第14話

 「やっぱり和奏と知り合ってたんだな」

 台風の目の練習でひと悶着あった日の放課後、僕と康誠が一緒に帰っていると康誠がそう口にする。

 「うん、三週間前ぐらいに話しかけられてさ」

 僕は康誠にそう言って軽く経緯を説明する。多目的教室で僕が将棋を指していたら名前などを言い当てられたことを話す。

 「なるほど、和奏にクラスに将棋をやっている男の子がいないか?って聞かれた時はどういうことか分からなかったが、そう言うことか」 

 康誠はどこか納得した様子で頷く。そして少し申し訳なさそうな顔をする。

 「迷惑だったか一緒に帰るの?」

 「いや、康誠と話すのは楽しいからね」

 僕はすぐさまそう口にする。校門までの距離なら面倒でもなんでもないし、康誠と話す時間は好きだからだ。

 それにしても今日はいろんな顔を見る日だ。康誠がこういう事を言うとは思わなかった。

 「なら少し遠回りしないか?」

 僕は頷いて承諾して、康誠についていくように歩き始める。向かった先は新校舎で、六時間目まで授業のある学年は存在せず、がら空きの校舎を徘徊する。

 「楓真は和奏についていけそうか?」

 「どうだろう?でも全力でついていくつもりだよ」

 「そっか、頑張ってくれ俺には出来なかった」

 康誠はどこか諦めた表情でそう口にする。それは託すニュアンスが含まれていることが分かる。

 「別にまだ諦める段階じゃないと思うけど?」

 「……俺じゃ無理だったんだ。疲れちゃってな」 

 康誠は辛そうな顔をしてそう言うと次々と思っていることを口にしていく。

 「元々俺が別の場所でサッカーをしてるから、楓真ほど和奏のピアノを聞くことは無かったんだ。だから演奏の話じゃなくてお互いの課題を話してたんだ」

 課題というと康誠だったらリフティングやトラップで苦手なことを、和奏だったらピアノの苦手な技術を話していたらしい。

 「でさ、和奏は一瞬で課題を克服するんだ。本当に一日や二日で、それで俺は全然上達しないんだ。俺さ、左足でボールをコントロールするのが苦手なんだ。チームの練習以外でも左足を練習してたんだけど全然上達しないし、それでも和奏は先に進み続けてさ」

 康誠は言葉を口にするたびに声を震わせ、しだいに瞳に涙が浮かんでいく。

 「俺、しんどかったんだ。サッカーが楽しくなくて常に何かの背中を追ってたんだ。だから俺は和奏を拒絶した」

 康誠はどこか悔いるようにそう口にする。

 「楓真は俺みたいにならないでくれ」

 「……もちろん全力でやるよ」

 康誠が和奏に対して抱いた追いかける感覚に心当たりある僕は、自然と重い口調になっていた。 

 だが、そんな関係は悲しいことだと思う。お互いに改善点を話したり、くだらないことを話して笑った日々は価値のあるものだ。 

 「でも、僕はサッカーやピアノを抜きにして二人には仲良くしてほしいよ」

 「ダメだろ、俺は一人で苦しんで勝手に拒絶したんだ」

 「和奏にとって拒絶されたままなのが一番辛いと思う。それに和奏は康生のことを今でも友達だと思ってるって言ってたし」

 「本当か?」

 康誠はどこか救われたような表情でそう聞く。僕は頷く形で答える。

 「そっか、まだ友達だと思ってくれてるのか」

 康誠はそう呟くと顎に手を当てて考える仕草をする。

 「確か、今でも和奏は放課後に音楽室でピアノを弾いてるんだよな?」

 「うん、そうだよ」

 僕が肯定すると康誠は納得したように何度も頷く。そして晴れ晴れとした表情になる。

 「話を聞いてくれてありがとうな楓真」

 「僕でよかったらいつでも聞くよ」

 お互いに話したいことを言い終えると僕達は新校舎を出て裏門に向かう。

 「今日はありがとうな楓真。これで吹っ切れそうだ」

 裏門に着いた康誠は眩しい笑顔でそう言うと勢いよく駆け出していく。

 その姿は壮大な草原を走る馬のように爽やかで力を感じさせた。

 

