第4話「真実が死なない条件――“語る相手”の問題」

 喫茶店は、昼と夜で匂いが変わる。


 昼はコーヒー豆の甘い焦げ、夜は洗剤と湿った木の匂いが勝つ。カウンターの上に伏せられた椅子が、脚を空に向けて並び、窓の外の商店街は早くも暗い。シャッターが閉まる音が、遠くから順番に届く。金属の擦れる音が、この街の口を塞ぐ作業みたいに聞こえた。


 店主は、看板を裏返してから鍵をかけた。小さな鍵が回る音が思ったより大きい。私はその音で、今日ここに来た理由をもう一度確かめたくなる。確かめるほど、喉が乾いた。


 店主は私を奥の席に通し、テーブルの上の灰皿を片づけた。もう吸わないのに、手癖だけが残っているような動きだ。指の関節が硬い。長い間、同じ場所で同じ動きを繰り返してきた手に見えた。


「時間を決めたのは、誰かに見られたくなかったからですか」


 私がそう聞くと、店主は頷いた。頷き方が小さい。首だけで済ませようとする癖がある。声も同じだろう。大きな声は、この街では危険だ。


「見られたくないというより、聞かれたくない。ここは壁が薄いんです」


 壁が薄い。喫茶店の壁の話なのに、街の話に聞こえる。私は椅子に座り直した。座面の布が少し毛羽立って、太腿にざらついた感触が残る。感触が残ると、現実に戻る。


 店主がテーブルに水を置いた。氷のない水。音を立てないためだろうか。私はコップに触れた。冷たくない。冷たくない水が、身体の内側だけを乾かす。


「生き延びたんです」


 店主が言った。前置きがない。


「真実を言って、死にかけた。でも、死ななかった」


 私は息を吸った。胸の奥が痛い。痛いのに、言葉は出る。


「どうして」


 店主は私を見た。視線が揺れない。揺れない視線は、覚悟の視線だ。覚悟は、いつも遅れてくる。遅れてきた覚悟は、生活の裏側で育つ。


「相手です」


「相手」


「語る相手が、受け取れないと死ぬ。受け取れる相手なら、死なない」


 受け取れる相手。その言い方が、荷物の受け取りみたいで気持ち悪い。けれど、荷物の受け取りに似ているのかもしれない。受け取る意思があるかないか。受け取る力があるかないか。受け取れないのに荷物を投げつければ、人は壊れる。


「受け取れるって、どういう」


 私が言いかけたところで、椅子が軋んだ。隣の席に青年が座っていた。いつからいたのか分からない。分からないのに、当たり前みたいにいる。白いシャツの袖口が、店の薄暗さで少し灰色に見える。


「受け取れる、って便利な言い方だね」


 青年が言った。


「心が広いとか、優しいとか、そういう話?」


 店主は青年を見ない。青年を見ないことで、青年を存在させない。存在させないことで、真実を増やさない。私はその技術をまだ持っていない。青年を見る。青年は笑っていない。笑っていないのに、軽い。


「優しさとは違います」


 店主が答えた。青年にではなく、私に。


「その人が、受け取る覚悟をしているかどうかです。受け取った後に、暮らせるかどうかです」


 暮らせる。そこが生活だ。生活が続くかどうか。真実は正しい。けれど正しさは、生活を守ってくれないことがある。私はそれを、もう二度見た。優斗の炎上と、老人の呼吸。


「じゃあ」


 私は言った。


「正しい相手に届ければいい」


 言った瞬間、自分の声が少しだけ大きくなったのが分かった。店主の肩が小さく揺れる。揺れが警戒だ。私は咳払いでごまかした。ごまかす癖が、少しずつ増えていく。


 青年が笑った。今度は口元だけ。


「燃えるねえ。記者さん」


 記者、と呼ばれると胸がざわつく。元だ。今は元だ。そう言い訳したくなる。言い訳した瞬間、私は逃げになる。逃げになるのに、逃げたい。


 店主が続けた。


「正しい相手、というのも危ないんです。ここでは、正しいと言った瞬間に、誰かが正しくないになる」


 私は返す言葉を探した。探している間に、青年が足を組んだ。靴のつま先が、床を軽く叩く。叩く音が小さくて、逆に耳に残る。


「で、店主さん」


 青年が言った。


「あなたは誰に言ったの」


 店主は少し黙った。黙り方が、傷を触る人の黙り方だ。


「妻です」


 その一言が、空気を変えた。喫茶店の奥の暗さが少し濃くなる。私は息を吸って、吐いた。妻という言葉は、近い。近いから危ない。近いから受け取れるのかもしれない。近いから受け取れないのかもしれない。


