和を以て明王を制す

ラー油

第1話

 何を美しいと感じるか?

 いわゆる、感性。と言われるものだ。

 78年間の生涯で、十万を超える作品を世に生み落とした、パブロ•ピカソ。

 20世紀初頭に起こった、キュビズムと言われる現代美術の動きが反映され、モチーフを幾何学的に落とし込んだ作品が多い。

 モチーフを三角形や四角形といった多角形、楕円や円といった単純な形に落とし込むのだ。

 この幾何学模様を使った作風がピカソの最大の特徴で、大きな論争を巻き起こしている。

 幾何学模様を使う都合で、被写体はどこか抽象化され、自分が普段見ているものと乖離し、不気味や違和感といったものを持たせることがある。

 だからピカソの絵を美しいと思う人と、思わない人が存在する。

 この二つの感性に正解も不正解も存在しない。そこには個人個人が生き、培ってきた人生観があるだけなのだ。

 世の中には町や人を焼き尽くす炎に魅せられて放火魔になった人、決して現実には存在しない二次元的なものに魅せられて結婚をした人。

 人の感性、芸術感、そして人生観は魅せられた何かによって形成されると同時に縛られ、依存する。

 もちろん、それは僕だって例外じゃなかった。

 僕は“○○”に魅せられた。

 「ごちそうさまでした」

 僕はそう言って目の前で空になった茶碗に手を合わせる。

 朝食は玉子焼きと煮魚と味噌汁の日本食だった。僕は食べるのが遅いので一番最後に立ち上がる。

 居間のふすまを開け、日本家屋特有の開放的で庭の見える廊下を歩く。ただ、落下防止のためにガラス窓が貼られている。

 年季と木から発せられる心地よい匂いを感じながら、長い廊下を歩く。

 夜になると真っ暗でお化けでもでそうな雰囲気になる廊下だが、太陽のある日中は落ち着く場所だ。

 そして、目的の場所であるじいちゃんの部屋の前に立つ。

 少し滑りが悪くなって開けにくい襖を横にスライドさせ、じいちゃんと向かい合う。

 「おぉ、来たか楓真ふうま」 

 新聞を手にした鳳城仁ほうじょうじん、僕のじいちゃんが新聞から視線を外し、濁っていない方の目で僕を見る。

 じいちゃんは母方の祖父で、僕の苗字である天宮あまみやとは異なっている。

 「今日こそ勝つよ」

 僕はそう言ってベットとテレビ、机の上にパソコンとコピー機が置いてある簡素な部屋の隅に行き、木製で年季の入ったが奇麗な脚付きの将棋盤を持ち上げ、じいちゃんの前に置き、僕が中心に並べる。

