第2話

鹿児島とは異なり十分に一本は来る電車に揺られ、ガラス張りの背の高い建物のを見る。

 どれもこれも田舎にはないもので新鮮に映りキョロキョロしてしまう。

 僕は田舎者の代名詞のように見られていることだろう。

 電車を降り、ひらひらと落ちる奇麗な桜道を通ると目的の一軒家に着く。

 白い壁面に茶色の屋根が目印だ。

 「ここね、大丈夫あってる」

 神奈川に着いてから一週間が経過した日、最初の試練が始まろうとしていた。

 奨励会に入る為には基本的にプロ棋士の推薦が必要になる。

 だからプロ棋士を目指す子供は誰かしらのプロ棋士の門下に下り、弟子になる必要がある。

 弟子になる方法はいくつかあり、オーソドックスなのは将棋教室もしくは将棋道場と呼ばれる場所で、プロ棋士に教えられたり、対局を通して弟子になる。

 他には将棋の大会で結果を残すことが挙げられる。小学生を対象とした大きい大会では県大会を行い、優勝者を対象に全国大会を行う大規模なものがある。そこで結果を残すことでプロ棋士の弟子になる。

 そして裏口的なものとしてプロ棋士に対して、弟子になるように志願をする内容の手紙を送る方法がある。僕はこの裏口にあたる方法だ。

 僕には伝手は全くないが、じいちゃんにはある。

 じいちゃんはじいちゃんの弟子だった後藤翔吾ごとうしょうご九段に、僕を弟子にして欲しいという内容の手紙を送ったのだ。

 その時、僕とじいちゃんが指した棋譜も同時に送った。

 そして後藤八段の返信は一度会って指してから考えます。という返答だった。

 今日がその対局日で、僕は後藤九段の家の前にいる。

 「失礼のないようにするのよ」

 さすがに僕一人で行くわけにもいかないので母さんが着いてきてくれた。

 じいちゃんは母方の祖父なので母さんが来た。

 チャイムを鳴らすと優しそうな声で返事が帰ってきて、限界が開くと物腰柔らかそうなおじいさんが出てきた。この人は正真正銘後藤九段だ。

 僕は事前に名前と顔を覚え、ここ三ヶ月分の棋譜をネットで見てきた。

 後藤段は現在の主流な戦法である居飛車党の角換わりで研究を積み重ねている棋士だ。

 じわじわと小さい隙を見つけ、綻びを最小限にする戦法だ。

 「天宮洋子あまみやようこです。今日はよろしくお願いします」

 「天宮楓真です。よろしくお願いします」

 母さんに続いて僕も名前を言って頭を下げる。

 「遠いところからすみません。どうぞ中に入ってください」

 後藤九段はそう言って家の中に入れてくれる。

 僕は勝手に畳があって、木製の家かと思っていたがフローリングは木で、壁は白色のシンプルな内装だった。

 「どうかしたかい?」

 僕がキョロキョロしているのを見た後藤九段がそう声をかけてくる。

 「いえ、じいちゃんの家とは違うなと思いまして」

 「ふふ、私も鳳城先生の自宅にはいったことがあるけど、あんな日本家屋は都心部ではなかなか無いからね」

 日本家屋はコストの面でも高く、大学の建築科でも木製の家を教えることはまずない。

 様々な仕事を分業した結果、木の柱ではなく軽量鉄骨を用いた建築が便利で効率的という結論になったのだ。

 「でも、私も将棋のプロとしてのこだわりがあるんだ」

 後藤九段はそう言ってリビングに案内する。そこにはテレビとソファーとテーブルが置いてある一般的なリビングだ。

 ただ、左側の壁が黒色になっていてスライドすることで収納され、隔てられたスペースが解放される。

 そこはリビングと異なり地面は畳で窓のところは障子になっている。

 端の方に棚があるが、金閣寺のように中心で区切られ、左側に鶴が描かれた掛け軸と脚付きの本榧基盤が置いてある。右側は違い棚がある。

 端の方に畳の色に似た薄い緑の座布団が二つあり、片方を受け取る。

 座布団を部屋の中心に向かい合うように置き、真ん中に盤を置いて正座をする。

 後藤九段は駒に手をかけると僕の前に差し出し、口を開く。

 「先に言っておくよ楓真君。奨励会っていうのはプロ養成所だ。六級からスタートして21歳までに初段、26歳までに四段に昇格しないと強制的に退会させられる。実際に何十、何百の人が夢半ばで退会している厳しい世界だ。中には成績に悩み、苦しんだ挙句自ら命を絶ってしまった人いる。己の全てを懸けても報われるか怪しい世界なんだ」

