第10話

 「おかえり、早かったわね」

 「うん、和奏の家に行っただけだから」

 「そうだったの、今度お礼しないとね」 

 母さんはそう言うとレンジを操作し始める。そしてIHコンロに火をつけると目玉焼きを作る。

 「朝食まだだったでしょ、母さんもお昼ご飯食べるし一緒に食べましょ」

 僕はもちろん承諾してリビングの椅子に座る。母さんは目玉焼きと昨日の残り物の唐揚げを机に置いて、向かいの席に座る。

 「和奏ちゃんと何してきたの?随分と元気になったけど」

 「励ましてもらったんだ」

 僕はそう言って和奏が弾いてくれたピアノの演奏の話をする。もちろん僕が泣いたり、和奏に目を合わせられなかった話は省いて話した。

 「へえ、和奏ちゃん本当にいい子ね。こんな友達は貴重だから大切にするのよ。寝坊なんて論外だからね、何か予定が入ったらお母さんに言うのよ。起こしてあげるから」

 「これから気を付けるから」

 「女子は時間にうるさいものなんだからね」

 明らかに嬉しそうな母さんは僕を軽く煽るようにそう言う。少しムッとするが特別怒ることはない。

 それは悪意が全くなく愛情表現の一種でからかっているのを理解しているからだ。だから喧嘩したり、ましてや暴力なんてありえない。

 僕にとってこれが当たり前で他の家族もそうだと思っていた。でも和奏の家は地獄だった。当たり前は当たり前ではなく尊いものだったのだ。

 今になって考えれば、和奏が怒られていたのは僕を家に入れたことが原因ではなさそうだった。もちろん和奏のお母さんの機嫌を悪くさせた可能性はあるが、怒っていた理由は和奏の演奏にあった。