 じいちゃんは左腕が無い。それ故に駒を並べるのは難しい。

 今、僕が住んでいる場所は鹿児島だ。第二次世界大戦でアメリカ軍が沖縄を攻めた後、次に標的になったのは九州地方だ。

 そして鹿児島は軍事的にも大きな役割があり、必然的に被害が大きくなった。

 じいちゃんは鹿児島で戦った兵士だった。そして、片足と左目を失った。

 本人は生きているだけで丸儲け。とよく口にしていた。

 「よろしくお願いします」

 駒を並べ終わった僕達はそう言って頭を下げる。

 僕とじいちゃんの将棋にハンデは無く、お互いに角と飛車を持っている。いわゆる平手、と言われる通常通りの対局だ。

 僕は真ん中の五つの歩兵を少し前に出し、二番目と四番目の歩兵を裏返し、と金にする。

 これは振り駒と呼ばれるもので、先手と後手を決めるものだ。コイントスと似たようなものだと思ったらいい。

 と金にしたのは、「あなたはと金ですよ」と示すためだ。

 それから僕は五つの駒を手に取り、両手で包みシャッフルする。そしてシャッフルが済むと、版の上にばら撒く。

 と金が三つ、歩兵が二つという結果になる。

 「俺が先手だな」

 じいちゃんはそう言って角の射線を通す為に、7六歩を指す。

 そして僕はそれに答えるように、3四歩を指し、お互いの角が向かい合わせる。

 だが、じいちゃんはそれを拒否するように、突いた歩兵の横に歩兵を突く。

 四間飛車かな?と僕は考えながら飛車先の歩兵を突いた。

 それから、じいちゃんは飛車を角の二つ隣に動かし、四間飛車と呼ばれる戦術で戦った。

 対する僕は居飛車と呼ばれる戦術で戦う。

 しばらく指して思うのは、現状、機械に棋譜を読み込ませたら評価値は傍線になるだろう。

 それくらい互角の戦いをしている。だが、その均衡は崩れる。

 先に仕掛けたのはじいちゃん。飛車先の歩兵を突き、角と飛車の射線を同時に通す。

 だが、これは対策済みだ。何十、何百と指して、負け、学習した。

 今までのじいちゃんとの将棋でここまで奇麗な形でいられたことは一度もない。

 今、ここで勝つ。今、ここでじいちゃんを超えるんだ。

 それから将棋を指す、パチンという音がこの部屋のすべてになった。

 どれだけ時間が経っただろうか?対局時計は存在せず、思考を急かすのは無粋だということはお互いに理解している。そして対局は終わりを迎える。

 僕が少し不利な状況で寄せと言われる王手をかける一個手前のフェーズに突入した。

 寄せの状況では少しの不利が敗北に直結する。僕が頭をフル回転させても、どう考えても一手たりない。

 仮に先手だったら、なんて無粋な思考がよぎる。

 「パチン」

 僕は一見中途半端だと思われる手を指した。この局面だと評価値は大きく落下するだろう。

 これは勝つための賭けだ。負けるぐらいなら、足掻いて、醜い盤面になることを覚悟してトラップを仕掛けた方がいい。

 今までじいちゃんとは五千局に至る対局をした。そこで僕が感じたのは、じいちゃんは余計な駒を使わずに勝利することが多い。

 最小限で勝つことが美しいと感じるのか、戦争の経験からくる思考なのかは分からないがその傾向が強い。

 ここは銀を打ち込むべきだが、じいちゃんは版にある角が成った駒である馬を、銀と似た役割を持たせて寄せてきた。

 僕は、かかった。そう思った。勝利を確信した。

 鳥肌が立ち、指と唇が震える。そして今まで意識に入っていなかった汗を感じる。

 だが、それに反して嫌な予感、不安、冷や汗といったものを感じる。

 またこれか。僕はそう思ったが止まる気はなかった。

 ずっと望んできた勝利が目の前にあるのだ。

 僕は描いた未来をなぞるように駒を指す。

 「……ぬぅ」

 じいちゃんの表情が曇り、困ったような声を出した。

 額から汗が流れ、顎下に生えた長い髭を触る。

 じいちゃんが悩んだり、焦っている時に出る仕草だ。

 「……ふう」

 じいちゃんはしばらく悩んだ後、どこか爽やかな表情をして、姿勢を直す。

 「参りました」

 僕が何百と言ってきた、この言葉がとうとうじいちゃんから出た。

 勝った、勝ったのだ。苦節約六年、とうとうじいちゃんに勝つことが出来たのだ。

 そう実感すると目頭が熱くなり、視界が歪み、涙が流れる。

 「勝った、勝ったんだ」

 どれだけの時間泣いてたか分からないが、じいちゃんは刃物の傷が所々あり、左目が濁った、最初は怖かった顔を優しいものにして見守っていた。

 「身体はもう大丈夫なのか楓真?」

 僕が泣き止んでしばらくすると、じいちゃんはそう口を開いた。 

 僕は小子喘息を患っていた。僕の出身は鹿児島ではなく、神奈川出身だ。ただ、神奈川は都道府県別総生産で四番目にランクインする県だ。

 工場が多く、空気が綺麗とは言えない。

 だから僕はお母さんの故郷である鹿児島に引っ越したのだ。

 そう、じいちゃんのこの発言は孫の体調を気にかけているだけだ。そのはずなのだ。

 なのに背筋が氷り、嫌な汗が流れ、口が乾く。

 どう答えればいいのだろう?