 「結構時間経っちゃったな」

 裏門で康誠と別れた後、僕は多目的教室に小走りに向かう。放課後になってから十五分は経過していた。

 階段を急いで上がり、多目的教室の前に立つと険しい表情で、机を指先でトントンと速いリズムで音を鳴らす和奏がいた。

 明らかに不機嫌なのが分かり、僕はなんとなく声をかけずらくなって立ち尽くす。

 「遅い!」

 「ご、ごめん」

 フリーズした僕に気づいた和奏は睨むような鋭い視線を向ける。僕は蛇に睨まれたような居心地の悪さに襲われ、思わず謝る。

 「何してたの?」

 「康誠と話してたら時間が経ってたんだ」

 「康誠だけと話してたの?」

 「うん、そうだけど……」

 「そう」

 僕は質問の意図が分からず警戒しながら肯定すると和奏は立ち上がり、音楽室の鍵を指にかけてクルクル回す。

 僕は駒と盤を持って和奏の後に続いて音楽室に入る。それから気まずい雰囲気の中、僕達は練習を始めた。

 僕はただでさえ苦手なことをやっているのに加え、集中が乱れる。和奏はストレス発散をするようにハオテンポな楽曲を弾いている。明らかに精細さを欠いていて乱雑な演奏になっている。

