引かない目は、器の可能性だ。


「ここは、言葉が危ない」


 私が言った。言った瞬間、喉が少し乾く。乾くのに、詰まらない。詰まらないのが不思議だ。相手が外部者だからか。外部者なら、まだ呪いが絡んでいないのか。


「言葉が危ないって、どういう」


 男が笑いながら聞く。笑いながら聞けるのは、今まで致命的な現場を踏んでいないからだ。でも同時に、笑いながら聞けるのは、パニックにならない性格でもある。パニックにならない人は、受け取れる器に近い。


 私は店主を見た。店主は困った顔をしている。困った顔は、巻き込みたくない顔だ。私は分かっている。巻き込んだら、店主はまた標的になる。標的になる人を増やしたくない。増やしたくないのに、私は器を探してしまう。


「少し、外で話せますか」


 私は男に言った。男はあっさり頷いた。頷き方に、警戒がない。警戒がないのが危うい。でも危うい人ほど、呪いに染まりにくいときがある。染まりにくいのが、器になる。


 喫茶店を出ると、商店街の空気が冷たかった。冬の冷たさというより、目の冷たさだ。誰かが私たちを見ている。見ているのに、目を逸らす。目を逸らすのが、この街の礼儀だ。


「あなた、名前は」


 私は聞いた。男は名刺を出した。名刺は薄い紙なのに、現実を持ってくる。


「南條。南條遼介です」


 名刺に書かれた文字は綺麗だった。綺麗な文字は、生活が整っている人の文字だ。整っているからこそ、他人の真実に飲み込まれない可能性がある。


「私は真琴。記者でした」


 言った瞬間、喉が少し詰まる。記者、という肩書きは私の傷だ。傷に触れると、呪いとは別の痛みが走る。


「でした?」


 南條が聞いた。


「今は、仕事じゃない。取材で来てる」


 私は嘘を混ぜた。仕事じゃない、は半分嘘だ。私にとって取材は仕事で、仕事じゃない。境界が曖昧になっている。


 青年が私たちの少し後ろに立っている。距離を取っている。距離の取り方が、警戒だ。


「この街、変ですよね」


 南條が言った。言い方が軽い。でも観察は鋭い。


「みんな、何か隠してる感じがする。視線が合わない。合うと、すぐ逸らす」


 私は頷いた。頷きながら、喉の乾きが増えないのを確かめる。増えない。相手が南條だからか。南條は、受け取れる器かもしれない。


「南條さん」


 私は言った。


「小さな話を聞いてもらえますか。危険はない。たぶん」


 たぶん、が口から出た。たぶん、という曖昧さは、今の私に必要だ。断定しない。断定しないと、相手を追い詰めにくい。


「いいですよ」


 南條はあっさり言った。


「写真って、結局、人の生活を覗く仕事だから。人の話を聞くのも、同じです」


 覗く仕事。私はその言葉に少しだけ救われる。覗く、という言い方は残酷だ。残酷だから、正しさを纏わない。正しさを纏わない言葉は、余白を残す。


 私は小さな真実を選んだ。小さく、危険が少ないもの。例えば、喫茶店主の過去の失言。過去に誰かを傷つけた言葉。生活の中にある小さな刃。


「この喫茶店の店主、昔、客にひどいことを言ったことがあるらしい」


 私は言った。言いながら自分の喉を確かめる。乾きはある。でも締まらない。締まらないのが不思議だ。南條の顔を見る。南條は眉を寄せるが、崩れない。崩れないのに、受け取る顔をしている。受け取る、というのは、受け流すことじゃない。受け止めた上で、自分の中で処理することだ。


「ふうん」


 南條が短く言った。


「それって、店主が悪いって話? それとも、当時の状況が悪かったって話?」


 私は息を止めた。こういう問い返しができる人は、器だ。器は、真実をそのまま殴り返さない。角度を変える。角度を変えることで、真実の刃を弱める。弱めることは、逃げじゃない。処理だ。


 青年が小さく言った。


「小さい真実はね」


 その言葉が引っかかった。小さい真実は大丈夫。大きい真実は違う。違うから、青年は警戒している。青年が警戒するものほど、私は知りたくなる。知りたくなる癖が、私の罪だ。