 僕は少し考えた後乾いた口を開く。

 「うん、もう大丈夫だよ!」

 僕はじいちゃんを安心させる為に大きな声で、はっきりと元気よくそう言った。

 「そうか、それは良かった」

 じいちゃんはそう言うと、散歩をしよう。と提案した。

 僕は二つ返事で了承し、外に出る。

 「ガラガラガラ」

 スライド式の玄関の扉を開け、少し身震いをする。

 現在の日にちは2月4日。立春と呼ばれ、暦上では春が始まるが実際には一年を通して一番寒い。

 昨夜は気温が低く、少し雪が降った。周りに広がるクスノキの葉が少し白くなっていて、歩くとザクザクと気持のいい音が鳴る。

 小さい石が敷き詰められた庭を出ると、ちょっとした坂に出る。

 坂を下ると道路に出て、信号を渡るとまた斜面を下る。そして短い橋に出ると横道の階段を降りて川に着く。

 表面が少し凍っていて、水の流れる音が押し殺され、時が止まっているような感覚になる。

 「将棋は好きか?」 

 しばらく川を眺めていると、じいちゃんが不意にそう言う。

 表情からは何も読み取れなかった。

 「うん!大好きだよ!」

 僕は迷いなく即答する。

 これだけは偽らず、遠回りせずに断言できる。

 だって僕が魅せられたのは将棋なのだ。

 「そうか、それは良かった」

 じいちゃんは瞳を少し湿らせて、本当に嬉しそうにそう口にする。

 この表情を僕はとこかで見たことがある。

 いつだっただろうか?

 「ありがとうな楓真、あの日じいちゃんと将棋を指してくれて」

 じいちゃんは爽やかな顔でそう言うと僕とじいちゃんの昔話を始めた。


 僕が小児喘息を患ったのは生まれて六ヶ月経過した日だった。

 なかなか寝付かずに、小さい声で泣いていた。心配になった母さんと父さんが声をかけるが応答が無く、顔色も悪かった。唇がぶどうのような紫色になっていたらしい。

 母さんが僕を抱き上げ、背中を一定のリズムで優しく叩いてくれた。

 すると呼吸音が普段の音とは異なり、「ゼーゼー」や「ヒューヒュー」といった正常ではない音だった。

 母さんはその音の正体が喘息だと経験から知っていた。母さんは保育士だった。

 それからの動きは迅速で正確だった。すぐさま近くの小児科に連絡すると呼吸器内科に通され、胸に補聴器を当てられ呼吸を確認され、すぐさまネブライザーと言われる機械で薬を蒸気にして吸引させられた。 

