第2話「告発の夜、正しい人から壊れていく」

 スマホの画面に指を置いた瞬間、指先が冷えた。


 冬の冷えじゃない。金属に触れたみたいに、体温が吸い取られる冷たさだ。画面は明るいのに、私の視界の端が薄く暗くなる。目が疲れているのだと思った。そう思い込まないと、足元が揺れそうだった。


 昨日、男が笑って死んだ。


 笑いがそのまま残る顔を見た。救急車のサイレンの音も、担架の金属の匂いも、まだ鼻の奥に残っている。祠の前で、名乗らない青年に「君はまた正しく人を殺すのか」と問われた。


 私は答えられなかった。


 答えられないまま、今日になった。


 商店街の朝は早い。シャッターが上がる音が、どこか遠慮がちに続く。金属が擦れる音が途中で止まり、また動き出す。誰かが一度、周囲をうかがってから動かしているのがわかる。人の動作が、全部、合図に見える。誰も何も言わないのに、言葉が飛び交っているみたいだ。


 私は駅前の小さなビジネスホテルの部屋で、取材ノートを開いた。昨日のことを書こうとして、ペンが止まった。


 書けば真実になる。


 真実になれば、この街で何かが壊れる。


 そういう理屈じゃない、と頭のどこかが反論する。でも反論の声が小さい。代わりに、祠の前の青年の声が大きい。


 来たね。君の真実は、もうこの街に着いてた。


 私はペンを置いた。スマホを見た。知らない番号から届いたメッセージは、まだ未読のまま残してある。読めば、文字が増える。増えた文字が、私の中の正しさに燃料をくべる。燃料をくべられた正しさは、止まらない。


 洗面所で水を飲んだ。喉が潤わない。蛇口の水は冷たいだけで、乾きは身体の内側から来ていた。私は顔を洗い、ホテルを出た。外の空気は晴れていて、普通の地方都市の朝に見える。見えるのに、普通の朝の音が足りない。ラジオ体操の音も、子どもの声も、犬の吠えも薄い。


 商店街の端に、昨日の飲食店が見える。扉の前を通るだけで、胃の奥が縮む。私は歩幅を少しだけ早めた。逃げている。逃げる自分を認めると、もっと逃げたくなる。私は真ん中あたりのコンビニに入った。明るい蛍光灯が、安心ではなく不快に感じた。明るさは、隠れる場所を奪う。


 コーヒーを買って、店の外のベンチに座った。段ボールを束ねた老人が、私の前を通る。老人は私を見て、視線をすぐに外した。目が合うこと自体が、ここでは危険なのだろう。私はコーヒーの蓋を開け、香りを吸い込んだ。香りは現実をつなぐ。指先の熱も現実をつなぐ。私はカップを両手で包んだ。


 背中でシャッターが上がる音がした。振り向くと、雑貨屋の若い店員が店先を掃除していた。若い、と言っても二十代後半か三十代前半くらいだ。細い身体で、箒を持つ手が落ち着かない。箒の先が地面の同じ場所を何度も掃いている。掃けば掃くほど、その場所が目立つ。本人もそれに気づいているのに止められない。


 店員が、掃除をやめた。私の方へ半歩近づいて、口を開きかけて閉じた。唇が乾いている。舌が一度だけ歯に当たる。言葉が出る前の身体の動きが先に見える。


 私はコーヒーを置いた。目を合わせすぎないように、店員の顎あたりを見る。視線は刃になりやすい。


「……すみません」


 店員が言った。声が、喉で擦れている。


「何か、お探しで」


 営業トークの形を借りた質問だとわかった。営業の言葉は安全な言葉として扱われている。挨拶や定型句が多い街ほど、定型句の裏に本音が潜む。


「取材で来ました」


 私はそう答えた。元、と言い添えるのを忘れた。言い添えた方が安全だったかもしれない。店員の肩がわずかに上がる。息が一瞬止まったのがわかる。


 店員は唾を飲み込んだ。喉仏が動く。その動きが、痛みに見えた。


「……話が」


 言いかけて、声が消えた。店員の喉が詰まる。詰まったのは比喩じゃない。本当に声が出なくなっている。咳き込むほどではない。けれど空気が通らないみたいに、胸が浅く上下する。