「妻は、受け取ったんですか」


 私が聞くと、店主は頷いた。頷いてから、首を横に振った。


「受け取った。でも、壊れた。壊れたけど、死ななかった。だから、あれは正解だったのか分かりません」


 正解か分からない。その言い方が、私の胸に刺さった。私はいつも、正解を探してきた。記事は正解を示すためのものだと思っていた。事実を積み上げれば、正解に近づく。そう信じていた。けれどここでは、正解が命を殺す。


 青年が言った。


「生き延びたって言うけど、きれいな生き延び方じゃないんだね」


 店主は答えない。答えないことが、答えだ。


 私は水を飲んだ。水が喉を通るだけで、乾きが消えない。乾きは、怖さだ。


「その条件を、確かめたい」


 私が言うと、青年が眉を上げた。


「また実験?」


 その言い方に腹が立った。実験と言われると、私は人を道具にする冷たさを突きつけられる。けれど、確かめなければ誰も救えない。確かめなければ、私はただ見ているだけになる。


「確かめないと、前に進めない」


 私は言った。


「抜け道があるなら、使う」


 店主が小さく息を吸った。息の音が聞こえるほど、静かだ。


「やめた方がいい」


 店主が言った。声が弱いのに、言葉は強い。


「抜け道は、見つけた人が最初に落ちます」


 私はその言葉を受け止めきれない。受け止めきれないまま、青年を見る。青年は私を見返した。目の奥が、少しだけ厭そうだ。厭そうなのに、止めるための言葉を選ばない。


「君さ」


 青年が言った。


「責任取るの好きだよね」


「好きじゃない」


「好きだよ。責任取ってる自分が好き」


 言い返そうとして、言い返せない。図星の部分がある。私は正義が好きだ。正義を握っている自分が好きだ。その自己愛が、いつも次の言葉を生む。


 私は言った。


「責任は取る」


 青年が笑った。


「取れるの?」


 その一言が、刃だった。私は息を止めた。取れるか。誰かが死ぬ責任を。誰かが壊れる責任を。私は今まで何度も、取れるふりをしてきた。記事に署名をして、取材対象に頭を下げて、訴訟の恐れに耐えて。それで責任を取った気になっていた。けれど人の生活は、記事の外で続く。続く生活の責任を、私は取れない。


 それでも、私は前に進むしかない。


「検証するなら」


 店主が言った。


「軽い秘密にしてください。重いものは、受け取る側の人生も壊します」


 私は頷いた。頷きながら、自分の頷きが怖い。軽い秘密。軽い秘密で条件を確かめる。理屈としては正しい。けれど軽い秘密を軽いと言うのは、誰の尺度だ。


 青年が言った。


「付き合うよ」


 私は顔を上げた。


「止めないの」


「止めたってやるだろ」


 青年は肩をすくめた。


「責任を取るなら付き合う。相棒ってやつ」


 相棒。その言葉が喉に引っかかった。相棒だと認めたくない。認めた瞬間、私は嘘の神に寄りかかってしまう。寄りかかると、自分の足で立てなくなる。でも、私は今、寄りかかりたい。寄りかかりたいから怖い。


 翌日、私は相談者を探した。軽い秘密を持ち、誰かに言いにくいけれど、命を削るほどではない秘密。そんな都合のいい人間を、私は探している。探している時点で、私はもう人を条件で見ている。条件で見る目が、自分の中で育っていくのが分かった。