「この街では」


 私は南條に言った。


「真実を口にすると、人が死ぬ」


 言った瞬間、喉が少し締まった。締まったけれど、言えた。言えたことに自分で驚く。南條は笑った。


「ホラーですね」


 笑えるのは、まだ現実になっていないからだ。でも笑えるのは、壊れない性格でもある。壊れない性格は器だ。


「冗談じゃない」


 青年が低い声で言った。南條が青年を見る。


「あなた、さっきからいるけど、誰?」


「通りすがり」


 青年はいつも通り答えた。南條が笑う。


「通りすがりにしては、関係深そう」


 南條の言葉は軽い。軽いのに、相手を追い詰めない軽さだ。伊坂幸太郎の会話の軽さに近い。軽さで距離を詰めるけれど、刃を立てない。そういう軽さ。


「試してみますか」


 南條が言った。


「真実を言うと死ぬって。検証する?」


 私は息を吸った。検証。危険な言葉だ。喫茶店主の顔が浮かぶ。検証の噂が、人を殺す。私はその現実を見た。それでも私は、検証の誘惑に負けそうになる。攻略法が見えると、物語は加速する。加速するのが気持ちいい。気持ちいいものは危ない。


「やめろ」


 青年が言った。


「外を巻き込むな」


「巻き込むつもりはない」


 私は言った。嘘に近い。巻き込むつもりがないなら、私は南條に声をかけない。声をかけた時点で、私は巻き込んでいる。私は自分の手を見た。指先が少し震えている。震えは興奮だ。興奮は危険だ。


「小さな真実なら」


 私は言った。


「さっきの程度なら、大丈夫だった。あなたは、聞いても壊れない」


 壊れない、と言った瞬間、胸が痛くなった。私はまた断定をしている。断定は相手を縛る。縛られた相手は、期待に応えようとする。期待が負荷になる。負荷が、死を呼ぶ。


 南條は肩をすくめた。


「壊れないかどうかは分からない。でも、線引きは得意かも。嫌なものは嫌って言うし、無理なものは無理って言う」


 無理って言える人は、器だ。無理って言えない人が、この街で死ぬ。私は喉が少し楽になるのを感じた。


「じゃあ」


 私は言った。


「もっと大きな真実を、聞いてもらえる?」


 青年が私を睨んだ。睨みの中に、怒りと恐怖が混じっている。恐怖が混じっているのが、珍しい。青年はいつも冷たい正しさで動くのに、恐怖を見せる。恐怖は弱点だ。弱点が見えると、相手が人間に見える。青年が人間に見えた瞬間、私は自分の足元が揺れた。


「やめろ」


 青年がもう一度言った。


「それは、小さくない」


「だから、必要なんだ」


 私は言い返した。言い返した声が少し大きかった。商店街の端で、誰かの視線が動くのが分かる。動いた視線は、噂の種になる。私は舌を噛みそうになる。噛むと血の味がする。血の味がすると、落ち着く。


 南條は私と青年の空気を見て、少しだけ笑いを引っ込めた。引っ込めるのが上手い人だ。場を読む。場を読める人は、器になりやすい。


「何の真実ですか」


 南條が言った。


「この街で、最初に死んだ人」


 私は言った。


 あの夜。酔った男。階段。照明の瞬き。笑って死んだ男。私は喉が乾いた。乾きが強くなる。強くなるのに、言葉はまだ出る。南條を見る。南條は頷いた。頷くことで、受け取る姿勢を見せる。姿勢が、私の喉を少し緩める。


 私は喫茶店の中に戻りたくなかった。店主を巻き込みたくない。でも外も危険だ。私たちは商店街の裏の路地に入った。路地は狭い。狭い場所は声が広がりにくい。広がりにくいのが、助けになる。


 路地の先に、小さな社が見える。青年がよく立っている社だ。社の前の石段は湿っている。湿りは、影の湿りだ。影は、ここで息をしているみたいに見える。


 社の前で、店の鈴みたいな音がした。鳴っていないはずなのに、聞こえる。私は背中が冷たくなった。冷たさが、危険の前触れだ。


「ここで話すな」


 青年が言った。


「契約の近くだ。鈴が鳴る」


 鈴。第3話で、老人が告白したときに鳴った鈴。あの音は合図だ。合図が鳴ると、死が近づく。私は喉が締まるのを感じた。締まるのに、私は止まれない。止まると、私は自分の癖に負ける。