 私は立ち上がって、一歩近づいた。


「大丈夫ですか」


 店員は首を振る。首を振るのに、目は私を見ていない。目がどこか遠くを見ている。助けを求める時の目ではない。言葉が危険だと知っていて、それでも言おうとしている目だ。


「ここで」


 店員はようやく言えた。声が細い。


「ここで、あなたなら」


 あなたなら、の後が続かない。続かない代わりに、手が動く。店員はエプロンのポケットから紙切れを出した。レシートの裏だ。そこに震える字で、数字と短い単語が書いてある。


 町内会。


 会計。


 不正。


 私は息を吸った。熱が胸の奥に点く。点いた熱が、すぐに燃え広がろうとする。私はその燃え広がりを止められない。


「証拠はありますか」


 私は聞いた。言い方が、もう記者のそれだ。店員は頷く。頷きが早い。頷くしかないという勢いだ。


「あります」


 店員は言った。言えたことに自分でも驚いたみたいに、目を見開く。次の瞬間、喉がまた詰まる。言葉を続けようとすると、身体が止める。店員の指が喉元を押さえる。爪が肌に当たって白くなる。


 私は手を伸ばしかけて止めた。触れた瞬間、何かが移る気がする。昨日の男の死が、まだ皮膚の上にある。


 店員は苦しそうに目を閉じ、肩で呼吸をした。苦しそうなのに、涙は出ない。涙が出る前に、身体が耐えることに集中している。耐えることが、ここで生きる技術になっている。


「……言えないんです」


 店員がやっと言った。声が途切れ途切れだ。


「誰が、って。言おうとすると……」


 言葉が止まる。喉が絞まる。私は昨日の照明の瞬きを思い出す。真実を言うと壊れる。壊れるのは身体だけじゃない。生活も、人間関係も。


 それでも私は、言った。


「事実を出せば終わります」


 言い切った瞬間、自分の口の軽さに背筋が寒くなった。終わる、という言葉がどれほど無責任か、私は知っているはずなのに。告発は終わりじゃない。始まりだ。社会の目が集まり、誰かが燃え、誰かが守られ、誰かが切り捨てられる。私はその現場を何度も見てきた。


 店員は私の言葉に反応して、少しだけ肩の力が抜けた。救われたように見えた。救われたからこそ危険だと思った。救いが人を動かす。動いた人が転ぶこともある。


「……お願いします」


 店員が言った。笑わない。笑う余裕がない。でも目の奥に、何かが点く。正しいことを言いたい、という光だ。光は人を救うことも、人を盲目にすることもある。


 私はレシートの裏を受け取った。指先が紙に触れた瞬間、紙が少し湿っているのがわかった。店員の汗だ。汗は嘘をつかない。


「場所、移りましょう」


 私は言った。人目のない場所。けれどこの街で人目のない場所は、かえって危ない気もする。見られていない場所で起きることほど、噂になりやすい。


 店員が頷いた瞬間、背後から声がした。


「手順を変えろ」


 昨日の青年だった。いつの間に、という驚きが遅れて来る。青年は雑貨屋の店先に寄りかかっている。手には紙コップのコーヒー。いつ買ったのか、どこから来たのか、説明が追いつかない。追いつかないのに、存在だけはやけに現実的だ。