 見つかったのは、商店街のパン屋の娘だった。二十歳前後。店を手伝っている。顔は明るいのに、目の下に疲れがある。疲れは隠せない。隠せない疲れが、秘密の入口になる。


「誰にも言えないことがあるんです」


 彼女は言った。声が小さい。小さい声でも、店の奥の冷蔵庫の唸りが聞こえる。生活の音が、秘密を支えている。


「言いたい、って思うんだけど、言えない。言おうとすると、喉が」


 彼女は喉に触れた。指が喉仏のない部分を撫でる。撫でる指が震える。私は頷いた。


「言わなくていい」


 と言いそうになって、止めた。今は検証だ。検証と口にした瞬間、私はまた冷たくなる。冷たくなって、喉が乾いた。


 青年はカウンターにもたれて、パンを一つ摘んだ。許可なく。店主が眉を動かす。青年は気にしない。気にしないふりが上手い。それが神の身軽さだ。


「秘密って、たとえば?」


 青年が聞いた。軽い口調。軽い口調が、相談者の肩を少しだけ下げる。


 彼女は目を伏せた。


「恋人が、いるんです」


「それだけ?」


 青年が言うと、彼女の指が喉を強く押さえた。押さえた瞬間、顔が歪む。息が浅くなる。私は思わず身を乗り出した。


「大丈夫?」


 彼女は首を振った。唾を飲み込もうとして、飲み込めない。唾が喉の途中で止まるみたいに、顔が固まる。


 青年が言った。


「相手を選ばずに言おうとすると、詰まるね」


 私は彼女に水を差し出した。彼女は水を飲む。飲む動きはできる。言葉だけが詰まる。言葉が詰まるのがこの街の呪いだ。


「誰に言いたいの」


 私が聞くと、彼女は小さく言った。


「親に。店を継ぐって決まってるから。恋人は、外の人で」


 外の人。街の外。街の外の言葉。私はその言葉だけで、商店街の空気が少し重くなるのを感じた。ここは内と外で世界が分かれている。内側で完結することが正しい。外側へ漏れることが怖い。怖さが、生活を縛る。


 青年が言った。


「まず親に言ってみる?」


 彼女の顔が青くなった。青さが、恐怖だ。恐怖と言わなくても分かる。喉が細くなる。肩が上がる。指先が冷える。


「無理です」


 彼女は言った。言った瞬間、喉がまた詰まった。咳き込む。咳が乾いている。乾いた咳が、言葉の代わりになる。


 私は言った。


「じゃあ、友達は」


 彼女は少し考えて、頷いた。頷いた瞬間、呼吸が少し戻る。戻る呼吸が、目に見えるほどだ。肩が下がる。指が喉から離れる。唾が飲める。飲めたことに驚いて、彼女は目を丸くした。


「今、飲めた」


 彼女が言った。自分の身体の変化を口にしてしまう。それがこの街では危ないのに、今は証明になる。私は頷く。


「誰に話す?」


「同級生の、あの子なら」


 彼女が名前を言いかけて止めた。止めたのは賢さだ。名前を出すと真実が増える。増えた真実が、誰かを巻き込む。彼女はもう巻き込みたくない。巻き込みたくないのに、秘密を言いたい。その矛盾で、指先がまた震えた。


 青年が言った。


「じゃあ、その子に会いに行く」


「今から?」


 彼女が驚いた。驚きが顔に出る。驚きは少しだけ明るい。明るい驚きは、彼女を生かす側だ。私はその明るさに縋りたくなる。


「今から」


 私が言った。


 私たちは喫茶店を出て、商店街を歩いた。青年はパンを咥えたまま歩いている。歩き方が軽い。軽いのに、影が濃い。昼でも影が濃い。


 彼女の友人は、雑貨屋で働いていた。店の奥でレジの音が鳴る。ピー、という音が生活の鼓動みたいに規則正しい。友人は彼女を見ると笑った。笑いが自然だ。自然な笑いが、受け取れる相手の匂いに見えた。


「どうしたの、急に」


 友人が言った。彼女は息を吸った。喉に手を当てない。手を当てないまま、言葉が出るかどうか。私はその瞬間だけ、呼吸を忘れた。


「私、恋人がいる」


 彼女は言った。言った瞬間、死の兆候は出ない。鈴も鳴らない。喉も詰まらない。彼女の肩が、むしろ少し下がる。息が深くなる。目が潤む。泣きそうな目なのに、怖さではない。


 友人が言った。


「やっと言った」


 その言葉が、受け取りだ。責めない。驚かない。否定しない。受け取る。受け取る言葉が、彼女の呼吸を整える。


 私はその場で、自分の手のひらに汗が滲むのを感じた。汗は緊張だ。緊張は希望に似ている。希望が、ここで証明になった。


 青年が小さく言った。


「へえ」


 へえ、という短い声が、なぜか冷たく聞こえた。冷たく聞こえるのは、青年がこの結果を喜んでいないからかもしれない。喜んでいないのに、付き合っている。その矛盾が、青年にもある。


 次に私たちは、親のいるパン屋へ戻った。彼女はまだ息が整っている。整っているうちなら言える。そう思ったのだろう。私もそう思ってしまった。思ってしまったのが、危ない。