「南條さん」


 私は言った。


「あなたが受け取れる器なら、これは死なない」


 私は言ってしまった。言ってしまった瞬間、後悔が来る。期待を押し付けた。押し付けたくないのに、押し付けた。


 南條は少し黙ってから、頷いた。


「受け取る努力はします。受け取れなかったら、止めてください」


 止めてください。自分から線引きを口にできる。器だ。私は息を吸った。吸った息が浅い。浅い息で、私は話し始めた。


「最初に死んだ男は」


 言葉が喉で引っかかった。ひっかかりは、呪いだ。私は一度口を閉じた。唾を飲み込む。唾が飲み込めない。飲み込めないまま、南條の目を見た。南條は逃げない。逃げない目が、私の喉を少し緩める。


「男は、階段から落ちた。事故に見えた。でも、事故じゃない」


 青年が、低い声で言った。


「やめろ」


 私は続けた。


「男は、誰かに押された。押したのは」


 そこで喉が締まった。締まって声が出ない。声が出ないのに、頭の中では言葉が続く。押したのは誰だ。誰が押した。私は見たのか。見ていない。でも私は気づいている。気づいていることを言えば、私はまた誰かを殺すのか。


 社の方から、鈴の音がした。今度は確かに聞こえた。冷たい金属の音。音が空気を切る。空気が沈む。沈む空気が、肩に乗る。肩が重い。


 南條が顔色を変えた。変えたけれど、崩れない。崩れないのに、喉に手を当てる。手を当てるのは、身体が反応しているからだ。


「……息が」


 南條が言った。声が少し掠れる。


 私は心臓が跳ねた。跳ねたせいで、自分の喉もさらに乾く。これは失敗だ。私は南條を殺すかもしれない。私は慌てて言葉を止めようとした。止めようとした瞬間、青年が一歩前に出た。


「返す」


 青年が言った。


 次の瞬間、私の頭の中の言葉が、誰かに掴まれて引き抜かれる感覚がした。言葉が抜けると、脳が軽くなる。軽くなるのに、気持ち悪い。気持ち悪さが、吐き気に近い。


 南條の顔が歪んだ。歪んだ顔は怒りだ。怒りは、受け取ろうとした証だ。受け取ろうとしたのに、奪われた。奪われた怒り。


「何だ、今の」


 南條が青年を睨んだ。


「人の言葉を、奪ったのか」


 青年は平然と答えた。


「奪ってない。返してる」


「意味が分からない」


 南條の声が少し大きくなる。大きくなる声は、外に漏れる。漏れると危険だ。私は南條の袖を掴んだ。掴む手が強い。強い手は、止めたい手だ。


「声、抑えて」


 私は小さく言った。南條は私を見る。目が鋭い。でも線引きができる人は、状況も読む。南條は息を吐き、声を落とした。


「返してるって、何を」


 南條が青年に聞く。


 青年は社を見た。社は黙っている。黙っているのに、気配がある。気配があるのが、この街の異常だ。


「この街の契約は、真実を処理できない人を守る」


 青年が言う。言い方は淡々としている。淡々としているのに、怖い。


「処理できない真実は人を壊す。壊れた人は死ぬ。だから、真実は軽くする。言葉を変える。受け取れない人のために」


「それが救いだって?」


 南條が言った。


「救いのふりで支配してるだけじゃないのか」


 支配。南條は外部者なのに、核心に近い言葉を出す。出せるのは、距離があるからだ。距離があるから、呪いに染まっていない。染まっていないから、言葉が出る。言葉が出る人が、この街では危険になる。


「支配じゃない」


 青年が言った。その瞬間、青年の目に怒気が走った。怒気が、初めて本気の怒りに見える。冷たい怒りじゃない。熱を持った怒りだ。神の怒りだ。


「君が言う支配は、人を殺してでも真実を通すことだ」


 青年の言葉が鋭い。刃だ。刃が南條に向く。南條が息を止める。止める息が、怒りを耐えている。


「私は」


 私が口を開きかけた。けれど喉が詰まった。詰まった喉は、青年が奪った言葉の跡だ。私は、自分が何を言おうとしていたのか分からなくなっていた。分からないのに、焦りだけが残る。焦りは、私をまた大声にさせる。