「真実を言うと、君が死ぬ」


 青年は店員を見た。店員の顔が青くなる。死ぬ、という言葉の重さが、店員の膝を少しだけ揺らす。


「脅しですか」


 私が言うと、青年は肩をすくめた。


「注意。忠告。親切。好きなの選べ」


「あなた、また」


 私は言いかけて止めた。名前がない相手に、どう呼びかければいいのかわからない。青年はそれを見て笑った。笑いが軽い。


「君、呼び名がないと会話できないタイプだね」


 店員が、私と青年の間を見ている。視線が行き来する。逃げ道を探している目だ。私は店員に言った。


「この人は」


 と言いかけて止める。説明ができない。説明してしまうと、青年の存在が真実になる。真実になった瞬間、何かが壊れる。私は歯を食いしばった。


 青年が店員に言った。


「嘘にしろ」


 店員が目を見開く。


「嘘……」


「不正じゃなくて、ミスにする」


 青年は言った。あまりに具体的で、私は苛立つ。嘘は雑だと破綻する。けれど青年の嘘は雑じゃない。生活のための嘘だ。


「損失だけ回収して、犯人の顔は守れ」


 犯人の顔、という言葉が私の中で引っかかった。守る理由がある。理由がある嘘ほど厄介だ。


「犯罪者を守るな」


 私は言った。言った瞬間、胸の奥が熱くなる。正義が起動する。正義はスイッチが入ると止まらない。止めるのは常に後だ。


 青年は私を見た。目が笑っていない。


「君が守りたいのは誰」


 その問いは短い。短いのに、答えるのが難しい。私は一瞬、言葉に詰まった。守りたいのは社会だ、と言えば綺麗だ。でもその綺麗さが説教になる。守りたいのはこの店員だ、と言えば嘘になる。私は店員の人生を背負う気があるのか。背負えないくせに、正しさだけを押し付けるのか。


 店員が震える声で言った。


「でも、僕は……」


 僕、という一人称が出た。店員は男だと気づく。声が高めで、顔つきも柔らかいから、私は勝手に女性だと思い込んでいた。思い込みは危ない。思い込みで人は傷つく。


「僕は正しいことを」


 正しいこと、の途中で喉が詰まる。青年が店員の前にしゃがんだ。視線を同じ高さにする。人を扱うのが上手い。


「正しいことを言いたいなら、言い方を選べ」


 青年は言った。


「正しさは形を変えられる。君の命まで賭けるな」


 命、という言葉で店員の肩が跳ねた。私は青年を押しのけたくなる。けれど押しのけると、店員が転ぶ。私は拳を握った。指先が痺れる。


「僕は死にたくない」


 店員が言った。言えたことに自分で驚いたみたいに、目が潤む。


「でも、黙ってたら、ずっと」


 ずっと、の先が言えない。ずっと搾取される。ずっと奪われる。ずっと見て見ぬふりを強いられる。そう言いたいのだろう。それは真実だ。それを言えば、この街は壊れる。壊れるのは街か、店員か、誰かか。


 私は店員に言った。


「証拠を見せてください」


 言葉が固い。自分で自分の言葉の固さがわかる。固い言葉は人を押す。


「僕、ここで見せたくない」


 店員が言った。目が周囲を見る。周囲を見る目が、恐怖の目だ。


 青年が立ち上がって言った。


「外に持ち出すつもりだろ」


 私を見ている。


「記事にする。ネットに出す。燃やす」


 燃やす、という言い方が悪意に聞こえた。私は言い返す。


「燃やすためじゃない。変えるためです」


 青年は笑わない。私の言葉を受け止めずに、ただ言った。


「この街は、燃えたら終わる」


 終わる、という単語が私の口から奪われたみたいに感じた。私は唇を噛んだ。鉄の味がした。鉄の味は現実だ。現実の味があると、頭が少し冷える。


 店員のスマホが震えた。店員が画面を見て、顔色が変わる。


「店長から」


 店員は言った。通話に出る指が震える。出なければ疑われる。出れば、言葉が危険になる。どちらも地獄だ。


 店員は通話を取った。耳に当てる。口を開く。


「……はい」


 それだけで、喉が詰まる。店員は咳き込むのを必死で堪えるみたいに、唇を強く閉じる。通話の相手の声が聞こえる。聞こえるのに、内容はわからない。音としての圧だけが伝わる。店員は何度も頷く。頷きながら、目に涙が溜まる。