 和奏もこの空気が嫌なようで十五分程度でピアノを弾くのを辞める。そして僕もすぐに弾くのを辞めたことに気づく。

 自然と目が合い、気まずい時間が訪れる。 

 「今日はやめて、お散歩しない?」

 重い沈黙を破ったのは和奏だった。僕も頷いて承諾し和奏の後についていく。

 音楽室の鍵を返し、裏門まで歩く。そこまでの間に目立った会話は無かった。

 「今日はごめんね、私がイライラしちゃって。なんか自分が制御出来なくて」

 「別に気にしてないよ。そういう日もあるよ」

 「前までなら抑えられてたんだけど、どうしても顔に出ちゃって」

 和奏は自己嫌悪するようにそう口にする。僕はその姿を見て少し申し訳ない気持ちになる。

 「僕は別に抑えら必要はないと思う。ただ、何が嫌だったのか教えて欲しい」

 「それは……」

 和奏は表情を硬直させると口をもごもごさせる。歩くのを止めて両手を胸に当てて口を開く。

 「楓真が葵と話してるのが嫌だったの。満更でもなさそうだったし」

 和奏は普段の軽快で聴きやすい声ではなく、振り絞るような吐き出すような口調でそう言う。

 「それに華凛と知り合いなんでしょ?いつから仲良くなったの?」

 「それは二週間前ぐらいかな」

 僕は早起きした日に花壇を見ていたら華凛に話しかけられたことを話す。

 和奏は納得したようき何度も頷く。

 「別に楓真と華凛が仲良くしてくれるのは嬉しいの。ただ私が知らないところで仲良くなってて、焦ったというか」

 「気持ちは分かるよ。僕も和奏が康誠や浩一と仲良く話してたり、昔の話をしてたら疎外感を感じるもん」

 僕は自分の邪の感情を口にするのは躊躇いがあったが言わないといけないと思った。そして和奏も似たような感情を抱いていることを理解する。

 お互いに思っていたことを口にしたことで重かった空気が緩和される。

 「私が言うのは変だけどさ、仲直りしない?」

 「うん、仲直りしよう」

 不安そうに仲直りを提案した和奏に僕はすぐさま承諾する。すると和奏は安心した表情になる。

 「本当に良かった、ずっと不安だったから」

 和奏はそう言うと教室の方を見る。

 「戻る?」

 「いや、戻る気分じゃないや」

 和奏の返答を聞いて僕は普段通りの帰路に向かって身体を向け、歩き出そうとする。だが思ったように身体が動かず、後ろに引っ張られる感覚になる。

 「あのさ、案内したい場所があるんだけど」

 僕の裾の部分を指先で掴んだ和奏は小さく引っ張りながらそう口にする。その姿がいじらしく見えて僕はドキッとする。

 僕は身体の向きを変えることで行く意思を表明する。

 「こっちに好きな場所をあるの」 

 和奏はそう言って帰路とは逆の道を指す。その道は康誠が普段帰る道だった。

 僕は探検するような気持ちで歩き始める。普段のような大きく開けた道路の近くを歩くのではなく、綺麗に整備された道を歩く。

 途中で商店街を通ると綺麗な水路に出る。その先を進むと木製の看板があり、東ノ先庭園と書いてある。

 濃い茶色の落ち着いた雰囲気のある柵が整備された水路に沿って歩いていくと、カラフルに彩られた花壇が現れる。

 枝の茶色と葉っぱの緑を基調として、装飾品を加えるように花々が配置されている。アクセサリーに少しだけ宝石が付けられているような印象だ。だからしつこさがなく、落ち着いた気持ちになる。

