第5話「語らせない救済――“沈黙”は暴力か慈悲か」

 朝の光は、シャッターの隙間から入ると白すぎる。


 駅前の自販機の前で、小銭を落とす音がした。私は反射でそちらを見る。拾う手が、ひどくゆっくりだ。誰も急がない。急げば目立つ。目立てば言葉が生まれる。言葉が生まれれば、真実が増える。この街では、真実が増えることが危険と同義になっている。


 喫茶店主の顔が頭から離れなかった。もう関わるな、と言ったときの目の硬さ。生きたい、という言葉の重さ。正しいことより、明日の支払いがある、と言ったときの疲れ。私はそれを理解できる。理解できるから、余計に腹が立つ。理解できるのに、納得したくない。


 ホテルの部屋で、カーテンを少し開けた。細い光が床に落ち、埃が見える。埃は生活の残りだ。私の生活は今、街の外側に置き去りだ。置き去りにしたはずなのに、スマホの画面だけが、私の過去を引きずってくる。


 通知は来ていなかった。来ていないことにほっとして、ほっとした自分が嫌になった。


 そのとき、ドアが軽く叩かれた。叩き方が弱い。遠慮のある叩き方。私は息を整え、ドアスコープを覗いた。廊下に立っているのは、女だった。若い。髪は束ねられている。肩が少し上がっていて、寒いのではなく緊張しているのが分かる。隣には、小さな子どもがいる。眠そうな目をしている。子どもは母親の服の裾を握り、握り方が強い。


 私は鍵を外した。ドアを開けると、女は一歩下がった。下がる動きが、謝罪より先に出ている。


「すみません」


 女が言った。声が掠れている。掠れた声は、泣いた後の声だ。泣いた後の声が、生活の底にある。


「ここに来れば、話ができるって」


 言葉が続かない。喉が詰まっているのが見える。詰まっているのに、言わないといけない。言わないといけない事情がある。事情の匂いがする。


 私は部屋の中に通した。椅子が一つしかないので、私はベッドの端に座り、女に椅子を勧めた。子どもは椅子の脚にくっつき、母親の膝に顔を押し当てた。押し当て方が、確認の押し当てだ。まだいるか。逃げないか。そうやって確かめている。


「お名前は」


 私は聞きかけて、止めた。名前は真実だ。真実は増える。増やすべきかどうかを迷っている間に、女が首を振った。


「言えません」


 言えない、ではなく、言えません。丁寧語は距離だ。距離は壁だ。壁がないと崩れるから、壁を立てる。壁を立てる余裕がまだある。まだあるなら、まだ死んでいない。


「分かりました」


 私は頷いた。頷きながら、子どもの小さな靴を見る。靴の踵が擦れている。新しくない。母親は、子どものものを後回しにしてきたのかもしれない。後回しにしてきた理由は、金ではなく、日々の余裕だろう。余裕がないと、人は買い物の順番すら決められない。


「何があったか、話せますか」


 女は唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。白くなるほど噛むのは、声が漏れそうだからだ。漏れる声が怖い。怖いのに、漏らさなければ助けを呼べない。


「夫が」


 そこまで言って、女は一度息を吸った。吸った息が浅い。浅い息のまま、言葉を続けようとして、喉が鳴った。乾いた音だ。


「殴るんです」


 殴る。短い言葉なのに、部屋の空気が変わる。私は手を膝の上で握りしめた。爪が皮膚に当たる。痛みがあると、余計な言葉が減る。


「子どもも」


 女が言って、首を振った。


「今は、まだ。でも、私が」


 言葉が崩れる。崩れた言葉は、崩れた生活の形だ。


「告発したいんです」


 告発。私はその言葉に反射で頷きかける。頷けば、背中を押す。背中を押せば、誰かが落ちる。喫茶店主の言葉が刺さる。抜け道は見つけた人が最初に落ちる。告発は抜け道じゃない。正面だ。正面からぶつかって生き残れる人は、少ない。