「真琴」


 青年が私の名前を呼んだ。名前を呼ぶのは珍しい。珍しいのに、名前で縛る。縛ることで止める。止めるための呼び方。


「これ以上は無理だ。重い真実には閾値がある」


 閾値。私はその言葉を聞いて、冷えた。小さな真実は大丈夫だった。大きな真実で鈴が鳴った。真実の重さに、死が反応する。これは攻略法じゃない。地雷の地図だ。踏めば死ぬ場所が分かっただけだ。


 南條が私を見た。


「今、何を言いかけた」


 私は答えられない。答えると、また鈴が鳴る。答えないと、南條の怒りが増える。怒りが増えると、南條が街に切り込む。切り込むと、呪いが絡む。呪いが絡むと、南條が危ない。


「分からない」


 私は言った。嘘じゃない。本当に言葉が抜けている。抜けているのに、胸にだけ痛みが残る。痛みが、真実の形をしている。


「ふざけんな」


 南條が低い声で言った。怒りはある。でも叫ばない。叫ばないのは線引きだ。器の線引き。


「人の言葉を奪うなんて、最低だ」


 南條は青年に言った。


 青年は一歩も引かない。


「最低でも、生きてる」


 青年の言葉は残酷だ。残酷なのに、否定できない。死んだら声は上げられない。第5話で青年が言ったことが、ここでも刺さる。


 私は南條の腕を掴み、社から離れた。離れると、空気が少し軽くなる。軽くなるのに、罪悪感が増える。私はまた、人の真実を奪った側にいる。奪ったのは青年だ。でも私が始めた。始めたのは私だ。


「南條さん、ごめんなさい」


 私は言った。謝罪は簡単だ。簡単だから、嫌になる。


「謝られても困る」


 南條が言った。


「でも、分かった。この街は、言葉が勝手に変わる」


 南條は自分の喉を触った。触りながら、冷静に言う。


「さっき、息が詰まった。怖かった。でも、壊れなかった。俺はまだ、受け取れる」


 その言葉が、私の胸を締めた。南條は器だ。器がいるなら、攻略が進む。進むのが嬉しいはずなのに、私は怖い。器に頼ると、器が割れたときに全てが終わる。私は過去に、何度も誰かを割ってきた。


「君」


 南條が私に言った。


「真実を伝えるなら、相手の人生ごと抱える覚悟がいる」


 抱える。言葉が重い。重い言葉は、呪いに近い。近いのに、南條は言える。言えるのが器だ。


「君は抱える? それとも燃やす?」


 燃やす。私は燃やしてきた。炎上という形で。正しさという火で。燃やした火は、相手だけじゃなく自分も焼く。焼けた後に残るのは灰だ。灰は軽い。軽い灰は、風で散る。散ると、誰も責任を取らない。責任を取らない世界が、いちばん残酷だ。


 私は答えられなかった。答えると、自己正当化になる。自己正当化は痛みを消す。痛みを消すと、私はまた同じことをする。


 南條は私の沈黙を見て、ため息を吐いた。


「答えは今じゃなくてもいい。でも、俺を使うなら、覚悟を決めて」


 使うなら。南條は自分が道具になる危険を分かっている。分かっていて言っている。器だ。器は、自分を道具にしないよう線引きを持っている。それでも、踏み込む覚悟も持っている。