 通話が切れた。


 店員が言った。


「今日は、もう帰っていいって」


 帰っていい、という言葉の裏側が見える。休んでいい、ではない。家にいろ、だ。何かが動いている。もう気づかれている。告発の匂いが立っただけで、街が動く。


 青年が言った。


「ほら。遮断が来る」


 遮断、という言葉に、私は昨日の商店街の静けさを思い出した。言葉を切るための空気。空気で人を縛る技術。


 私は店員の肩に触れようとして、やめた。


「名前」


 私は聞いた。


 店員は一瞬迷って、小さく答えた。


「……優斗です」


 優斗。名前を聞いた瞬間、優斗の顔が少しだけ固くなる。名前を出すと、個人になる。個人になると、狙われる。


 私は言った。


「優斗さん。あなたの話を、私は聞きます。でも」


 でも、の後が言えない。私は責任を取れるのか。私は守れるのか。私はまた背中を押して、人を殺さないか。自分の不安が先に出そうになる。


 青年が私の代わりに言った。


「でも、今は言うな」


 優斗が頷いた。頷きが小さい。


 私はホテルに戻り、機材を整えた。ノートパソコンを開く。ネットに繋がらない。Wi-Fiの一覧にはホテルのSSIDが出ているのに、接続が安定しない。繋がったと思った瞬間に切れる。携帯の電波も弱い。アンテナ表示が一本になったり、圏外になったりする。


 偶然じゃない。


 遮断。


 私は窓から外を見る。商店街の端に、町内会の掲示板が見える。標語が貼られている。口は災い。噂は命取り。確かめる前に、口にするな。


 私はスマホで地図を開こうとして、画面が読み込みのまま止まる。指先が冷える。冷えがまた来る。私はコーヒーを飲んだ。胃が熱いのに、喉が乾く。


 午後、優斗からメッセージが来た。


 会いたい。


 短い文字だけ。位置情報は送られていない。位置情報が危険だと知っている。私はホテルを出た。街の空気は昼より重い。夕方は人が家に帰る時間帯なのに、外に人がいない。いないのに、見られている感じだけがある。


 優斗は商店街の裏の、小さな倉庫の前に立っていた。倉庫のシャッターが半分だけ上がっている。中は暗い。暗さが安全に見えるのが怖い。


 優斗は私を見ると、急いで言った。


「証拠、ここにあります」


 言い終わった瞬間、喉に手を当てて咳き込む。咳は出ない。音が出ない咳だ。身体だけが咳をしようとしている。私は優斗の背中をさすりかけてやめた。触れない方がいい。触れないことで、私は守っているつもりになっている。自分の臆病さが、胸の奥で痛い。


 倉庫の中に入ると、段ボールが積まれていた。古い帳簿の箱。町内会の備品。祭りの提灯。おそらく、町の裏側がここに詰まっている。優斗は段ボールを一つ開けた。中にファイルがある。コピー用紙が束になっている。領収書。通帳のコピー。手書きのメモ。数字が並ぶ。数字は嘘をつきやすい。けれど数字は痕跡を残す。残った痕跡がある限り、追える。


 私は紙を一枚ずつ見た。出金が多い。用途が曖昧。備品購入、慰労会、清掃費。相手先の名前が同じ店ばかりだ。店は実在する。けれど金額が異常だ。しかも毎月。町内会費が、誰かの生活費になっている。