 ドアの枠にもたれていた青年が、小さく笑った。いつからいたのか分からない。分からないのに、当たり前にそこにいる。白いシャツ。軽い影。


「語るな」


 青年は女に向けて言った。言い方が短い。短いから残酷に聞こえる。


 女の肩が跳ねた。子どもが母親の膝に顔を押し当てる。押し当てる力が強くなる。子どもは分かっていないのに、空気の変化だけは分かる。分かってしまうから、顔を隠す。


「あなた、誰ですか」


 女が掠れ声で言う。


「通りすがり」


 青年は軽く言った。


「通りすがりだけど、君の街のルールは知ってる。真実を口にすると、君が死ぬ」


「死ぬ?」


 女が眉を寄せる。死ぬ、という単語に現実味がない。現実味がないのに、喉が詰まる。身体の方が先に信じてしまっている。


 青年は続けた。


「君が告発したら、夫がどうなるか考えてみて。怒る。探す。君を追う。子どもを使う。最悪は、子どもが死ぬ」


 私は青年を睨んだ。言い方が雑だ。雑な言い方は、女を追い詰める。追い詰めているのに、青年の言葉は的を外していない。外していないから腹が立つ。


「そんな言い方をするな」


 私は青年に言った。声が低くなる。低い声は怒りの声だ。怒りは正義のスイッチだ。スイッチが入ると、私は声を大きくしたくなる。大きくしたくなる自分が、もう怖い。


 女が私を見た。目が潤んでいる。潤んでいるのに、涙は落ちない。落ちる余裕がない。涙は余裕があるときに落ちる。


「でも」


 女が言った。


「言わないと、ずっとこのままです」


 ずっと。ずっとは、終わりがない。終わりがない生活は、人を削る。削られた人は、次に子どもを削る。削るつもりがなくても、削る。私は子どもの靴をもう一度見た。擦れた踵。擦れた踵は、歩かされた距離だ。


「沈黙を強要するな」


 私は青年に言った。


 青年は肩をすくめた。


「沈黙は暴力にもなる。けど慈悲にもなる。死者は声を上げられない」


 死者は声を上げられない。言葉としては正しい。正しいから、女の顔が歪む。歪む顔は、正しさに殴られた顔だ。私はその場で言葉を失う。失った言葉の代わりに、喉が乾く。乾きが、悔しさになる。


 私は女に向き直った。


「あなたが悪いわけじゃない」


 そう言ってしまいそうになって、止めた。悪い悪くないの話にすると、責任の矢印が出てくる。矢印は人を刺す。刺さった人は倒れる。倒れた人の上に、次の矢印が落ちる。


「今、子どもは安全ですか」


 私は問いを変えた。生活の問いに落とす。生活の問いは、説教になりにくい。


 女は頷いた。でも頷き方が弱い。弱い頷きは、条件つきの頷きだ。


「今日、夫は仕事で。夜には帰ります」


 夜。夜は危ない。夜は壁が薄くなる。外の目が減る。助けを呼ぶ声が届かない。私は自分のスマホを机の上に置き、画面を見た。画面は平たい。平たいのに、人を殺すことがある。


「外の支援団体に繋げます」


 私は言った。言った瞬間、青年が小さく息を吐いた。


「繋がらないよ」


「やってみないと分からない」


「分かる」


 青年の断定に腹が立つ。腹が立つけれど、私は女の前で喧嘩をしたくない。喧嘩をすると、女の身体が縮む。縮んだ身体は、逃げるための身体だ。逃げることが必要な人に、余計な恐怖を増やしたくない。


 私は女にメモを渡し、知っている支援窓口の名前を書いた。書いた瞬間、文字が滲んで見えた。目が悪いわけじゃない。滲むのは、焦りだ。焦ると視界が狭くなる。


「電話、できますか」


 女は首を振った。


「夫に見られたら」


 見られたら。見られるのが怖い生活。私は頷いた。


「私が、代わりに」


 私は通話ボタンを押した。呼び出し音。呼び出し音が鳴っている間に、喉が乾く。乾く喉は、言えないことを先に作る。


 繋がった。相手の声が聞こえる。私は状況を説明しようとした。DVの被害、子ども、今夜、逃げたい。言わなければならない要点が頭に並ぶ。並んだ順に口を開いた瞬間、言葉が引っかかった。喉が締まる。息が詰まる。まるで、誰かに首の後ろを押されるみたいに、声が出ない。


「もしもし」


 相手が言う。私は唾を飲み込む。飲み込めない。唾が喉の途中で止まる。目の前が一瞬白くなる。私は咳き込んだ。咳は乾いている。


「すみません」


 とだけ言って、切った。切った瞬間、手が震えた。震えは怒りじゃない。無力さの震えだ。無力さは、身体を冷たくする。


 女が私を見ている。期待と恐怖が混ざった目だ。私はその目に耐えきれず、視線を床に落とした。床のカーペットの毛並みがつぶれている。誰かが何度も同じ場所を歩いた跡。生活は同じ場所を削る。