 青年が私たちを追ってきた。追ってきた足取りが速い。速い足取りは焦りだ。


「もうやめろ」


 青年が言った。声が低い。低い声は脅しに聞こえる。


「やめない」


 私は言った。言った瞬間、自分の声が硬いのが分かった。硬い声は、正義の声だ。正義の声は、また私を加害者にする。


「あなたは救ってるふりで、街を支配してる」


 私は青年に言った。言葉が出てしまう。出てしまった言葉は、戻らない。


「私は、真実が死なない器を増やして、あなたの嘘を無効化する」


 青年の目が細くなった。怒りが、はっきり浮かぶ。浮かぶ怒りは美しい。美しいのに、怖い。神の怒りは、人の怒りとは違う質量がある。


「増やす?」


 青年が言った。


「器は作れない」


 断定。青年の断定は、私の断定より冷たい。冷たい断定は、逃げ道を消す。


「作れないなら、探す」


 私は言い返した。


 青年は笑った。笑いは薄い。薄い笑いは、諦めに近い嘲りだ。


「外から引っ張り込むのは、ただの犠牲だ」


「犠牲にしない」


 私は言った。言いながら、確信がない。確信がないのに、言う。言う癖が私の罪だ。


 南條が私と青年の間に入った。体の入れ方が自然だ。自然だから、喧嘩が少し収まる。


「俺は自分で決める」


 南條が言った。声が落ち着いている。落ち着いた声は、器だ。


「危険なら引く。危険でも必要なら踏み込む。でも、勝手に奪うのは許さない」


 青年が南條を見た。南條の目が逸れない。逸れない目に、青年の怒りが少しだけ揺れる。揺れるのは、相手が器だからだ。器は神の力にも、少しだけ抵抗できる。


 そのとき、南條のスマホが震えた。通知音は鳴らない設定らしい。震えだけが伝わる。南條が画面を見て、眉を寄せた。


「……変だな」


 南條が言った。


「さっきまであった写真が、消えてる」


 私は胸が冷えた。消えてる。言葉だけじゃない。記録も変わる。記録が変わるなら、真実はさらに逃げる。


「どんな写真」


 私が聞くと、南條はカメラを取り出した。カメラはデジタルだが、物としての重さがある。重さがあるから、まだ信じられる。


「この街で撮ったやつ」


 南條がカメラの液晶を見せる。商店街、シャッター、掲示板の標語、喫茶店のカップ。写真の中に、さっきの社が写っている。社の奥。鳥居のさらに奥に、何か黒い影が写っていた。扉みたいな形。扉の向こうに、さらに暗い空洞。空洞が、封印みたいに見える。


 私は息を止めた。止めた息が喉を締める。締めるのに、目が離れない。


「これ、撮った覚えあります?」


 私は聞いた。南條が頷く。


「さっき、路地の奥で。変な場所だなって思って」


 青年が一歩近づいた。近づいた瞬間、空気が冷える。冷えるのは危険の合図。


「見せるな」


 青年が言った。声が少し揺れている。揺れているのは焦りだ。青年が焦るのは珍しい。珍しいから、これは核心に近い。


「封印?」


 南條が言った。言葉が軽いのに、刺す。刺すのが外部者だ。


 青年の指が、南條のカメラに伸びた。伸びた瞬間、私は反射で青年の手首を掴んだ。掴んだ手が熱い。熱さに驚く。青年の体温は、人と変わらない。でも人じゃない。


「やめて」


 私は言った。声が掠れる。掠れる声は、恐怖の声だ。


 青年は私を見た。目が怒っている。怒っているのに、私の手首を振りほどかない。振りほどかないのは、私がまだ必要だからか。必要だから殺さない。必要だから支配する。支配しているのはどちらだ。私は自分の頭が混乱しているのが分かった。


 南條がカメラをしまった。


「消さない。これは俺の記録だ」


 南條の言葉は短い。短いから強い。強い言葉は、呪いを呼ぶ。私は咄嗟に南條を見た。南條は喉に手を当てたが、咳き込まない。息が詰まらない。器だ。器は、ここでも壊れない。


 青年が小さく舌打ちした。


「勝手にするな」


「勝手にする」


 南條が言った。少年みたいな言い返しなのに、嫌味がない。線引きの言い返しだ。


 青年は私を見た。目が冷たい。


「君は、外を巻き込みすぎだ」


「巻き込まないと、変えられない」


 私は言った。言った瞬間、自分の声がまた硬い。硬い声は燃やす声だ。南條の問いが蘇る。抱えるか、燃やすか。私は今、燃やす方に傾いている。傾いている自分が怖い。


 その夕方、南條が姿を消した。


 消えた、と言うより、いなくなった。喫茶店にもいない。宿にも戻っていない。電話も繋がらない。繋がらないのは呪いのせいか、単に電波が悪いのか。どちらでも、結果は同じだ。外部者が消えた。私が巻き込んだ外部者が。


