第5話
「じゃあ康誠、また明日」
「おう、また明日な楓真」
僕が東ノ崎小学校に転校してから十日が経過した放課後、僕と楓真は裏門でそう言って別れる。
基本的に放課後はみんな遊びに行くか、学校に残って遊ぶかの二択だ。
康誠はユースの練習があるため放課後はすぐに家に帰る。
僕も一緒に帰ろうと思ったが、裏門を出た時点で康誠は右に、僕は左に行くので家が反対だった。
だから放課後の僕のルーティーンは裏門で康誠と別れた後、多目的教室に戻ってくるというものだ。
再び裏門を通り、中央階段を上がって多目的教室の前に着く。
僕がわざわざ多目的教室まで行く理由は二つあった。
一つは家にいるより孤独感が無く、寂しくないから。
そして二つ目は音楽室から漏れているピアノの音だった。
放課後になると誰かが音楽室でピアノを弾いている。
演奏される曲は全てクラシックで僕の知らない曲も多い。
だが謎の人物が奏でるピアノの音に僕は心を奪われていた。
それは学校生活の三日目、康誠と裏門で別れてから多目的教室でゴキゲン中飛車の棋書を読みながら駒を並べていた時のこと。
僕は周りの音が一切耳に入らないぐらい完璧に将棋に没頭していた。
それなのに不意に壮大な大自然の中で将棋を指しているような感覚に陥った。
自然と鹿児島の風景がフラッシュバックするように頭によぎり、思わず手が止まった。
自分の世界を将棋盤から教室に戻すとピアノの音が鳴っていることに気づく。
僕は手を止めて音楽室の方に向かい、ピアノの演奏に耳を傾ける。
この時演奏されていた曲は、ロベルト・シューマンによって作曲された森の情景という曲だった。
森の情景は九つの曲で構成され、全体の曲の長さは約二十分間である。
第一曲目の「森の入り口」では、急速でなく。という指示のもとゆったりとした曲調がゆっくりと森に踏み込む情景と大自然の優しさが表現されている。
この曲はそれぞれの曲に名前が付けられ、九つの曲を合わせて一つの物語のような構成になっている。
第一曲目のようにゆったりとした曲調だったり、第五曲目になるとアップテンポになり楽しげで草原を駆け回ったりような情景が浮かぶ。
対照的に第三曲目や第九曲目はゆっくりなテンポかつ低音で悲壮感のある曲調となり、第九曲目のタイトルになっている「別れ」を想起させる。
僕は森の情景は森の良さと怖さ、そして森を通じた出会いと別れを感じさせた。
鹿児島に初めて行った時に目の前に広がる自然に感動した。
だが夜になれば暗闇でお化けがいそうな雰囲気にもなるし、迷子になったら。なんて想像もしたくない。
そして僕は友達や自然と別れ、人の多い都会に出てきた。そして新たな出会いがあった。
二十分間の演奏で様々な思い出がよみがえり、僕は思わず泣きそうになった。
僕はこの瞬間から謎のピアニストのファンになった。
だが、正体を確かめようとは思わなかった。
音楽室の扉は窓の部分が高くて僕の身長では中が覗けない。
もちろん扉の鍵は開いているが同学年かも分からないし、演奏を邪魔したくなかった。
僕は将棋を指している時に、知らない人が現れて急に話しかけられたら嫌だ。
謎のピアニストもそう思っている可能性が高いと思った。
だから僕は将棋盤が入っているロッカーの近くの机で将棋を指すのをやめ、この日を境に僕は音楽室の近く、つまり廊下の近くで将棋を指すようになった。
謎のピアニストが弾く曲は全てクラシックだった。
僕は音楽はあまり聴かないタイプの人間だった。
なぜなら脳みそが音楽の内容を理解しようとして将棋が疎かになるからだ。
例えば英語のアナウンスが流れると、学校で英語を学び、意味が少し分かるせいで脳が理解しようとする。だが中国語や韓国語といった触れていない言語になると脳はスルーする。
だがクラシックは別だ。基本的にクラシックに歌詞は無いし、歌詞のある音楽のように細かな意味を内包していない。
クラシックには芸術的側面が強く、作者の伝えたいことがあれど基本的に受け取り手によって変わる。
だから脳が理解しようとする前に感じたことが勝手に頭を染める。
僕の場合は風景として感じたことが現れる。