 奨励会でプロになれるのは年に四人、会員の八割はなれない。

 「楓真君がおじいさんの為にプロになるというなら私は君を弟子にしない。誰かの為に君の全てを懸けて欲しくない。自分の為に全てを懸ける覚悟があるなら目の前の駒を取りなさい」

 後藤九段は真剣な表情と厳しい口調でそう言う。

 この人は将棋の楽しさ、苦しさをすべて知り尽くしている。

 だから僕に忠告してくれているのだ。

 「僕も神奈川に行くことが決まって考えました。まず考えたのはじいちゃんが何で神奈川に行くように言ったかでした。それは早い内から奨励会に入れるためだと思います」

 奨励会の試験は毎年八月に一回だけ行われる。これを逃すと試験は来年まで無い。

 可能な限り奨励会に早く入った方がいいのは言わなくても分かるだろう。

 それと二月というタイミングは小学校に対しての配慮だろう。

 新学期の始めに転校するのと、六、七月に転校するのとはわけが違う。

 「僕は奨励会というものを調べて、将棋が本当に好きで本気でやっている人がたくさんいることを知りました。そして僕もそんな人と対局したい。もっと将棋を極めたいと思いました」

 僕はそう言って目の前に置かれた将棋の駒を手に取る。

 「僕は自分自身の為に竜王になります!」

 そう、僕は何より自分の将棋が好きという思いからここに来た。

 「そっか、それなら私から何も言うことはないな」

 後藤九段はそう言うと駒を並べ始める。

 「最後に一言だけ、実力が足りないと思ったら鳳城先生の孫でも弟子にはしないよ」

 後藤九段のその言葉を受けて僕にプレッシャーが走る。

 急に僕の後ろの足場が崩れていく感覚に襲われる。

 そして僕はここで始めて理解する。

 これが人生を懸けた一局だと。

 「よろしくお願いします」

 「よろしくお願いします」

 お互いに姿勢を正し、頭を下げる。

 「先手はあげるよ」

 「では遠慮なく」

 僕は一呼吸置いてから、人生を決める一手目を指す。

 飛車先の歩兵を人差し指と中指で挟んで持ち、スナップを効かせて突き刺すように指す。

 後藤九段も同様に飛車先の歩兵を人差し指と中指で持ち指す。歩兵を枠の前に突き刺し、中指で枠に納める。一連の動作に無駄は無く芸術的だ。

 その後お互いに飛車先の歩兵をもう一歩伸ばし、僕は角道を開ける。

 後藤九段は金を角に隣接させる。

 そして僕は角を角道を塞いでいた歩兵があった位置に指す。

 後藤九段はここで角道を開ける。

 それに対して僕は左側の銀を右斜め前に跳ねる。

 ここまでの一連の流れは、愚行とも挑発とも思われるかもしれない。

 僕はプロ棋士相手に角換わりを挑もうとしているのだ。

 現代将棋の主流となっている戦法が角換わりだ。

 角換わりはお互いに角を持ち駒にした状態で、角が効果的に打たれないように盤面を構築していく戦法だ。

 イメージとしてはお互いに核を持った状態で戦争するようなものだ。

 角が自由に打てる。という点で角換わりは将棋の数多の戦法の中で一番に変化と派生が多い。

 角を犠牲に攻め駒を一つ増やしたり、無理矢理駒を動かされて角を打たれ成られる。こんなことばっかだ。

 角換わりをソフトで解析すると、ほとんど評価値のグラフは上下しない。

 だが急に傍線が急降下したり急上昇するタイミングある。

 一つの綻びをで敗着するのが角換わりだ。

 だからプロは時間を懸けて研究をする。

 無限とも言える変化と派生を学び、最善手を研究するのだ。

 研究した時間、質共に劣る僕が勝てる方がおかしい。

 だが、その劣るものを埋めるために僕は後藤七段を研究した。

 僕は今日、本気で勝ちに来ている。

 「……うん?」

 しばらくミスも無く指し進めて47手目、僕の手番になると思わず手が止まり、疑問を訴える声が出る。

 どこか見たことのある盤面だった。

 角換わりは同じ展開をなぞることは多い。違和感を抱く必要はない。

 だがどうしても既視感が拭えない。まるでこの盤になるべくしてなったような、導かれるような雰囲気を感じ取る。

 僕が見た棋譜の中でこの手順で指した対局は存在しない。

 でもこの盤面は知っている。最近の対局だったはず。

 棋王戦予選第三グループ、三回戦。後藤九段といぬい七段との対局。

 後藤九段は後手番で、この盤面から交戦が開始した。

 誘導された?全く違う手順でこの盤面になるように?