「言えない」


 私は小さく言った。言い訳じゃない。事実だ。事実なのに、言った途端に自分が負けた気がした。


 青年が言った。


「ほらね。この街は、加害を支援してる」


 支援してる。言い方が刺す。刺さるけれど、現象としてはそう見える。言葉を封じることで、弱い側の外部接続を切る。切った結果、家の中の支配が強くなる。支配は静かだ。静かだから、見えにくい。見えにくいから、続く。


 私は指先に力を入れた。爪が皮膚に食い込む。痛みで、自分をここに留める。


「じゃあ、どうするんですか」


 女が言った。声が震えている。震える声は、もう時間がない声だ。


 青年が女に向き直った。その瞬間だけ、青年の目が少し違う。軽口の目ではない。見下す目でもない。距離を取っている目だ。距離を取るのは、敬意の形になることがある。


「あなたは、もう十分戦った」


 青年は敬語で言った。敬語が、女の肩を少しだけ下げる。下がった肩で、女は息を吸う。吸った息が少し深い。


「語るな。今は」


 青年が続ける。


「語る代わりに、逃げる準備をする。語るのは、生き延びてからでもできる」


 女の目が揺れた。揺れは、納得と拒否の間だ。私はその揺れを見て、胸が痛くなる。逃げるだけでは、加害者は残る。残った加害者は、次の被害者を作る。そう思うと、私は逃げる手伝いだけで終わりたくない。


「嘘で逃がす」


 青年が言った。嘘、という言葉が出ると、私の胃がきゅっと縮む。


「嘘の戸籍みたいなものを用意する。転居理由、職場への説明、保育園、近所への言い訳。どこで何を言われても、同じ筋書きで通るようにする」


 筋書き。生活の筋書き。嘘が生活を守る。私は嫌悪と納得の間で揺れた。揺れながら、女の子どもを見る。子どもは母親の膝で眠りかけている。眠りかけている頬に、乾いた跡がある。涙の跡かもしれない。子どもは泣いたのだろう。泣いて、泣き止んで、眠る。眠れるのは、まだ母親がいるからだ。


 私が言葉を探している間に、女が言った。


「でも、言いたいんです」


 言いたい。言いたいのは、正しさのためじゃない。自分が自分でいるためだ。言わないと、自分が消える。消えた自分の代わりに、加害者の言葉が入ってくる。入ってきた言葉が、子どもに渡る。渡るのが怖い。


「真実を言えば、私は救われる気がする」


 女が言った。声が掠れる。掠れた声が、喉の傷だ。


「でも、子どもを死なせたくない」


 その二つが同時に出てくると、部屋が息苦しくなる。私は喉が乾いた。乾きが、言葉を減らす。言葉を減らしたまま、私は頷いた。頷くしかない。頷くことが、受け取りの第一歩になる。


 青年がもう一度、女に敬語で言った。


「あなたは、戦い方を間違えていません」


 間違えていない、という言葉は危うい。断定は余白を消す。でも青年の言葉は、正しさの断定ではなく、評価の断定だ。評価は支えになることがある。支えがないと、人は逃げられない。


「今は、生きる方を選んでください」


 青年の声は冷たい。でも冷たさが、女を責めていない。責めない冷たさは、意外と優しい。


 私は青年を見た。青年は私を見ない。見ないことで、自分が加害の側に立つことを避けているように見える。避けているのに、手は出す。手を出すのが、嘘の神の仕事だ。


「私も手伝います」


 私は言った。言った瞬間、胸の奥がきしむ。敗北感が先に来る。言う自由のために生きてきた私が、沈黙のために動く。矛盾が痛い。痛いのに、目の前の子どもの頬が、矛盾より重い。


 青年が頷いた。


「じゃあ、手順」


 手順。手順に落とすと、悲鳴が減る。悲鳴が減ると、炎上が減る。炎上が減ると、命が増える。そうやって、私は自分を納得させようとする。


 私たちは机の上に紙を広げた。女が夫に気づかれないよう、外に出る理由。荷物を持ち出すタイミング。子どもを連れて出る方法。見送る人間がいないようにする時間帯。駅までの道。タクシーを使うならどこで拾うか。タクシー運転手に何と言うか。言葉は少ない方がいい。少ない言葉で済む筋書きを作る。