たどえば燃えるような怒りだったら溶岩地帯や火山が、悲しい時には路地裏やどしゃ降りの雨といった風に現れる。
僕はその風景の中で将棋を指すのが楽しく、孤独感を忘れられた。
そして現在弾かれているのがショパンによって作曲された12の練習曲だった。エチュードop10という言い方もする。
ショパンがエチュード(練習曲)と名付けたこの楽曲は単に技術の練習として作られた曲ではなく、奏者の芸術性を磨く目的として作られている。
より高度の表現ができるような技術を養うイメージだ。
エチュードそのものがコンクールで採用されているほど音楽的にも優れた楽曲だ。
そして今まで聞いた演奏の中で圧倒的に難易度が高い。高すぎる。
音の数が桁違いに多く、指が休まるタイミングはあるのかと心配になる。
だが完璧とはいかずとも一つの一つの曲の意図をしっかり表現している。
有名なもので言えば第三曲目の「別れの曲」では序盤は音の数が少なく、優しい和音が響き、優しい気持ちに包まれる。だが中盤になるにつれ音の数が増え、嵐の前の静けさにような波と臨場感が演出される。そして曲の半分に差し掛かるようにつれ音が複雑になり不安定さが増していく。
別れの歌が作曲されたのは1832年だ。その四年前にショパンの一番下の妹であるエミリア・ショパンが結核で十四歳という若さで亡くなっている。
このような背景から当時のショパンの悲しさや不安定さが別れの曲には内包されていると考えられる。
そして終盤は序盤と同じように優しい和音にお戻り、少し波はあれど落ち着いた曲調になる。
このような話を知らない僕は幸せな日々から突然の別れ、悲しみから不安定になるが、別れを自分の中に抱いたまま前を向いたのだと推察した。
僕はそんな単純な解釈をしながら将棋を指していると区切りのいいところまで指し終える。
「あ、演奏終わってたのか」
一息ついた僕はピアノの演奏が終わっていたことに気づく。
東ノ崎小学校は十六時完全下校だ。あと四十分は学校に入れるが、僕は家に帰ることを決める。
僕はピアノの演奏が終わると帰るようにしていた。
演奏が終わると一気に孤独感に襲われるからだった。
「あれ?完全下校まで時間があるのにもう帰っちゃうの?」
駒を片付けようと盤面を崩した瞬間、目の前から澄んだ女の子の声がする。
慌てて顔を上げると目の前に奇麗なロングの黒髪をした女の子が座っていた。
そしてその女の子は水色の瞳を持っていた。日本人の僕には有り得ない奇麗な瞳に吸い込まれる感覚になった。
「びっっくりした!」
僕は目の前に人がいたこと、瞳に吸い込まれそうになった感覚に驚き、大きな声を出して女の子を驚かせてしまう。
「やっぱり気付いてなかったのね」
「全く気付かなかった。いつからいたの?」
「十分前ぐらい?」
「なんか、ごめん」
呆れた様子の女の子に僕は思わず謝罪する。
一メートルもない距離に人がいたのに気付けないのは病気かもしれない。
「ここまで近づいても気付かないぐらい集中するなんて、感心感心」
女の子は自己嫌悪している僕を褒める。
その言い回しがばあちゃんのようだと思った。
「それで、えっと……君は?」
「私は
「うん、よろしく小鳥遊さ……え?」
小鳥遊さんはあまりにも自然で、さも当然のように僕の名前を読んだ。
そのせいで僕が違和感を持つまでタイムラグが生じた。
「和奏でいいよ楓真、私達は同学年なんだからね。ちなみに私は五組ね」
「……何で名前を知ってるの?」
僕がそう聞くと和奏は答え合わせをするように饒舌に話しだす。
「楓真はさ、私の演奏が終わったら帰ってるでしょ?」
和奏の一言で僕は将棋で寄せられている時のような感覚になっていく。
「いや、基本的に完全下校で帰ってるけど」
僕はせめて足搔こうとそう言ってみるが逆効果だったようで和奏はさらに楽しそうになる。
「えー、でも今帰ろうとしてたじゃん。それに私は何度か試したんだよ、完全下校前にピアノを弾くのを止めて、楓真が帰るか見てたんだ」
「どうやって見てたの?」
音楽室の扉の窓は高い位置にあり和奏の身長では届かない。
「扉の前に机を置いて乗って見たんだよ」
