第6話

「今日は随分と早起きだな楓真」

 「なんか目が覚めちゃった」 

 和奏と出会った次の日僕は早起きをしていた。寝つきが良かったのもあるが、和奏と会えることが頭を占めていた。

 会えるのは放課後なのにウキウキした僕は急いで朝食を済ませ、いつもより十五分早く家を出る。

 もう見慣れた通学路なのに光って見え、スキップしながら軽い足取りで進む。

 暗記した詰将棋も調子がよく答えると裏門に着く。

 普段ならば校庭でたくさんの人が狭そうに遊んでいるが、今の時間では人が少なく広々と遊んでいる。

 いつもと違う景色が面白いと感じた僕は校庭の向かって歩く。すると花壇の方に奇麗な紫色の花が咲いていることに気づく。

 「なんの花だろう?オオアラセイトウではないみたいだけど」

 オオアラセイトウは僕のばあちゃんが育てていた花だった。

 オオアラセイトウは「平和の花」と呼ばれることもある花で、花言葉は「知恵の泉」や「癒し」、「仁愛」と言った意味がある。

 オオアラセイトウが「平和の花」と呼ばれる理由として、日中戦争に参加していた日本兵が戦地で一面に咲いたオオアラセイトウに癒されたという話がある。

 だからばあちゃんは祈りを込めるようにオオアラセイトウを育て、お墓に備えていた。

 だから僕は紫色の花を見ると真っ先にオオアラセイトウの名前が出てくるが、目の前の花は特徴と合致しない。

 「その花はアヤメって言うんです」

 背後から声をかけられ振り向くと、ショートヘアーの俯いた女の子が立っていた。

 和奏が前に座っていたことに気付かなかった時と違い、女の子の気配が薄い。加えて身長も僕より低いので年下だと思った。

 「へえ、アヤメ言うんだ。綺麗に咲いてるね。君が育てたの?」

 僕がそう言うと女の子は嬉しそうに何度も頷いて口を開く。

 「そ、そうかな?綺麗に咲いてるかなぁ?」

 「うん、僕も花を育てたことがあるけど枯らしちゃったんだ。しっかりお世話しないとまず咲かないし、とても偉いことだと思うよ」

 僕は鹿児島で花を育てたことがあるが、将棋を優先した結果枯らしてしまった。そんな経験から花を育てることの苦労は分かっているつもりだ。

 それを伝えただけだったが女の子は本当に嬉しそうにしている。

 「あ、あの、名前ってなんて言うんですか?」

 「僕は四年三組の天宮楓真。君は?」

 「わ、私は四年五組で、早乙女華凛さおとめかりんって言います」

 「同い年だったんだ。それなら気を遣う必要もないね」

 年下だと思っていた僕はそう口にして心の中で反省する。

 「あのさ、天宮君って美化委員だったよね?」 

 「そうだけど、華凛も?」

 「うん、私は花壇の係になったの」

 今になって考えれば美化委員は四年生以上の生徒がなるものなので年下である可能性は低い。さらに申し訳なくなった僕は心の中でもう一度謝る。

 「あれ、花壇の係ってもっと人数が――」

 「天宮君、一緒に頑張ろうね!」

 華凛は強引に僕の言葉を遮ってそう口にする。

 僕の記憶が正しければ四年生の女子のほとんどが花壇を担当したはずだった。女子が固まって花壇を担当することを伝えていたのが印象的だった。

 東ノ崎小学校の花壇は結構大きい。一人で担当するものではない。

 僕が多目的教室を一人で掃除しているのは相方の浩一を説得したからである。部屋が小さい保健室などが当たりと言われる中で多目的教室は広く、物が他と比べて多いので嫌がられる。

 僕としては多目的教室以外が担当になったら嫌なので、僕一人で掃除するという条件をつけて多目的教室を担当にした。

 だが華凛達には僕のような特殊な感じはしなかった。

 華凛が花を育てるのが好きで説得したのだろうか?

 「このアヤメはね、お世話を始めた時は蕾だったの。最初は花を育てたことがなかったから、どうやってお世話をしたらいいか分からなかったんだけどね、調べて雑草を取ったりしたら綺麗に咲いたの」

 「華凛の愛情が伝わったんだろうね」

 僕は思ったことをそのまま伝える。

 だが同時に華凛が元々花を育てていたわけではないことが分かり混乱する。

 僕は華凛にどうして一人で花壇を世話しているのか聞こうとする。

 すると口が乾き、嫌な汗が流れ、視野が無駄に広くなる。

 聞くべきなのか、聞かないべきなのか僕には分からない。

 「あれ楓真じゃん!珍しいなこんな早い時間にいるの」

 僕が迷っていると後ろから浩一の大きな声が聞こえる。

 僕は基本的に寝つきが悪くて朝に弱い、だから遅めに学校に来るのがデフォルトだ。

 「せっかくだし、一緒にサッカーしよぜ!康誠も今教室に行ったところ!」

 「わ、分かった。僕も参加するよ」

 特に断る理由もないので承諾する。そして決断をしないといけなくなる。

 聞くべきか?聞かないべきか?