 「ここはね、私が落ち込んだ時に来るの。嫌な気持ちが忘れられるから」

 和奏はいろんな花を見渡しながらそう口にする。僕も和奏に倣うようにして周りを見渡すと様々な色があることが分かる。

 こんなに様々な色が世界にあったのかと思う。

 「こっちこっち」

 僕が迫力に飲まれていると和奏は腕を引いて近くのベンチに座らせる。そのベンチは背の高い緑に囲まれた場所で、視線の先には水路が見える。

 オレンジ色の夕日を反射した水面と対称的に暗くなった花の冷たい色に、矛盾した感覚を抱く。でもその感覚が心地よくて自然と心拍数が落ち着いていく。

 「綺麗な場所だね」

 「でしょ!」

 和奏は誇らしげにそう言うと隣に座る。僕は横目に夕日に照らされた和奏の横顔を見る。

 目の前の景色を見て普段よりも落ち着いた表情の和奏はより大人っぽく見え、遠くにいるように感じる。

 「……さっきから見てるけど、どうかした?」

 不意にこっちを見た和奏が居心地の悪そうな目を向けてそう口にする。自分でもどれだけの時間見ていたか分からずに恥ずかしくなる。

 僕は気まずい感情を抱いたが和奏は違うらしく楽しそうに笑う。

 「楓真は喧嘩した時や気まずい時は私を見てくれないからね」

 「そう……だね」

 自覚があるわけではなかったが思い返して見ればその節がある。嫌なことに目を背けようとしてしまう。

 「これから気をつけるよ」

 僕がそう言うと和奏は楽しそうに笑う。そして普段通りに話し始める。音楽のことや好きなテレビの話など当たり障りのないものだ。

 三十分ほど経つと五時の鐘が鳴り、帰ることになる。

 「楓真は聞かないんだね学校のこと」

 庭園を行きとは逆向きに歩いていると和奏は控えめな表情でそう口にする。

 「気になりはするけど、僕から聞くことじゃないと思って」

 「私から言うのを待ってるのね」

 僕は和奏の言葉に頷いて肯定を示す。僕が倉敷王将戦で負けた時のように言いたくなことは存在する。

 相手から促されるよりも自分のペースで話した方が楽だと思う。

 「自分から言った方が楽な事は多いけどさ、学校のことのように自分から言い出しにくいこともあるでしょ?」

 確かに倉敷王将戦のように前もって話をして、優勝すると約束したものならともかく、今日のように突発的かつ感情的にしてしまったことは本人から言いにくいだろう。

 「楓真が周りが見えて、相手の気持ちを考えられるのは素敵なことだと思う」

 和奏は言いずらそうにそう言うと、一度言葉を止めて下を向く。表情は分からないが口をもごもごさせているのは分かる。

 そして意を決したように顔を上げると勢いよく言葉を紡ぐ。

 「私は楓真にもっと楓真は踏み込んで来てほしい!」

 ベンチで横目に見た時よりも顔を高揚させた和奏が力強い口調でそう言う。その力強い口調から僕は和奏の思っていることを理解する。

 踏み込まないということは一歩距離を取っているということだ。和奏にとって僕は距離を取っているように感じるのだろう。

 「聞いた上で言いたくないことは言いたくないって言える関係が私はいいな」

 「そうだね、僕もその関係がいい」

 僕がそう言うと和奏は続きを促すような視線を向ける。

 もちろん僕はどんな言葉を口にしたらいいか分かっている。加えて和奏から踏み込んでいいという許可が出ている。

 でも躊躇う僕がいる。相手の内情に踏み込むことは恐ろしか感じる。

 和奏の親の件を知った時僕は無力感に襲われた。なんて言葉をかけていいか分からなかった。

 僕は踏み込んでも何もできないのが嫌なのだ。でも変わらないといけない。

 僕はこれから相手を知って少しでも歩み寄れるように努力したい。

 「葵とは何かあったの?」

 僕は普段の学校生活の和奏を深く知っているわけではないが、あそこまで険悪な人が生まれるとは思えない。

 「葵はね親友だったの。楓真ほどの頻度じゃないけど、ピアノを聞いてもらったりしてたんだ」

 「そうだったんだ。そんな風には見えなかった」

 「喧嘩しちゃってさ。楓真の時みたいにお母さんが嫌がらせしたの。普通の親なら関わるのをやめろって言うし、私の対応もよくなくてね」

 和奏は悲しい記憶を思い出すように、悲しそうな表情を見せる。そして綺麗な水色の瞳が水面が揺れるような不安定さを見せる。

 「私は葵のこと嫌ってないのに私のお母さんが言うことを信じてる葵に怒っちゃってさ、そのままズルズル引きずってるの」

 「そっか……」

 僕はふさわしい言葉が思いつかず沈黙する。大人からストレートに酷い言葉をかけられれば関係がこじれることは簡単に想像がつく。

 僕も母さんと父さんがいなかったらどう転んでいたか分かったものではない。

 それから和奏は去年のクラスの話を始めた。康誠や浩一、華凛と葵が同じクラスになって騒がしくもまとまりのあるクラスだったらしい。

 「私は元々無視とか物を隠されたりの嫌がらせを受けることがあってね、言い争いとか見て見ぬふりをしてたの。でも葵は正義感が強くて私を守ってくれたの」

 さっきの葵を見ていると想像がつかず僕は意外そうな顔をしてしまう。

 「以外でしょ?でも本当なの、男子が相手でも躊躇せずに言い返してたの。本当にかっこよかった」

 和奏は憧れの人を思うような顔でそう口にする。その表情から冗談を言っているわけではないことが分かる。