和奏はそう言うと多目的教室の机を持って音楽室の扉の前に置き、僕に机の上に乗るように指示をする。
僕は命じられるまま机の上に乗ると音楽室の中が見える。目の前に黒のグランドピアノが置いてあり、そこで和奏が弾いていたのだろう。
「ね、見えるでしょ?」
「うん、見えるよ。でもさ、さっきみたいにピアノの演奏が終わって十分以上僕が気付かないってことも多かったと思うんだけど、僕が帰るまでずっと見てたの?」
「そうだよ」
「……暇なの?」
「む、ピアノを弾くだけが上達の道ではないんだよ。楽譜を読んだり、作曲者を知ったり、演奏を頭の中で反省したりね。楓真も対戦した後に頭の中で反省したりしないの?」
和奏は僕の暇なの?という発言が気に入らなかったらしく強めに反論してくる。
「まあ、頭の中で振り返ったり詰将棋したりはするよ」
反論する気も失せた僕は大人しく同意する。
「私は二年生から音楽室でピアノを弾いてるの。でも四年生になるまで楓真を見たことがなかった。つまり楓真は四年生で、新校舎から旧校舎に移ってきた可能性が高いって考えたの」
僕は和奏の推察を聞いて感心していた。
低学年は新校舎で過ごすので多目的教室の存在自体を知らない生徒も多いだろう。
逆に五年生以上の場合は去年から多目的教室で将棋を指していてもおかしくない。
必然的に今年から旧校舎にやってきた四年生の可能性が高くなる。
「私は音楽室から帰る時に楓真の顔を見て覚えてるから、それぞれのクラスを見て回ったの、そして三組だってことも分かった」
そこまで情報が分かったのなら、あとは詰めるだけだろう。
「とある人から天宮楓真って名前と今学期から鹿児島から転校してきて、美化委員で多目的教室を一人で掃除していて、将棋の竜王を目指してるって話を聞いたの」
「なるほど、康誠か」
「正解。ごめんね、勝手に聞き出しちゃって」
「それは別に構わないよ。隠してることじゃないし」
僕がそう言うと和奏は安心したようで息を吐く。
「それならよかった。なんなら音楽室に入って来たらよかったのに」
「誰が弾いてるか知らなかったからさ、邪魔したくないし」
「それなら、もう知ってるから平気だね」
「確かにそうだけど、邪魔じゃないの?」
「ぜんぜん、ピアノは聴き手がいて初めて成立するものだからね」
和奏はそう言ってニッコリと僕に笑いかける。
その笑顔は今まで見たことのある笑顔の中で一番眩しく、心が惹かれるものだった。
僕は不意に鹿児島で見た、千本桜の名所である観音ヶ池市民の森で見た満開の桜を思い出した。
観音ヶ池市民の森は池を取り囲むように桜が狂い咲く。駐車場は坂の上にあり、上からの満開の桜を見る。水面に桜が反射して桜が影を纏っているようで幻想的だった。
僕の今までの人生で最も美しい景色が観音ヶ池市民の森の桜だった。それが和奏の笑顔によって呼び起こされた。それだけの破壊力があった。
「さて、私は帰るけど楓真はどうするの?」
「僕も今日は帰るつもり」
「なら一緒に帰らない?」
僕は和奏からの誘いに二つ返事で了承して中央階段を一緒に降りる。
「そういえば、和奏と康誠って仲いいの?」
「うーん、私は仲いいって思ってるんだけどね」
「私は?」
私は。という表現だと康誠はそう思っていないことになる。
和奏が一方的に関わっているということもあり得るが、僕がプロ棋士を目指していることを知っているのは矛盾している。
康誠は他の友達に僕がプロ棋士を目指していること言っていない。基本的に僕以外の人とはプロ関連の話をしていない。
「康誠は去年同じクラスだったの。私と康誠が学級委員で、同盟を組んだ仲だったんだけどね」
「同盟?」
「プロになろうね同盟だよ。楓真も結んだんじゃない?」
僕は和奏の言葉を聞いて一定の納得をした。
まず和奏のピアノの腕前が卓越して理由。そして康誠が和奏に僕がプロ棋士を目指していることを言ったのは、和奏も僕達と同じでプロを目指している者だからだ。
だが完全には納得できない。
僕と康誠はプロになろうね同盟を組んだから仲が良くなったと言っても過言ではない。それなのに和奏は、私は仲がいいと思っていると口にしたのだろうか?
