第3話「罪を告白したい人が、死にたがる理由」

 老人の言葉が、まだ空気の中に残っている。


 私は商店街の真ん中で立ち尽くしたまま、息の仕方を思い出せずにいた。胸が上下しているのに、呼吸が身体に入ってこない。喉が乾いて、舌が上顎に貼り付く。冬でもないのに、吐く息が薄い。


「私は、本当の犯人だ。殺してくれ」


 その声は震えていなかった。震えていたのは周囲の空気の方だった。人の視線が一斉にこちらへ寄ってきて、けれど誰も見ていないふりをする。その矛盾が、この街の呼吸みたいに自然だ。


 青年は、自販機の横でアイスの棒を噛んでいた。口元だけが動いている。目は笑っていない。


「すごいね。自首って、ヒーローっぽい」


 私の皮膚の上を、言葉が滑った。滑った先が、内臓を撫でるみたいに冷える。


「あなた、知ってたの」


 私は青年に聞いた。声が、思ったより低く出た。怒鳴ってはいない。怒鳴ればこの街で何かが増える。増えた何かが誰かを殺す。その理屈が、私の声を押さえる。


 青年は肩をすくめた。


「知ってた、って言ったら君は安心する?」


「安心はしない」


「じゃあ、知らなかったでいいよ」


 会話が噛み合わない。噛み合わないのに、相手はそれを楽しむ余裕がある。余裕があるのが、怖い。


 老人がもう一度言った。


「私は悪いことをした。だから」


 だから、の後が続く前に、老人の顔色が変わった。唇が紫に寄っていく。目の奥が焦点を失いかける。私は一歩近づいた。


「大丈夫ですか」


 老人は頷こうとして、頭が揺れただけだった。杖をついていないはずの足が、急に頼りなくなる。老人の身体が前へ倒れかけて、私はとっさに腕を伸ばした。肩を支える。骨が思ったより細い。上着の布の下で、肩甲骨が硬く浮いている。


 老人の鼻から、赤いものが落ちた。


 ぽた、と音がした。乾いた商店街のコンクリートに、赤が小さく染みる。老人が息を吸おうとして、吸えない。胸が震える。


 その瞬間、どこかで鈴が鳴った。


 チリン、と細い音。


 音は小さいのに、背筋に入る。私は振り向いた。鈴が見当たらない。店の軒先にぶら下がっている風鈴でもない。風は吹いていない。


 青年が言った。


「言い切ったね」


 老人がうめく。目が私を探す。私は老人を抱えるようにして、近くの喫茶店の軒下へ引きずった。優斗が慌てて駆け寄ってくる。優斗の顔は青い。青い顔が、今朝の倉庫の暗さと重なる。あの暗さの中で、私は正義を点けた。点けた火が、優斗の生活を燃やしている。


「救急車」


 優斗が言いかけて止まる。言えば危ないと知っている目だ。私は頷いた。


「呼んで」


 優斗はスマホを取り出そうとして、指が止まる。指が震える。通話のボタンに触れる前に、何かが起きる気がしているのだ。私はその気持ちがわかる。わかるのに、現実は待ってくれない。


 青年が、淡々と告げた。


「もう遅い」


 私は青年を睨んだ。


「何が」


「言葉が外に出た。出た言葉は戻らない。君は記事でそれを知ってるだろ」


 胸の奥が熱くなる。熱いのに、手足が冷える。


 私は老人の鼻血をハンカチで押さえた。鼻血は止まらない。押さえているのに、血が布を濡らしていく。老人の皮膚は冷たく、指先だけが妙に熱い。熱が、命の最後みたいに濃い。


「名前、言える?」


 私は聞いた。老人は唇を動かす。音にならない。喉が空気を通さない。私は耳を近づけた。


「……言ったら……」


 老人の声が掠れる。


「言ったら……楽に……なると」


 楽になる、と言った瞬間、老人の目が少しだけ怯えた。怯えは死の怯えじゃない。罪の怯えだ。


 青年が言った。


「楽になるのは言った側だけ」


 その言葉は刃だった。刃が老人の胸に刺さる。老人が目を閉じる。目を閉じたまま、涙が一筋落ちる。涙が血に混じる。頬を赤く濡らす。


 救急車のサイレンが遠くで鳴った。近づいてくる。私は息を吐いた。吐いた息が、ほんの少しだけ戻ってくる。戻ってくる息の中で、私は自分の口癖を思い出した。


 真実を言えば楽になる。


 私は何度も取材で言ってきた。告発者に。被害者に。苦しんでいる人に。言えば変わる。言わなければ変わらない。沈黙は加害に加担する。正しい言葉が、正しい未来を連れてくる。