 私は商店街を走った。走ると息が切れる。息が切れると喉が乾く。乾く喉で、私は南條の名前を呼びそうになって止めた。名前を叫ぶと、噂が生まれる。噂が生まれると、南條が標的になる。標的になった人は、社会的に死ぬ。社会的な死は、物理の死に繋がることがある。


 青年は私の隣を歩いている。歩いているのに息が乱れない。息が乱れないのが腹立たしい。


「あなたがやったの」


 私は青年に言った。


「消したの」


 青年は首を振らない。頷かない。沈黙は答えの形だ。私はまた、沈黙に殴られる。


「俺は消してない」


 青年が言った。


「でも、消える方向に街が動いた」


「街が動く?」


「契約が、危険を排除する」


 青年の言葉が冷たい。冷たいのに、現象としてはそう見える。危険は真実だ。真実を運ぶ器は危険だ。危険は排除される。排除は、殺しだ。


 私は足を止めた。足を止めると、商店街の人の流れが見える。人は少ない。少ないのに、視線は多い。多い視線が、私を追う。追う視線の中で、私は一人だ。


「南條さんの写真」


 私は言った。喉が乾く。


「封印が写ってた」


 青年の目が一瞬だけ揺れた。揺れは、痛みだ。痛みがあるなら、青年にも弱点がある。


「見たのか」


「見た。消そうとした」


 青年が唇を噛んだ。唇を噛むのは、人間の癖だ。神でも噛む。噛むほど悔しい。悔しいのは、失敗したからだ。失敗したのは、過去にもあるのかもしれない。


「どこにいる」


 私が言うと、青年は少しだけ間を置いて言った。


「分からない」


 分からない。青年が分からないと言うのは珍しい。珍しいから、これは本当に分からないのかもしれない。分からないなら、怖い。街が勝手に動いて、外部者を飲み込んだ。飲み込んだ先は、封印の奥かもしれない。


 私は喫茶店に戻った。店主はカウンターを拭いていた。拭き方がいつもより丁寧だ。丁寧なのは、落ち着こうとしているからだ。落ち着こうとしている人は、もう落ち着いていない。


「写真家がいない」


 私は言った。店主の手が止まった。


「……やっぱり」


 店主が小さく言った。


「やっぱりって」


 私は問い詰めたくなった。問い詰めると、店主を追い詰める。追い詰めると、店主が死ぬ。私は喉が乾き、言葉を抑えた。


「外から来た人は、この街が嫌う」


 店主が言った。


「嫌うというより、守れない。守れないものは排除する」


 守れないものは排除する。守るための排除。矛盾の言葉が、この街のルールだ。弱者を守ると言いながら、弱者の言葉を奪う。死を避けると言いながら、生を狭める。


「南條さんは器だった」


 私は言った。言いながら、胸が痛い。器だった。器だったから、消えた。私は器を見つけた瞬間に、割ってしまったのかもしれない。


 店主が視線を落とした。


「器なんて言葉、簡単に使うな」


 店主の声は低い。低い声は怒りだ。怒りは正しい。正しい怒りは、私の喉をさらに乾かす。


「器ってのは、人だ。生活がある。明日がある。君が欲しがる攻略法の部品じゃない」


 私は言葉を失った。失った言葉の代わりに、膝の裏が冷える。冷えるのは、血が引いているからだ。血が引くと、私は倒れそうになる。倒れると、誰かに支えられる。支えられるのが怖い。