 それから

 「私が楓真に知って欲しいのはこれで全部。ありがとう聞いてくれて」

 「僕も知れてよかった」

 和奏がどんなものを抱えているか知れて嬉しい気持ちが強い。

 自分の中のモヤモヤした気持ちが晴れてスッキリすると、家が見えてくる。

 「少し遅くなっちゃったね、大丈夫?」

 「うん、どうせ父さんも母さんもいないし」

 「それは……よかった?」

 和奏が疑問が残るように賛同したことで僕は言葉を間違えたことを自覚する。

 ぶっきらぼうかつ吐き捨てるように口にした。 

 こんな言い方が和奏にとって気持ちがいいわけがなかった。 

 「ごめん、言い方が悪かった」

 「ふふ、謝ることないって。親がいなくて寂しい、なんて言えないもんね」

 和奏はからかうような顔をしてそう口にする。その顔から逃げようと下を向くが、和奏が覗き込み僕の赤くなった顔を見る。

 「また明日、楓真!」

 「うん、また明日。和奏」

 普段のキラキラ光る笑顔に戻った和奏に僕も笑顔で応じる。

 和奏の背中を見送った僕は、音楽室での険悪な空気が消えたことに安心する。

 部屋に戻った僕は他が何も気にならないほど集中して序盤を研究する。だがその集中力に見合う成果は出せず停滞を感じる。

 自分がどんな将棋を目指すのかが曖昧になり、中途半端な将棋になる。

 人間関係は着実に進歩しているが、肝心の将棋が停滞していて焦りを覚える。

 奨励会試験までの日数は約三ヶ月、長いようで短い。

 そしてまた一日が経ち、試験日までの砂時計は刻一刻と砂を落としていく。

 運動会の練習は徒競走の並び順を確認した。単純なものなので問題が起こることなく終わり、放課後になる。

 「楓真、少し教室で待っててくれないか?用事があってさ」

 「うん、分かった」

 僕が承諾したすると康誠は緊張した表情で教室を出て行く。

 「また遅れちゃうな」

 僕はそう思ったが音楽室に行くことはしない。今は教室にいて不用意な行動は控えたほうがいいと思った。

 「……することないな」

 覚えてきた詰将棋も解答済みで手持ち無沙汰だ。ぼうっとしながら席に座っていると、教室がザワっとする。

 顔を上げて教室の入り口に視線を送ると、堂々とした歩き方で教室に入ってきた葵がいた。

 「今、少し時間いいかな楓真?」

 「……うん、平気だけど」

 唐突に現れた葵に警戒しつつも身体を向け、視線を合わせる。昨日の今日で話すのは少し怖い気持ちはあるが、拒否をする気は全く起こらなかった。

 「さっき康誠がランドセルを持たないで階段を上がって行ったけど、何か知ってる?」

 「ごめん知らないや、僕は用事があるから待っててとしか言われてなくてさ」

 「本当?私から見ると楓真には心当たりがありそうだけど」

 葵がどうしてそう感じたのか分からないが、僕はとぼけることにする。

 葵に康誠のことを知らせるメリットは一切ないし、仮に教えて音楽室に行かれても面倒だ。

 「まあいいや、そんなこと聞きたいわけじゃないし」

 葵はぶっきらぼうにそう言うと、一度咳払いをして口を開く。

 「和奏の親には会った?」

 そう聞いてきた葵は自信に満ち溢れ、何らかの意図を持っていることが分かる。でも僕は返答を考えることなく即答する。

 「会ったよ。和奏のお母さんとお父さんに」

 「そうなんだ!酷いよね裏ではあんな悪口を言ってたなんて!」

 葵は同じ仲間を見つけたのが嬉しいのか、声を大きくしてそう口にする。クラスメイトから集まった視線を気にせずに言葉を続ける。

 「普段は普通に接してくるのに裏では悪口ばっかりって、和奏って最低だよね」

 「本当に和奏が悪口を言ったの?」

 楽しそうに和奏を悪く言う葵に僕は語気を強めてそう聞く。

 和奏が葵に申し訳なく思っている気持ちを知っていること、そしてあんな親の言葉を信じる葵に腹が立っていく。

 「言わないと親は動かないでしょ、少しチヤホヤされてるから勘違いしてるのよ」

 「…………」

 僕は唇を噛み、両拳に力が入る。

 「裏では私のことブスやゴリラとか好き放題言ってるんだかーー」

 「和奏がそんなこと言うわけないだろ!」

 僕は怒りに任せてそう叫んでいた。僕の人生の中で一番の大声だった。

 それだけ葵の発言は僕の中で許せないものだった。

 あまりの声量に一瞬怯んだ葵だったが、すぐに表情を怒っていてかつ悲しそうな顔になる。

 「もういい!話にならない!そんなに和奏が好きなら勝手にやってて!」

 脈絡が無いとは言わないが、葵は唐突に僕以上の声量で叫ぶと教室を出ていく。

 急な豹変ぶりに怒りが吹き飛ぶと、呆然と立ち尽くす。

 そして葵が去って冷静になると、騒がしかったクラスが静まり返っていることに気づく。さらに好奇心の視線が向けられていることを自覚する。

 ヒソヒソ声でしっかりと聞こえたわけではないが、「楓真って和奏ちゃんのことが好きなんだ」といった話が周りで行われている。

 僕は葵の目的をなんとなく察し、居心地の悪さから逃げるようにトイレに避難する。

 小学生あるあるとして、大便器を使うとうんこまんという不名誉なあだ名を付けられるが、小学四年生になればなりを潜める。それに教室にいるより、うんこまんの称号を受け入れる方がマシだった。