「これ、出していいんですよね」


 私は優斗に確認した。確認する自分が、すでに暴走の一歩手前だとわかる。優斗は頷く。頷きながら、目が揺れる。揺れは恐怖だ。恐怖の中に、期待がある。


「僕、ずっと見てきました」


 優斗が言う。言葉が途切れそうになる。途切れそうなのに、言う。


「おばあちゃんが、町内会費払えなくて」


 そこで喉が詰まる。優斗は唇を噛む。血が滲む。滲んだ血が現実だ。優斗は息を整えて続けた。


「掃除当番も、祭りの準備も、みんな弱い人に回ってくるのに」


 弱い人、という言葉で彼の肩が震えた。弱い人と言うことが、すでに誰かを特定し始める。特定がこの街では刃になる。


「なのに、お金だけ、いつも」


 言い終わらない。言い終わらない言葉の端に、怒りが見える。怒りは正しい。怒りは必要だ。私はそう思った瞬間、自分の正義が起動するのを感じた。胸が熱い。手のひらが汗ばむ。


「記事にします」


 私は言った。言ってしまった。言ってしまった瞬間、倉庫の空気が一段冷える。優斗の目が一瞬だけ輝く。輝いた後に、怯えが戻る。


「本当に」


 優斗が言った。


「僕、助かりますか」


 助かる、という言葉が刺さる。私は助けられないかもしれない。助けると言うのは嘘になる。でも嘘を言えば、ここで別の死が起きる気がした。


 私は慎重に言った。


「あなたが一人で背負わないようにします」


 背負わないように、という言葉も危ない。背負う、という言葉は責任の匂いを持つ。責任は誰かを追い詰める。


 倉庫の外で足音がした。


 足音は一つ。ゆっくり。普通の歩き方。なのに、倉庫の中の空気が固くなる。優斗が息を止める。私は紙束をとっさに閉じる。隠す動作が、もう犯罪者みたいだ。私は自分の心臓の音が大きく聞こえる。


 シャッターの隙間から、影が見える。


 影が止まる。


 そして、声がした。


「そこにいるのは、誰だ」


 男の声。年配。町内会の人間の声だ。声に権威が混じっている。命令ではないのに、命令として届く声。


 優斗が小さく震える。


 私は優斗に目で合図した。黙れ。動くな。合図を言葉にしない。言葉にすると危ないからだ。私は一歩前に出た。シャッターの隙間に近づく。


「通りすがりです」


 私は言った。嘘だ。嘘を言った瞬間、身体が少し軽くなる。嘘は軽い。軽いから、滑る。


 男が言った。


「ここは町内会の倉庫だ」


「知りませんでした」


「鍵が開いているはずがない」


 男の声が硬くなる。疑っている。疑いが確信に変わる前に、私はここを出なければならない。私はシャッターを少し持ち上げて外へ出ようとした。


 その瞬間、スマホが震えた。


 私のスマホだ。通知。画面が勝手に点灯する。私は見ないようにしていたのに、光が目に入る。画面の上部に、SNSの投稿画面が表示されている。私は今、投稿をしていない。していないのに、投稿画面が開いている。


 そして、そこに文章が入力されていた。


 私は指を止めた。背筋が冷える。文章は、私の言葉遣いじゃない。けれど内容は、私の中の正義が言いそうな文章だ。


 町内会の会計が不正をしています。


 犯人は、あの人です。


 具体名が、続いている。


 私は息を止めた。指が動かない。削除しようとした瞬間、画面の文字が変わった。変わったのは一瞬だ。私は見間違いだと思う。けれど見間違いじゃない。文字が書き換わっている。


 不正、が、誤解、に変わっている。


 犯人、が、関係者、に変わっている。


 具体名が、曖昧な表現に変わっていく。


 そして最後に、こう付け加えられた。


 私の勘違いでした。ごめんなさい。


 私の、勘違い。


 それは、優斗の言葉の形だ。謝罪の形だ。炎上でよく見る形だ。謝罪は鎮火のために用いられる。けれど謝罪は、謝る側の社会的死の第一歩になることもある。


 私は削除ボタンを押そうとした。指先が画面に触れる直前、投稿が完了した。


 完了した、と表示された。


 私は声を出せなかった。喉が詰まる。自分の喉が優斗と同じように絞まるのを感じた。私はそれを初めて体感した。言葉が体の外に出ない。出ないのに、文字だけが外に出ていく。