 その信仰みたいな言葉が、今は老人の喉を絞めている。


 救急隊員が駆けつけた。担架が運ばれる。隊員の動きは早い。けれど顔が硬い。硬い顔が、ここが普通の現場ではないと語っている。隊員は老人を担架に乗せ、酸素マスクを当てた。老人はそれでも苦しそうに息をする。呼吸が浅い。浅い呼吸が、嘘を拒むみたいだ。


 私は隊員に聞いた。


「大丈夫ですか」


 隊員は一瞬だけ私を見て、言葉を選ぶように口を開いた。


「……搬送します」


 大丈夫とは言わない。それが現場の正直さだ。正直さが、ここでは怖い。


 救急車が去った。サイレンが遠ざかるにつれて、商店街の空気が少しずつ戻る。戻る、というより、元の静けさに固まっていく。誰も何も言わない。誰も老人の自白に触れない。触れたら、次が起きると知っている。


 優斗が震える声で言った。


「本当に、あの人が」


 言いかけて、喉が詰まる。優斗は目を閉じて、唇を噛んだ。血が出そうな噛み方だ。


 青年が優斗に向けて、軽く言った。


「言うなよ」


 優斗が頷く。頷くしかない。


 私は青年に向き直った。


「あなたは、老人を殺す気なの」


 青年は首を傾げた。


「殺す? 君は便利な言葉を持ってるね。私はルールを動かしただけ」


「ルールを動かせるなら、止められるでしょう」


 青年はアイスの棒をゴミ箱に捨てた。捨て方が雑だ。雑なのに、手が汚れていない。


「止めるって、何を。君の正義? 彼の贖罪? この街の均衡? 全部止めたら、君が困る」


 私は言い返せない。困る、と言われて、確かにと感じてしまう。私は真実を追っている。真実がなければ、私はここに来ていない。真実がなければ、私は自分を正当化できない。


 青年が私を見て言った。


「君は正しいことをしたい。正しいことを言いたい。正しい人間でいたい。そういう欲望が、ここでは一番危ない」


 欲望、と言われると腹が立つ。けれど腹が立つのは、当たっているからだ。


 私は優斗に言った。


「今日は、もう帰って」


 優斗は頷く。頷きながら、私を見ない。見れば、何かを言ってしまいそうなのだろう。優斗は商店街の奥へ消えた。その背中が、どこか薄い。生活が削られていく背中だ。


 私はホテルへ戻った。部屋に入ると、空気が生ぬるい。エアコンの風が、現実を薄めるみたいに感じる。私はノートパソコンを開いた。ネットは相変わらず不安定だ。繋がる。切れる。繋がる。切れる。繋がるたびに、画面が真実の入口に見える。


 私はペンを握った。ノートに書く。昨日の男。優斗の炎上。老人の自白。鈴の音。鼻血。救急車。


 書いた文字が、線になる。線が事実になる。事実になると、私は安心する。安心は、また言葉を増やす。


 私は書くのをやめた。ペンを置いた。手のひらに汗が滲む。


 夜になって、青年が部屋に現れた。鍵はかけていた。チェーンもかけていた。青年は当たり前みたいに椅子に座った。座ってから、私の部屋を見回す。ホテルの安い家具。薄いカーテン。コンビニの袋。


「記者の部屋って、だいたい散らかってる」


 青年が言った。


「あなた、どうやって入ったの」


「ドアから」


「鍵は」


「鍵って便利だよね。安心の記号」


 私は舌打ちしそうになって止めた。青年に感情を見せると、青年の遊びが増える。


「老人は」


 私は聞いた。


 青年は肩をすくめた。


「まだ生きてる。けど、言葉が増えるほど死ぬ」


「増えるほど」


「語り続けたら、死ぬ」


 語り続けたら死ぬ。真実を言うと死ぬ街。老人は真実を言った。だから死に近づく。単純な因果に見える。けれど今日、老人は真実を言ってもすぐには死ななかった。鼻血が出た。息が詰まった。死の兆候は出た。けれど照明は瞬かなかった。階段から落ちてもいない。物理的な死ではなく、身体の内側からの死が始まった。