「喧嘩したの?」
僕はパッと思いついた仲が悪くなる理由を口にする。だが和奏は首を振って否定する。
「特に仲が悪くなるようなことはしてない。ただ私は進んで、康誠は停滞しちゃったんだよね」
「どうゆうこと?」
「そのままの意味。後は自分で調べてみて」
和奏は康誠についてこれ以上話すつもりがないらしい。
ただ調べてみて。という言葉から察するに、理由はすぐに分かるもので、和奏は自分の口では言いたくないだけなのかもしれない。
そんな事を考えていると裏門に着く。
「そんなことより、鹿児島ってどんな場所なの?」
和奏は迷わず左にに進むとそう口にする。
「基本的に何もないよ。学校に行くのでさえ三十分以上かかるし」
「え、三十分?学校に行くだけで?」
和奏は神奈川生まれ神奈川育ちの生粋の都会っ子で、田舎のことが気になるらしい。
馬鹿にされがちな田舎の話だが、和奏には新鮮のようで僕は電車が基本的に三両編成で一時間に一本しかこないことや、夜になると窓にカエルが張り付いたりコオロギが鳴いていることを話した。
僕が何かを話す度に和奏は毎回別のリアクションをしてくれる。
それが嬉しくて夢中で話していると家の前に着く。
「あ、ここ僕の家なんだ」
「そうだったんだ、ご近所さんだね」
和奏はそう言うと指を奥の方を指さす。
そして奥の交差点を右に曲がったところに家があると言う。
「それじゃあ、また明日ね楓真」
「うん、また明日、和奏」
「約束だからね!」
「うん約束する」
僕がそう答えると和奏は満足したらしく満開の桜のような笑顔を向けて手を振る。
僕も手を振り返し、和奏が見えなくなったところで家の中に入った。
そしてパソコンを起動し、どうやって調べるか迷った末に小鳥遊和奏と名前を検索した。
すると関連した記事が次々とヒットした。
ピティナ・ピアノコンペティションD級、全国大会、金賞。
ショパン国際ピアノコンクール in ASIA、小学3・4部門 アジア大会、金賞。
全国大会やアジア大会という文字驚きつつ、どんな大会かを調べる。
どちらの大会も県大会や地区大会で結果を残した人が全国大会に進める大会であるということ。そして、和奏はその全国大会の舞台で金賞を獲得しているのだ。
さらに驚かされたのはピティナ・ピアノコンペティションのD級で金賞を獲得していることだった。
ピティナ・ピアノコンペティションのソロ部門は年齢別に階級が分かれている。年齢が一番小さいものとして未就学児を対象としたA2級がある。
そして和奏が金賞を獲得したD級は中学二年生以下を対象とした階級だ。
和奏は小学三年生でその階級で頂点に立ったのだ。前例もほとんどないことだ。
天才少女、ピアノを弾くために生まれてきた才女。などの言葉が書かれている。
「和を奏でるで和奏。だもんな」
僕は和奏が名前を教える時にいった説明を口にして、本当にピアノを弾くために生まれてきたのではないかと思った。
和奏が結果を出し始めたのは去年の八月からだった。
僕は和奏について知ることができたので、タブを消して新たに検索をする。
そして次に神野康誠の名前を検索する。
ヒットした内容は二年前の小学二年生の時の記事だった。
圧巻のパフォーマンス。明るい人柄、チームを盛り上げる太陽のような存在。
康誠が入団した当時の記事ではそのように書かれている。だが去年の記事はあまりないようだった。
「停滞ってそういうことか」
僕は和奏が言った、私は進んで、康誠は停滞しちゃったんだよね。という言葉を理解する。
そして嫌な想像をした。
対等に同盟を組んだ相手が自分よりも先に進んだ時、僕だったら笑顔で接せるだろうか?
仮に康誠が僕よりも先に進み、対等ではなくなった時僕は普通でいられるだろうか?
「対等であり続けないとだ」
焦りや不安を抱いた僕はタブを消し、将棋の解析ソフトを起動する。
そして気になった手筋を入れ、さらに理解を深めていく。
この日から僕は将棋により本気になった。
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