 僕は思わず顔を上げて後藤九段を見る。

 盤面を見つめる後藤九段から読み取れるものは何もない。それがただただ不気味だった。

 これは指導対局だと直感的に悟る。後藤九段は僕なんか簡単に誘導し、描いた盤面を作らせることが出きる。

 僕は思わず固唾を飲む。手のひらで自分は踊らされているのだと理解する。

 棋王戦予選第三グループ、三回戦。勝者は後藤九段だ。

 後藤九段と乾七段の棋譜を再現してはいけない。

 棋譜の通り仕掛けると僕が負ける。ここでの最善手は飛車先の歩兵を突き捨てておくことだ。

 飛車先の歩兵があると、こっちの仕掛けがワンテンポ遅れて防戦一方になってじりじり負ける。

 だから僕は飛車先の歩兵を突き捨てる。

 大丈夫だ、ここから先の手順は研究してある。

 「……ふふ」

 今まで一度も指す手を止めなかった後藤九段が、一瞬手を止めて小さく笑う。

 そして再び表情を元に戻すと厳しい猛攻を始める。

 僕は研究した内容を生かして指していくが、後藤九段の指す意図の読めない複雑な手に思考する時間だけが増え、追い詰められていく。

 自分なりに先を読んだ手もことごとく読まれ潰される。

 明らかな実力不足を痛感する。

 「……負けました」

 僕は荒らされた盤面を呆然と見ながら敗北を宣言する。

 こんな感覚は久々だった。悔しいという感情が生まれる隙がないほどの完敗。

 将棋を始めた時の何も分からない状態での対局に近い感情だ。

 だが今の僕は将棋を六年やっている。費やした時間も同年代では一番な自信がある。

 この次元以上にならないと竜王になれないことを痛感する。

 「そんなに落ち込む必要がないよ。君は十分に素質を示した、これからよろしくね楓真」

 対局が終わると、後藤九段は最初に会った時のような優しい表情でそう言う。

 「そうですかね、僕は全然、何やってるか分からなくて」

 言いながら声が震えていく。頬に冷たい感覚が流れるのが分かる。

 悔しい、情けない。この二つの感情に支配される。

 「泣けるってことは諦めていないことの証明だ」

 後藤九段はそう言って僕が泣き止むのを待った後、感想戦を始める。

 感想戦は対局を振り返り、いい手と悪い手をお互いに共有して理解を深める。

 僕は感想戦を通してプロ棋士の読みの深さを体感する。

 何十個の派生を想定している。僕は二、三個が限界だ。

 「感想戦はこんなものかな。っと結構時間経っちゃったな」

 時計に目をやると、ここに来てから三時間は経過していた。

 「よし、そろそろ次に移ろうか」

 「次?」

 「うん、今の楓真に必要なのは私との対局ではなく、同年代との対局だけど今日は流石に厳しいか」

 後藤九段は自分のスマホを開いてカレンダーのアプリを見ながらそう呟く。

 「とりあえず、自分の実力を把握してもらおうかな」

 後藤九段はそう言って外に出ることを母さんに伝えて一緒に外に出る。

 「あ、あの後藤さん?どこに行くんですか?」

 「近くに賑わってる将棋道場があるんだ。そこで楓真はいろんな人と対局してもらう。それと、私のことは後藤先生と呼ぶように。君は私の弟子なんだから」

 「はい、分かりました後藤先生」

 僕がそう言うと後藤先生は満足したように笑顔になる。

 行きと同じ奇麗な桜道を歩いているのに、ひらひらと落ちる桜を見ると僕の自信が落ちているように感じる。

 しばらく歩いていると変哲のないビルの前に着く。

 エレベーターで三階まで上がると、ビルの外装とはそぐわない古風な看板と扉がある。

 中に入るとコーヒーと煙草の匂いが鼻につく。そして辺りを見回すと将棋の盤があちこちに置かれてあって、おじいさん達が将棋を指している。