「どうして、老人は言えたの」


 私が聞くと、青年は目を細めた。


「言えたから言ったんじゃない。死にたかったから言った」


 その答えが、胸に落ちる。


 死にたいから真実を言う。


 私の中の秩序が一段崩れた。真実は救済だと思っていた。真実は光だと思っていた。光は人を救う、と。けれど光は人の影も作る。影に耐えられない人は、光を拒む。あるいは、光で自分を焼く。


「老人は、罰を受けたいんじゃない」


 青年が言った。


「許されたいんだ。言ったことで、許されると思ってる」


 私は喉が乾いた。許されたい。言ったことで許されたい。告白が免罪符になる。告白が浄化になる。その発想はわかる。人は苦しくなると、言葉で軽くしたくなる。重いものを外に出したい。外に出せば、抱えなくて済む。抱えなくて済むから、楽になる。


 私は言った。


「でも、言わなければ始まらない。被害が」


 言いかけて止めた。被害、という言葉は、誰かを被害者に固定する。固定された人は、役割を背負う。背負った役割が、人生を狭める。


 青年が言った。


「君は言葉で人を分類する癖がある」


「仕事だから」


「仕事って便利だね」


 青年は笑った。笑いが薄い。


 私はベッドの端に座った。シーツが安っぽくて、指先が引っかかる。引っかかりが現実だ。私は現実にしがみつくみたいに、シーツを握った。


「どうすればいい」


 私は言ってしまった。質問は弱さだ。弱さを見せると、青年は楽しくなる。けれど私は今、答えが欲しかった。


 青年は少し考えるふりをして言った。


「君がやりたいのは、老人を生かすこと? それとも正すこと?」


 正す、という言葉が痛い。正したい。正したいから来た。けれど正すことが老人を殺すなら、私は何を優先する。


「両方」


 私は言った。


 青年は頷いた。


「欲張り」


 私は何も言えない。欲張りでも、そうしたい。


「じゃあ、手順を学べ」


 青年が言った。


「正しさは順番を間違えると刃になる。君は刃物を持って走るタイプ」


 私は反論できない。反論できないから、腹が立つ。腹が立つと、言葉が増える。増えた言葉が、また誰かを殺す。私は息を吐いた。


「手順って」


 青年は言った。


「真実を公表しないで、被害回復だけする」


 その言葉が、優斗の件と重なる。損失だけ回収して、犯人の顔を守れ。青年が提案した嘘の設計。それと同じ方向だ。同じ方向なのに、私は認めたくない。認めた瞬間、自分が今まで信じてきたものが崩れる。


