真実を語ると人が死ぬ街で、嘘つきの神さまを殺すまで
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話「真実を言った男が、笑って死んだ」
駅を出ると、風が乾いていた。潮の匂いはしない。山でもない。どこにも属さない匂いが、舌の奥に薄い埃を残す。
シャッター商店街がまっすぐ延びている。昼なのに薄暗い。看板の文字が色褪せて、笑顔のキャラクターだけが残っている。空の自転車置き場に、鍵の音が一つもない。歩くたび、靴底が古いタイルの継ぎ目を撫でる音がした。音の方が先に聞こえて、身体が少し遅れてついてくる感覚がある。
私は取材ノートを捨てられずにいる。
紙が好きだとか、そういう話ではない。ペン先で書いた線が、私の指の震えに似ているからだ。スマホのメモはきれいすぎて、何も残らない。消してしまえば無かったことになる。紙は、破いても燃やしても、手の感触だけは消えない。
駅前のロータリーに、観光案内所があった。窓口の女性は私を見て、口を閉じたまま小さく会釈をした。こちらから名乗ろうとして、喉がひっかかった。名前は真実の入口になりやすい。そう思った途端、自分がこの街に飲まれ始めているのがわかった。
案内所の壁には、地域の標語が貼られている。
口は災い。
噂は命取り。
確かめる前に、口にするな。
どれも、文字が角張っている。教育委員会のテンプレートに似た書体なのに、妙に私的だ。貼り方も丁寧で、空気が入り込まないように端が押さえられている。紙が剥がれないように、透明テープが余分に重ねられていた。
子どもが二人、案内所の前を通った。ランドセルの肩紐が擦れる音がした。片方の子が、標語を声に出して読んだ。
「くちは、わざわい」
もう片方が続ける。
「うわさは、いのちとり」
二人とも、淡々と暗唱して、笑いもせずに走っていった。親に言われて覚えた、という軽さがない。学校で覚えた歌のように口が動いているのに、目だけが周囲を見ている。
私は取材で地方の街を歩いたことが何度もある。過疎地の静けさは慣れているはずだった。けれど、この街の静けさは種類が違う。人がいないのではない。人はいる。扉の向こうに気配がある。ただ、こちらに向けるものが目ではなく、息のようなものになっている。
私が歩くと、扉の隙間が一度だけ動く。
看板の陰から、誰かが引っ込む。
電話をしていた老人が、通話を切る。
合図だ、と私は思った。
言葉を減らすための合図。互いに互いを危険に巻き込まないための仕草。
駅前から少し離れると、小さな飲食店があった。昼の定食ののぼりが出ている。のぼりの布が、風で一度も大きく揺れない。湿った油の匂いが漏れて、胃が空腹を思い出す。
私は扉を引いた。鈴が鳴った。音が甲高くて、店内の視線が一斉にこちらへ向くのがわかった。
カウンターに三人。テーブルに二人。みんな箸を持ったまま動かない。動かないのに、唾を飲む音だけが聞こえる。私は頭を下げ、空いている席に座った。
注文を聞きに来た店主は、言葉を短く区切った。
「定食」
「はい」
「魚」
「お願いします」
それ以上のやり取りが続かない。私はいつもの癖で、会話の余白を埋めようとした。取材者は沈黙に耐えられない、と言われることがある。沈黙は相手の領域で、こちらが踏み込むほど相手は退く。わかっているのに、口が動く。
「この街、静かですね」
店主の手が止まった。目が私の唇を見る。息が一拍だけ遅くなる。その遅れが、私の脳の奥を冷やした。
「……そうだな」
たったそれだけ。店主は鍋の方を向き直る。客たちも、ようやく箸を動かす。動く音が、さっきより小さくなっている。私の一言が、空気の上に傷を付けたのがわかった。
