第18話

 夏休みになって約二十日が経とうとしていた。

 東ノ先小学校は七月の下旬から夏休みとなり、奨励会の試験である八月十五日まで残り三日となった。

 試験は午前九時から開始されるので、夏休み期間でも規則正しい生活をしている。

 奨励会試験前といえど将棋だけをしているわけではない。正直言って奨励会というものが未知数すぎて将棋だけをしていると気が狂いそうになる。

 朝食を済ませて動きやすい服装に着替え終えるとチャイムが鳴る。

 「はーい」

 母さんがインターホンに出て、玄関のドアを開けると聞きなれた声が聞こえる。

 「洋子さん!おはようございます!」

 「おはよう和奏ちゃん。あら、今日の格好とても可愛いわね」

 「そうですか!?」

 運動会で一緒にお弁当を食べてから、和奏は母さんにかなり懐いている。

 夏休みになってから僕と和奏は用事がない限り会っていた。音楽室にいる時のように過ごす。

 基本的には和奏が僕の家に来ることが多く、母が保育園で働くにあたって高学年を担当するも多く、ピアノを弾く機会も増えたから電子ピアノを買っていた。

 いいものを買っていたらしく練習には十分らしい。

 そして和奏の家に誰もいない時は僕が和奏の家に行く。やっぱりグランドピアノの方が圧倒的に音の質が違う。

 「ごめん、待たせちゃって」

 急いで階段を降りてそう言うと和奏の姿が見える。

 その瞬間僕は足を止めていた。

 和奏の私服は見慣れていたが、今日は白のワンピースを着ている。 

 今まで見たことがなく、新鮮で綺麗だ。思わず見惚れてしまうほどに。

 「おはよう楓真」

 「あぁ、おはよう和奏」

 僕が気の抜けた挨拶をすると、和奏は優しく微笑む。

 「今日は外に出かけるのよね、気をつけて行ってね」

 「はい、ではまた!」

 和奏は母さんに元気よくそう言うと、歩き始める。手に持った麦わら帽子を被って暑さ対策をしている。

 しばらく話しながら歩いていると河川敷に隣接した広場に着く。

 「早く来たつもりだったんだけどなー」

 和奏は先にボールを蹴っている二人を見てそう呟く。

 実際に集合時間よりも五分前に着いていて僕達も十分早いが、二人の汗の量を見る限り十分より前にいたことが察せられる。

 近づいていくと二人はこっちに気づいたらしくボールを止める。

 「本当に来たんだな和奏」

 まず康誠がそう口にする。確かに和奏が好んでサッカーを見たりやる姿は想像できない。

 「息抜きしたかったからね」

 「それにしても別の息抜きがありそうだけどな」

 「浩一が定期的に楓真を持っていくからでしょ。中途半端な時間にいなくなるんだから」

 和奏がそう言うと浩一はジッと僕の方を見てくる。

 「なにも理由をそのまま言うことないだろ。師匠と会うとか、何かあるだろ」

 「それは三回目までなら通用したよ。でも親に確認されちゃって」

 僕がそう言うと浩一は納得した様子を見せる。

 「私は見てるだけだから気にしないで」

 和奏はそう言うと一歩下がって僕を差し出すような仕草を見せる。

 「それじゃ、リフティングからやるか」

 康誠はそう言って僕にボールを渡す。

 そして僕の左右に浩一と康誠が立つ。

 「僕には難易度が高いんだよな」

 僕はそう呟くとボールを地面に置いてからリフティングを開始する。

 元々リフティングなんて出来なかったが、東ノ先小学校に来てからの四ヶ月でかなり上達し、基本的に失敗しない程度にはできる。

 ただこれは普通のリフティングじゃない、三回ボールを蹴った後、ボールを顔の高さまで上げて首を左右に振る。

 そして左右にいる浩一と康誠が指を立てている数を口にする。

 「さん、いち!」

 首を振って周りを見るので、一瞬ボールから視線が外れる。なんとなくボールが落ちてくる位置は分かるので受けることは可能だが、変な弾み方をすることが多い。

 そしてこの動作を繰り返していると頭がこんがらがってくる。六回目でボールをあらぬ方向に飛ばしてしまう。 

 「お、記録更新したんじゃないか」

 「そうだね、前まで五回が最高記録だった」

 自身の成長を感じて少し嬉しくなる。

 ふと和奏を見ていると感心したような顔をしている。

 そして何回か僕がやった後、浩一の番になる。

 始めたての頃は僕と似たようなものだったが、技術力と努力によって正確かつ、落とさなくなった。

 たまにボールを少し弾くことはあれど失敗しなくなった。

 「さすがに楓真とは違うねー」

 和奏はそう言って僕の隣に立つと、ピースを作る。

 「よん、ご――に!?」

 二人という先入観からか、浩一は不意に現れた和奏に動揺してボールを弾く。

 「ふふ、三人目は予想外だった?」

 「不意打ちだったからだ」

 浩一はぶっきらぼうにそう言うとリフティングを再開する。