 私は言った。


「それは、隠蔽だ」


 青年は首を傾げた。


「隠蔽は、誰のため?」


「犯人のため」


「被害者のためでもある」


 青年の言葉が、正しいことの形をしていて腹が立つ。正しいことを言われると、私は自分の正しさが揺れる。


「被害者は、知りたい」


 私は言った。


 青年は頷いた。


「そう。知りたいは自然。だから厄介」


 自然だから止められない。止められない自然が、群れになった瞬間に暴力になる。


 青年は立ち上がった。椅子が軋む。ホテルの安い椅子の音が、妙に大きい。


「明日、見せてやるよ。真実を求める側の顔」


 青年はそう言って、ドアの方へ歩いた。ドアの前で振り返る。


「君、老人のことは救いたいんだろ」


 私は頷いた。


「じゃあ、まず嘘を使え」


 青年は言った。


「嘘は悪じゃない。薬だ」


 薬、という言葉が気持ち悪い。薬は効く。効くから依存する。依存したら、もう真実では生きられない。


 青年が消えた。ドアは閉まっている。チェーンもかかったまま。私は立ち上がって、ドアノブに触れた。冷たい。冷たいのに、確かに現実だ。


 翌朝、病院へ行った。老人が搬送された病院は小さい。受付で名前を言うと、看護師が少しだけ困った顔をした。


「ご家族の方ですか」


 私は首を振った。


「知人です」


 知人、という嘘が、舌の上に残る。嘘の味は甘くない。乾いた味だ。


 看護師は少し迷ってから、低い声で言った。


「面会は短時間で」


 短時間、という言葉の裏に、長く話させるな、がある。話すほど老人は死に近づく。病院もそれを知っている。知っているのに、説明はしない。説明すると真実になるからだ。


 病室に入ると、老人がベッドに横たわっていた。酸素チューブ。点滴。鼻の下に、乾いた血の跡。顔は昨日より白い。白さが紙みたいで、私の指先が冷える。


 老人が私を見た。目だけが動く。目が謝っている。口は動かない。動かせない。動かしたら、言葉が出る。言葉が出たら、死が近づく。


 私は椅子に座った。椅子が硬い。硬さが現実だ。私は手のひらを膝に置いた。膝の上の手が震えている。私は自分の震えを隠せない。


「昨日のこと、覚えてますか」


 私は小さく聞いた。老人が目を閉じて、開いた。頷きの代わりだ。


「……すみません」


 老人が掠れた声で言った。たった一言なのに、咳き込む。胸が上下する。私は慌てて水を取ろうとした。老人は首を振る。水を飲むと、口が動く。口が動くと言葉が出る。老人は言葉を出したくないのだろう。あるいは、出したいのに出せない。


