第11話
「それじゃあ、気をつけて」
「はい、わざわざありがとうございます」
僕は駅まで送ってくれた後藤先生に頭を下げてから改札を通る。
行きとはホームが異なるので気をつけて電車に乗る。
特に間違えることはなかったが、帰宅ラッシュの時間帯だったので人が多くて疲れた。
家の最寄り駅に着いた僕はトボトボした足取りで帰路を歩く。
「ただいまー」
「おかえり楓真、夕飯温めるから先にお風呂入っちゃって」
僕は頷いて答えるとお風呂に入ってゆっくりと湯船に浸かる。
頭が働かずに天井を見つめる。新たな考えをたくさん教えられてショートしている。正直序盤で罠を張るイメージが湧かないでいた。
のぼせる前にお風呂からでた僕はゆっくりと身体を拭く。
するとインターホンが連続で鳴らされた。ピンポンピンポン、と言う素早い音から焦っていることが察せられた。
僕は尋ね人の正体が気になり、急いで身体を拭いて玄関の方を覗く。母さんが玄関の扉を開けたのと同じタイミングだった。
母さんは少し焦っているような様子だった。そして視界に映ったのは吸い込まれるような綺麗な水色の瞳を揺らした和奏だった。
僕の停止していた脳みそのCPUが急速に稼働していく。
「どうしたの和奏ちゃん、こんな時間に?」
現在の時刻は夜の七時。子供が出歩くには遅い時間だ。
近所とはいえ突発的に来るような時間帯だった。
「あ、あの、えと、ごめんなさい!」
恐らく全力で走ってきた和奏が息を切らしながらそう言った。そして勢いよく頭を下げた。
どうして和奏が謝っているのか分からず僕は混乱して母さんを見る。どうやら母さんも同じ気持ちらしく困惑しているのが伝わってくる。
「ちょっとちょっと、どうしたの和奏ちゃん?急に謝ったりして、むしろ私は和奏ちゃんにお礼を言わないとと思ってたのに。楓真を励ましてくれたんですってね、あれから楓真はすっかり元気になったのよ。ありがとうね」
母さんはしゃがんで和奏と同じ目線になって優しく笑いかけながらそう口にする。
すると和奏は心底困惑したような顔になる。その目は理解できないものに対して向けるものだった。
「なんで、だって電話来たはずですよね?」
和奏の言葉に僕はドキッとした。昨日の夕飯頃に電話がかかってきていたからだ。
「電話?特にかかってきてないけど……」
母さんはいっさい表情を変えずにそう言う。むしろ困ったような口調だった。
あまりに自然に嘘をつくものだから僕は唖然としてしまった。本当に職場である保育園からの電話だと思いそうになる。
「そんなはずない、前だってお母さんは酷いこと言って――」
「前だって?」
母さんがそう呟くと和奏は押し黙る。母さんに言葉を遮る意図はなかった。ただ短い五文字の中に激しい怒りが内包していたのだ。
そして僕と和奏は全貌を理解しつつあった。和奏のお母さんから母さんに電話がかかってきたのは本当だとう。その上で母さんは電話はきていないと言っているのだ。
電話の内容がどんなものだったかは僕でも想像出来る。
僕に対する苦情や和奏に関わるな。といった内容だろう。
「何で電話のこと知らないふりをしたんですか?」
和奏がそう言うと母さんは困ったような顔をする。本来なら隠しきるつもりだったが聞き捨てならない言葉に反応して、僕と和奏に察されてしまった。
「私は子供のことに大人が介入するのが嫌いなの。もちろん、いじめとかだったら別だけどね」
母さんがそう言うと和奏は泣き出してしまう。すると母さんは僕の方を見て、素早く手招きする。
「なにそんな所でコソコソ見てるんだ」という声が聞こえてくる気がした。
「大丈夫、和奏?」
僕は急いで和奏の方に向かうとそう声をかける。すると和奏は一瞬顔を上げるとすぐに下を向く。
そして両手で涙を拭った後、再び顔を上げる。
「うん、大丈夫。それより、ごめんねお父さんが楓真に嫌なこと言ったでしょ?」
「平気だよ。それに覗き見した僕が悪いし」
「ごめんね、見たくないもの見せちゃって。本当なら親子二人三脚でピアノを弾く姿を見せたかったんだけど、私の家じゃ無理でさ」
和奏ば自虐するようにそう言うと再び涙を流す。何度か止めようと目を擦るが止まらない。和奏自身も涙が止まらないことに疑問を抱いているようだ。
僕はあまりにも痛ましい姿だと思った。なんで和奏がこんな思いをしないといけないのか?親が愛情を持って接していれば今、この瞬間和奏は泣いていない!