定食が出てきた。焼き魚と味噌汁。米が白い。私は箸を持ち、口に運んだ。味は普通だ。普通なのに、喉の奥に引っかかる。食べるという行為の先に、言葉が付いてくる。美味しい。薄い。濃い。塩気。香り。どれも、言葉になった瞬間にこの街で刃物になる気がした。
隣のカウンターに、酔っている男がいた。昼間から酒を飲む人は珍しくない。けれど、この街で昼酒は目立つ。男は顔が赤くて、笑っている。笑い声が周囲の静けさに刺さる。刺さっても、誰も止めない。止められない、の方が近い。
男がグラスを置いた。ガラスが木に当たる音が、妙に大きい。
「俺さぁ」
その声で、空気が縮む。客の肩がいっせいに固くなる。店主が鍋の火を少し弱めた。音を消すための仕草に見えた。
男は私の方を見た。目が、焦点の合い方だけは妙に真剣だった。
「本当のことを言ってやるよ」
誰かが小さく息を吸った。隣の客が、男の袖を掴んだ。掴む指先が白くなる。
「やめとけ」
声が低い。命令ではなく、祈りの声だった。
男は袖を振りほどいた。笑いながら立ち上がる。椅子が床を擦る音がした。その音で、店の外の空気まで止まった気がする。
「何だよ。真実ってさ、悪いことか」
男が私を見る。その視線の飛び方が、私に焦点を合わせている。知っている目だ。取材をした側が持つ目ではない。取材をされた側、記事を読んだ側の目だ。
「お前、記者だろ」
店内がさらに静かになった。私は箸を置きかけて、指先が止まる。否定しても肯定しても、この街では危ない。言葉の選択肢が一気に減る。喉が乾く。舌が上顎に張り付く。
「……元、です」
私はそう答えた。元、という言葉の逃げ道に頼った。男は笑った。
「ほらな。真実が人を救うんだろ」
その言い方が、私の中の何かを叩いた。私は過去に何度も言われた。正義を振り回すな。人の生活を壊すな。お前の真実は誰を救った。救ったのはお前の自己満足だろ。私はそれでも、正しさは必要だと思ってきた。言葉を飲み込めば、飲み込んだものが腐る。腐ったものは、いつか別の形で噴き出す。だから、外に出す。照らす。真実を見せる。そうすれば、変わる。変わらなければならない。
男は、店の中央に向かって一歩出た。客が身を引く。その身の引き方が、転倒を避ける動きではない。何かが来るのを知っている。
「俺が言うぜ。あいつがやったんだ」
言いかけて、男の舌が止まる。止まらない。止められない。男の口が続けた。
「ここで、ずっと——」
照明が、一度だけ瞬いた。
瞬き、という言葉が合っている。パチンと、上の蛍光灯が目を閉じた。次の瞬間、音が消えた。店の中の咀嚼音も、呼吸も、空調の微かな唸りも、全部が薄い膜の向こうへ行ったように遠ざかった。
男の足が、空を踏んだ。
踏み外した、ではない。まるで階段が突然消えたみたいに。男は入口側の小さな段差に足を取られて、身体が前へ投げ出される。手が空を掴む。指先が何も掴めない。頭が床へ落ちる。鈍い音。食器が一つだけ震えた。
誰かが叫んだ気がした。叫びの形だけが、口の開き方でわかった。音は戻ってこない。私の耳だけが詰まったような感覚が続く。胃が冷たくなる。足先が痺れる。箸が手から落ちて、床に当たった。
男は動かない。
目は開いている。笑いがそのまま固まって、口角が少しだけ上がっている。笑ったまま死ぬ人間を、私は初めて見た。
店主が男に駆け寄ろうとして、途中で止まった。止まった理由が、足のもつれではない。体が命令を拒否したみたいに、膝が固まっている。男の隣にいた客が、手を伸ばしかけて引っ込める。引っ込める指先が震えている。