 それに和奏が叩かれることに驚いた様子がないことから慣れていることが察せられる。

 あれが和奏にとっての日常なのだ。

 「どうしたの楓真?急に暗い顔して、しつこかった?」

 「いや、母さんは悪くないんだ」

 「じゃあ、どうしたのよ?」

 僕は和奏のことを母さんに伝えるか迷った。僕はこれから和奏とどう接したらいいか分からないでいた。

 母さんにどうするべきか聞きたい気持ちがある。でも、これは僕自身が決めないといけないことだと思う。

 「……何でもない」

 「それなら暗い顔しないの、和奏ちゃんの励ましが意味なくなっちゃうでしょ?」

 「そうだね。ありがとう」

 僕は母さんにお礼を言うと勢いよく朝食を平らげる。ごちそうさまを伝えた後、僕は自分の部屋に入って解析ソフトを立ち上げる。 

 そして昨日の四局を全て読み込ませる。そして棋譜を生成して印刷する。

 本来ならば手書きが好ましいのだろうが、今は一分一秒が惜しかった。

 さんざん悩んだ響也の46手目の対処は簡単で単純だった。僕も守りを厚くすればよかったのだ。

 響也の一手はどちらかというと守りの側面が強い。戦況が互角の状況で相手が守りを強くしたのなら、わざわざ堅い守りを崩そうとする必要はないということだ。

 僕にこの思考は今まで存在しなかった。相手が守ったのなら、それを崩そうという思考が強かった。

 「攻めるだけが将棋じゃないんだな」

 後にも先にも響也とのこの一局は僕の将棋を大きく変えた転換期になった。


 「楓真、ご飯よー」

 「はーい」

 将棋の解析をしていたら五時間という時間が経っていた。僕は一度伸びをしたがそれでも脳が将棋から切り替わらなかった。

 過去の対局で守るべき瞬間があったのではないかと思案しているのだ。夕飯もぼうっとしながら機械的に口に運んでいた。

 そんな僕を現実に引き戻したのは母さんの携帯にかかってきた着信音だった。

 母さんが机の上に置いてあった携帯を手に取ると眉間にしわを寄せた。その仕草からは警戒や疑問が色濃く滲み出ていた。

 席を立って電話に出た母さんは普段よりも声を高くして話し始める。この声は母さんが近所の人や先生と話す時の声だった。

 僕の思考は電話をかけた人のことでいっぱいになった。

 落ち着かないでいると母さんが電話を辞めて帰ってくる

 「誰から?」

 「仕事の人からよ。ゴールデンウィーク中にインフルになった子が結構いるってね」

 僕は母さんの返事を聞いて安心する。想定した最悪ではなかったらしい。

 「最近はどの時期でもインフルが流行ってて嫌ね。楓真も気を付けるのよ」 

 「分かった」

 それから特に変な話題が出ることもなく夕飯が終わる。僕はお風呂と歯磨きを済ませて部屋に戻る。

 明日は寝坊しないように早めに寝ようと決めていた。それに明日は僕一人で後藤先生の家に行くことになっているので早めに家を出るつもりだ。

 スマホの目覚ましを一分おきにセットしているとラインの通知が届く。僕はベットから跳ね起きてラインを開く。

 送り主は和奏だった。

 「今日はごめんね。お母さん一時ぐらいに帰ってくる予定だったんだけど、早まっちゃって」

 「全然大丈夫。十分元気を貰ったから、本当にありがとう」

 「それならよかった。これから一緒に頑張ろうね!」

 「うん、一緒に頑張ろう!」

 「約束ね!」

 「うん、約束」

 僕が思っていたよりも和奏が元気そうで一安心したまま眠りに落ちた。寝つきがよく深い眠りについたことで目覚ましがなる前に起床した。

 棋譜をしっかりと鞄に入れて、マスクをして家を出る。路線情報で検索した通りの電車に乗って、地図と記憶を辿りながら後藤先生の家に着く。

 インターホンを鳴らすと後藤先生が返事をして家に入れてくれる。

 「大会はどうだった?」

 「みんな本気でやってて独特な雰囲気でした。一手一手が重いと思いました」

 「大会や奨励会の対局は己のプライドと誇りを懸けて戦うからね。これから先はこの対局が続くことになる」

 後藤先生の言葉に僕は唾を飲む。甘く見ていたつもりはないが途方もない果てしなさを感じのだ。

 例の畳の部屋で向かい合って座ると僕は棋譜を手渡す。

 後藤先生は素早く四つの棋譜を読んでいく。盤の駒を動かすこともなく一つの棋譜につき約二分で読み込んでいく。

 「一局目の相手は相当強いね。奨励会の六級なら十分通用するレベルだ。対局相手の名前は分かる?」

 「多田将太って子でした」

 「多田将太って去年の準優勝者じゃなかったかい?それに今大会の優勝者だったよね」

 多田将太は僕に負けた後しっかり二勝をして決勝トーナメントに進出し、そして優勝した。僕と対称的に切り替えることに成功したのだ。

 「そうです」

 「何で予選では多田将太君を完封できて、決勝トーナメントは負けるんだ?」

 「……すみません」

 「あぁ、ごめんごめん。別に攻めたつもりはなかったんだ」

 実際に後藤先生は自分の中に生じた疑問を口にするような口調だった。だが後藤先生の言っていることがごもっともだ。

 僕が負けた相手は多田将太と比較して格下と言ってもよかった。

 それから後藤先生は別の棋譜に目を通す。二枚目は特にないも言わず、三枚目に目を通すと後藤先生は顎に手を置いて考える仕草をする。

 「これ、相手は誰だい?多田将太君ではないだろう、この子は強すぎる」

 「あー、えっと……」

 僕はどう答えるか迷った後、響也のことを説明する。後藤先生は説明を聞いている内に興奮したような顔になる。

 だが特に何も言うこともなく四枚目の棋譜を読み始める。

 「なるほど、明らかに集中出来てないね。負けを引きずちゃったのか」

 「そうですね、響也との対局で何か他の手があったんじゃないかと考えてしまって」

 「まあ、かなり印象的な一手をもらったからね」

 後藤先生は少し同情した様子でそう口にする。もちろん印象的な一手は響也の46手目だ。

 「ただ負けから切り替える能力というのはこれから求められる技術だ。奨励会は一日に三局指すことになるからね」

 奨励会の対局は一級までは一日に三局、初段以降は二局指すことになっている。

 「これから将棋を極める中で負けないことは不可能だと言っていい。現実として三段リーグを全勝でプロ入りした人は誰一人いないんだ」