 青年は、生活の細部をよく知っている。役所の窓口の時間、保育園の提出書類、転居届の流れ。私はそれが気味悪かった。気味悪いのに、役に立つ。役に立つから、また腹が立つ。


「転居理由は」


 青年が言う。


「親の介護。親戚の手伝い。療養。いくらでもある。どれも真実じゃなくていい。真実じゃない方がいい。真実は追跡される」


 追跡される。私の脳内に、過去の炎上の追跡が蘇る。記事が拡散され、住所が晒され、家族の写真が掘り起こされ、職場に電話が鳴り続ける。社会的な死は、声の暴力だ。声の暴力の前では、正しさは盾にならない。盾にならないどころか、的になる。


 女は震えながら頷いた。頷くたびに、息が少しだけ深くなる。深くなる息が、生き延びるための息だ。


「あなたのスマホ」


 青年が言った。


「位置情報は切る。アプリは消す。連絡先は最低限。夫の番号は残すな。残した瞬間に、あなたは戻る」


 戻る。戻るのは、愛情ではなく、習慣だ。習慣は鎖だ。鎖は切れにくい。切れにくいから、事前に準備が必要になる。


 私は女に聞いた。


「頼れる人はいますか。街の外に」


 女は首を振った。振り方が小さい。頼れる人がいないのではなく、頼れる人がいたとしても頼れない。そういう首の振り方だ。頼ると、夫に知られる。知られると、頼った人が危険になる。危険になるのが分かっている人ほど、頼れない。


 私は頷いた。


「じゃあ、まずは今日だけ乗り切る」


 今日だけ。短い時間に落とす。未来を広げると、絶望が広がる。今日だけなら、手が動く。


 その夜、女は一度家に戻ることになった。戻らないと不自然だ。戻らない不自然は、夫を刺激する。刺激は危険だ。危険が子どもに向く。だから戻る。戻るという選択が、既に暴力の影響下にある。私はそれを分かっているのに、手順として受け入れるしかない。


 女が部屋を出るとき、子どもは目を覚ました。眠い目で私を見て、すぐに母親の手を握る。握る手が小さい。小さい手が、生活を引っ張っている。


「明日」


 私は女に言った。


「ここで待ち合わせましょう。逃げるのは、夜」


 夜。夜が怖い。怖いのに、夜しかない。


 女が頷いたとき、青年が言った。


「語るな。夫に、何も言うな」


 女は唇を噛み、頷いた。頷く動きが、もう泣く余裕のない動きだ。


 女が去ったあと、私は部屋の椅子に座り、しばらく動けなかった。動けないのは疲れではない。自分の中の正義が、行き場を失っている。加害者は残る。残る加害者のことを考えると、私は逃げるだけで終わりたくない。終わりたくないのに、街の呪いが外部への言葉を塞ぐ。塞がれた状態で戦えば、女と子どもが死ぬ。死ぬかもしれない。かもしれない、が現実になる確率が高い。この街は、その確率を上げる仕組みで回っている。


「納得してない顔」


 青年が言った。


 私は青年を見た。青年は窓際に立ち、外を見ている。外には商店街の灯りが点々と残っている。灯りは少ない。少ない灯りが、逆に寂しい。


「当然だ」


 私は言った。


「逃げても、加害者は残る」


「残るよ」


 青年は簡単に言った。


「残って、別の誰かを殴るかもしれない」


 私は拳を握った。


「なら、止めるべきだ」


 青年が私を見た。目が少しだけ細くなる。


「止める方法があるなら、ね」


「ある。警察。支援団体。行政」


 私が言うと、青年は少しだけ笑った。笑いは嘲笑に見えそうで、見えない。青年の笑いは薄い。薄い笑いは、諦めの笑いになる。


「この街では、それが繋がらない」


 青年が言った。


「繋がらない街で、繋げようと叫ぶのは、君の癖だ」


 癖。私は言い返そうとして、言い返せない。私はいつも叫んでしまう。正しいと思ったとき、声が大きくなる。声が大きくなると、目が集まる。目が集まると、群れができる。群れができると、誰かが死ぬ。私はその流れを第2話で見た。見たのに、また繰り返しそうになる。


 翌日、女は約束の時間より早く来た。顔色が悪い。頬がこけている。夜の間に眠っていない。眠れない夜は、身体から余裕を奪う。余裕がないと、逃げる力が減る。


 子どもは母親の背中でうとうとしている。小さなリュックが揺れ、リュックのチャックが少し開いている。中に何が入っているか分からない。分からないのに、必死に詰めたのが分かる。必死な詰め方は、生活の詰め方だ。