私は立ち上がった。椅子がきしむ。音が戻ってきた。音が戻った瞬間、吐き気が込み上げた。
「救急車」
私が言うと、周囲の視線が私の口に集まる。言葉が危険だと知っている目だ。誰かが震える手でスマホを出した。指が画面を滑る。画面が反応するより先に、店内の空気が反応している。
救急車のサイレンが遠くで鳴った。近づくまでに時間がある。なのに、誰も男に触れない。私は男の足元まで行った。血は出ていない。首の角度が不自然だ。呼吸はない。私の目が、それを確認する。
私は指先を動かして、男の脈に触れようとして止めた。
触れた瞬間、何かが私に移る気がした。感染症ではない。罪とか、因果とか、そんな言葉の類だ。私は手を引っ込めた。自分が怖がっているのがわかって、歯を食いしばった。
救急隊員が来た。手際よく男を担架に乗せる。隊員の顔が一瞬だけ曇る。曇った理由は、致命傷の確認ではない。ここで働いている人間が、この街のルールを知っている顔だ。
男は搬送された。店の空気が少しだけ戻る。戻っても、誰も口を開かない。誰も「大丈夫か」と言わない。言えば危ないからではなく、言うこと自体が危ないと身体が知っている。
私は会計を済ませた。店主が釣り銭を渡す手が震えている。釣り銭の硬貨が、私の手のひらで冷たい。
店を出ると、空気が重くなった。外の風は同じなのに、私の肺が吸うのをためらっている。私は路地へ入った。人目の少ない方向へ歩く。ノートを取り出そうとして、手が止まった。今、何かを書けば、書いたものが真実になる気がした。
路地の奥に、小さな社があった。神社というより、祠だ。石段が三段だけ。注連縄が細い。賽銭箱の木は古いのに、苔がない。誰かが手入れしている。
私は足を止めた。ここで何かが起きた、と肌が言っている。さっきの照明の瞬きと、男の転落。偶然では説明できないタイミング。私はこの街を取材に来た。噂を追いかけてきた。真実を語ると人が死ぬ街。都市伝説みたいな話を、私は仕事の癖で嗅ぎ分けてしまった。
背後から声がした。
「初見で死を見せるの、嫌い?」
軽い口調だった。コンビニで商品を選ぶみたいな、どうでもいい質問の声。
私は振り向いた。
青年が立っていた。年齢は二十代前半に見える。髪は黒くて、少し長い。服装は街の若者と変わらない。どこにでもいそうな顔なのに、目だけが妙にこちらを見すぎている。人を見る目ではなく、言葉を見る目だ。
「あなたは……誰ですか」
私の声が、思ったより低く出た。青年は笑う。笑い声は出さない。口元だけが動く。
「誰でもいいよ。名前は便利だけど、ここじゃ刃物になる」
「さっきの事故を見ていましたね」
「見てた。見せた、と言った方が面白い?」
青年が肩をすくめた。仕草が軽い。軽いのに、足元がぶれない。私は視線を青年の靴に落とした。靴底が汚れていない。路地の埃が付いていない。ここに立つ前から、この場所にいたような清潔さだ。
「あなたは、あれが起きると知っていたんですか」
「知ってた。ここでは、本当のことを言うと壊れる」
青年は、祠の方へ視線を投げた。祠は何も答えない。風が注連縄を揺らす。揺れ方が、呼吸に似ている。
「壊れる、って何がですか」
私が聞くと、青年は少しだけ唇を尖らせた。考えるふりをしているのか、考えているのか判断できない。
「人。関係。生活。街の空気。全部。壊れ方は選べない」
「だから黙れと」
「黙るのも一つ。でも、黙ってると別のものが壊れる。だからさ、言い換えを渡す」
「言い換え」
青年は手を軽く上げた。指先が、空中の何かを摘む動き。手のひらに何もないのに、私の目には紙片のようなものが一瞬だけ見えた気がした。光の屈折の錯覚だと思う。そう思うのに、喉がさらに乾く。
