第19話
「えー、それでは定刻になりましたので、対局を始めます」
奨励会の司会者がそう言うと、一斉に姿勢を正す音が聞こえる。
「よろしくお願いします」
その声と同時にそれぞれの対局時計が時間を刻み始める。
一次試験は待ち時間60分、秒読み60秒で受験者同士の対局で二時間以上かかることもある。
今日と明日で計六局行い、四勝で通過、三敗で失格となる。
午前で一局、午後で二局行われ、昼食後の眠くなる二局目と疲労が溜まる三局目を耐え切れるかが勝負になる。
逆に言えば、集中力のピークである一局目を勝ち切ることが重要になる。
僕の対局相手は六年生の男の子で、角変わりの展開になる。
角を交換して銀で角道を止めると、僕は時間の使い方を考える。
角変わりは大きく有利不利は変わりにくい。じわじわ追い込む戦法だ。
そして現代で最も指され、最も研究されている戦法と言える。
歩兵の突き捨てで評価値が大きく変わることがある。
序盤に三十分は使ってもいいだろう。それだけ丁寧にやる必要がある。
中盤終盤の展開は序盤にかかっていると言っていい。角変わりはそう簡単に逆転できるような棋譜にはならない。
僕は様々なパターンを想像しながら指し進めていった。
「……ありがとうございました」
「あ、ありがとうございました」
僕は相手の振り絞るような声に遅れて返事をする。一局目は一時間十三分、97手で僕の勝ちとなった。
無事に一局目を勝利したのに僕には喜びよりも困惑が先に来ていた。
倉敷市王将戦よりもレベルは高いが、そこまで強くないという感想だった。
将太との対局の方が苦しかった。
奨励会の外に出て母さんと合流する。
「だ、ダメだったの?」
母さんは僕をみるなり開口一番にそう言った。どうやら今の僕は負けたように見えたようだ。
「いや、勝ったよ」
僕がそう言うと母さんは安心したように胸を撫で下ろす。
「それならもっと嬉しそうにしてなさい」
「ちょっと……拍子抜けで」
「そ、そうなの?でも油断しちゃダメよ」
「あ、うん」
油断、か今朝には考えられないことだ。でも確かに気が抜けているのは事実だろう。
このままお昼を食べて二局目に向かうのは危険だろう。気を引き締める必要がある。
だが僕の頭の中では対局相手は弱い方だったのか、はたまた受験者のレベルはあれぐらいなのかという思考になっている。
負けた時の切り替える心は用意してきたつもりだが、この慢心のような心の切り替え方なんて待ち合わせていない。
「切り替えないと」
僕はそう呟いてスマホに視線を向けると、勢いよく取り上げて写真フォルダを見る。
三日前に撮った四人の集合写真を見る。
浩一は康誠に負けないように頑張っている。敵である康誠に教えてもらうのは悔しいだろう。それでも前に進むことを選んだ。
康誠はユースでプロになるために練習している。ナーバスな時期も練習し続けて、他を寄せ付けない強さを手に入れた。
そして和奏は言うまでもないだろう。全国大会で結果を残す才女。その演奏を僕は誰よりも知っているだろう。
「僕も続かないと」
奨励会試験は年に一度きりだ。ここで落ちると一年の停滞が確定する。
もちろん研究は続けて成長はするだろう。だが実績がないとダメだ。
和奏は変わらずに接してくるだろう。でも僕が変わってしまう。
胸を張って隣に立つことができなくなる。
こんなこと和奏に言ったら怒られるだろう。
「楓真だから仲良くしている」そんな言葉をかけるだろう。
でも僕はそんな言葉を求めていない。
僕が求めているのは励ましなんかじゃない、賞賛と結果。
倉敷市王将戦と同じ後悔はしない。
今度こそ約束を守らないと男としてダサすぎる。
慢心なんて百年早い。
「よし!」
最後に両手で自分の頬を叩き、気合を入れる。
無事に危機感と焦りを獲得し、次の対局へ思考がシフトする。
そして満腹にならないように昼食をたべて、二局目、三局目に向かう。
どちらの相手も振り飛車だったが、疲労の蓄積もあってか相手のミスが多く無事に勝利できた。
僕は集中力を保つことが出来き、切り替えることに成功した。
奨励会試験の1日目が終わって帰路に着くと、僕は再び緊張感が抜けているのがわかる。
明日に向けて切り替えたいのに、疲労もあいまって将棋のことは何も考えられない。
家に帰ったお風呂に入るとすぐにベットに横になる。
なんとなくこのまま寝てしまうと良くない気がする。
そこでとりあえず和奏に結果を報告することにした。
「とりあえず三勝したよ」
気の利いた文章を考える余裕はなく、簡潔に結果だけを送る。
和奏に状況を伝えることで緊張感を取り戻そうと思ったのだ。
すると一瞬の内に既読ついて電話がかかってくる。
思わずスマホを落としそうになりながらも電話に出る。