「大丈夫でしたか」


 私は聞いた。女は頷いた。でも頷いたあと、首を横に振った。頷きと否定が同時に来る。そういうとき、人は細部を言えない。言うと、崩れる。


「夫が、今日、早く帰るって」


 女が言った。声が震える。震える声が、予定を壊す。


 青年が言った。


「予定を変える。今夜じゃない。今」


 女が目を見開く。今。今は無理だと思うのが普通だ。今は準備が足りない。今は荷物が足りない。今は子どもが疲れている。今は、周囲が見ている。今は、何もかもが不安だ。でも不安の中でしか、逃げられないことがある。


「でも」


 女が言いかけた。言いかけた瞬間、喉が詰まり、咳き込む。咳は乾いている。乾いた咳が、呪いの兆候にも見える。私は女の背中をさすった。背中が硬い。硬い背中は、殴られる背中だ。殴られる背中は、未来を想像できない。


「語らないでいい」


 青年が言った。女に向けた言葉なのに、私の喉も少し楽になる。


「今は、動く」


 私たちは動いた。駅ではなく、まずバス停へ。バス停は商店街の外れにある。外れは目が少ない。少ない目の中を、私たちは早足で歩いた。早足が不自然にならないように、私は女にパン屋の紙袋を持たせた。紙袋は偽装だ。偽装が、生活の姿を作る。


 女は何度も後ろを振り返った。振り返る癖は、追跡される人の癖だ。追跡される癖は、簡単には消えない。消えない癖のまま逃げるのが、現実の逃走だ。


 バスに乗ると、女は窓側に座り、子どもを膝に抱えた。子どもは眠っている。眠っている間だけ、母親の顔が少しだけ柔らかくなる。柔らかい顔が、彼女の本来の顔なのかもしれない。柔らかい顔を見ていると、私は胸が痛くなる。胸が痛いのに、言葉が出ない。言葉が出ると、正義を押し付けたくなるからだ。


 青年は、私たちの少し後ろに座った。誰の連れにも見えない距離。見えない距離が、助けになる。助けが目立つと、壊される。壊されないための距離がある。


 降りる停留所を二つ先に変えた。変えた理由は簡単だ。誰かが待っていたら困る。誰かが待っていたら、逃げる前に捕まる。捕まると、子どもが死ぬかもしれない。かもしれない、が現実になる確率を、私はもう上げたくない。


 バスを降りると、小さな公園があった。ブランコが二つ。錆が出ている。錆は放置だ。放置は、誰も声を上げなかった結果だ。声を上げると死ぬ街で、放置は増える。増えた放置の中で、子どもが育つ。私はそれを見たくない。


 青年が言った。


「ここで一度、筋書きを確認する」


 女が頷く。頷きながら、唇を噛む。唇が乾いている。私は自販機で水を買い、女に渡した。女は水を飲む。飲み方が早い。早い飲み方は、喉がずっと乾いている人の飲み方だ。


「転居理由は、親の介護」


 青年が言う。


「親戚の家にしばらく行く。夫には言わない。言ったら追う。追われたら詰む」


 女が小さく頷いた。


「職場には、体調不良」


 青年が続ける。


「子どもの園には、家庭の事情。詳しくは言わない。言わない方がいい。言えば誰かが正しくなりたがる」


 正しくなりたがる。私はその言葉に、昨日の自分が刺された気がした。私は正しくなりたがっている。正しくなりたがって、誰かの生活を踏み潰しそうになる。


 女が突然、泣き出した。声を出さない泣き方だ。声を出さない泣き方は、習慣だ。声を出すと怒られる。怒られると殴られる。殴られると、子どもが泣く。泣くと、もっと殴られる。だから声を出さない。声を出さない泣き方が、彼女の身体に染みついている。


 私は何も言えず、ただティッシュを渡した。ティッシュを取る手が震える。震える手が、生活の限界だ。


 青年が、少し間を置いて言った。


「あなたは、もう十分戦った」


 またその言葉。敬語。女の肩が少しだけ下がる。肩が下がると、呼吸が戻る。呼吸が戻ると、人は動ける。動けることが、今は正義だ。


 その後、私たちは駅へ向かった。改札の前で、女の足が止まった。止まるのは当然だ。改札を越えると、戻れない気がする。戻れない気がするのは、鎖が切れる音が聞こえるからだ。鎖は痛い。鎖が痛いのに、鎖がないと立てない人もいる。鎖がないと立てない人が、鎖を切る瞬間は、誰かの支えが必要になる。