「嘘、だろ」
私が言うと、青年は首を傾げた。
「嘘って言うと悪口みたいだね。言い換え。代替案。生き延びるための言葉」
「真実が人を殺すなら、それは真実が悪いんじゃない。真実を扱う側が……」
私は途中で口を止めた。説教になりかけたのがわかった。青年は私の止め方を見て、少しだけ目を細めた。
「元記者の癖。語りたくなる。正したくなる。正しさは気持ちいいから」
青年の言葉が、私の皮膚の上を撫でた。撫でるのに、爪が残る。
「あなたは、この街の人間ですか」
「さあね。街の中にいて、街の外でもある。そういう存在って便利だろ」
便利、という言い方が軽い。私はその軽さに腹が立つ前に、呼吸を一度整えた。腹を立てると、言葉が増える。増えた言葉が、この街で刃になる。
「あなたが、ここのルールを作ったんですか」
「作ったかどうかは、誰が得するかで考えたらいい」
「得をするのは……」
私は口の中で言葉を転がす。得をする者。真実が語れない街で、得をする者は誰か。権力者。支配する者。弱者を沈黙させたい者。私はそう考えた。青年は笑った。
「君はすぐに外側の悪役を置きたがる」
否定したかった。否定すれば、青年の言葉が当たったことになる。私は黙った。青年の視線が、私の沈黙を楽しむように少しだけ揺れる。
「相談に乗る?」
青年が言った。
「誰のですか」
「さっきの男の奥さんが来る。もうすぐ」
私は息を止めた。どうしてわかる。と聞くのは危ない。この街では、わかる者がいる。そういう前提を受け入れた瞬間、私の頭の中の地図が書き換わる。
青年は祠の石段に腰を下ろした。膝に肘を置き、こちらを見る。待ち合わせの仕草だ。私は立ったまま、足の裏が冷えていくのを感じる。
数分後、足音がした。小走りの足音。石段の前で止まる。女性が息を切らして立っていた。頬が赤い。手にエプロンの紐が絡んでいる。さっきの店の奥さんだと直感した。
「……あの」
女性の声が揺れる。揺れが言葉に先行する。喉の奥で、言葉が詰まっているのが見えるようだ。
「夫が」
言いかけて、女性は唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。彼女は私を見る。次に青年を見る。青年は軽く手を振った。
「いらっしゃい」
その言い方が、コンビニの店員みたいに自然で、私は逆に寒気がした。
女性は石段の前で膝を折った。祠に向かってではない。青年に向かってだ。祠が舞台装置になっている。青年は彼女の頭を見下ろし、少しだけ首を傾げた。
「欲しいのは何」
青年の問いは短い。女性は肩を震わせた。泣き声を出さないように、息を止めている。止めた息が、肺の中で震えている。
「……知りたいんです」
女性が言った。声が細い。
「何を」
青年が重ねる。
「夫のこと。あの人が、何を……」
女性の指がエプロンの紐を握りしめる。指先が赤い。握りすぎて血が止まっている。
「不倫してたんじゃないかって」
女性は言った。言った瞬間、肩が跳ねた。言葉が危険だと身体が知っている。青年は、彼女の言葉を受け止めるように目を細めた。
「それ、真実が欲しい? それとも、安心が欲しい?」
女性は答えに詰まった。詰まったまま、涙が一筋落ちる。落ちた涙が石段に点を作る。点が広がる。広がるのが、生活の中の染みみたいだ。
「……安心、です」
女性は小さく言った。
「夫が悪い人だったって思いたくない」
青年は頷いた。頷きが早い。決断が早い。
「じゃあ、言い換えをあげる」
青年は、指先で空を撫でた。その動きに合わせて、女性の肩が少しだけ下がる。薬を飲んだみたいに、身体が反応している。私はその反応が怖い。言葉で人の身体が変わる。私は今まで、記事で人を動かしてきた。けれど、これは別の種類だ。直接すぎる。