 薬特有の鼻を刺激する匂いと、喘息で器官が閉じて苦しいので意識が朦朧としたのを覚えている。

 僕の喘息の症状は重い方で定期的に入院した。外に出ることは困難になって、家引きこもる生活になった。そんな生活が三歳まで続いた。

 三歳になると僕の体調はある程度安定した。だが好転は決してしなかった。

 季節が当たり前のように巡るのと同じように僕は現状維持を繰り返していた。

 母さんと父さんは僕が寝た後に相談をしていた。現状維持をする僕の病状を好転させるために何が出来るのか、それは可能な限り奇麗な空気を吸わせることだった。

 苦渋の選択だった。父さんは東京の企業に勤めていた。

 父さんは鹿児島には来れない。疑似的な単身赴任となる。

 それでも父さんは僕に鹿児島に行け。と言った。

 僕は抵抗した。当時の僕にとって家族が全てだった。父さんと離れ離れになるということは半身が欠損したようなものだった。

 飛行機に乗る前に僕は涙が枯れるまで泣いたのを今でも覚えている。

 泣き疲れた僕が目を覚ましたのは車の中だった。空港からばあちゃん家までは車で一時間以上かかる。

 呆然と車に揺られて着いた家は古い日本家屋で、周りは田んぼに囲まれていた。

 空気が神奈川よりも澄んでいるのは直感的に感じた。

 だが、友達と楽しく遊んだ後の一人で歩く帰路のような喪失感が拭えなかった。

 生活は劇的に変わったわけではなかった。定期的に外に出て軽く運動をし、夜に薬を吸引し、体調が悪くなれば病院に行く。

 僕の人生のレールは齢三歳にして定められたのだと思っていた。

 変化があったのは四歳になってすぐのことだった。

 基本的に僕が話すのは母さんとばあちゃんの二人だった。

 じいちゃんは片方の瞳が濁り、左腕が無かった。

 僕にとって両目が見えるのが当たり前で、腕は二本生えているものだ。

 僕の普通の価値観から外れた存在。加えて顔にいくつか切り傷があり侍のように思えて怖かった。

 転機が訪れたのはとあるテレビだった。

 放送されたのは竜王戦第七局。

 将棋にはタイトルと呼ばれる「竜王」、「名人」、「王位」、「叡王」、「王座」、「棋王」、「王将」、「棋聖」の八つの称号が存在する。

 それぞれの予選トーナメントを勝ち上がり、タイトルホルダーと五または七回番勝負を制することでタイトルを獲得している。

 当時の竜王は王座を五回防衛している高齢の棋士だった。相対するは、現在八つある内の五冠を達成している旭日あさひ棋士。

 基本的に将棋において、本当に強い人間は若いうちから結果を残す。そんな人は老いに伴い衰えはするがトップ争いには食い込んでくる。

 だが、旭日棋士の当時の年齢は35歳。目立った戦歴はなかった。

 旭日棋士は前評判を覆し勝利した。

「……すげえな」

 じいちゃんがテレビに映し出される対局終了後の盤を食い入るように見ているのが印象的だった。

 その目は子供がご馳走を前にしているような輝きと、ライバルが活躍するのを見ているような悔しさ、羨ましさが読み取れた。

 三歳ながらその瞳に宿っているじいちゃんの燃え上がる炎みたいな想いを感じた。

 そして今後一生付き合っていくことになる、予知能力に近い“嫌な予感”を始めて感じた。

 始めての嫌な予感はじいちゃんが竜王戦を見終わり、立ち上がって部屋に戻ろうとした時だった。

 急に部屋の中が広く感じ、急激な孤独感が僕を襲い、俯瞰したような感覚になる。

 背中に冷たくてベタベタした汗が吹き出し、口が乾く。

 この嫌な予感は対象と議題こそ分かるが、答えが分からない。だから自分自身で選択をしなければならない。

 今回の場合は対象はじいちゃんで、議題はこのままじいちゃんが部屋に戻していいのか?だ。

 「……じいちゃん!」

 僕は頭をフル回転させながら乾いた口でそう叫んだ。 

 「どうした楓真?」

 じいちゃんは鋭い両目で僕の目を見ながらそう聞く。 