 私は女の隣に立ち、言った。


「子どもを守る方を選んだ。それは、逃げじゃない」


 言いながら、自分の言葉が綺麗すぎる気がした。綺麗すぎると嘘になる。嘘になると、女の生活を支えない。私は続けた。


「今日、ここまで来た。それだけでも、もう十分やってる」


 十分、という言葉は危うい。十分じゃないと言われ続けた人は、十分と言われても信じられない。でも今は、その言葉が必要だ。


 女は頷き、改札を通った。子どもが目を覚まし、眠そうに母親の顔を見る。母親は笑おうとして、笑えない。笑えない代わりに、頬に触れた。触れ方が優しい。優しい触れ方ができるだけの余裕が、少し戻っている。


 電車に乗り、街が遠ざかる。窓の外の景色が動くと、私は少しだけ安心する。動く景色は、追跡を遅らせる。遅らせることが、生き延びる時間になる。


 目的の町に着くと、青年が女に封筒を渡した。封筒の中には、今日から使う名前と連絡先が書かれている。名前は嘘だ。嘘が彼女を守る。私はその封筒を見て、胸が重くなる。重くなるのに、封筒を否定できない。


「これで」


 青年が言った。


「今日のあなたは、別人になる。別人になるのは悪じゃない。生きるための仮面」


 仮面。仮面は、私も被ってきた。記者の仮面。正義の仮面。仮面を被ると、自分が楽になる。楽になると、他人を切れる。切ってしまったのが、私の過去だ。私は封筒を見ながら、視線を逸らした。


 女が言った。


「いつか、真実を言いたい」


 その言葉は、小さかった。小さいからこそ、刺さる。言いたいのは、復讐ではない。自分が自分であるためだ。自分が自分であるために、いつか、という言葉に縋る。縋ることで、今日を乗り切る。


 青年は女を見た。青年の目が、ほんの少しだけ曇る。曇りは一瞬で消える。でも私は見た。見てしまった。


「いつか」


 青年は繰り返し、そこで止めた。


 肯定しない。否定もしない。余白のまま置く。その余白が、残酷だ。残酷なのに、優しい。優しいのに、冷たい。私はその矛盾が嫌で、青年を睨んだ。


 女は子どもの手を握り、私に頭を下げた。


「ありがとうございました」


 ありがとう、という言葉が喉を刺す。私は何をした。嘘で逃がした。真実を語らせなかった。加害者は残った。私は勝ったのか、負けたのか。分からない。分からないまま、女と子どもは歩き去る。歩き去る背中が、細い。細い背中が、生活の細さだ。


 帰り道、私は駅のホームのベンチに座った。ベンチの冷たさが、太腿に刺さる。刺さる冷たさは、現実だ。現実が刺さるほど、言葉が出ない。


 青年が隣に座った。座り方が軽い。軽いのに、影が濃い。


「語らない救済」


 青年が言った。


「君の負け?」


 私は答えられなかった。答えられないまま、スマホが震えた。通知。画面に表示されたのは、またスクリーンショットだった。過去の記事。コメント欄。晒された名前。晒された住所。罵倒。脅迫。私は指先が冷えた。


 次に表示されたのは、メッセージだ。短い文章。送り主の名前は見えない。見えない方が怖い。


 あなたの真実で、あの人は死んだ。


 私は呼吸が止まった。止まった呼吸が、喉を締める。喉が締まると、言葉が出ない。言葉が出ないまま、膝が崩れた。床に膝が当たる。硬い。硬い床が、現実の硬さだ。


 私はスマホを握りしめた。握りしめる手が震える。震えは怒りじゃない。罪悪感だ。罪悪感は、身体を冷たくする。私は冷えたまま、青年を見上げた。


 青年は私を見下ろしていた。目は笑っていない。笑っていない目が、私の過去を知っているように見える。知っているのに、責めない。責めないのが、余計に痛い。


「まだ言う?」


 青年が言った。声が低い。低い声が、私の喉をさらに乾かす。


 私は膝の上で手を握り、ほどき、また握った。爪が皮膚に食い込む。痛みがないと、私はここにいられない。


「真実を言っても死なない相手がいる」


 私は言った。声が掠れる。掠れる声は、負けの声だ。


「あなたは、それになれる?」


 青年が一瞬、黙った。


 その沈黙が、答えの形をしていた。

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