 「……女子って大人だな」

 冷静になった僕は思わずそう口にしていた。

 和奏も葵もベクトルが違えど頭が回るし、行動力がある。とても同い年には思えない。

 「はぁ、戻るか」

 いつまでも個室に逃げているわけもいかずに、教室に戻る。

 教室に入ると多くの視線を向けられ、気持ち悪い感覚に陥る。 

 僕は逃げるように机の上で突っ伏し、寝たふりを開始する。

 何も考えずぼうっとしていると肩を叩かれる。

 「悪いな、待たせて。暇だっただろ」

 「いや、伏せてたのは別の理由」

 僕がそう答えると康誠は首を傾げる。追求されそうだったので急いで口を開く。

 「上手くいったみたいだね」

 「……まあな」

 晴れ晴れとした表情から仲直りは成功したことが分かる。 

 仲直りに触れるか迷ったがどうせ和奏が話すと思った。それなら康誠から言わせるのではなく、僕から振った方が話しやすい。

 これは昨日僕が学んだ踏み込み方だった。

 「前もって楓真にいろいろ聞いてからだから、ダサいけどな」

 「どんな過程があっても行動に移せたことに意味があるよ」

 「そうかもな」

 康誠は頷いて同意すると一度伸びをする。

 「なんか、凄く軽くなった気がする。自分のペースで進めばいい、そして最終的に同じ場所に辿り着けばいいんだ」

 康誠は穏やかな表情でそう口にする。なんとなく僕は康誠が和奏と話した内容が分かった気がする。

 「ありがとうな楓真、おまえがいなければ後悔したままだったと思う」

 「僕は何もしてないよ」

 僕がしたことなんて背中を少し押したぐらいだろう。

 行動に移せたのは康誠の力だ。

 「じゃあ、また明日!」

 「また明日」

 笑顔の康誠を見送って僕は多目的教室に向かう。康誠と話した和奏はどんな気持ちなんだろうか。

 そんな疑問はすぐに解決することになる。

 「遅い!」

 「ごめん、少し用事があって」

 「何してたの?」

 「えっと……ぼうっとしてて」

 昨日とほとんど同じセリフだが重い空気は存在しない。

 むしろ和奏は楽しそうに笑っていて、動きが多い。

 「ふふ、もう少し隠す努力をしないと」

 「昨日、いろいろ言ってるし無駄だと思って。と言っても僕は何もしてないけどね」

 僕はそう言って康誠が自発的に動いたことをアピールする。

 「さっき康誠が来て、謝ってきたの。私に置いていかれて、怖くなって避けるようになったことをね。私は康誠がどんな気持ちだったのか、全然知らなかったんだなって気づいたの。私は全然周りが見えてなくて傷つけてばっかりだね」