 パン屋の奥で、父親が生地を捏ねていた。腕に粉がついている。粉の白が、生活の白だ。白は汚れる。汚れた白が、この街の真実だ。


「父さん」


 彼女が呼びかける。父親が顔を上げる。目が優しい。優しい目なのに、ここが受け取れる相手かどうかは分からない。優しさと受け取りは違う。店主の言葉が頭の中で響く。


「どうした」


 父親が言う。彼女は息を吸った。吸った瞬間、喉が少しだけ鳴った。鳴った音が、細い。細い音が不安になる。


「私、恋人が」


 言いかけた瞬間、彼女の顔色が変わった。唇が乾く。目が揺れる。喉が細くなる。肩が上がる。指が喉に伸びる。指が触れる前に、咳き込む。


 父親が慌てて言った。


「おい、大丈夫か」


 大丈夫か、は正しい言葉だ。けれど正しさの言葉が、彼女の喉をさらに締める。彼女は首を振る。首を振っても言葉が出ない。言葉が出ないまま涙が出る。涙が、苦しさの涙だ。


 青年が言った。


「受け取れない」


 短い断定。断定の刃。私は青年を睨んだ。睨んでも、現象は変わらない。


 私は彼女の背中をさすった。背中が硬い。硬い背中は、防衛の背中だ。彼女はなんとか息を吸った。吸った息が細い。細い息が、命の最後に似ている。私は背筋が冷えた。軽い秘密でも、相手を間違えると死に近づく。そういうルールの輪郭が、今はっきりした。


 彼女は掠れ声で言った。


「ごめん、なさい」


 謝る必要はない。必要はないのに、謝るのがこの街の癖だ。謝ることで、真実を引っ込める。引っ込めることで、生き延びる。


 父親が言った。


「何が」


 その問いが、受け取る問いではない。詰問に近い。詰問は悪意じゃない。心配の形として出てしまう。形が間違えると、人は壊れる。


 彼女は首を振った。首を振りながら、喉を押さえる。押さえる指が白くなる。私は見ていられなくなった。視線を落とす。視線を落とした先で、粉の入ったボウルが見えた。粉は静かだ。静かに積もって、呼吸を奪う。私は粉の静けさが怖い。


 青年が彼女に近づいて言った。


「今は言わなくていい」


 青年の声は軽いのに、効果がある。彼女の肩が少しだけ下がる。息が戻る。戻る息は、嘘に近い言葉で戻る。


 私は気づく。青年は受け取れる相手のふりをするのが上手い。受け取りの形を知っている。知っているから、嘘を薬にできる。


 彼女は父親に向けて言った。


「何でもない。ちょっと疲れてただけ」


 嘘だ。嘘が安全だ。嘘が彼女を生かす。父親は納得しない顔をする。納得しないのに、追及できない。追及すると彼女が壊れると身体が知ってしまったからだろう。父親の手が生地を握ったまま固まる。固まる手が、受け取れない手だ。