私は一歩前へ出た。
「待ってください」
女性と青年の目が私に向く。女性の目は濡れている。青年の目は乾いている。
「あなたは、嘘で救う気ですか」
私が言うと、青年は眉を上げた。
「救う、って言葉は好き? 記者は好きだよね。救う。助ける。正す。照らす」
言われて、私は唇を噛んだ。噛むと、鉄の味がした。
「真実があれば、正しい怒りが持てる。正しい怒りは、人を動かす。動かなきゃ、変わらない」
私は言った。言葉が勝手に出る。止めようとしたのに止まらない。自分の口が怖い。
女性が私を見る。怒り、という単語に反応したのがわかる。彼女は怒りたい。怒りがあれば、痛みが形になる。形になれば、抱えられる。抱えられれば、生き延びられる。そう思っている目だ。私はその目に、私は今まで何度も救われてきた。私の言葉を必要としてくれる目。記事の価値を信じてくれる目。
青年は、私と女性の間に視線を落とした。落とした視線が、地面の小石を見ているみたいに無関心に見える。
「君の正しさは、いつも人の背中を押す」
青年が言った。
「押された人は転ぶこともある」
「転んでも、起き上がれる」
「起き上がれない人もいる」
青年の言葉が、私の胸の奥を押した。私は反射的に言い返そうとして、言葉が出ない。出ない理由は、反論が見つからないからではない。反論が、この街では危ないからだ。言えばまた誰かが壊れる。そういう怖さが、私の舌を縫った。
女性が震える声で言った。
「夫は……不倫じゃないんですか」
その問いが、刃の形をしている。刃が自分の方へ向いている。女性は自分を切るために問いを持っている。
青年は女性に向き直った。声を柔らかくする。柔らかくするのが上手い。柔らかさの中に、硬い芯がある。
「君が欲しいのは真実じゃない。夫が悪人じゃなかったと思える言葉だ」
女性の肩がさらに震える。私が口を開く。
「でも、もし彼が誰かに脅されていたら」
言いかけて、私は止めた。止めたのに、言葉は空気に残る。脅されていたら。という仮定が、女性の目の中で形になる。形になった瞬間、彼女の中の安心が剥がれていくのが見えた。私は息を飲んだ。私は今、彼女の救いを剥がしている。
「……私が」
女性が小さく言った。
「私が、気づけなかったから」
彼女の言葉が自分の方へ向いていく。自責。自分を罰する方向へ。
青年が言う。
「ほら。君が真実を持ち込むと、人は自分を殺しに行く」
その言い方が軽いのに、内容が重い。軽さが余計に残酷だ。私は握りしめていた拳を開いた。爪の跡が手のひらに残っている。
「私が、探します」
私は女性に言った。女性の目が私を見る。目の中で、期待が揺れる。取材者に向ける期待だ。
「あなたの夫が最後に言いかけたこと。その続きを、私が」
言ってしまった。約束は刃物だ。約束は相手を生かすことも、縛ることもする。私は自分が縛りを差し出したのを理解した。女性は縛りにすがる。
「お願いします」
女性は言った。声が震えるのに、強い。私は頷いた。
青年がため息をついた。ため息の音が、わざとらしく大きい。
「君はまた人を殺す」
青年は、ただそう言った。怒鳴らない。脅さない。軽口みたいに言う。軽口にしてしまえるだけの距離感で言う。私は腹の奥が熱くなる。言い返したい。私は人を殺さない。私は救う。私は正す。私は照らす。私は。私は。
言葉が喉まで来て、喉のところで止まった。止まった理由は、この街の空気が私の喉を押さえたからではない。青年の目が笑っていないからだ。笑っていない目は、嘘をつかない目だ。嘘をつかない目が言う「君はまた人を殺す」は、私の胸の奥に直接入ってくる。