やるせない怒りが僕の中で生まれる。
「わ、私これからどうしたらいいかな?たぶん、楓真の家に迷惑かけちゃうと思うの。なら、いっそのこと――」
「何、馬鹿なこと言ってるの!」
真っ先に反応したのは僕ではなく母さんだった。そこには明確な怒りが含まれてた。
「子供なんて大人に迷惑かけるものなの。迷惑かけて当たり前、恥ずかしいことじゃないの。それとも和奏ちゃんはわざと迷惑をかけるつもりなの?」
「ち、違います!私は迷惑なんてかけたくないんです」
「それならいいの!」
「で、でも――」
「ねえ和奏、僕は和奏とずっと友達いたいよ」
僕は和奏の言葉を遮ってそう伝える。これは僕の本心だ。
和奏にはこれだけ聞いてから次の言葉を決めて欲しかった。
「わ、私もずっと友達でいたい」
和奏は顔を上げて水面のように揺れている水色の瞳を向けてそう口にする。玄関のオレンジ色の光が瞳に反射して湖に反射する満月のように見えた。
「そう、子供の内は自分の気持ちに従えばいいのよ」
母さんは僕と和奏を嬉しそうに見ながらそう口にする。僕と和奏はその言葉に安心して冷静になる。
お互いに結構恥ずかしいことを言っていることに気づいて視線を逸らす。
僕らは紆余曲折あったが平和にこの場が終わると思っていた。
「ピンポーン」
不意に玄関から鳴ったのはインターホンの音だった。目覚まし時計の音のような不快感があるわけではないのに背筋に嫌なもの襲う。
さっきまでの暖かい空気が一気に凍っていくのを感じる。
「嘘、直接言いに来たの?」
和奏は信じられないものを見るような目をしてそう口にする。僕も似たような顔をしていた。
だが対称的に母さんは決意が感じられる強い表情をしていた。返事をして玄関を開けると和奏のお母さんに笑顔で応対する。
「和奏ちゃんのお母さんですか?」
「ええ、昨日電話した和奏の母です」
笑顔か母さんとは反対に和奏のお母さんは不機嫌さと威圧感を隠そうともしない。
「昨日電話で伝えたはずですが?」
「はい、電話でお伝えした通り息子と相談していたところでして、そのタイミングで和奏ちゃんご本人が来たので一緒に話していたんです」
「二人の前で和奏が本当のことを言えるわけないでしょう」
「それなら、今やりませんか。お互いの子供と母親を交えて」
母さんは家に上がるように促すが和奏のお母さんが動く気配は見せない。
「そんな必要はありません。娘と私の意見は一致してます。今後楓真君には――」
「一致していたらこのような状況にはなっていないと思います。こんな時間に女の子が短い距離とはいえ出歩くのは普通ではないですから」
母さんがそう言うと和奏のお母さんは睨み付けるように鋭い視線になる。そしてその目を和奏に向ける。
とても実の母親から向けられる視線とは思えず和奏が身体を震わせる。だがすぐに震えを止めると覚悟を決めたような顔になり口を開く。
「私、嫌だから。楓真は大事な友達なの」
和奏がそう言うと和奏のお母さんは憤慨したような顔になる。
「あんた、友達とピアノどっちが大事なの!」
「どっちも大事!なんで選ばないといけないの!?」
「友達なんてピアノの邪魔になるだけよ!どうして、お母さんの言うことが分からないの?お母さんぎ言うことに従ってれば一流のピアニストになれるのに」
和奏のお母さんの言葉に和奏は鼻で笑う。
「一流?一流のことなんてお母さんに分かるの?」
「あんたね!」
和奏のお母さんはドスの聞いた声を出すと腕を振り上げる。
平手打ちをする気だと察した僕は和奏の前に出ようとするが、母さんの方が早く腕を掴んでいた。
「押さえつけるように怒鳴ったと思えば、次は暴力ですか」
どこか呆れた様子の母さんがそう言うと和奏のお母さんは腕を降ろして屈辱の表情を見せる。
母さんが手を離すと緊張感のある沈黙が訪れる。そんな沈黙を破ったのは玄関の扉が開かれる音だった。
インターホンを鳴らすわけでもなく鍵を開けて入ってきたのは父さんだった。