 店を出ると、彼女は外の空気を吸って少し落ち着いた。落ち着いた途端、顔が赤くなる。恥ずかしさだ。恥ずかしさは、怒りにもなる。


「私が悪いみたい」


 彼女が小さく言った。私は首を振った。


「悪くない」


 悪くない、と言うのは簡単だ。簡単な言葉で救いたくなる。でも簡単な言葉は、彼女の生活を変えない。生活を変えない言葉は、時々嘘より残酷だ。


 青年が言った。


「悪いかどうかじゃない。受け取れるかどうか」


 彼女は青年を見た。青年を見る目が、少しだけ軽蔑に寄る。軽蔑は当然だ。青年は彼女の痛みを分類した。分類は痛みを軽くすることもあるけれど、軽くされた痛みは反発する。


 彼女は私を見た。


「私、どうしたらいい」


 どうしたらいい。その問いを受け取れるかどうかが、今度は私に問われている。私は喉が乾いた。乾いた喉で答えると、嘘になる。


 私は言った。


「受け取れる相手を増やす」


 言った瞬間、自分の言葉が綺麗すぎる気がした。綺麗すぎると、説教に見える。私は急いで言い直した。


「まずは、友達に少しずつ話して、味方を作る。いきなり親にぶつけない」


 生活の手順に落とす。手順は具体だ。具体は、説教を薄める。


 彼女は小さく頷いた。頷く動きが、さっきより軽い。軽い頷きが、救いの兆しに見える。私はその兆しに縋る。


 青年が言った。


「ね。抜け道」


 抜け道。言われると腹が立つ。抜け道は悪事の匂いがする。でも抜け道がなければ、人は死ぬ。この街は、抜け道を必要としている。


 その日の夕方、喫茶店に戻ると、店主が険しい顔をしていた。険しい顔は、生活の危険の顔だ。


「噂が回ってます」


 店主が言った。


「あなたが、真実を言っても死なない方法を探してるって」


 私は背中が冷えた。噂が回る速度は、街の沈黙に反比例する。誰も口にしないのに、情報は増える。増える情報は、目と距離で増える。


「誰が」


 私は言いかけて止めた。誰が、と聞いた瞬間、犯人探しになる。犯人探しは群れを作る。群れは死を呼ぶ。


 青年が言った。


「町内会だね」


 店主の顔がさらに硬くなる。硬くなった顔が、答えだ。


「閉めろって言われました」


 店主が言った。


「店を。あなたと関わるなら、営業許可がどうのって」


 私は拳を握った。爪が手のひらに食い込む。痛みが現実だ。現実が怒りを呼ぶ。怒りは声を大きくする。声が大きくなると、私は炎上の加速装置になる。第2話で見た。私は背中を押した。優斗の生活が燃えた。


「それは暴力だ」


 私は言ってしまった。声が少し大きい。大きくなった瞬間、店主の目が揺れた。揺れは恐怖だ。私は口を閉じた。遅い。


 青年が私の袖を軽く引いた。


「声が大きい」


 その一言が、私の喉を止めた。止まった喉が、恥ずかしい。恥ずかしいのに、止めてくれたことがありがたい。ありがたいと思った自分が嫌だ。


 店主が言った。


「この街で、正しいことを叫ぶと、正しい人が先に潰れます」


 私は息を吐いた。吐いた息が熱い。熱い息が、内側だけ燃えている。


「でも」


 私は言った。言葉が出る。出る言葉が、また何かを壊すかもしれない。壊すかもしれないのに、出る。


「真実を封じるのは、間違ってる」


 間違ってる。断定だ。断定は、余白を消す。余白が消えると説教になる。私は自分の言葉が危ういのを感じた。感じた瞬間、言葉を引っ込めたくなる。でも引っ込めると、店主が孤独になる。


 青年が言った。


「間違ってる、で済むなら楽だよね」


 その言葉に腹が立った。腹が立って、言い返したくなる。言い返すと、声が増える。増えた声が、また喫茶店を潰す。私は口の中で舌を噛んだ。血の味が少しする。血の味が、言葉の代わりになる。


 店主が私に言った。


「もう関わらないでください」


 その言葉は静かだった。静かだから、重い。重い言葉が、椅子みたいに私の胸に置かれる。


「僕は、生きたいんです」


 店主が続けた。


「妻もいる。店もある。正しいことより、明日の支払いがある」


 明日の支払い。生活の真実。私はそれを否定できない。否定した瞬間、私はまた他人の生活を踏み潰す正義になる。


「すみません」


 私は言った。謝るのは、この街の癖だ。癖に寄ってしまうのが悔しい。でも今は謝るしかない。


 店主は首を振った。


「謝られても困る。あなたが謝ると、僕は許さなきゃいけなくなる。許したら、また巻き込まれる」


 その言葉が鋭い。許しが暴力になる。私は今まで、謝罪と許しの構造を何度も記事で扱ってきた。けれど今、私自身がその構造の中にいる。中にいると、どこにも立てない。


 青年が言った。


「だから言ったじゃん。抜け道は、見つけた人が最初に落ちる」


 私は青年を睨んだ。睨むことでしか、今は立てない。


「あなたは落ちないの」


 私が言うと、青年は少しだけ目を細めた。


「落ちるよ」


 その答えは意外だった。意外だから、私は言葉を失う。青年は続けた。


「落ちるけど、死なない。死なないから、落ち続ける」


 落ち続ける。神の言葉は、時々だけ真実を混ぜる。混ぜられると、私はそれを受け取ってしまう。受け取ると、喉が痛い。


 店主が立ち上がった。立ち上がる動きが、決別の動きだ。テーブルの上のコップを片づける。片づける動作が、会話の終わりを告げる。


「帰ってください」


 店主が言った。


「これ以上、あなたを助けると、僕が死にます」


 死ぬ。物理的な死か、社会的な死か、どちらでもありうる。ありうるから怖い。私は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに響く。


「検証は」


 私が言いかけると、店主は首を横に振った。


「もう、しないでください」


 私は頷けなかった。頷けなかったけれど、頷くしかなかった。頷く動きが遅れて、やっと首が少しだけ動く。


 喫茶店を出ると、夜の商店街は人が少ない。少ないのに、視線がある。窓の向こう、シャッターの隙間、街灯の影。見られている感覚が皮膚に貼り付く。私は肩をすくめた。寒いわけじゃない。身を守りたいだけだ。