 僕は怒られている時のような目だと感じて硬直する。

 でも、それでも、次の言葉を言わないといけない。

 自分の恐れや、緊張で言いたいことが言えない人間にはなりたくなかった。

 「将棋ってさ!僕にもできるかな?」

 焦りと緊張でアクセントが変なところで入ってしまったが、じいちゃんに意図は伝わったらしい。

 「駒の動かし方さえ覚えればできる」 

 「そっか、でも僕動かし方分からないや」

 僕がそう言うとじいちゃんは少し視線を逸らし、迷ったように口を閉じる。

 そしてそのまま口を開く。

 「じいちゃんが教えたろか?」

 「うん!」

 僕は元気よく返事をすると、未開の地であるじいちゃんの部屋に入る。

 そこには今と変わらず目立ったものはない。

 ただ、本榧ほんかや基盤がほこりを被っていることぐらいだ。

 本榧基盤は将棋盤の中で最も有名かつ、高級な盤だ。

 本榧は美しい木目と艶に加え、ほどよい弾力性があり、耐久性にも優れている。

 プロの対局で使われる素材だ。

 ただ、盤の厚さは手のサイズより大きく重量がある。左手の無いじいちゃんと四歳の僕が運ぶには難しいものがあった。

 「使うのはこっちだ」

 じいちゃんはそう言って折り畳み式で、厚さの薄い木製の盤を手に取る。

 「少し待っててな」

 じいちゃんはそう言ってパソコンを起動すると二枚の紙を印刷する。

 二枚の紙には駒の並べ方とそれぞれの駒の動かし方が書いてある。

 駒の動かし方は矢印が用いられて非常に分かりやすいものだった。

 「とりあえず、並べるか」

 じいちゃんはそう言って駒を盤に広げる。

 僕はとりあえず近くにあった一番小さい歩兵を手に取る。思っていたよりも駒は軽かった。

 「えっと、これは……」

 「それは歩だな」

 じいちゃんはそう言って歩兵を手に取ると手前から三番目の列に並べる。

 「歩は一つ前にしか進めない駒だ」

 僕がじいちゃんの真似をして歩兵を並べているとじいちゃんはそう説明する。

 「……弱いね」

 僕が思ったことをそのままじいちゃんに言うと小さく笑わられる。

 「確かに歩は単体だと弱い。でも、敵陣に侵入すれば金になる」

 相手から見て三番目以内までの列に入るか、三番目以内の中で駒を動かすと駒が進化する。

 いわゆる、成る。と呼ばれるものだ。

 歩兵が成ると「と金」と呼ばれる駒になり、金と同じ動きが出来るようになる。

 そしてと金は金と同じ役割を持つくせに、倒した時に持ち駒として帰ってくるのは前にしか進まないただの歩兵なのだ。

 まるで敵の時は強かったのに、味方になった途端弱くなるゲームのキャラのような不快さがある。

 「先手と後手を決めようか」

 じいちゃんはそう言って振り駒のやり方を教えてくれた。

 実際に僕が振り駒をして先手後手を決めた。手が小さくて駒をシャッフルするのに苦戦した記憶がある。

 振り駒の結果は歩兵が四枚で僕が先手になった。

 「よろしくお願いします」

 「お、お願いします」

 じいちゃんが正座をして、背筋をピンと伸ばして頭を下げたのを見て僕も慌てて頭を下げる。

 お願いします。は将棋以外でも必須な絶対的な礼儀作法だ。じいちゃんは礼儀を大事にしていた。

 僕は直感的に飛車の前にある歩兵を動かすことにし、駒の先端を中指で左右の側面を人差し指と薬指で押さえ、親指で後方を支えて指した。

 「パチン」

 じいちゃんは人差し指と中指の二本の指で角道の歩兵を挟んで持つと、突き刺すように手首のスナップをかけ、駒の先端を先に盤に当て、人差し指を抜いて駒を指した。

 じいちゃんが当然のようにやった駒を指す仕草は熟練を感じさせるものだった。

 ピアノをやっている人が椅子の距離を調整したり、サッカー選手がボールを見ずにボールを足元に納めるようなのと同じだ。

 僕はその駒の指し方がどうしようもなくカッコイイと感じた。僕は今まで熟練に振れたことが無かった。