 「こんにちは、こちらが料金となっております」

 受付の女性が料金表を提示しながらそう口にする。

 僕は身長が足りずに見えなかったが、料金表には学生は七百円、大人は千三百円と書かれてあった。

 「大人と学生一人ずつで」

 「後藤先生も指すんですか?」

 僕は思わずそう尋ねる。いったい誰があなたの相手が出来るのか?という疑問をぶつける。

 「何も全力で指すだけが将棋じゃないさ、試したい戦法もあるしね」

 後藤先生はそう言いながら財布を取り出し二千円を取り出す。

 母さんが慌てて財布を取り出すが後藤先生は静止させる。

 「私が言い出したことなので」

 後藤先生と母さんのやり取りを見ながら後藤先生が言ったことを考える。

 あれだけ強い後藤先生が新しい戦法を取り入れようとしている。

 その事実の重さを体感する。

 達人が研鑽を積んで化け物になろうとしているのだ。

 「それじゃあ、行こうか」

 後藤先生が支払いを終えると中に通され、僕は立ち尽くして後藤先生の顔を見上げる。

 僕は人見知りをするタイプではないと思っている。だが、自分よりも四十歳は上の相手の輪に入っていけるわけがない。

 後藤先生は僕の訴えに気付いているはずなのに微動だにせずに周りの盤面を見つめる。

 「おい、あれ」

 「本物か?」

 後藤先生は微動だにしていないのに周りが視線を送り、ざわざわし始める。

 その様はアイドルや俳優を町中で見つけた時のような光景だった。

 「あの、後藤翔吾九段ですか?」

 「ええ、よく分かりましたね」

 「そりゃあ有名ですから」

 話しかけたおじいさんはアイドルを見るような顔をしてはしゃいでいる。

 将棋をやっている者ならプロ棋士は憧れの象徴のようなものかと納得する。

 「今日は弟子に経験を積ませたくて来たんです」

 「ほう、お弟子さんですか」

 少し以外そうな声を向けられると一気に視線が集まり、僕はフリーズする。

 体感としてはライオンの群れの中に放り出されたうさぎの気持ちだ。

 「どなたか私の弟子とお相手していただけないでしょうか?」

 「それなら自分が」

 話しかけた男性と後藤先生だけでやり取りが完結して、僕の対局相手が決まる。

 「おじさんの名前は佐藤って言うんだ。君、名前は?」

 盤を挟んで座ると佐藤さんは優しい口調で名前を聞いてくる。

 「天宮楓真って言います。今日、後藤先生の弟子になりました」

 聞かれていたのは名前だけだったが、弟子について知りたそうだったので説明しておく。

 「今日弟子になったのか。それは即決だった?」

 「えっと、今日始めて会って、一度対局した後弟子になりました」

 「なるほどね、それは珍しい」

 「珍しい。ですか?」

 「そうだよ、後藤九段は弟子を取らないことで有名なんだから」

 駒を並べながら話していると衝撃的なことを言われる。

 僕のイメージだと厳しいが優しい人だ。だから弟子を取っているものかと思っていた。

 「それにしても、後藤先生人気ですね」

 「そりゃあそうだよ、なんたっておじさん世代のヒーローだし、七段だ」

 「そんな凄い人だったんですね」

 「知らなかったのかい?」

 「すみません。いかんせん、僕は棋譜を解析することに時間を費やしたもので。リサーチ不足でした」

 空気が悪くなったのを感じた僕は慌ててそう口にする。

 「そっか、棋譜をね。子供なのに偉いじゃないか」

 佐藤さんは感心したようにそう口にする。

 ただ僕は相手の棋譜を見て対策するのは当然のことだと思う。