青年は女性に向き直った。
「でもさ、君、今日を生きなきゃね」
青年は、女性の目線の高さまで身体を屈めた。動作が自然すぎて、私はぞっとする。人を扱うのが上手すぎる。青年は、女性の耳元に何かを囁く。私には聞こえない。聞こえないのに、女性の表情が変わる。眉間の皺が少しだけ緩む。呼吸が一度だけ深くなる。
青年が言った。
「彼は君を守ろうとして死んだ」
女性の目から涙が溢れた。溢れた涙が止まらない。彼女は声を出さずに泣く。泣き声を出すと、周囲に聞こえる。周囲に聞こえると、言葉が伝播する。伝播した言葉は真実になる。真実になった瞬間、また誰かが壊れる。そういう恐怖を、彼女も知っている。
私は青年を睨んだ。
「あなたは、何を言ったんですか」
「今言った通り」
「それは真実ですか」
青年は肩をすくめた。
「半分」
その答えが、私の胃を冷やした。半分の真実。半分の嘘。混ぜられた言葉は、飲み込むしかない。吐き出せば死ぬ。
「嘘で救うな」
私は言った。声が低い。怒りが声に混じる。混じった怒りが、言葉を太くする。太くした言葉は、この街では危険になる。私は口を閉じた。閉じた後に、遅れて息が荒くなる。
青年は私を見た。
「救ったのは嘘じゃない」
青年は言った。
「生かしたんだ」
女性は泣きながら頷いた。頷きが、彼女の身体をこの場に繋ぎ留めている。繋ぎ留めないと、彼女は崩れてしまう。私はその繋ぎ留めが嘘で出来ているのが許せない。許せないのに、彼女が生き延びたのも確かだ。彼女が今、死なずに済んだのは確かだ。
私は言葉を探す。言葉が見つからない。見つからないのに、喉の奥に痛みが残る。
青年は立ち上がり、祠の前に手を合わせた。合わせ方が雑だ。祈りではない。儀式の真似だ。青年は指先で髪を払って、私に言った。
「君、まだ取材ノート捨てられないんだね」
私はノートを胸に抱えているのに気づいた。いつの間にか、両腕で抱きしめていた。紙の角が制服のない胸に当たって痛い。
「あなたは、何者なんですか」
私は繰り返した。
青年は笑った。今度は目も少しだけ笑った。笑いが薄い。薄い笑いの下に、別のものが見える。古い傷みたいなもの。乾いた血の色みたいなもの。
「名前はまだいらない」
青年は言った。
「君が欲しいのは、真実だろ」
その言い方が、私の口癖を真似ているみたいで、私はさらに苛立った。
「欲しいのは……」
私は言いかけて止める。欲しい、と言う言葉が危ない。欲望を言葉にすると、欲望が具現化してしまう街だ。私は息を吐いた。吐いた息が白くならない。冬でもないのに、吐く息が薄い。
女性が立ち上がった。泣き顔なのに、足が少しだけしっかりしている。青年の言葉が彼女の背骨を作ったみたいだ。彼女は私に頭を下げた。
「お願いします」
それだけ言って、彼女は走り去った。走る足音が、路地の奥へ消えていく。
青年は私に近づいた。距離が近い。香水の匂いはしない。清潔な匂いでもない。なのに、鼻の奥が痛む。言葉の匂いだ、と私は思った。誰かが嘘をつく前の匂い。誰かが真実を言う前の匂い。
「君さ」
青年が言う。
「正しさは人を救う、って信じてる?」
私は頷きかけて止めた。頷けば、青年に利用される。否定すれば、自分を裏切る。私は目を逸らした。逸らした先に、祠の賽銭箱がある。賽銭箱の隙間に、硬貨が見えない。誰も賽銭を入れないのか。入れると、何かが起きるのか。
青年が私の目線を追って言った。
「ここでは、正しさも刃物だよ」
私は青年を見た。言い返したい。言い返す言葉が浮かぶ。浮かんだ言葉が、喉の奥で止まる。止まったまま、舌が痛い。