 つまり全てのプロ棋士が黒星を抱えてプロ入りしている。

 「もちろん一局目を負けて二局目、三局目に臨むこともあるだろう。そこで一局目の負けを引きずって黒星を繰り返してしまうと実力関係なく大きく停滞することになるよ」

 「はい、次から切り替えられるように気をつけます」

 それから後藤先生は改善しないといけない手を挙げていく。強引に攻めたり、不必要な持ち駒を打っている場面だ。自分の有利を犠牲に盤面を動かすのはいい動きとは言えない。

 有利の時は将棋を終わらせる方向ではなく、有利を広げる動きをした方がいい。

 後藤先生にピンポイントで切り抜かれると意味不明な手を指していることが分かる。自分自身でも理解できずに頭を抱える。

 根本から思考がおかしいことが分かる。

 しばらく改善点を教えてもらった後、後藤先生と対局することになった。

 「今回の対局は楓真に二つ縛りをつけよう」

 「僕に、ですか?」

 「大丈夫、有利不利に関係するものじゃないから。まず一つは楓真が先手で指すこと。そして二つ目はお互いに角換わりで指すこと」

 「わ、分かりました」

 いまいち意図が読めないが僕は角換わりを指していく。後藤先生は僕が今まで見たことのない定石で指していく。僕は知らない定石なのでしっかり考えて指していく。

 しばらく指していくと僕は再び前に後藤先生と指した時と同じ感覚になる。このまま指していくと前回と全く同じ展開になる。でもそう指すしかない。それ以外は悪手だ。

 僕は嫌々ながらも飛車先の歩兵を突き捨てる。

 「よし、一旦ここまでにしようか。感想はどう?」

 「……どうしてまた同じ展開になったのか分かりません」

 「なら、同じ展開になったらダメなのかい?」

 後藤先生の言葉に僕は考え込む。考えてみれば、飛車先の歩兵を突き捨てるかが論点だった。

 この状況の評価値は当然五分五分だ。なぜならここまでは定石で形を作る場面だからだ。

 定石で差がつくようなことがあってはいけない。

 「そっか、こうなるのは仕方ないのか。だって問題はここからなんだ」

 「そう、角換わりのように研究が進んでいると全く同じ立ち上がりは珍しいことじゃない。だから同じ展開になることを嫌う必要はない。むしろ誇っていい」

 「誇る、ですか?」

 「当たり前のことだと思うだろう。でも私の誘いに乗れるっていうことは序盤をしっかり理解しているということだ。これが出来ている人は小数なんだ。奨励会に入った子供は基本的に序盤を学ぶことになる」

 「序盤をですか?」 

 僕はいまいちピンと来なくて首をかしげる。序盤なんて出来て当たり前だと思うし、準備の側面が強いと思う。

 「序盤はあらゆる理論が詰め込まれた将棋の型であり理想形なんだ。当たり前というならどうして楓真は指すのにこんなに時間がかかったんだい?」

 「それは……全く知らない筋だったからです」

 「でも、結局形は一緒になっているだろう」

 そう言われると僕は何も言い返せない。

 「そこなんだよ、ゴールは同じなのに過程が大きく違う。そして含まれる意図が違う。急戦を見たり、角の頭を攻めたりね、理論を学ばないとゴールだけを描くようになる。そして適当に序盤を指してズルズル負けるなんて珍しいことじゃない」

 なんとなく後藤先生が言いたいことが見えてくる。将棋の序盤はサッカーでいうトラップやパスといった基礎なのだ。

 基礎が疎かになれば次の動きが遅れる。基礎というものは出来た気になっていがちなものだ。

 だから自分の首を絞めていることに気づかないのだ。

 「直近のもので言えば響也君との対局は中盤の頭までは楓真が有利だった。これは楓真の方が序盤の質がいいからだ。楓真が指したのは本当に基本的な定石だけど、相手に対応して指しているからジワジワと差が出てる。特別なことは何もしていないよ、相手に合わせて序盤を指すだけで差が出てるんだ」

 後藤先生はそう言って僕に課題を与える。本来ならば奨励会に入って序盤を学んだ後にこなす課題だ。

 「プロの私が保証しよう。楓真の序盤力は奨励会の三段でも通用する。だからそれをプロレベルまで引き上げる。ただ戦う形を整えるだけではなく、序盤から様々な変化を見せることで撹乱するんだ」

 後藤先生はそう言って一つの棋譜を並べ始める。この棋譜はプロ棋士の四段と五段が対戦した棋譜だった。

 棋譜は一瞬で終わった。四段側の64手目での投了だった。

 「プロの世界でも早く対局が終わることは少なくない。その原因は序盤で失敗するからだ。いきなり飛車を振ったり、角を切り捨てたりね。プロの序盤にはいくつもの罠が張り巡らされているんだ。多いことではないけど新たな戦法を生み出していたりもする。これがプロと楓真の序盤力の違いだ」

 「なるほど、序盤はただの準備フェーズではないんですね」

 「その通り、最初の一手目から攻撃は始まっているんだ。だから楓真には序盤を突き詰めて欲しいんだ」

 後藤先生はそう言って僕に課題を伝える。

 「まずは自分で序盤で差をつける動きを練習してもらう。これはオンライン将棋でやってもらう。自信のある棋譜は私に送ってくれ」

 「分かりました」

 「もう一つは定期的に交流対局をしてもらう。私の知り合いのプロのお弟子さんと対局出来るように言ってある」

 後藤先生はそう言って予定を伝える。だいたい三週間に一回の頻度だった。

 他のプロ棋士の弟子。と言う言葉に僕はワクワクしていた。

 他の弟子はどれだけ強いのか、僕はどの立ち位置にいるのか知りたいのだ。

 「あ、最後に詰将棋だけは続けること」

 「もちろんです」

 「それならよかった。それじゃあ再会しようか」

 後藤先生はそう言うと、さっきの盤面を作り出す。 僕はデモンストレーションの為の対局だと思っていたので少し驚く。

 「途中で辞めていい将棋なんか一つもないからね」

 後藤先生はそう言って次の一手を指す。僕も前回の反省を生かして指していく。

 響也との対局を経て視野が広がったからなのか、前回よりも長生きすることが出来た。

 だがやっぱりプロの壁は大きすぎると感じた。

  

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