 青年が店の隅で、黙っている。黙っているのに、店主の言葉に反論しない。反論しないのが珍しい。珍しいのは、青年も同じことを思っているからかもしれない。


 私は店主に頭を下げた。


「すみません」


 謝罪は簡単だ。簡単だから、私はもう一度言った。


「でも、探します。南條さんを」


 店主はため息を吐いた。


「探すなら、社だろ」


 社。封印。鈴。契約の中枢。第10話以降に繋がる場所が、ここで形になる。


 私は喫茶店を出て、社へ向かった。夕方の空は早く暗くなる。暗くなると、人は言葉を減らす。言葉を減らすのに、噂は増える。増える噂が、暗闇で育つ。


 社の前に立つと、鈴の音が聞こえた。聞こえた気がしただけかもしれない。でも私は確かに、金属の冷たい音を思い出している。思い出しているだけで、喉が乾く。


 青年が私の隣に立った。青年は社を見上げ、目を細めた。


「入るな」


 青年が言った。


「今は、まだ」


「まだって何」


 私は言った。


「いつならいいの」


 青年が答えない。答えない沈黙が、また私を苛立たせる。苛立ちが声を大きくしそうになる。私は歯を食いしばった。


 そのとき、社の奥から風が吹いた。風は冷たい。冷たい風の中に、紙の匂いが混じっている。紙の匂い。新聞の匂い。インクの匂い。私は反射で一歩踏み出した。


 足元に何かが落ちている。写真だった。紙の写真。南條の写真だ。デジタルのはずなのに、紙になっている。紙は改変しにくい。改変しにくいものとして、この街が吐き出したのか。


 私はしゃがみ、写真を拾った。写真には、社の奥の影が写っている。扉のような黒い影。その影の縁に、かすかに指の跡みたいな汚れがある。誰かが触った跡。南條が触ったのか。触った瞬間、消えたのか。


 写真の端に、短いメモがあった。南條の字だ。走り書き。走り書きの字は、焦っている字だ。


 見えた。奥に、何かある。鈴が鳴る前に、入る。


 私は息を止めた。鈴が鳴る前に入る。鈴は契約のトリガー。トリガーが鳴る前なら、抜け道があるのかもしれない。抜け道があるなら、攻略法が進む。進むのが嬉しい。でも嬉しいの前に、怖い。南條は入った。入って消えた。消えたのに、メモを残した。残せたということは、完全に飲まれてはいないのかもしれない。


 青年が写真を覗き込み、顔を歪めた。歪めるのは、痛みだ。


「……見つけたのか」


 青年の声が低い。低い声は、負けの声に近い。神が負けを認める声。


「あなたは知ってた」


 私は言った。


「封印のこと。契約の中枢のこと」


 青年は視線を逸らさない。逸らさない目は、諦めだ。諦めは、告白に近い。


「知ってた」


 青年が言った。


「だから外を巻き込むなって言った」


「巻き込んだのは、あなたの街だ」


 私は言った。言いながら、喉が乾く。乾きが痛い。痛いのに、言葉を止めない。止めないのが、私の癖だ。


 青年が一歩、社に近づいた。近づいて、止まった。止まる足。止まる足は、入れない足だ。入れない理由がある。


「あなた、入れないの」


 私は言った。


 青年の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。揺れは肯定だ。


「俺は、人じゃない」


 青年が言った。言葉が短い。短いから重い。


「受け取れる器には、なれない」


 私は息を吸った。吸った息が浅い。浅い息のまま、私は思った。第5話で、私は青年に問いかけた。あなたはそれになれる。青年は黙った。黙った答えが、ここで形になる。なれない。なれないから、青年は嘘を渡す。嘘でしか救えない。嘘でしか救えない神。救いの形が歪んでいる。


「じゃあ、誰が入るの」


 私は言った。


 青年は私を見た。目が冷たい。冷たいのに、逃げ道をくれない目だ。


「君だよ」


 青年が言った。


 君だよ、という言葉が、私の背中を押した。押された背中は落ちる。落ちる先は闇だ。闇の中に南條がいるかもしれない。南條の人生ごと抱える覚悟がいる。抱える覚悟がないなら、私は燃やす。燃やすなら、また誰かが死ぬ。


 私は写真を握りしめた。紙が手のひらに食い込む。紙の角が痛い。痛いのが現実だ。現実が痛いなら、私はまだ生きている。生きているなら、選べる。


 私は社の奥を見た。黒い影。扉の形。扉の向こうは見えない。見えないのに、見てしまう。


 南條の声が頭の中で響く。


 君は抱える? それとも燃やす?


 私は答えられないまま、足を一歩前に出した。


 背後で、鈴が鳴った。


 冷たい金属の音が、空気を切った。

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