私はこの街に来た。噂を確かめるために来た。確かめた先に記事がある。記事の先に読者がいる。読者の先に社会がある。社会を変えるために、私は真実を出す。そう信じてきた。信じてきたから、私は壊したものもある。壊したことを知っている。知っているのに、同じことを繰り返す。繰り返すのは、正しさが気持ちいいからだ。青年の言葉が刺さる。
その時、私のスマホが震えた。
着信ではない。通知だ。メッセージアプリの通知。私は画面を見るのをためらった。ためらう指先が、画面の端に触れる。触れた瞬間、画面が点灯した。
送信者の表示は、知らない番号。アイコンもない。文章は短い。スクリーンショットが一枚添付されている。
私はスクショを開いた。
そこには、私が書いた記事の見出しが映っていた。数年前の地方紙のウェブ版。私は調査報道の企画で、ある町の補助金不正を暴いた。町長の親族が絡み、地域の顔役が絡み、生活の基盤そのものが揺れた。記事は評価された。私は賞も取った。私は正しいことをしたと思っていた。思っていた。
スクショの下に、短い文字があった。
あなたの真実で、私の家族は死にました。
私はスマホを握りしめた。握る指が痛い。痛いのに、握るのをやめられない。手から離すと、画面の文字がこの街に落ちてしまう気がした。落ちた瞬間、真実になる気がした。真実になった瞬間、誰かがまた壊れる。
背後で青年が言った。
「来たね」
私は振り向いた。青年は笑っていない。目だけが、私のスマホを見ている。スマホの中の言葉を見ている。
「君の真実は、もうこの街に着いてた」
青年が言った。声が軽い。軽いのに、私の足元が沈む。
「どういう意味ですか」
私は言った。喉が枯れている。声が擦れる。擦れた声が、私の弱さを露骨にする。
青年は祠の方へ顎を向けた。
「君がここで真実を言うと、誰が死ぬか」
私は答えられない。答えられないまま、手のひらの爪痕が痛む。
青年が言った。
「君はまた正しく人を殺すのか」
その問いが、私の胸の中で音を立てた。音は外に出ない。外に出せない。出せば、この街で何かが壊れる。
私はスマホの画面を見た。画面の文字が、さっき見た男の笑い顔と重なる。笑って死ぬ人間。真実を言って死ぬ人間。私の真実で死ぬ人間。
私は息を吸った。吸った空気が冷たい。冷たい空気が肺を満たす。満たした瞬間、私は思った。
私は今まで、真実を言うことを止めなかった。
止めたことがないから、止め方を知らない。
青年は私の横をすり抜けて、路地の奥へ歩いていく。歩きながら、振り返らずに言った。
「探すんだろ。続きの言葉を」
私はその背中を追いかけるか迷った。迷った足が、地面に張り付く。張り付いた足が、ようやく一歩動く。
私は路地の出口に向かって歩き出した。
背中に、祠の気配が残る。祠の前に置かれた問いが、私の背骨に刺さったまま抜けない。
街の静けさが、さっきより重い。
私はノートを抱えたまま、消えかけた商店街の方へ戻った。戻る途中、シャッターの隙間がまた一度だけ動いた。誰かが見ている。見ているのに、助けも止めもしない。止める言葉が、この街では刃になるからだ。
私のスマホが、もう一度震えた。
私は画面を見ないまま、歩いた。
見れば、言葉が増える。言葉が増えれば、真実が増える。真実が増えれば、死が増える。
それでも私は歩く。歩いてしまう。歩くことが、私の正しさだからだ。正しさが私の足を動かす。正しさが私の喉を乾かす。正しさが、誰かを殺す。
その可能性が、私の中で確信に近づいていく。
私は、まだ止まれない。
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