 「……また、話そうね華凛」

 「う、うん!また話そうね天宮君!」

 僕が出した結論は、聞かない。だった。

 正確に言えば今聞く必要はないと思った。華凛を見ている限りだと苦しそうには見えないからだ。

 それなら不用意に指摘しないで様子を見るべきだと思った。

 僕は逃げるようにその場から走り去り、勢いよく教室に入る。

 「おはよう楓真、珍しいなこの時間にいるの」

 「おはよう康誠、早く目が覚めたから早く来たんだ」

 「それなら一緒にサッカーするか?」

 「うん、そのつもりだよ」

 僕はそう答えてランドセルをロッカーにしまう。そして康誠と一緒に教室を出て校庭を目指す。

 「そういえば、楓真とサッカーするの何気に初めてじゃね?」

 「確かに。昼休みだと人多くてサッカーは無理だしね」

 昼休みは人が多いのでドッチボール、もしくは「てんか」と呼ばれる遊びをすることが多い。

 「手加減してよ康誠」

 「安心しな、俺は基本的に左足しか使わないから」

 校庭に出た僕と康誠は同じチームでプレイすることになった。

 康誠は左足を利き足としてプレイしても一番うまかった。ただ、非凡な一面を見ることはなかったので、いつか利き足である右でプレイしているのを見たいと思った。

 

 「おはよう楓真、いや今の時間だとこんにちはだね」

 「どっちでもいいと思うけどね」

 康誠と裏門で分かれて多目的教室に着くと和奏が座って待っていた。

 普段だったら誰もいない静かで暗い場所なのに、和奏がいるだけでパーティー会場のように明るく感じてしまう。

 「それじゃあ、音楽室に入ろうか」

 「そうしたいところだけど、今日は掃除の日なんだ」

 僕がそう言うと和奏はジッとした目で僕を見てくる。

 「しょうがないじゃないか、多目的教室で将棋を指すつもりだったんだから」

 「別に何も言ってないけど?」

 「目が口以上に語ってたよ」

 和奏は僕が言い返したのが面白かったのか愉快そうに笑う。

 そして掃除ロッカーを開き、ほうきを二つ取り出すと片方を僕に手渡す。

 「手伝ってくれるの?」

 「二人でやった方が速いからね」

 僕は和奏からほうきを受け取って二人で掃除を始める。

 基本的に掃除をする日は水曜日だ。四年生以上になると基本的に六時間授業で水曜日だけ五時間授業で早く学校が終わる。

 「そういえばさ、楓真は将棋の大会に出たりしてないの?」

 「出たことは無いけど、五月三日に全国小学生倉敷王将戦っていうのに出るよ」

 僕がそう答えると和奏はランドセルからスマホを取り出し検索を始める。

 一応言っておくとスマホの持ち込みは禁止されている。

 「さらっと出すね」

 「普段は持ってきてないけど、今日は特別ね」

 どこまで本当か分からないが和奏はそう言って全国小学生倉敷王将戦について調べ始める。

 その間に僕はちりとりでゴミを集め捨てる。

 「なるほど、小学生の王将を決めようぜって感じね」

 「そんな感じだね」

 和奏は一通り調べ終わったのかスマホをしまい、次は鍵を取り出す。

 「その鍵は?」

 「音楽室の鍵だよ。職員室で取ってきたの」

 僕が康誠と裏門まで行っている間に取ってきたらしい。

 和奏は慣れた手つきで音楽室の扉を開けると、グランドピアノの蓋を開く。

 ただグランドピアノの屋根はかなり重いらしく、和奏は精一杯力を入れているのが分かる。

 「手伝おうか?」

 「お願いしようかな」

 和奏はそう言うと蓋をゆっくりと閉じ、鍵盤の上の部分の屋根も閉じる。

 「まず、鍵盤の上の長方形の屋根、前屋根って言われている部分を開けるの」

 そこの部分は比較的に軽いので誰でも開けれそうだと感じる。

 「はい、ここで注意です。前屋根と大屋根をそのまま接触させると、ピアノを弾いた時に発生する振動で擦りあって傷が付いてしまいます」

 和奏は先生のような口調でそう言うと鍵盤の上に敷いてあった布を四つ折りして、接触するであろう位置に置く。

 その状態で前屋根を開くと布がクッションになって小さい空間が生まれる。この空間があることで傷が付かなくなる。

 「前屋根を開いてから大屋根を開くの。試しに持ち上げてみて」

 僕はとりあえず全力で持ち上げて見るが少ししか開かない。

 「前屋根は膝と肩を使って開けるんだよ」

 和奏はそう言うと膝を伸ばした勢いで大屋根を半分まで開け、そこから肩を入れることでさらに開放する。

 「やってみて」

 僕は和奏のお手本のように膝を使うと簡単に大屋根は開き、肩をグイっと入れると急に大屋根が軽くなった。

 「最後に突き上げ棒を窪みに差し込めばいいの。まず真ん中にある方が長い突き上げ棒で、一番外側にある窪みは短い突き上げ棒ね。間違った窪みに入れると大屋根が急に落ちてくるの」

