第9話

「落ち着いた?」

 僕は「おかげさまで」と言おうとしたが言葉が出なかった。それどころか和奏から顔を背けていた。気持ちが落ち着き泣き止んだ途端に恥ずかしさが湧いてきたのだ。

 客観的に今の状況を考えると、同い年の女の子の前で泣いたのだ。それも短くはない時間をだ。

 冷静になった僕は恥ずかしすぎて顔を真っ赤にしていた。

 「別に恥ずかしがる必要ないのに」

 和奏は僕の顔を見たわけではないのにそう口にする。恐らく耳まで真っ赤だったのだろう。

 「疲れたし何か飲み物取ってくるね」

 和奏はそう言うとこの部屋から出てリビングに向かった。気を遣って僕を一人にしたことは簡単に理解できた。

 「……情けないな」

 優勝するという約束も守れず、寝坊をした挙句励まされたと思えば涙を流し、気を遣われ一人になる。これ以上ダサいことはない。

 昨夜とは別の理由でこの世界から消えてしまいたい。

 だがこの世界から消えて逃げるわけにはいかない。

 僕は和奏から素敵なプレゼントを貰ったことで気持ちは前を向いた。だから僕は和奏にもう大丈夫だと伝えないといけない。

 もしかするとこの部屋に戻った和奏は何も無かったかのように話しかけてくれるかもしれない。

 「それじゃあダメだ」 

 このまま和奏の優しさに甘えるのは目の前で泣くことよりも恥ずかしことだと思う。

 しっかりとお礼を伝え、もう大丈夫だと行動で示すことが恩返しになる。

 気持ちの整理ができた僕は両頬を一度強めに叩く。気合いを入れるためだったが思ったよりも痛くてヒリヒリする。

 そして僕が覚悟を入れたタイミングで和奏が帰ってくる。

 「とりあえずアクエリを入れてきたけど大丈夫だった?」

 僕は「ありがとう」と言おうとしたが声が枯れて上手く言えなかった。涙によって口の水分も持っていかれていた。

 そんな僕に和奏は笑いながらアクエリの入ったグラスを手渡す。

 少し恥ずかしかった僕はグラスを受け取り一気に飲み込む。運動なんて全くしていないのにアクエリが甘く感じる。

 乾燥した口が潤いを取り戻し、僕はしっかりと言葉を発することができる。僕は拙い言葉を勢いよく伝える。

 「ありがとう和奏。もう大丈夫、次に向かって頑張れる!」

 「ふふ、それはよかった。クヨクヨしてるのは楓真には似合わないよ」

 和奏はそう言って嬉しそうに笑う。その表情は屈託がなく純粋そのものだった。

 僕は何故か和奏を直視できずに目を逸らす。後ろめたい気持ちも、恥ずかしという気持ちも存在しない。それなのに和奏を直視できない。

 今まで感じたことのない感情が僕の中に生まれたことを自覚する。これが恋心だと理解するのは先の話だ。

 また視線を逸らしたことを恥じていると扉の先から鍵の開く音が鳴る。

 和奏はおぼんで両手が塞がれながらも器用に部屋の扉を開けた。そして扉を開けたままにしていた。

 僕は恐らく母親か父親が帰宅したのだと思い、勝手に家に上がっている立場なので、謝らないと。と考えていた。

 僕が思考の世界から現実の世界に引き戻されたのは和奏が勢いよく扉を閉めた音だった。爆発音のような音が鳴り響き、身体がビクッと跳ねた僕は和奏を見る。

 そこには視線を逸らす前の笑顔とは反転して絶望したような表情があった。焦りで額から汗が流れて、同様で瞳が揺れている。

 そして恐怖からか身体が震えている。

 「だ、大丈夫、和奏?」

 「なんで、まだ十二時になってないのに」

 和奏には僕の声が届いていないようで、ブツブツと独り言を口にする。僕はもう一度大きめの声をかけるが反応はない。

 視野が広い和奏が何も聞こえなくなるなんてよっぽどのことだ。

 それだけ僕が和奏の家にいるこの状況が良くないのだと理解する。同時にリスクを抱えてまで僕を励まそうとしてくれたことに改めて感謝する。

 だから和奏が怒られる必要はない。僕は和奏の肩を何度か叩いて意識を戻させる。

 「ごめんね和奏、本当なら僕を家に呼んじゃいけなかったんだよね。僕が和奏に頼んで無理矢理ピアノを弾かせたことにしよう。それなら怒られることはないよ」

 「それはダメ!」

 和奏は僕が今まで聞いたことのない絶叫のような声で否定すると、首を何度も横に横に振る。

 「そんなこと言ったら楓真が悪くなっちゃうでしょ!それだけはダメなの!」

 「で、でもさ、実際僕が悪いし」

 「ダメ!それが一番ダメなの!」

 和奏は僕に訴えかけるように叫ぶ。和奏らしくない姿に僕はどうしたらいいか分からなくなる。

 そして問答を繰り返していたらこの部屋の扉が開く。

 現れたのは和奏のお母さんだ、ただ和奏とはあまり似ていない。

 似ているのは黒の髪ぐらいで和奏は彫りが深い顔立ちなのに対して、和奏のお母さんは日本人の顔立ちで水色の瞳もない。

 そして表情は常に硬く、和奏の柔らかい雰囲気は微塵も感じられない。

 「……その子は?練習しておきなさいって言ったわよね?」

 和奏のお母さんはびっくりほど冷たく機械的な声音でそう聞く。自分の娘に対して発するものとは思えない。

 だが、一呼吸置いた和奏は堂々とした表情で口を開く。

 「ごめんなさいお母さん。友達に客観的に聴いてもらおうと思って」

 「意味ないでしょう。お母さんとお父さん以上にピアノが分かるわけないんだから」

 「そうだね、もうしないから」

 和奏は刺激しないようにそう言うと和奏のお母さんはこっちに向く。

 「そういうわけだから、帰ってもらえる?」

 「はい、すみません失礼しました」

 僕は極力刺激しないようにそう言って部屋から出る。部屋から出て扉をしめようとしたら和奏と目が合う。

 和奏は申し訳なさそうな顔で両手を僕に向かって合わせる。

 僕は大丈夫だと伝えたかったが和奏のお母さんを刺激しないためにそのまま立ち去った。

 