父さんはまさか玄関に知らない人を二人含めて四人もいるとおもっていなかったらしく、扉を開けてフリーズする。
「あんた達ね!それで和奏の将来が狂ったらどうするの!?責任取れんの!?」
父さんが帰ってきて囲まれるような立ち位置になったからか、和奏のお母さんはヒステリックになって叫ぶ。
狂気とも言える声と瞳は僕へと向けられる。僕は向けられたもの全てが禍々しくて、直接受け止められなかった。
僕は自然と身体が硬直して視線が逸れる。そして言葉が詰まる。
責任がとれるのか?この問いほど理不尽で凶器的な言葉はないと思う。
いい影響をいっさい考慮せずに悪くなると決めつけて話してくる。
今の僕じゃとても言い返せなかった。
「友人関係が悪い影響を及ぼすとは限らないですよ。ピアノのような芸術的な側面が強いものなら尚更です」
「素人に何が分かるのよ!和奏はプロである私に従っていればいいの!」
この言葉に母さんは鋭い目つきになって言い返そうとしたが、先に声を出したのは父さんだった。
「従う、ですか。導く、ではなくて?」
「どっちでも同じでしょう!」
「いいえ、全く違う意味です。子供は従わせるものじゃないでしょう。もちろん私も大人です。子供の頃にやっていたらよかった。と思うことも少なくない、ですから経験から子供に後悔させないように導くのも親としての仕事だと思います」
父さんはそう言って僕と和奏を優しい表情で見る。
「私達は子供の頃の友達との思い出がどれだけ尊いものか痛いほど分かっているでしょう」
父さんがそう言うと和奏のお母さんは少し気の抜けた顔をした。だがすぐに憤怒の表情になる。
「子供の頃の友情なんて大人になれば無価値になるのなら不要でしょう」
和奏のお母さんは吐き捨てるようにそう言うと、父さんの横を通り抜けて玄関を出て行った。
嵐が去った後のように玄関が静まり、お互いが顔を見合わせる。
僕と和奏は明らかに疲れた顔をしていたが、母さんと父さんは余裕のある表情だった。お互いの顔を見合わせて一息つく。
その姿は大きな仕事を終えたことを安堵した姿に見えた。もしかしたら前もってこうなることを相談していたのかもしれない。そこまで言わなくても和奏に対する対応は決めていた可能性が高い。
和奏も僕と似たような感想を持ったのか唖然とした顔を見せる。僕と和奏は大人はいろんな意味で恐ろしいと感じる。
「あ、私の母がごめんなさい」
我に返った和奏が慌てながらそう言って頭を下げる。
「気にしなくていいのよ和奏ちゃん。これからも楓真をよろしくね」
「……はい!」
和奏は少し泣きそうになりながら元気よくそう返事をした。
母さんはその様子を見て満足したように頷く。
「今日はいろいろ、ありがとうございました」
笑顔に戻った和奏はそう言って玄関の扉を開ける。家の中とは打って変わって暗闇が目の前に広がる。
街灯の光が申し訳程度に着いているだけだ。
「てっきり待ってると思ったんだけど」
玄関を出た和奏は意外そうな表情でそう呟く。そしてそのまま歩き始めようとする。
「この時間に女の子一人で帰すわけにはいかないわね。ほら楓真、行くわよ」
「なら、父さんが送っていくよ。和奏ちゃんに少し話したいこともあるし」
父さんはそう言うことで既にお風呂に入っている母さんに配慮すると同時に、和奏に遠慮の言葉を止めた。
僕は父さんが鞄を置いている間に、適当な被り物を着てから外に出る。少し気まずそうな和奏の隣に立って口を開く。
「今日後藤先生に大会の結果を伝えてきたよ。今後は負けを引きずらないように。って言われたよ」
僕はそう言って大会で起きたことを踏まえて話す。
「なるほどね、反省点といいライバルが見つかってよかったじゃん」
「ライバルか、そうなのかな?」
「リアクションが薄いよ、同い年で自分と実力が同じ子がいるのは幸せなことなんだから」
「そうだね、収穫のあった良い大会だった」