 和奏は自己嫌悪するようにそう言う。だが前向きに捉えている側面が強いらしく、表情は明るい。

 和奏と康誠が和解して自分を見つめ直したいい話に見えるが、僕はどこか不穏なものを感じていた。

 和奏がどこか遠くに行ってしまうような焦りを感じる。

 「成長速度なんて人それぞれだし、同じスピードで進むのなんて不可能だよね。それに押し付ける約束は約束って言わないし」

 確かに和奏が言っていることは正しい。

 スポーツや芸術の成長は直線ではなく、階段と評されることが多い。目に見えない成長が蓄積してある日開花することなんて珍しくない。

 でもどうして和奏から儚さを感じるのだろう。

 「楓真も無理しないでね。私は疎遠になる方が嫌だから」

 和奏がそう言った瞬間、全身に嫌な予感が走る。

 これを伝えるべきかどうかで嫌な予感がする。

 これを伝えたら、また自分自身を追い込むことになるだろう。康誠と同じように将棋が苦しくなるかもしれない。

 それでも僕はこれを伝えないといけないと思った。伝えないと必ず後悔する。

 「和奏、期待することをやめないで欲しい」

 「……そんなつもりはなかったんだけど。言葉が悪かったね」

 和奏は視線を逸らしながらそう言う。本人にもそんなつもりはなかったんだろう。

 しかし視線を逸らしたこと、答えるまでにタイムラグがあったことから、無意識の内に自分が他と比べて抜きん出ていることを悟ったのだろう。

 「今は和奏の方が結果を出してるし優れてるけど、気を抜いてたらすぐに追い抜かすよ」

 僕は乾いた口でそう口にする。スムーズに言うことが出来たが少し声が震えていた。

 「ふふ、言ってくれるね楓真。追いつかせないよ」

 和奏は嬉しそうに飛び跳ねると僕の背中をバシバシと叩く。力がかなり入っていて痛い。

 「期待してるからね楓真!」

 和奏は満面の笑みでそう言う。

 その笑顔は太陽のように眩しく、暗闇の中で輝く炎のようだった。

 僕は暗闇を彷徨う蛾のような気持ちになる。

 盲目的に炎へ進んで行くのを感じる。

 燃え尽きるのが確定していることなんて分かっているのに。

 僕はそんな感覚を振り切るように盤に向かい合う。奨励会試験の合格は必須だ、少しでも研究する必要がある。

 一息ついて集中モードに切り替えようとした途端、何かに殴られた感覚に襲われる。

 その正体はもちろん和奏。弾いている曲はこの間も弾いていたピティナの課題曲だ。

 ほんの二日前に聞いたはずなのに全く別の曲に聞こえる。

 この前の演奏でも息を吞むほどの迫力があった。ただ今回は勢いが追加されている。

 和奏の個性である柔らかい和音が曲の意向に沿うように奏でられる。

 強制的に何を表現したいかを頭に入れてくる、そんな屈服させるような勢いが現れた。

 僕は一度和奏に視線を向ける。そこには広角を上げ、鋭い視線で鍵盤を見つめる和奏がいる。

 言葉で表現すればワクワクを隠しているような表情だった。

 自分を曝け出すのをセーブするような雰囲気を感じとる。

 演奏している楽曲はベートーヴェン作曲、ソナタ第八番第一楽章。

 序盤はゆっくりな曲調で、ソナタ第八番のテーマは悲愴ひそう。悲しく痛ましいもの、という意味を持つように重々しくゆっくりなスタートを切る。

 必然的に指の動きも少なくなりスローモーションに見え、綺麗な指使いが映える。

 曲が進むにつれてゆっくりな曲調が一点し、ハイテンポになり音の数が何十倍にも増える。

 迫りくるような雰囲気になり、手を交差させるようになり見栄えの変化が起こる。

 そして溜めていたものを爆発させる瞬間でもある。どこか悲しさがあるが爽やかで楽しいリズムがギャップと共に襲い掛かる。

 前回の演奏は自分のピアノを見せつけるような演奏だった。

 今の演奏は脳に焼き付けさせるような演習だ。  

 一説によればこの曲が作られた時期はベートーヴェンが耳を悪くした時期かつ、新しいものを作ろうとした時期だった。耳を悪くした絶望感と前に進む意志が混同している時期。

 ピアニストであるベートーヴェンが聴力を失った絶望が分かるとは口が裂けても言えない。

 でも今の僕にはこの曲を作曲した時のベートーヴェンの気持ちが少し分かる気がする。

 僕は竜王になりたい、その為に前に進み続ける。

 その気持ちに迷いはない。でも絶望感を感じているのが分かる。

 だって僕は、魅せられたのがピアノじゃなくてよかった。そう本気で思った。

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