 ピアノには二種類の突き上げ棒があり、どちらの突き上げ棒も大屋根と突き上げ棒が九十度になるようにしないといけない。

 角度が大きくなると不安定でちょっとした刺激で突き上げ棒が外れてしまうのだ。

 「練習の時は短い突き上げ棒が基本かな」

 和奏はそう言って大屋根を小さく開くようにする。

 そして小さい突き上げ棒を一番外側の窪みに入れる。

 「全然開いてないね」

 「小さく開けば音がそんなにでないし、音も柔らかくなるの。練習中の下手な音を大音量では流したくないし」

 和奏はそう言うと鍵盤に向かい、椅子の高さを調整し、椅子とピアノの間隔を微調整する。

 その所作はじいちゃんが駒を指す時のような熟練を感じさせるもので目が奪われる。

 「こんな細かい調整が見てて面白い?」

 「いや、なんか熟練だなって」

 「確かにピアノをやったことがない人はしないね。楓真の将棋の指し方と一緒か」

 「え?」

 「だって普通の人なら駒を指で挟めないでしょ」

 和奏はそう言うと将棋の駒を手に取り、両手を使って駒を人差し指と中指で挟むと、盤に向かって振り下ろす。だが指から駒がすっぽ抜けてあらぬ方向に飛んでいく。

 「ね?」

 失敗したのに自信満々でこっちを見る和奏がおかしくて僕は笑ってしまう。

 あるいは僕の指し方が熟練と言われた照れ隠しだったのかもしれない。

 「む、失敗したのがそんなに面白い?」

 「ごめんごめん」

 和奏は若干不機嫌そうだったが僕があまりに笑うので和奏も表情を緩ませて笑う。

 それから僕は盤に、和奏はピアノと向かい合う。

 そして同じ空間でお互いの自分の世界で生きる。

 僕は石田流三間飛車の対策を、和奏はメンデルスゾーンによって作曲された無言歌集を弾いた。

 僕が無言歌集で印象に残ったのは「信頼」と「後悔」だった。

 曲調と音の数は似ているのにお互いに反対の印象を持たされた。

 僕は「信頼」からはじいちゃんやばあちゃんのような熟練夫婦の雰囲気を感じ、「後悔」からは好きな人を振った時のように感じた。

 帰り道にこのことを和奏に話すと、感性が特殊だと言われてしまった。

 そして和奏は自分の認識を話した後に曲の解説をしてくれる。

 メンデルスゾーンの無言歌集はドイツ語で言葉の無い歌集と言われていて、心情や背景を強く描写しているものらしい。

 僕が曲の解釈を言い、和奏が解説をするのが僕達の帰路のルーティーンになった。

 「楓真はスマホ持ってる?」

 和奏は僕の家に着く直前でそう口にする。

 「持ってるけど、今は持ってないよ」

 「持ってるならいいんだよ。取ってきて」

 「分かった」

 僕はそう返事をして家の中に入ろうとするが、待たせるのも悪い気がする。

 「家に入る?」

 「……楓真以外に誰かいる?」

 「いや、うち共働きなんだ」

 「じゃあ入る」

 和奏は家の中に僕以外の人がいないことを確認すると家の中に入る。

 和奏にとって僕の家は新鮮らしくキョロキョロしている。その様子が可愛らしいと思う。

 僕の部屋は二階にあるので階段を登って部屋にある。

 「あ、これテレビで見たことある」

 和奏は僕の部屋に入ると真っ先に脚付きの本榧基盤を指差す。そして木材の感触を確かめるように触れる。

 これは引っ越しのタイミングでじいちゃんから送られてきたものだった。

 「へー、こんなに盤って分厚いんだ」

 「それは五寸の厚さがあるんだ」

 「厚い方がいいの?」

 「そうだね、それだけ木材を使ってることになるし」

 「……ちなみにお値段の方は?」

 「……三十五万円ぐらい」

 「ひえ!ただの盤なのに!」

 送られてきた時の僕も和奏と同じ感想を抱いた。母さんも悲鳴を発した。

 「電子ピアノが何個買えることやら」

 一般的にピアノを始める場合は電子ピアノを買うのが一般的だろう。

 だいたい電子ピアノの相場は十万円~二十万円だ。

 それに最初からグランドピアノを買うのは辞めた時のリスクと見合わない。

 ただ、これは普通の家庭の場合だ。和奏の場合はどうなのだろうか?