 私は言った。


「もう、話さなくていいです」


 それは優しさの形をしている。けれど優しさは、真実を奪う形にもなる。私はその矛盾を飲み込めない。


 老人の目が私を見た。見て、涙が溜まる。涙が溜まるのに、落ちない。落ちる前に、老人が堪えている。堪えるのが、生きる技術になっている。


 病室の外で足音がした。青年が入ってきた。病院の白い廊下に、青年の服装は浮く。浮くのに、誰も止めない。止めないのが、この街の不気味さだ。


「面会は短時間で」


 青年が看護師みたいな口調で言って、笑う。笑い声は出さない。口元だけ。


「あなた」


 私は青年を睨んだ。青年は老人の方へ視線を向けた。老人の目が怯える。青年に怯えるというより、青年の言葉に怯えている。


「おじいちゃん、言ったら死ぬよ」


 青年が言う。言い方が軽い。老人の喉が動く。動いた瞬間、咳き込む。私は青年を押しのけたくなる。けれど押しのけると、老人の呼吸がさらに乱れる。


「やめて」


 私は言った。短い言葉だけで押さえる。


 青年は肩をすくめた。


「君が言わせようとしてるから、先に言っただけ」


 私は言い返せない。確かに私は、老人に真実を言わせたい。言わせれば、被害が回復する。正しさが立つ。そう信じている。信じていることが、今は老人の呼吸を奪う。


「真琴さん」


 老人が掠れ声で言った。私の名前。名前を言われると、私は個人になる。個人になった瞬間、責任が増える。


「ごめん、なさい」


 老人はそう言って、また咳き込んだ。頬が赤くなる。赤さが命の最後みたいで、私は目を逸らしたくなる。


 青年が言った。


「君が欲しいのは罰じゃない」


 老人に向けて言っているのか、私に向けて言っているのか、わからない。


「君が欲しいのは許しだ」


 老人の目から涙が落ちた。落ちた涙が枕を濡らす。枕の白が、滲む。


 私は喉が痛くなった。喉の痛みが、涙の代わりに残る。


「許しは、誰が」


 私は言いかけて止めた。許しを誰が与えるかを言葉にした瞬間、この街の神の形が見えてしまう気がした。見えてしまえば、もう戻れない。


 青年は私に向き直った。


「ねえ、記者さん」


 その呼び方が、私の皮膚を削る。元記者だと逃げたくなる。でも逃げたら、老人はもっと孤独になる。


「君は言ったら楽になるって、言うタイプだよね」


 私は口を閉じた。否定できない。否定すると、私は自分を守るために嘘をつくことになる。嘘をつけば、老人の前で嘘が増える。嘘が増えると、老人の救いが嘘に寄ってしまう。


 青年は続けた。


「言った側だけが救われることって、あるんだよ」


 私は青年を見た。青年の目が、一瞬だけ古い痛みみたいに濁る。濁りが見えたせいで、私は言葉を失った。


 老人の呼吸が少し落ち着いた。落ち着いたのは、真実を止めたからだ。止めたことで、命が戻る。戻る命が、正しさを拒む。


 私は老人に向き直った。


「今は、休んでください」


 老人が小さく頷く。


 青年が言った。


「じゃあ、次」


 次、という言い方が怖い。次は何だ。真実の次。嘘の次。死の次。


 病院を出ると、青年が私を商店街の裏へ連れて行った。裏道。人目の少ない道。人目がないのに、気配がある。気配が、壁の裏から見ている。


 青年が言った。


「返金」


 私は足を止めた。


「返金?」


「君が提案したやつ」


 青年は私の顔を覗き込む。覗き込む距離が近い。


「真実を公表せずに被害回復だけする。君、昨日それを思いついた顔してた」


 私は唇を噛んだ。自分の顔に出ていたことが恥ずかしい。恥ずかしさが、怒りに変わる。


「それが必要なら、やる」


 私は言った。言った瞬間、自分が青年の案に寄っているのがわかる。寄っているのに、寄っていると言いたくない。言いたくない矛盾が、喉の奥に残る。


「でも、隠蔽にはしない」


 私は付け足した。付け足した言葉が、自己正当化に聞こえて嫌になる。


 青年は笑った。


「言葉は強いね。隠蔽にしない返金。正義の返金」


 その皮肉が痛い。痛いのに、私はやるしかない。老人が死ぬのを見たくない。優斗がさらに壊れるのを見たくない。けれど私は、正しさを捨てられない。


 青年が歩き出した。


「被害者がいる家、案内する」


 私は青年の背中を追った。背中が軽い。軽い背中が、この街の重さと対比になって苦しい。


 最初の家は、商店街の外れの古い平屋だった。玄関先に、植木鉢が並んでいる。土が乾いている。水やりが途絶えたのだろう。生活の細部が削れている。削れている細部が、金の不足を語る。


 青年がインターホンを押した。私は止めようとして止めた。止めても、もう来ている。


 中年の女性が出てきた。目が疲れている。目の疲れは睡眠不足の疲れだ。睡眠不足は、金の疲れだ。金の疲れは、言葉の疲れだ。


「どちらさま」


 女性が言った。言い方が硬い。見知らぬ人に対する硬さではない。何かを守っている硬さだ。


 私は名乗ろうとして、喉が詰まる。名乗れば真実になる。真実になれば、この家に何かが起きる。


 青年が先に言った。


「町内会の返金です」


 女性の眉が動いた。返金。そんな言葉をこの街で聞くとは思っていない顔だ。


「返金?」


 青年は頷いた。


「会計の計算ミスがあった。過払い分を返す」


 ミス。嘘だ。嘘だとわかるのに、女性の肩が少しだけ下がる。怒りの肩ではなく、安堵の肩だ。安堵は、危険だ。安堵は人を黙らせる。


「そんなの、今さら」


 女性が言った。口調は強いのに、目が揺れている。金が必要だ。必要なのに、素直に受け取ると負けたみたいになる。負けたくないのは、尊厳のためだ。


 青年は封筒を差し出した。封筒は白い。町内会の印が押されている。印があると、人は信じてしまう。信じることで、楽になる。楽になることで、真実を追わなくなる。


 女性は封筒を受け取った。指先が震える。震える指先で封筒を開けて、中身を見た。数万円。女性の喉が動く。唾を飲み込む。


「……助かる」


 女性が小さく言った。その言葉が、この街の生活の手触りだ。助かるは真実だ。真実が口から出たのに、誰も死なない。助かるという真実は、この街で許されるのか。私はその条件がわからない。


 女性が私を見た。


「あなたは」


 私は答えに詰まる。青年が私を見て、薄く笑う。


「付き添い」


 青年が言った。付き添い。曖昧な言葉が、私を救う。救われる自分が嫌だ。


 女性が封筒を胸に抱えた。


「誰がミスしたの」


 その問いが来た。来るとわかっていた問い。自然な問い。被害者が知りたいのは自然だ。自然だから、止められない。止められない自然が、群れになった瞬間に暴力になる。


 私は息を止めた。青年は息を止めない。青年は軽く言った。


「担当が変わった。もう直した」


 それだけ。誰が、に答えない。答えないことで、女性は納得しない。納得しないのに、封筒を握りしめる。封筒の厚みが、言葉の代わりになる。私はその構造に吐き気がした。金で口が塞がれる。塞がれることを、生活は必要としてしまう。