 外の男が、私の手元の光に気づいた。


「何をしている」


 男の声が一段鋭くなる。私はスマホを裏返した。裏返しても、もう遅い。投稿は外に出た。外に出た言葉は、街に触れる。街に触れた瞬間、街が動く。


 優斗が後ろで小さく言った。


「……僕じゃない」


 言葉が出た瞬間、優斗の顔が青くなる。自分の言葉が危ないと知っている。私は振り向いて、優斗の口を塞ぎたくなった。でも触れない。触れないまま、優斗の目を見る。目が涙で潤む。


 倉庫の外で、男のスマホが鳴った。男が通話に出る。


「……はい。……ええ。……そうですか」


 男の声が急に丁寧になる。相手は上だ。町内会の上。あるいは街そのもの。通話が切れた。男が言った。


「お前、何をやった」


 お前、という指し方が曖昧なのに、優斗の身体が反応する。優斗が一歩後ずさる。私は前に出た。


「誤解です」


 私は言った。誤解、という単語が皮肉に聞こえる。今まさに、誤解という言葉が真実を潰したからだ。


 男は言った。


「誤解だと? なら最初から書くな」


 正しさが、こちらを殴ってくる。正しいことを言うな、ではない。書くな。言うな。存在するな。そういう圧だ。


 私は倉庫のシャッターを押し上げて外に出た。男が腕を掴もうとして、ためらう。触れると危ないと知っている。触れると、何かが起きる。触れないことで、圧を保つ。この街は暴力を使わない。暴力を使わないことで、責任を曖昧にする。曖昧な責任は、いつも弱い方に落ちる。


 私は優斗の腕を掴んだ。


 掴んだ瞬間、指先が痛い。痛いのに掴む。掴むと現実になる。現実になれば、優斗がここにいると証明される。証明されれば、狙われる。私はすぐに手を離した。遅い。遅いけれど、離す。


「帰りましょう」


 私は言った。言った言葉が、撤退の言葉だ。青年が言っていた。敗北じゃない。撤退だ。


 優斗は頷いた。頷きながら、スマホを見ている。画面に通知が増えている。増え方が異常に早い。返信、引用、スクリーンショット。投稿が拡散している。


 私は自分のスマホを見た。投稿は私のアカウントからではない。優斗のアカウントからだ。しかも、優斗が普段使っている口調で謝罪が書かれている。謝罪は燃料になる。燃料になった謝罪は、火を広げる。


 誰がやった。


 私は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。青年。嘘の神。あいつがやった。そう思った瞬間、怒りが湧く。でも怒りは言葉にすると危険だ。危険なのに、私は怒りを抑えられない。


 優斗のスマホの画面に、見知らぬアカウントからのコメントが表示された。


 嘘つき。


 注目集めたいだけ。


 店の名前が書かれている。優斗が働く店の名前。誰かが特定している。特定は速い。特定は楽しい。特定は正しさの形をしている。特定は、人を殺す。


 社会的に。


 優斗が息を呑む。胸が上下する。喉に手を当てる。今度は喉が詰まるだけじゃない。吐き気も混じっている。私は優斗の背中から距離を取った。距離を取るのが正しいと思ってしまう自分が嫌だ。でも近づけば、私も燃える。私が燃えれば、優斗はもっと燃える。私はどうすればいい。


 商店街に戻ると、空気が変わっていた。人がいる。さっきまでいなかったのに、いる。いるのに、目が合わない。目が合わない代わりに、視線が刺さる。刺さる視線は、背中に当たる。背中に当たって、皮膚の上を滑る。


 雑貨屋の前で、客が店に入ろうとして止まった。優斗の顔を見て、足が止まる。止まった足が引き返す。何も言わない。言わないまま、優斗の生活が削られていく。客が離れる。売上が減る。優斗の勤務日数が減る。家賃が払えなくなる。誰も殺していないのに、優斗が死んでいく。