 「……怖そうな人だったな」

 僕は和奏の家から出るとそう呟く。仲が良くないのは察してしたが、実際に見てみると思うものがある。

 僕は家族と喧嘩はしたこともないし、したいとも思わない。僕の中で親と子供は仲がいいものだ。

 だから本当は和奏の親子も仲がいいのではないだろうか?

 それこそ師匠と弟子のような厳しいけど愛があるような関係なのではないかと思う。むしろそうじゃないとおかしい。

 僕はピアノ部屋の窓が開いていたことを思い出し、家の外周を回ってピアノ部屋を除く。きっとそこには親子の不器用な関係があると信じて。

 まず視界に入ったのは緊張した表情でピアノを弾く和奏の姿だった。普段僕が見ている楽しそうで、指が軽やかに踊る姿とはかけ離れている。

 まるで蛇に睨まれた蛙のような和奏姿に僕は言いようのない憤りが生まれる。

 部屋の防音機能はかなり高いもので和奏の演奏は聞こえない。何を演奏しているのか分からないまま和奏を見ていると、しまった。という顔をする。

 すると和奏のお母さんが立ち上がり和奏の頭を強く叩く。ボコという音が聞こえた気がする。

 「なんでこんなことも出来ないの!」

 何が起きたのか理解できなかった僕を現実に引き戻したのは、防音機能を貫通した和奏のお母さんの声だった。

 叩いた?一回ミスしたぐらいで?しかもあんなに怖い顔で怒鳴って?

 その姿からは露程の愛すら感じさせなかった。目の前にはただただ残酷な光景が繰り広げられていた。とても現実で起こっている光景とは思えなかった。

 立ち眩みのように視界が黒くなっていくのを感じる。暗転した視界の中で和奏は泣き始めていた。その表情からは悲痛さ以外の何も感じさせなかった。辛いと訴えかけるようにしか見えない。

 僕はどうするべきか考える。家の中に戻ったらこの惨状を変えられるのか?

 この選択は重要だと思う。だが嫌な予感はしない。頭が押しつぶされるような感覚があり、冷や汗をかいているのにだ。こんな経験は始めてだった。

 そして僕は嫌でも理解してしまう。ここで僕がどんな選択をしたところで和奏を助けることは出来ないのだと。このピアノ部屋は僕が介入する予知のない地獄なのだ。

 「そこの君。いったい何をしているんだい?」

 不意に横から声をかけられ、視線を向けると金髪で彫りの深い男の人が立っていた。僕は直感的に和奏のお父さんだと察する。

 目の前の男の人も和奏と同じ水色の瞳を持っていた。ただ和奏と違うのは吸い込まれるような明るさはなく、ブラックホールのような暗闇が広がっていた。

 「あ、えっと……」

 僕は不法侵入や盗撮がばれた犯人のような気持ちになり、口が乾いて挙動不審になる。

 和奏のお父さんは明らかに挙動がおかしい僕を見て優しい表情をする。不覚にも僕は少し安心してしまった。

 「君は和奏のお友達かな?確か天宮楓真君って言ったっけ」

 「はい、その通りです」

 「そうだったのか、話は娘から聞いてるよ」

 「ほ、本当ですか?」

 僕は思わず聞き返していた。もちろん和奏が僕の話をしていたことに喜んでいるわけではない。窓の先に広がる惨状と和奏の愚痴から察するに父親との関係も良くないはずだ。

 母親が帰ってきた和奏の様子から考えれば、僕という存在が歓迎されないことは分かりきっていることだ。

 和奏がわざわざ僕のことを話すだろうか?

 「本当さ、付きまとってきてハイエナのようだってさ。ピアノを聞かせてって何度も頼んできて迷惑だってね」

 和奏のお父さんは表情を変えずにそう言い放つ。こんな表情と言葉にギャップが生じると混乱する。

 「……そうでしたか。すみませんでした」

 「分かればいいんだよ。君と和奏じゃ住んでいる世界が違うんだ。和奏はいずれ世界一のピアニストになれる才能がある。のうのうと生きている凡人が魅せられていい相手じゃないんだよ」

 「はい、分かりました」

 和奏のお父さんは満足したのか僕に帰るように促す。恐らくショックを受けたと判断したのだろう。

 正直言って僕はショックを受けていた。大の大人からこんな悪意の籠った言葉を放たれるとは思わなかった。

 だが、かえって良かったのかもしれない。深い深い悪意を向けられなければ「和奏がそんなこと言うわけがない!」と反論していた。もっと愛情を込めて教えた方がいいと言いたかった。

 でも僕はそんなことを言っても無駄だということを直感的に理解してしまった。

 確かに今の僕と和奏は住む世界が違う。だけどそれがどうしたのだろうか?

 友達と話したり遊ぶことに何かの才能や結果は必要ない。実際に和奏だって康誠に引け目を感じる必要はないと言っている。

 もし、それでも周りがダメだと否定するのなら僕にも考えがある。

 「対等になればいいんだ」  

 僕は決意を口にする。将棋とピアノを比較するのは難しい。けれど竜王になれば話は別だ。

 竜王になれば和奏の隣にいても誰も文句の無いのだから。

 

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