 女性は眉を寄せた。


「誰」


 もう一度言う。知りたいは自然だ。責められない。


 青年は笑った。


「知ったら、楽になる?」


 女性の目が揺れた。楽になるかどうかは、わからない。でも知りたい。知りたいは、欲望だ。欲望は、正しさの服を着る。


 女性が言い返そうとした瞬間、隣の家の窓が少し開いた。誰かがこちらを見ている。見ているのに、出てこない。出てこないのに、噂は増える。噂は目で増える。


 女性が急に小声になった。


「ここで話すことじゃないわね」


 女性はそう言って、扉を閉めた。扉が閉まる音が、軽い。軽い音が、拒絶に聞こえる。拒絶ではない。防衛だ。真実からの防衛。自分の生活を守るための防衛。


 青年が歩き出した。次の家へ。次の家でも同じことが起きた。返金。ミス。誰が。答えない。封筒。沈黙。窓の隙間。視線の群れ。


 私は歩きながら、胃が痛くなった。返金は救いだ。救いなの理解している。けれど救いが、真実を奪う。奪われた真実は、どこへ行く。奪われた真実は、私の中に残る。残った真実が、私を燃やす。


 四軒目の家で、青年がふと立ち止まった。


 家の前に、小さな花が植えられている。枯れかけの花。枯れかけの花に、透明なペットボトルが置かれている。水が半分だけ入っている。半分の水は、生活の余裕の半分だ。


 青年が言った。


「ここが一番危ない」


 私は玄関を見る。チャイムの横に、小さな表札がある。名前は消えかけている。消えかけているのに、まだ読める。私は読まない。読むと真実になる気がする。


 青年がインターホンを押した。中から足音。足音が近づく。ドアが少し開く。若い母親。背中に赤ん坊を背負っている。赤ん坊の頭が揺れる。揺れ方が、小さな命の不安定さだ。


「何でしょう」


 母親の声は低い。疲れている。疲れが言葉を削る。


 青年が同じ言葉を言った。


「返金です」


 母親の目が封筒を見る。封筒を見る目が、飢えた目だ。飢えは責められない。飢えは生活の真実だ。


 母親が封筒を受け取る。封筒を開ける。中身を見る。母親の頬が少しだけ緩む。緩んだ瞬間、赤ん坊が小さく声を出した。声が、泣き声ではない。喉が鳴る声。生きている音。


 母親が言った。


「誰が」


 また来た。知りたいは自然だ。自然だから、怖い。


 母親は続けた。


「誰が、うちから取ったの」


 取った。母親の言葉は、もうミスを信じていない。信じない強さがある。強さがあるのに、封筒を握っている。握っているから、生活に負けている。負けているのに、負けたくない。人の顔がその矛盾で歪む瞬間を、私は何度も見た。


 青年は答えない。答えない代わりに、私を見る。


 私の番だと言っているみたいに。


 私は喉が乾いた。舌が動かない。動かないのに、言葉が出そうになる。


 ここで真実を言えば、母親は楽になるかもしれない。怒りの矛先が決まる。矛先が決まれば、生活の苦しさが誰かのせいになる。せいになると、正義が立つ。正義が立つと、群れができる。群れができると、老人が死ぬ。あるいは別の誰かが死ぬ。


 私は母親に言った。


「今は、あなたの生活を守ることを優先してください」


 母親の目が私を見る。私の言葉は、説教に聞こえかける。私は急いで言い直した。


「赤ちゃんがいる。今日、必要なものがある。それを買ってください」


 生活の言葉に寄せる。寄せないと、刃になる。


 母親が封筒を見た。封筒の白が、赤ん坊の肌の白に似ている。白は、汚れやすい。


「……でも」


 母親が言った。言いながら、背中の赤ん坊が小さく動く。赤ん坊の動きが、母親の言葉を止める。母親は唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。白くなる唇が、沈黙を選ぶ。


 母親は扉を閉めた。閉める前に、小さく言った。


「知りたいのに」


 知りたいのに。自然な言葉。自然な言葉が、この街では毒になる。


 扉が閉まった。私は立ち尽くした。青年が私の横で言った。


「ほら。真実は欲望だ」


 私は青年に言い返したかった。欲望という言葉で人の自然な感情を汚すな、と。けれど私の中でも、知りたいが欲望の顔をしているのが見えてしまった。欲望は生きるために必要だ。必要だから、汚れにくい。汚れにくいから、正しい顔をする。