響也に負けて、次の対局にその負けを引きずって悪手を繰り返した。悪いことばかりだと思っていたが目標と反省を得た良い面もある大会だった。
こんな経験を繰り返して成長をしていくのだろう。僕に限った話ではなく、何かに打ち込む人はこれの繰り返しだ。
それは目の前の和奏だって同じはずだ。
「和奏にライバルっているの?」
素朴な疑問だった。日本一の称号を獲得した人間に切磋琢磨しあうライバルが存在するのか知りたかった。
「……いたら良かったんだけどね」
和奏の返答は僕にとって尊敬を抱かせ、カッコイイものだった。ライバルがいないということは他を寄せ付けず、一番であるということだ。
だが和奏の表情は僕の感情とは反対で寂しげだった。僕はその表情の意図が分からず、次の言葉に迷う。
「よし、二人共行こうか」
スーツとネクタイを外した白いワイシャツ姿になった父さんがそう言って歩き始める。僕と和奏は後を追うように横に並び、父さんの言葉を待つ。
「和奏ちゃんはプロのピアニストを目指してるんだよね?楓真から赤ちゃんの頃からピアノに触ってるって聞いたんだけど」
「はい、両親がしがないピアニストをやってて、子供である私にピアノをやらせたかったんだと思います」
「どんな思惑はあれど、和奏ちゃんがピアノの実力をつけることが出来たのは、ご両親の力が大きいよね」
「まあ……そうですね」
和奏はかなり不服そうに父さんの言葉を認める。両親の力というものが不満なのだろう。
「もちろん、和奏ちゃんが努力しているのが一番だ」
父さんは慌ててそう付け加える。和奏の両親の行いを肯定する意図がないとアピールするためだった。
その意図は和奏にも伝わったらしく、表情が元に戻る。
「ただ、おじさんは和奏ちゃんにご両親の全てを恨んでほしくないんだ」
父さんの言い方から察するに、恨んでいい部分もあるが恨んでほしくない部分があるという意味だと思われる。
けれど僕と和奏は明確な意図が分からずに次の言葉を待つ。
「おじさんの親は小学校入試を受けさせるぐらい教育熱心な人で、おじさんが小学校受験に落ちてからは中学受験の為に塾に入れられてね。週四回塾に通って、家でも勉強三昧だったんだ」
日本は世界の中でもトップクラスの学歴社会だ。「学歴は12歳時点で決まる」なんて言葉が存在するぐらいだ。
若いうちに受験を終わらせてエスカレーターで大学に入るのが高学歴になる一番の近道だ。
「元々おじさんは容量がいいとは言えなくてね。みんなについていく為に時間がかかって、勉強ばかりしててね。本当は友達と遊びたかったけど成績を落とすのが怖くてね、和奏ちゃんのように怒鳴られたり、叩かれたりしなかったけど、なんというか家の中の英雄雰囲気が悪いというか圧迫感があるようになるんだ。親もギスギスして精神的に追い詰められるって感じったんだ」
僕は父さんがそんな環境で育ったことなんて知らず、驚きの気持ちを抱く。僕に対して勉強を強いてきたことはなく、和奏に対しても好意的に接している。親に勉強を強いられた過去を僕に感じさせたことはなかった。
和奏は興味深そうに真剣な表情で耳を傾ける。
「でも、そのおかげで高校生の時に興味を持った食材の研究職に就職することが出来たんだ。これは今でも小さい頃に勉強してたおかげだと思っている」
研究職は就職する難易度は高めだ。ゼミで推薦を貰ったり、大学院に進んで研究を突き詰めたりする必要がある。
もちろん学歴の高い大学の方が機会が多いのは言わずもがなだ。
「もちろん親の教育が良かったかと言えば、ノーと答える。でも親のおかげで今のおじさんがあるのも事実なんだ。それに親はおじさんが将来苦労しない為に勉強をさせていたんだ。和奏ちゃんのご両親も和奏ちゃんがプロのピアニストを目指す上で苦労しなくていいように言っていると思うんだ。もちろん怒鳴ったり暴力はいけない、100%間違っている。でも、和奏ちゃんを想う気持ちが存在することを知っておいて欲しいんだ」