 試しに僕は人差し指と中指で駒を挟もうとするが、とてもじゃないが持てない。

 「楓真にはまだ早いな」

 「練習すれば出来るようになる?」

 「……そうだな、練習したら出来るようになる」

 恐らくじいちゃんは、手が小さいから早い。というニュアンスで言ったのだろう。

 ただ僕は初心者だから出来ないのだと思った。じいちゃんは僕に合わせてくれたのだろう。

 「……どうしようかな」

 人差し指と中指で指すことを諦めた僕は、どの駒を動かすかを迷う。

 迷った結果、飛車先の歩兵をさらに前進させる。

 対してじいちゃんは玉の隣にあった金を斜め左に動かし、角に隣接させる。

 僕は勢いそのまま歩兵を前進させ、じいちゃんの角の前にある歩兵の前置く。

 じいちゃんは僕の歩兵を歩兵で取る。将棋の解析では、同歩。と言われるものだ。

 僕の歩兵を取ったじいちゃんの歩兵を飛車で取って、同飛車。

 この時の僕は縦と横に制限なく移動出来る飛車は最強だと思っていた。

 「これならどうする?」

 じいちゃんは少し楽しそうに言いながら、さっき取った歩兵を角の前に置く。

 特に変哲のない手だが僕は頭を抱えた。

 歩兵を取りたいが、取ったら角に隣接した金に飛車が取られてしまう。

 「……むう」

 横に動かそうにも歩兵の軍勢が守っている。

 僕は渋々飛車を元の位置に戻すと、じいちゃんは飛車先の歩兵を突く。

 どうすればいいか分からない僕はじいちゃんの真似をして角道の歩兵を突き、角に金を隣接させる。

 そして問題はこの後だった。何を指せばいいか分からない。

 僕は適当な歩兵を突くが、じいちゃんは飛車側の銀を飛車の後を追うように自陣から前進させていく。

 後から知る話だが、これは棒銀と呼ばれる戦法だ。かなり大人げない。

 じいちゃんは飛車先の歩兵と銀が横に並んだタイミングで飛車先の歩兵を突く。

 僕は同歩として歩兵を取る。さっきまでと同じ展開だが次が違う。

 じいちゃんは歩兵の横にあった銀で歩兵を取った。

 僕は角の前に取った歩兵を置くが、同銀で取られる。

 その銀を金で取って同金。そしてじいちゃんは飛車で金を取って同飛車成。

 飛車は成る龍になる。横と縦は無尽蔵に、斜めは一つだけ動けるようになる。

 正真正銘最強の駒だ。ポーカーでいうジョーカーのようなものだ。

 それからの対局は龍に蹂躙されて終わった。

 「難しい」

 対局が終わると僕はそう呟いた。正直何をやればいいか分からなかった。

 「どうやって指したらいいの?」

 「最初は攻めの形と、王様を囲うんだ」

 「王様を囲う?」

 「王様を守るんだ」

 じいちゃんはそう言うと、左美濃ひだりみのと呼ばれる囲いを教えてくれた。

 基本的に王様は飛車とは反対の位置で守る。突撃兵の元に王様をいさせるわけにはいかないからだ。

 美濃囲いは右側で王様を守る囲いだ。それを左側で囲うから左美濃と呼ばれる。

 左美濃はシンプルだ。左側の銀を前に突き、右側の金を左斜め前に出すだけだ。

 銀、金、金の順でV字の形を作る。そして王様を銀の左まで運べば完成だ。

 「これ強いの?」

 「あぁ、左美濃があるだけで十分攻めづらい」

 じいちゃんはデモンストレーションをするように左美濃を組み、左側に龍を置いて僕に攻めさせる。 

 自分自身が左美濃に攻める側になると硬いことが分かる。

 下側の金は銀が守り、右の金は下側の金が守る。

 それぞれの駒が綺麗に手を繋いで守っている。

 「楓真ならどうする?」

 「金を打つ」

 僕はそう言って右側の金に隣接させるように金を打つ。

 じいちゃんは同金と取り、その金を龍で取って同龍。

 そしてじいちゃんは右側の金があった位置に取った金を打つ。

 「……そうなるのか」

 下側の金に守らなれた金と僕の龍が隣接しているので逃げるしかない。

 逃げると振り出しに戻っただけでなく、じいちゃんの手番になる。

 つまり一手損したことになる。