 初見の相手と戦い方が分かる相手、どっちの方が勝ちやすいかは言わずもがなだ。

 「それじゃあ、おじさんが後藤九段の凄さを教えてあげよう」

 上機嫌になった佐藤さんがそう言って早口で説明を始める。

 「まず、後藤九段の年齢は六十四歳なんだけど、この年齢で九段っていうのが凄いんだよ」

 「そ、そうなんですか?九段がですか?」

 僕は奨励会で三段から四段に昇格してプロになれば、階級なんてどうでもいいと思う。

 だが佐藤さんはそう思っておらず地雷を踏み、険しい表情を向けられる。

 「いいかい、九段に昇格するには四つの内いづれかの条件を満たす必要があるんだ」

 佐藤さんはそう言って四つの指を立てる。

 「まず一つ目が八段に昇格後、公式戦250勝。これも十分凄いけど時間をかければ不可能なことではない」

 佐藤さんはこの条件に興味がないようで、さらっと流す。

 「二つ目がタイトル三期獲得」

 ここで言う三期は三回という意味だ。

 つまり八つあるタイトル内、三回獲得する必要がある。

 「三つ目が竜王位二期獲得」

 つまり竜王のタイトルを二回獲得する必要がある。

 「そして後藤九段が成し遂げた四つ目、名人位一期獲得だ」

 「なるほど」

 要するに後藤先生は名人のタイトルを獲得して九段に昇段したのだ。

 「それも若い天才達が猛威を奮ってた時に名人位を取ったんだ。じいさん達のヒーローだった」

 佐藤さんは最後の歩兵を人差し指と中指で持って、定位置に指すと話を締めくくる。

 「さぁて、始めようか」

 「よろしくお願いします」

 「よろしくお願いします」

 お互いに頭を下げると、僕が振り駒をする。

 振り駒は基本的に若い方がすることが多いように思う。 

 そんなことを考えて振ると、と金が三枚で僕は後手になる。

 お互いに角道を開けた後、佐藤さんはさらに角道の歩兵を突く。

 僕は佐藤さんが三間飛車を指すことを理解する。

 僕はゲームプランを早い将棋、急戦にすることを決める。

 囲いを簡単なもので済まし、棒銀で攻めていく。

 一手一手慎重に相手の思考を読み、自分の意図を押し付けていく。

 勝つんだ、また負けたくない。 

 僕はその想いだけで将棋を指し進めていく。

 「……負けました」

 「あ、あぁ、ありがとうございました」

 あれ?おかしいな、こんなあっさり勝ってしまった。

 佐藤さんが弱いとは言わないが、予想より強くはなかった。

 大人は僕よりも長い時間を将棋に費やしているはずだ。何でこんなあっさり。

 「よし、次は俺だ」

 それから僕は代わる代わるに対局をした。

 計七回の対局で僕が負けることはなかった。

 

 「それでは、私達はこの辺で」

 「お世話になりました」

 「奨励会試験頑張れよー!」

 僕はが頭を下げて立ち去ろうとすると口々に応援の言葉を向けられる。

 「はい、頑張ります!」

 僕はそう答えてもう一度頭を下げてから将棋道場を立ち去る。

 「どうだったかい?」

 「いや、えっと……」

 「楓真の方が圧倒的に強かっただろう?」

 僕が言い淀んでいると後藤先生がそう口にする。

 「いいかい楓真、奨励会の六級はアマチュアの四段か五段の強さって言われているんだ。君がアマチュアの人に負けるのは許されないんだ」

 後藤先生は厳しい口調でもなく、穏やかな声でもない。

 ただ事実を列挙するように淡々と述べる。

 「君は今まで対局をした相手が悪い。鳳城先生と私のようなプロの人間としか対局をしていないからね。でも分かっただろう?君は強い。同年代で君と戦える人間は奨励会員ぐらいさ」