「……頭に入れておきます」
「うん、頭の片隅に置いてあればいいんだ」
父さんが話し終わると和奏の家の曲がり角から人影が現れる。暗闇の中で格段に暗く光る水色の瞳に僕の表情が強張る。
「……お父さん」
少し歩いてお互いの顔が見えるようになると和奏が先に口を開く。和奏のお父さんは相変わらずの穏やかな表情だった。
「ダメだろう、こんな時間に一人で出歩いて」
「そっちが悪いんでしょ」
和奏が言い返すと和奏のお父さんは少し驚いた表情をする。もしかしたら和奏は今まで言い返したことがなかったのかもしれない。
和奏のお父さんは一度咳払いして表情を元に戻すと僕の方を見る。
「私は君に忠告した――」
「結果を出せばいいんでしょ」
和奏のお父さんの言葉を遮ってそう口にする。その表情から力強さと決意を痛いほどに感じる。
「次のピティナで結果を出す。そうしたら文句ないでしょ」
「結果を出せなかったら?」
「……その時は大人しく従うよ」
僕はその言葉に和奏に勢いよく顔を向ける。だって、この約束をしてしまったら失敗が許さないじゃないか。プレッシャーだって跳ね上がる。
「分かった。娘がそこまで言うなら、お父さんは下がろう」
和奏のお父さんはそう言うと、一歩下がって反対を向く。
「これは約束だからね?」
「分かってる」
和奏のお父さんは和奏の返事を聞いて満足したのか早歩きで歩き始める。
僕はなんやかんや空気が読める人なんだな、と思った。
「大丈夫?そんな約束して?」
「こうしないとお父さんは納得しないの。本当に頭がおかしいのはお母さんじゃなくてお父さんなんだから」
和奏は嫌なことを思い出したのか、険しい表情で身体を少し震わせる。
「でも、大丈夫。私が失敗しなければいいだけだから。それにピアノを練習する理由にもなるしね」
和奏は普段通りの愛嬌のある笑顔になると、そう言って僕に笑いかける。
僕は頼もしいと感じると同時に、どこか差のようなものを感じる。
僕には「失敗しなければいいだけ」なんて言葉は口に出来たものではなかったからだ。尊敬を抱くと同時に形容し難い疎外感が生まれる。
「そんな不安な顔しないでよ、大船に乗った気でいてくれて大丈夫だから」
「うん、信じてるよ和奏」
和奏は僕の返事に満足したのかスキップするように、少し先を歩く。
僕はその姿は年相応で、可愛いと思う。そして改めて同い年であることを思い出させる。
「それじゃあ、またゴールデンウィーク明けにね!」
お城のように大きい家に着くと、和奏は声を弾ませて大きく手を振りながらそう言う。
僕も同じセリフを言って大きく手を振る。だが、和奏と対照的に名残惜しく、喉に何かつっかえている感覚がある。
「和奏!僕、奨励会の試験に受かるから!次は失敗しないから!」
僕は異物を吐き出すようにそう叫ぶ。辺りは静まり返っていて大きく響き渡る。
背筋と指先が冷たくなるのを感じる。後戻りは出来ない。この言葉を発した時点で失敗は許されない。
それでも、自分を追い込んででも和奏と同じ目線で歩き続けたいと思う。
和奏には一種の宣誓に聞こえたはずだ。
「言ったからね!約束だよ!」
和奏は満面の笑みでそう言うと足早に柵を開けて庭の中に入っていく。
そして塀の裏に座りこむ。
本当ならば和奏は楓真が曲がり角を曲がるまで見送るつもりだった。だが、その意思とは反対に楓真を見ることができず、姿を隠したい衝動に駆られた。
和奏の心臓が人生で一番速く音を刻む。多くの大会を経験した和奏の中で一番速く大きく鼓動が鳴る。
自然と頬の筋肉が緩み、ニヤけた表情になるのを防ぐために高揚し、熱くなった頬を両手で押し上げる。
冷たくなっていた指先が解凍されていく感覚がある。
二人にとって一生忘れられない夜になった。
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