 優斗のスマホが鳴った。店長からだ。優斗は出ない。出ないと、また責められる。出ると、もっと責められる。優斗は震える指で通話を取った。


「……はい」


 店長の声が漏れる。怒鳴ってはいない。怒鳴らない方が怖い。怒鳴らない声は、切り捨ての声だ。


 優斗は何度も「すみません」を繰り返す。すみませんが積み重なるほど、優斗の立場が薄くなる。謝罪は鎮火のためじゃなく、処刑の儀式になる。


 通話が切れた。


 優斗が笑った。


 笑ったのに、目が笑っていない。頬が引きつっている。笑いが昨日の男の笑いに似ている。私は息を止めた。


「僕」


 優斗が言った。


「僕、嘘ついたんですか」


 質問が幼い。幼いのに、重い。嘘をついたのは誰か。嘘は誰の責任か。優斗は嘘をついたことになっている。嘘をついた人間は信用を失う。信用を失った人間は仕事を失う。仕事を失った人間は居場所を失う。居場所を失った人間は、家族からも孤立する。


 優斗のスマホに、家族からのメッセージが入った。母親だろう。通知のプレビューに短い文が見えた。


 何をしてるの。


 優斗の指が止まる。読むのが怖い。読めば、現実になる。私はその気持ちがわかる。わかるのに、代わりに読んであげることもできない。


「あなたが背中を押した」


 優斗が私に言わない代わりに、空気がそう言っている。私は優斗の横に立っているだけで、罪が増えていくのを感じる。


 その時、青年が現れた。


 商店街の角。自販機の横。手にはアイス。冬でもないのに、アイスを食べている。青年は優斗のスマホの画面をちらりと見て、言った。


「社会的死」


 言い方が軽い。軽さが残酷だ。


「生きてるのに死ぬやつ。怖いだろ」


 優斗が青年を見る。青年の顔を見ても、青年の正体がわからない。わからないから、怒りの向け先もわからない。


 私は青年に詰め寄った。


「あなたがやったの」


 青年はアイスの棒を口から抜いて、首を傾げた。


「君がやった」


「私は投稿してない」


「君が火をつけた。彼が油を持った。街が火種を撒いた。それだけ」


 それだけ、という言い方が、胸を殴る。人が壊れる過程を、工程みたいに言う。私は拳を握りしめた。声が出そうになる。怒鳴りたくなる。でも怒鳴れば、また言葉が増える。増えた言葉は、誰かを殺す。


 青年は優斗に向き直った。


「嘘の出口、いる?」


 優斗が瞬きをする。出口、という単語に反応してしまう。人は出口という言葉に弱い。出口があれば、耐えられる。出口があれば、今日を生きられる。


「……どんな」


 優斗が言いかけて、喉が詰まる。青年が続ける。


「君は誤解した。勘違いした。誰かに騙された。そういう形にして、君の人生を守る」


 守る、という言葉が甘い。甘いから危ない。優斗の顔が少しだけ緩む。緩んだ瞬間、私は腹の底が冷えた。優斗がその甘さにすがるのを止められない。止めたら、優斗は折れる。


「それは」


 私は言いかけて止める。敗北だ、と言いたい。撤退だ、と青年は言う。撤退は負けではない、と。私はどちらの言葉も、今の優斗には刃になると感じた。


 優斗が小さく言った。


「僕、正しいことを言いたかった」


 言い方が、昨日の男に重なる。真実が人を救うんだろ、と笑った男。正しいことを言いたい、と言った優斗。私はその言葉に、自分の仕事の価値を見てしまう。見てしまうから、止められない。