 和奏が参戦して数字が三つになっても浩一はボールを落とすことはなかった。早口だったり日本語になっていない部分もあったが、しっかり認識しているのが分かる。

 「ねえ楓真、試しに指の場所を変えてみよ?」

 和奏は耳元に顔を近づけるとそう口にする。

 吐息が触れそうな距離まで接近され僕は自然と息を止めていた。

 そしてほぼ無意識で指の位置を腹部まで下げていた。浩一にできるだけ僕の表情を見せない為だった。

 すると浩一は僕と和奏の分を口できずにボールが落ちる。

 「……クソ」

 浩一は一瞬不満げな表情をしたが、すぐに悟ったように悔しそうな顔をする。

 「相変わらず手厳しいな」

 「……そ、そう?」

 康誠は軽口を言ったつもりだったようだが、和奏の表情は非常に硬い。

 三年生の頃に康誠との関係が悪くなったのがトラウマなのだろう。

 康誠も和奏の表情を見て、しまった。という顔をする。

 「大丈夫だよ、このぐらいで浩一は折れたりしない。それに今回は一人で溜め込むこともないしね」

 折れるなら康誠の練習風景を見た時に折れているだろう。加えて絶望を与えた康誠に教えを求めたのだ、この重みは計り知れない。

 「はぁ、もっと全体を見ないとか」

 「そうだな、一瞬でどこに誰がいるのか判断して、自分がどう動くか決めるからな」

 「次の課題はそれだな」

 浩一はそう言うと康誠にボールを渡す。

 そしてボールを受け取った康誠は軽やかにリフティングを始める。

 僕と和奏はお手本を見せる意図があることを理解し、浩一の時と同じように指の位置を変える。

 だが康誠は見ないといけない数字が三つかつ、位置も毎回変わるのに言い淀みなく答える。

 テンポは常に一定で、康誠の周りだけ時間の進みが遅い。

 和奏が試しにパーとピースを作ったが、合計の七を答えた。

 康誠には首を振って周囲全体を把握することは習慣で、息をするようにできることなのだ。

 「前はもっとぎこちなかったのにね、別人みたい」

 リフティングを終えると、和奏が感心した様子でそう口にする。

 仲がこじれてから半年以上の空白があることを考えると、別人と感じてもおかしくない。

 そして康誠が苦しみながらも止まらなかったことの証明でもある。

 「俺も成長したってことだな」 

 康誠は嬉しそうにそう言うと顔を背ける。自分でも表情の変化を察知したのだろう。

 それから基礎練を続けた後、抜け出した味方へのパスの練習になった。

 浩一と康誠が相対し、ボールを持っている方が抜け出して来た僕へパスを出す。

 飛んできたボールを僕がトラップして終了だ。

 おかげさまでトラップがかなり上達した。

 そしてこれが最後の練習で今日は解散となる。

 「奨励会の試験って三日後だろ、大丈夫そうか?」

 「分かんないのが本音だけど、全力でやるよ」

 「そんな心配しなくて平気だって。楓真よりも練習してる人なんてそういないわ」

 和奏はそう言って僕の背中を叩く。ジンジンとした痛みが心強かった。

 「あ、そうだ、この前は頭を切り替えられなかったのよね?」

 「そうだね、次は気をつけないと」

 僕がそう答えると和奏はスマホを手に取って集まるように指示をする。 

 「はーい、撮るよ」

 僕達三人は流れに身を任せるようにピースをつくる。

 「もし切り替えられられなそうだったら、これを見るってことで」

 和奏はそう言って四人の集合写真を送る。スマホで見てみると楽しそうな四人の姿が見える。

 「大丈夫か?逆にプレッシャーになりそうだけど」

 「いや、平気だよ。それに力をもらえるよ」

 「それならいいんだけどな」

 康誠はそう言って力強く僕の背中を叩く。気合いが入るのには十分な刺激だ。

 それから三人に激励を受けて僕は家に帰った。

 これからの三日間は追い込み期間ということで家に缶詰め生活だ。

 後藤先生からは奨励会の棋譜は見ずに、振り飛車の対策をしておけとのことだった。

 僕は主に四間飛車の対策に時間を使った。中飛車は対応できる自信があったからだ。

 時間はあっという間に経って奨励会試験前日の夜になる。

 目覚ましをつけるためにスマホを見ると、和奏から通知が来ている。

 「試験頑張ってね!」

 このメッセージと同時にファイト!と書かれたスタンプが送られてくる。

 「頑張るよ!」

 僕はそう送って眠りにつく。寝付きがよく、スッキリとした気持ちで起きる。

 そして奨励会まで移動し始める。前もって下見に来ていたのでスムーズに到着する。

 受け付けに向かうと、僕と同じく受験者が大勢いる。

 僕が最年少で中学生だっている。

 だか恐れない。

 僕だって負けられないのだから。

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