 「そ、そうですかね?」

 「もちろん。それを楓真に認識してもらう為に、全国小学生倉敷王将戦の神奈川県予選に出てもらう。大会日は五月三日ね」

 全国小学生倉敷王将戦は県大会を行い代表者を選出し、全国大会を行う大会だ。

 日本将棋連盟と倉敷市文化振興財団が共同で主催している大会だ。

 小1~小3の低学年の部と小4~小6の高学年の部がある。

 僕は小学四年生なので高学年の部ということになる。

 「わ、分かりました」

 僕の了解を得ずに決まっていく予定に困惑しながらも少しワクワクする。

 今まで僕は同学年とは戦ったことが無いからだ。

 「あ、そうだ。倉敷王将戦が終わるまで、私の弟子になったことは他言無用だ。加えて倉敷王将戦が終わるまで私が楓真に将棋を教えることはしない。アンフェアだからね」

 確かにプロ棋士に教えてもらっている人間は同学年からしたら反則だと思うだろう。

 僕だったら思う。

 そう考えると元プロ棋士に六年間教えられている僕は十分反則なのかもしれない。

 「それじゃあまた今度会おう、楓真」

 「はい、今日はありがとうございました。後藤先生」

 僕と後藤先生はお別れの言葉を言って分かれる。

 いろんな事があって疲れた僕は電車で寝てしまった。

 そして視点は代わり、後藤先生も家に着く。

 「ただいまー」

 後藤先生はそう言って家に入ると駒を並べる。 

 それは僕と対局した時の棋譜だった。

 「あら、お風呂に入らないの?」

 すぐにお風呂に入るものだと思っていた後藤先生の妻がそう声をかける。

 「あぁ、すまないね」

 後藤先生がお風呂を忘れて駒を並べるのは珍しいことではない。

 ただ対象が小学四年生の僕であることに疑問が生じる。

 「珍しいね、あなたが弟子を取るのは。やっぱり恩師の頼みは無下に出来ない?」

 「それは関係ないさ。この棋譜を見たら分かるよ」

 「私には将棋は分かりませんよ」

 後藤先生の妻はそう言いつつも横に座る。

 「この場面は私がこの前の対局で指した展開そのままなんだ」

 「へー、誘導したってこと?」

 「そう、その通り。そして驚かされた。乾さんはここで開戦したのに対して、楓真は飛車先の歩兵を突き捨てた。ここでの最善手だ」

 「はぁ、つまりプロを超えた一手ってこと?」

 「いや、これは私の対局を分析したからこそ指せた手だ。適当に突き捨てたわけでもなく、それが最善手だと知ってて指したんだ」

 この一手を見た時に後藤先生は確信した。

 楓真にはプロになる素質があることを、そして未だに誰も到達出来ていない次元に達する可能性を。

 「まったく、とんでもない置き土産だ」

 後藤先生はそう言って一枚の手紙を取り出す。

 じいちゃんから送られてきた手紙だ。

 敬称と最初の決まり文句を省くとこう書いてある。

 「私の孫には将棋の才能があります。それもプロとしての才能です。楓真は負ける度に自分の将棋を改善することをずっと続けてきました。自分の負けた原因を見つめることから逃げません。どうか楓真と一度対局をして見極めて頂けないでしょうか」

 要約するとこんな内容だった。

 後藤先生は手紙を読んだ時は弟子にする気はなかったが同封されていた棋譜を見て気が変わった。

 その棋譜は角換わりの棋譜だった。

 日を追うごとに読みが深くなり、対策しているのが伝わってくる。

 これを指しているのが小学三年生という事実に驚愕した。

 どうしても子供は負けという事実が嫌で、研究よりも対局を繰り返す中で成長する傾向が強い。

 この時期から負けを直視でき、研究が出きる子供はどこまでの棋士になれるのか興味が出ないわけがなかった。


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