「もしもし楓真?今大丈夫!?」
「うん大丈夫だよ、もう寝るだけだから」
僕がそう答えると和奏が安心ように息を吐くのがわかった。
「この三日間、一切連絡取り合ってなかったから勢いで電話かけちゃった」
「ごめんね、僕も余裕なかったから」
「ぜんぜん、それより三勝おめでとう。明日も頑張ってね」
和奏からの賞賛を受け、僕は声が出ないほど嬉しかった。
そして同時に安心感ど充実感に満たされたことを自覚する。
「あれ?聞こえなかった?」
「いや、聞こえてるよ。ありがとう和奏」
「だ、大丈夫?声に元気がないけど……」
電話越しでも僕の不安は感じとれるらしく、和奏の心配そうな声が聞こえる。
「和奏ってコンクールの時さ、どんな気持ちで臨む?」
「え、えっと……やってきたことを出すっていうか、立ち向かう気持ちって言ったらわかる?」
「うん、分かるよ。僕も同じような気持ちで今日挑んだんだ」
そう、今日はその気持ちだったはずだ。でも今は違う。
「今さ、僕油断してるんだ。どうせ明日も勝てるだろって」
「それは楽に勝てちゃったからってこと?」
「まあ……そんな感じ」
僕がそう答えると和奏は困ったような声色になる。
「私も慢心するところがあるから分かるわ。そして大抵慢心してるといい演奏はできない」
和奏は心当たりがあるらしく、渋い声になる。
それより驚くのは和奏にも心当たりがある点だ。
「和奏でもやらかしたことごあるんだ」
「うーん、まあね。問題はそれでも負けないところなんだけどね」
和奏はそう口にするとどこか納得したような声を出す。
「そうね、やっぱり勝ち方って重要ね。中途半端な勝ち方をすると消化不良だし、惨めな気分になるもの。最高のパフォーマンスで圧倒すれば自分に対する苛立ちはないわ」
「だね、百パーセントの力を出して負けたのなら納得できる。でも中途半端な力で負けるのは悔しいとか以前の問題だ」
それは倉敷王将戦で嫌なほど理解したことだ。だからそれだけは回避しないといけない。
それにまだ一次試験で次の二次試験はもっと強い相手になる。
本番が始まっていないのに油断するのは愚か者だ。
「まだ楓真が真剣勝負に慣れてないってのもあると思う。やり直しがきかない勝負って難しいし」
「確かにそうかも。でも、そんなこと言い訳にならないし」
これはメンタルの話だ。
僕自身でコントロールしないといけない問題だ。
この現状が思ったよりも重症で黙り込む。
「…あ、あのさ」
どこか言いにくそうにした和奏が沈黙を破る。
「別に今メンタルコントロールできなくていいと思う。真剣勝負を経験するなかで養えばいいと思う。だから今は私が協力する」
和奏はそう言うと一息置いて口を開く。その一瞬の間は僕が次の言葉を察するのには十分だった。
そして静止するのにも十分な時間だった。
「約束守ってね楓真」
言わせた、この言葉を言わせてしまった。
最も尊敬している人である和奏に一番言いたくない言葉を言わせてしまった。
仲直りしたとはいえ、期待を強要することは和奏にとってトラウマのようなものだろう。
そして、だがらこそ僕は自分が情けなくて、眠気が吹き飛ぶぐらいに焦っているのだろう。
明日負けたら終わる。そう思わずにはいられなかった。
「必ず約束守るから!」
謝るのは違う気がした。逃げる理由になると思った。
だって静止せず言わせたのだから。
だから約束を守ることで埋め合わせをする。
「うん、期待してるね!」
和奏は元気よく背中を押してくれる。
とても心強く、気合の入るものだった。
それから軽く話した後、通話を終えた。
寝付きはよくなかった。
明日に向けた指し方をシュミレーションしていたからだ。
ただ目覚めは悪くなかった。シュミレーション中に寝落ちしていたらしく、深い眠りだった。
頭は冴え、慢心の気持ちは一切ない。
今年は四勝で合格、つまり初戦を勝てば一次試験は通過となる。
奨励会への道中もひたすらに将棋のことを考えていた。
「この対局で終わらせよう」
奨励会一次試験、二日目の第一局が始まる前に僕は小さくそう呟く。
もちろん奨励会に受かるために一次試験の合格は必須だ。
早く合格を決めること以上のことはない。
そして早く和奏に報告して安心させたい気持ちが強い。
「よろしくお願いします」
司会者の言葉に合わせて一斉に挨拶を行い、対局を開始する。
僕は一度姿勢を正し、大きく息を吐く。
この瞬間から将棋以外の要素は何もいらない。
相手の年齢も顔つきも必死さも、全てノイズだ。
勝つこと以外何もいらない。
和を以て明王を制す ラー油 @Rarand
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