 優斗が笑った。


 昨日の男みたいに、笑ってしまった。笑いが、救いではなく、折れないための最後の形に見えた。私は喉の奥が痛くなる。痛みが、涙の代わりに残る。


 青年が優斗に言った。


「君が悪いことにしないでやる」


 優斗が目を閉じる。目を閉じたまま頷く。頷きが弱い。弱い頷きが、崩れかけの柱みたいだ。


 私は青年に言った。


「嘘で救うな」


 青年は私を見る。


「救ってるのは嘘じゃない。生かしてるだけ」


 昨日と同じ言葉。昨日は女を生かした。今日は優斗を生かす。生かすために、何かを殺す。真実を殺す。正義を殺す。あるいは、社会的に誰かを殺す。


 優斗のスマホがまた震える。通知が止まらない。店の悪評が増えていく。優斗の名前が出始める。住所が特定される。写真が晒される。どれも、たった一つの投稿から繋がっている。燃え広がり方が早い。街の外の炎上と同じ速度だ。ここが閉じた街であることが、燃え方を加速させる。逃げ場がないからだ。


 優斗が言った。


「僕、辞めます」


 辞める、という言葉は、社会的死の儀式の一部だ。辞めますと言うことで、周囲は安心する。安心する代わりに、辞めた人間は消える。消えた人間は、次に誰が狙われるかを考えなくて済む。私はその構造を知っている。


「辞めないで」


 と言いたい。言ったら、私が優斗の生活を背負うことになる。背負えない。背負えないから言えない。言えないことが、私の罪になる。


 青年が言った。


「撤退だよ」


 優斗が青年を見る。優斗の目が、少しだけ救われた目になる。撤退なら、負けじゃないと思える。優斗が生き延びるための言葉になる。


 私はその光景を見て、胃が痛くなった。撤退は必要だ。撤退しなければ、優斗は壊れる。けれど撤退したら、真実は消える。不正は続く。搾取は続く。弱い人がまた削られる。


 私は歯を食いしばった。私の中の正義が、まだ燃えている。燃えている正義が、優斗の生活を燃やしている。私は正義を止められない。止められないまま、優斗の人生が削れていく。


 その時、商店街の奥から老人が歩いてきた。


 老人は杖をついていない。背筋がまっすぐで、歩幅も一定だ。顔は皺だらけなのに、目だけが若い。若い目は、嘘をつくのが上手い目だ。町内会の顔役の目。そういう目を私は見たことがある。


 老人は優斗の前で止まり、私の方を見た。私を見たのに、優斗に向けて言った。


「優斗くん」


 呼び方が優しい。優しさが怖い。


「大丈夫か」


 大丈夫か、という言葉がここでは刃になる。優斗が反射的に頷きそうになって、止まる。喉が詰まる。優斗は何も言えない。


 老人は私を見る。私の目を見て、逃げない。逃げない目は、圧だ。


「あなたが外の人か」


 私は答えようとして、言葉を選ぶ。外の人、と言われると、自分がこの街を壊しに来た侵入者に見える。侵入者は排除される。排除は静かに行われる。静かな排除は、誰も責任を取らない。


「取材で」


 私は言った。元、をつける前に、老人が頷いた。


「そうか」


 老人の頷きは、理解ではない。決定だ。老人は青年の方を見る。青年の存在に驚かない。青年を見ても、眉一つ動かさない。その自然さが怖い。老人は青年に向けて言った。


「……まだいたのか」


 青年がアイスを舐めながら答える。


「出たり入ったり。便利だろ」


 二人の会話が短い。短いのに、長い関係が見える。老人は青年を無視して、私に言った。


「私は、本当の犯人だ」


 その言葉を言った瞬間、商店街の空気が固まった。


 固まったのに、照明は瞬かない。誰も転ばない。誰も死なない。真実が語られたのに、死が起きない。そのことが一番怖い。


 老人は続けた。


「殺してくれ」


 優斗が息を呑む音が聞こえた。私は動けない。喉が乾く。舌が上顎に張り付く。言葉が出ない。言葉が出ないのに、頭の中では問いが増えていく。


 なぜ、この老人は真実を言えたのか。


 なぜ、死が起きないのか。


 老人は、誰の死を望んでいるのか。


 そして私は、また正しく人を殺すのか。

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