 青年が言った。


「被害者を責めるなよ」


 私は目を見開いた。青年がそんな言葉を言うことに驚いた。青年は私の驚きを見て、薄く笑った。


「君が今、そういう顔してた」


 私は顔を背けた。背けた先の路地で、子どもが二人、標語を口にしている。


「くちは、わざわい」


「うわさは、いのちとり」


 子どもの声は明るい。明るい声が、怖い。怖いのに、怖いと言うと説教になる。私はただ、喉が乾く。


 その夜、私は病院へ戻った。老人の容態が悪化したと、青年が言ったからだ。青年の言葉を信じるのは癪だ。でも青年の言葉は、この街ではよく当たる。当たるから怖い。


 病室に入ると、老人の呼吸が浅くなっていた。モニターの音が規則的に鳴る。規則的な音が、命の機械みたいで、私は吐き気がした。老人は目を開けている。目がどこか遠くを見ている。遠くは、過去だろうか。罪の始まりだろうか。


 私は椅子に座った。老人の手に触れようとして、止めた。触れると、罪が移る気がする。移る罪が怖いのは、私が無罪じゃないからだ。


 青年が病室の入り口にもたれていた。看護師はいない。看護師がいない時間を青年が選んだのだろう。選べるのが怖い。


 老人が掠れ声で言った。


「……言わなきゃ」


 言わなきゃ。言わなきゃ許されない。言わなきゃ終われない。言わなきゃ救われない。言わなきゃ。


 私は言った。


「今は、言わなくていい」


 老人の目が私を見る。目が怯える。怯えは、私の言葉に怯えている。言わなくていい、は救いの形であり、封じの形でもある。


 青年が言った。


「言わせる?」


 私は青年を睨んだ。


「言わせない」


 青年は肩をすくめる。


「じゃあ、死ぬよ」


 私は息を止めた。青年の言い方が軽いのに、内容が重い。老人の呼吸が、さらに浅くなる。浅くなる呼吸が、嘘を拒んでいるみたいに見える。


 青年が老人に近づいた。近づき方が静かだ。静かすぎて、病室の音が全部青年の動きに吸い寄せられる。


 青年は老人の耳元で言った。


「あなたは盗んだんじゃない」


 老人の瞳が揺れる。揺れが、怒りではない。困惑だ。困惑は、真実の匂いを変える。


 青年は続けた。


「守ったんだ」


 老人の唇が震える。震える唇が、言葉を探す。言葉を探すのに、言葉が出ない。出ない代わりに、涙が溢れる。涙が溢れて、頬を濡らす。濡れた頬が、赤くなる。赤さが命の色に見える。


 老人の呼吸が、少しだけ深くなった。


 モニターの音が、さっきより落ち着く。私は見た。嘘が、老人の身体を生かしている。嘘が、呼吸を戻している。


 私は気持ち悪くなった。気持ち悪いのに、救われたとも思った。老人が今死ななかった。今死ななかったことが、どれほど大きいか、私は知っている。


 老人が泣きながら掠れ声で言った。


「……守った」


 言葉が出た。真実の言葉ではない。嘘の言葉だ。嘘の言葉が出たのに、死は近づかない。嘘はこの街で安全だ。安全だから、人を生かす。


 青年が私を見る。


「薬」


 私は言い返せない。薬は効いた。効いた薬を否定すると、老人はまた死に近づく。


 老人が息を整えながら、私を見た。目が私にすがる。すがる目が、私に責任を渡す。


 私は老人に言った。


「あなたは逃げたんじゃない」


 言葉が出た。出た瞬間、自分の言葉が嘘に寄っているのがわかる。逃げたかどうかは、真実では逃げたのかもしれない。けれど今、老人が必要としているのは、逃げたではない言葉だ。逃げたという言葉は、老人を殺す。私はそう理解してしまった。理解してしまった自分が怖い。