 青年が隣を歩く。歩幅が私と揃っているのが気持ち悪い。揃っていると、バディみたいに見える。見えるのに、私はそれを認めたくない。


「これで、分かったでしょ」


 青年が言った。


「受け取れる相手がいない人もいる。受け取れる相手を作ろうとしたら、街が潰しに来る」


 私は唇を噛んだ。噛んだ唇が痛い。痛みがあると、涙が出にくい。


「作ればいいって言ったの、私だ」


 私は言った。声が小さい。小さい声でも、喉が痛い。


「作れないの」


 青年が言った。


「作れるよ。時間があれば」


「時間」


「時間がない人もいる」


 老人の顔が浮かぶ。息の浅さ。嘘で戻る呼吸。嘘が薬になる現実。私は歩きながら、自分の手を見た。手は空だ。空の手なのに、重い。


「次は」


 青年が言った。


「語らせないで救う」


 私は足を止めた。


「語らせない」


「言わせない。言う前に、別の道を用意する」


 別の道。それは嘘だ。嘘の道だ。私は嘘を嫌っているはずなのに、今日は嘘で彼女の喉が開いた場面を見た。嘘で老人の呼吸が戻った場面を見た。嘘は悪だと言い切れない。


「選べ」


 青年が言った。声がいつもより低い。低い声は、軽口の仮面を外す。


「君が言わせたいなら、言わせればいい。正しさを貫いて、誰かを殺せばいい」


 殺せばいい。その言い方が残酷だ。残酷なのに、私は反論できない。私は正しさを貫くことで、誰かを追い詰める可能性がある。第1話の男の笑い、第2話の優斗の生活、第3話の老人の鼻血。私は全部見た。


「でも」


 青年が続けた。


「語らせないなら、君は嘘を使うことになる。嘘を使って生かす。生かした後に、君は自分を許せないかもしれない」


 許せない。自分を許せないことは、私にとって致命的だ。私は自分の正しさで生きてきた。正しさがなければ、私は空になる。空になるのが怖い。


 私は歩き出した。止まっていると、視線が増える。視線が増えると、噂が増える。噂が増えると、喫茶店が潰れる。潰れるのは店主の生活だ。私はもうそれを増やしたくない。


 ホテルへ戻ると、スマホが震えた。通知。画面には、見覚えのあるスクリーンショットが並ぶ。私が過去に書いた記事の切り抜き。タイトル。見出し。コメント欄。罵倒。嘲笑。擁護。炎上の火の粉。指先が冷える。


 私は画面を閉じた。閉じても、指先に熱が残る。熱は怒りだ。怒りは証明だ。私はまだ正しさを捨てていない。


 青年が窓際に立っていた。カーテンの隙間から外を見ている。外は暗い。暗いのに、青年の輪郭だけははっきりしている。影が濃い。


「明日」


 青年が言った。


「君は、語らせたい?」


 私は答えられない。答えられないまま、ベッドの端に座る。シーツがざらつく。ざらつきが、私の心のざらつきに似ている。


「わからない」


 私は正直に言った。正直に言っても死なない。今は私が真実を言っても死なない。だから言える。言えるうちに言ってしまう。言ってしまうのが、危ない。


 青年が言った。


「分からないなら、決めるまで付き合う」


 その言葉が優しさに聞こえそうになって、私は慌てて首を振った。優しさだと思った瞬間、私は青年を受け取れる相手にしてしまう。青年は神だ。人じゃない。店主の言葉が頭に残る。受け取れる相手の条件。受け取った後に暮らせるかどうか。


 私は青年と暮らせない。暮らせない相手に真実を預けたら、私は死ぬのかもしれない。


「相棒って言ったの、取り消す」


 私は言った。声が掠れる。


 青年が笑った。口元だけ。


「取り消せるなら楽だね」


 私は息を吐いた。吐いた息が熱い。熱い息が、まだ生きている証拠だ。


 夜更け、遠くで鈴の音が一度だけした気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、背筋が冷える。私は布団を握った。握った布団の感触が、私の現実だ。


 真実が死なない条件がある。


 条件があるなら、私は条件を使ってしまう。


 使ってしまった先で、誰が受け取れずに壊れるのか。


 その問いが、明日の朝まで私の喉に残り続けた。

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