 「どうやって攻めたらいいの?」

 「基本的には弱い駒を強い駒と交換することだな」

 ここで話題になったのは、と金だ。 

 と金と金や銀を交換できたら最高だ。

 それからしばらく教えられながら将棋を指していたら陽が落ちていた。

 母さんとばあちゃんが帰ってきて夕飯となる。

 そろそろ居間に戻らないといけない。

 「また明日もやろうね」

 「あぁ、また明日だな」

 「約束ね」

 「……約束だ」

 じいちゃんは少し間を置いてそう言った。既に僕はじいちゃんへの恐怖心はなかった。

 この日をきっかけに僕は将棋にのめり込むようになった。

 虫が火に群がるようにのめり込んでいった。

 将棋には完全解が存在しない。先手後手で有利不利があれど、どっちかが百パーセント勝つわけではない。

 どれだけ研鑽を積んだかで盤を彩り、駒を繋いで躍動させる。

 自分自身の頭に全てがかかっている感覚に魅了されていった。

 これが僕が将棋に魅せられた経緯だった。


 「楓真もそろそろ小学生四年生か」

 「うん、四月からだね」 

 じいちゃんと孫の他愛ない話。それなのにじいちゃんの表情は硬い。

 「楓真、神奈川の小学校に行かないか?」

 「え?」

 唐突のことだった。予想してなかった発言に驚く。

 鳩が豆鉄砲を受けた時のような顔だっただろう。

 「神奈川の隣の東京には奨励会っていう場所がある」

 「ま、待ってよ!嫌だよ、僕、じいちゃんと将棋指したいよ!」

 僕は縋るようにそう叫ぶ。

 静かに止まっていた鳥が飛び立ち、水面の氷が少し割れる。

 「もうじいちゃんじゃ相手にならんよ」

 「待ってよ!僕はまだ一回しか勝ってないんだよ!それもギリギリもいいところで!」

 僕は泣きそうになりながらそう訴える。 

 絶対に行かないと、何度も何度も訴える。

 「楓真、じいちゃんはなプロ棋士だった」

 「え?」

 今まで聞いたことがない話だった。衝撃を受けたが、じいちゃんの将棋の強さを考えると妥当だと思った。

 「じいちゃんは竜王になるのが夢だった。でもなれなかった」

 じいちゃんは今まで見せたことのない悲しそうな顔でそう言った。

 その表情は昔を懐かしむような表情だった。

 竜王戦の歴史は長い。1988年から始まっていることから考えればじいちゃんが現役だったころにもタイトル戦はあった。

 「じいちゃんの代わりに楓真が竜王になってくれないか?」

 竜王とはタイトルの中で名人に次いで歴史が長く、賞金は全タイトルの中で最高額の4400万円。

 全ての棋士が最も力を入れて戦うタイトルだ。

 この重みが痛いほど分かっているじいちゃんがそう言った。

 嫌な予感とは別の鳥肌と汗が出る。これは呪いだと直感的に理解する。

 「うん、僕が竜王になるよ!」

 いろいろ感じた中で僕が一番に思ったのは、じいちゃんに恩返しをしたいだった。

 僕に将棋を教えてくれた師匠なんだ。

 僕が竜王になることでじいちゃんを喜ばせたい。そう本気で思った。

 「ありがとう、楓真」

 じいちゃんはどこか安心した顔でそう言った。

 それからの日々は目まぐるしかった。

 母さんもそろそろ神奈川に戻ってもいい頃だと思っていたらしく、引っ越しの準備は早く終わった。

 僕が転校する学校を決め、僕は通っていた小学校の友達にお別れをした。

 同学年は六人しかおらず、男女問わず仲がよかった。僕は恥ずかしいという感情をかき消すほどの寂しさで大泣きした。

 諸々の手続きは一ヶ月程度で終わり、三月の頭に鹿児島を出ることになった。

 「僕、竜王になる」

 僕は鹿児島を出発する前に改めてそう宣誓する。

 「ありがとうな楓真」

 じいちゃんは少しだけ瞳を揺らしながらそう言った。

 これから僕は人生の全てを懸けて竜王を目指す。

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