 私は続けた。


「今は、生きてください」


 生きてください。お願いだ。命令じゃない。けれどお願いは圧になる。私は言葉を軽くするために付け足した。


「……また、話せる日が来る」


 老人の目が少しだけ揺れた。希望の揺れだ。希望は生かす。希望は嘘になることもある。


 青年が私に言った。


「来ない日もある」


 その言葉が、刃だった。刃が私の胸に刺さる。希望を否定する刃。けれど否定は、現実の刃でもある。現実は残酷だ。残酷さを隠すと、もっと残酷になる。


 私は青年を睨んだ。睨んでも何も変わらない。変わらないのに、睨むしかない。


 青年は睨み返さない。青年はただ、私の言葉の後味を見ている。後味を見て、楽しんでいるのか、痛んでいるのか、わからない。


 病室を出ると、廊下の窓の外が暗かった。街灯の光が、路地の端を照らしている。照らしているのに、暗い。暗さは光の不足ではない。言葉の不足だ。言葉が不足しているから、空気が重い。


 私は病院のロビーの自販機で水を買った。水を飲んでも喉が潤わない。乾きは、罪の乾きだ。私は自分の手のひらを見た。返金の封筒を渡した手。老人の鼻血を押さえた手。優斗の炎上を止められなかった手。どの手も、正しいことをしたと思いたい手だ。


 病院を出たところで、青年が言った。


「君、ちょっと変わった」


 私は言った。


「変わってない」


 青年は笑った。薄い笑い。


「嘘が上手くなった」


 嘘が上手くなった。褒められているのか、罵られているのか、わからない。わからないのに、胸の奥が痛い。


 私は青年に言った。


「あなたの嘘は、誰のため」


 青年は少しだけ黙った。黙り方が珍しい。黙ることで、青年が人間に近づく。


「目の前の人のため」


 青年が言った。


「目の前の人を生かすため」


「その先は」


「その先は、知らない」


 知らない。嘘だろうか。本当だろうか。私は判断できない。判断できないまま、青年の横顔を見る。横顔は若い。若いのに、古い。


 青年が言った。


「君は、その先を見たい」


 私は頷けない。頷けないのに、否定もできない。


 その時、背後から声がした。


「真琴さん」


 私は振り向いた。喫茶店の店主だった。昨日、老人が倒れた時に軒下を貸した店だ。店主は四十代くらい。髪に白いものが混じっている。目の下にクマ。コーヒーの匂いが服に染み付いている。


 店主は周囲を見た。人目を気にしている。気にしているのに、言葉を選ぶ余裕がある。その余裕が、この街で生き延びる技術だ。


 店主が私に近づいて、小声で言った。


「真実を言っても死なない方法を知ってる」


 耳打ちだった。耳に熱が入る。熱が入った瞬間、喉が乾く。私は反射的に聞き返しそうになって、止めた。聞き返すと、言葉が増える。増えた言葉が、この方法を壊すかもしれない。


 青年が店主を見る。青年の目が、初めて少しだけ鋭くなった。鋭さは敵意ではない。警戒だ。


 店主は青年を見ない。青年を見ないのは、青年の存在を真実にしないためだ。店主の視線は私に固定されている。固定された視線が、私に責任を渡す。


 店主が言った。


「でも、条件がある」


 条件。条件付きの真実。私は息を吸った。吸った息が冷たい。冷たい息が、胸の奥の火を煽る。


 青年が言った。


「面白くなってきた」


 私は青年を見た。青年の口元が少しだけ笑っている。目は笑っていない。目が、次に誰が壊れるかを見ているみたいに見えた。


 私は店主に言った。


「話を聞かせてください」


 言った瞬間、私の喉が少しだけ痛くなる。真実を言っても死なない方法。それは救いになるのか、もっと大きな刃になるのか。私は判断できない。判断できないまま、進むしかない。


 店主が頷いた。


「明日、店が閉まってから」


 明日。時間が指定された。指定された時間は、罠にも見える。罠でも、行くしかない。


 私は歩き出した。病院の白い光から、街の暗い路地へ戻る。路地の奥で、どこかの鈴がまた一度だけ鳴った気がした。気がしただけかもしれない。気がしただけでも、背筋が冷える。


 私は自分に問いかける。


 今、私は嘘を使った。


 老人を生かすために嘘を使った。


 それは敗北だろうか。撤退だろうか。救いだろうか。


 答えは出ない。出ないまま、喉の乾きだけが残る。


 そして私は思う。


 真実を言っても死なない方法があるなら、私はそれを使ってしまうだろう。


 使った先で、誰が死ぬのかを知らないまま。

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