 「ちなみに和奏のピアノはどれくらい?」 

 好奇心に従って聞くと和奏は視線を逸らして口を開く。

 「この盤が二十個は買える」

 「に、二十?」

 僕はこの瞬間、人は驚きすぎると声が出なくなることを体験した。

 なんとなく和奏にお嬢様の雰囲気がある理由を知った気がする。

 「お金の話はやめよう。私達が稼いでるわけじゃないんだから」

 「そうだね、不毛だ」

 僕達はそう言って視線を別の方に向ける。

 「あ、パソコンじゃん。タブレットなら持ってるけどパソコンは持ってないんだよね」

 「パソコンじゃないと将棋の解析ができないからね」

 僕はそう言ってパソコンの電源をつける。そしてパソコンが起動している間にスマホを手にする。

 「せっかくだし、ライン交換しよ?」

 「うん、もちろん」 

 僕は二つ返事で承諾したがラインの交換の仕方は知らなかった。

 和奏にスマホを渡すと僕に見せながら、慣れた手つきで操作をしてQRコードを読み取る。

 和奏と書かれたアイコンが出たので追加するとトーク画面に行く。

 すると和奏から可愛い柴犬のスタンプで、よろしく。と送られてくる。

 僕も何か返すべきだと思ってスタンプの欄を見ると、母さんからプレゼントされたサツマイモのスタンプか、デフォルトで入っているスタンプしかなかった。

 母さんの独特な感性を恨みながらもサツマイモのスタンプを送った。

 ちなみに、よろしくおねがいも。と芋がかかったスタンプだった。

 特に変に思われることがなくスルーされる。

 「将棋の解析ソフトってどんな感じなの?」

 「こんな感じ」

 僕はソフトを起動すると左に将棋の盤、右に手筋、下に解析結果が映った画面を見せる。

 「うへー、難しそう」

 「慣れるまでは大変だったよ」

 「いつから使ってるの?」

 「小一からだね」

 「小一で理解できるものなの?」

 「じいちゃんに教えてもらいながらやったからね。結構これで強くなったと思う」

 じいちゃんにどうしてこの手が最善手なのかを、色んな変化を見せながら説明してくれたのを思い出す。

 そのおかげで僕は一つの手だけを考えるのではなく、別の手に派生しないかを考えるようになった。

 「熱心な人だったのね」

 「うん、最初は怖い人だと思ってて話せなかったけどね」

 僕は和奏にじいちゃんの戦争経験者であることや、元プロ棋士であったことを説明する。

 「そう、結構似てるのね私達」

 「似てるって?」

 「私のお母さんもお父さんもプロピアニストなの。ま、特別有名なわけじゃない三流なんだけどね」

 「プロになっているだけ凄いけどね」

 「本当にそう思ってる?」

 和奏は僕の言葉が気に入らなかったのか鋭い視線と、トーンの低い声をぶつける。

 「楓真は竜王を目指しているんでしょ?プロになってからが本番でしょ」

 「まあ、そうだね」

 「でしょ!上を目指すことを諦めた人間なんて凄くない!」 

 和奏が訴えかけるように叫んだ言葉は僕に突き刺さる。

 僕はプロになるのは目標だが、最終目標ではないのだ。

 過酷なプロの世界で勝ち抜き、頂点に君臨しなければ竜王になれない。

 改めてその重みを認識する。

 「ごめん、勝手に怒って。人の親を悪く言えるわけないのに」

 「全然平気だよ。それに僕もプロになってからが本番だって再認識できたし」

 泣きそうになっている和奏に僕はそう伝える。

 和奏にも年相応なところがあると知って僕は安心する。

 「そう、そうだよね。プロになってからが大事でしょ」

 和奏はそう言うと瞳に溜まった涙を吹いて笑顔になる。

 そしてしばらく両親の愚痴を話す。

 大した練習もしてないのに、才能がないと決めつけて逃げた、大人になれない子供。といった言葉が並べられた。それにどっちも頭が狂っているとも言っていた。

 この言葉から察するに和奏と両親の関係は良いものではないのかもしれない。

 「あ、もうこんな時間か、帰らないと」

 和奏は一通り愚痴を言い終えると時刻は四時五十分を回っていた。

 慌てた様子の和奏は急いで帰りの支度をすると急いで階段を駆け下りる。

 「また明日、楓真」

 「また明日、和奏」

 玄関の前で僕達はそう言って楽しい一日終えた。

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