第8話 北の崖の鳴石と、青い欠片

 その夜。夕鐘が遠くで三度鳴り終わるころ、六人はヴァルノの北門を抜けた。城壁の外は風が冷たい。街の灯りが背中で小さくなるほど、足元の黒い薄が目立つ。道端の草が、霧の端で濡れて光っていた。


  ネマーニャは出発前、寺院の前で紙を三枚配った。一枚目には、北の崖の絵。二枚目には、穴の開いた修道院の絵。三枚目には、青い欠片の絵と、指を三本立てた手。夕鐘が三度鳴ったら歩く、という合図だ。紙は言葉より薄い。けれど霧が「明日」を食べても、紙の線は残る。


  ヘルマンが鎧の胸当てを指で叩き、歩幅を決める。カチャ、……カチャ、……カチャ。ベルジャコフはその間に合わせて手拍子を小さく打った。パン、……パン、……パン。笑い声を出さない拍手。笑いの形だけを残す。スビツァは薬草袋を開け、風上へ香りを流した。鼻に抜ける草の匂いが、胸の奥のざわつきを少し鈍らせる。


  ローマーは包帯の指でリュートの縁を押さえ、三つの音を返した。コツ、……ひょろ、……コツ。間抜けな返事なのに、返した瞬間、胸の影が少し黙った。誰かの合図に答えると、「ひとりじゃない」が確かになる。


  シェイフは歩きながら、肩の袋を抱え直した。市場で果物屋にもらった赤い実が二つ、転がらないよう布でくるんである。腹が鳴るたび、シェイフは赤い実を見て、口を尖らせて我慢する。ベルジャコフが「今は食べないのえらい」とでも言うように親指を立て、シェイフは照れたように鼻をこすった。


  街道が森へ入ると、霧の色が濃くなった。木の根元に溜まり、足首へ絡む。絡むだけではない。絡んだ霧は、耳元で囁くみたいに音を立てない。言葉がないのに、頭の中だけが勝手に忙しくなる。


  ――北はこっちだっけ。

  ――さっきの分かれ道、曲がった?

  ――紙はどこにしまった?


  ローマーが立ち止まりかけた瞬間、ネマーニャが自分の紙を高く掲げた。月明かりで線が浮かぶ。彼女は紙の端を指で折り、折った角を北の方向へ向ける。道標の代わりだ。ローマーは息を吐き、もう一度足を出した。


  そのとき、霧が一度だけ濃くなった。

  視界が薄黒い布で覆われ、足元が見えなくなる。ヘルマンの鎧の金色も鈍る。ベルジャコフの手拍子が小さくなる。拍が崩れかけた瞬間、スビツァが指を鳴らした。パチン。乾いた音が森に刺さる。ネマーニャが紙を擦った。サッ、……サッ。ローマーが胴を叩いた。コツ。音が揃うと、霧が「入る隙」を失い、布みたいにたわんで横へずれた。


  視界が戻った先に、崖があった。


  崖の縁には、崩れた石壁と、半分だけ立っている尖塔がある。穴の開いた修道院だ。風が穴を抜けて、低い笛みたいな音を出している。黒い薄が穴の周りで渦を巻き、足を踏み入れた者の胸の奥を探るように揺れていた。


  ネマーニャが紙へ丸を描き、丸の中に青い点を置いた。青い欠片は中だ、と言いたい。スビツァが崖下の湿った苔を指で触り、指先を嗅いだ。湿りが強い。滑る。ヘルマンは鎧の留め具を確かめ、ベルジャコフは鍋の蓋の代わりに木桶の蓋を拾って胸に当て、盾の真似をした。シェイフは拾った木片を振って「これ、武器?」みたいな顔をしたが、スビツァに視線だけで止められた。


  修道院の中へ入ると、床の石が白く光っていた。月光ではない。石そのものが、冷たい光を返している。中央の床に、丸い石の台座があり、その上に青い欠片が刺さっている。欠片は氷みたいに透け、風を吸って静かに震えていた。


  ローマーが一歩近づくと、霧が床から立ち上がった。

  薄い壁が、台座の周りで円を作る。円の内側へ入ると、胸が重くなる。重くなるだけではない。思い出そうとした言葉が、舌の上でほどける。今何をしに来たのかが、霧の向こうへ滑っていく。


  ローマーは自分の袖を掴んだ。掴んだまま、声を絞った。

  「……青、だ。青を……取る」


  言い直すたび、言葉が少し固くなる。ベルジャコフがすぐ、笑いの形で頷き、口元だけで歌みたいに短く「ラ」と鳴らした。小さな一音。歌というより息。けれど、その息があると、円の内側の重さが少しだけ薄くなる。


  ネマーニャは紙を破って短い札を六枚作り、それぞれに絵を描いた。青い欠片の絵、リュートの絵、鎧の絵、指鳴らしの絵、手拍子の絵、石を叩く絵。札を縄で繋ぎ、ローマーの手首へ巻く。忘れるなら、腕に結ぶ。


  スビツァが床の端の石を指した。円の外側に、叩くと澄んだ音の出る鳴石が並んでいる。ローマーが指で触ると、石は金属みたいに冷たかった。シェイフがつい木片で叩いた。カン。澄んだ音が跳ね、霧の壁がびくりと揺れた。シェイフが目を丸くし、木片を持ったまま固まる。ベルジャコフが肩を震わせて笑いそうになり、慌てて口を押さえた。


  「いい音だ。……腹じゃない」


  ローマーが呟くと、シェイフは胸を張った。胸を張った瞬間、腹が鳴って自分で肩を落とす。ヘルマンが鎧を鳴らし、ベルジャコフが手拍子で拍を戻す。スビツァが指を鳴らす。ネマーニャが紙を擦る。ローマーが胴を叩く。鳴石がカンと返す。


  六人の音が揃ったとき、霧の壁が薄くなった。


  ローマーは円の中へ踏み込んだ。足が重い。頭がぼんやりする。けれど手首の札が、絵で引き戻す。ローマーは台座へ両手を伸ばし、青い欠片を掴んだ。冷たい。指先が痛い。痛いのに離したくない。


  霧が最後に抵抗するように、ローマーの耳元へ滑り込んだ。

  ――弾けない。――下手だ。――無理だ。

  胸の影が、霧の言葉を借りて喋る。ローマーは歯を食いしばり、欠片を引き抜いた。引き抜いた瞬間、鳴石の音が一段高く響き、霧の壁が裂けた。


  ベルジャコフが「今!」とでも言うように大げさに頷き、短い「ラ」をもう一度鳴らした。ヘルマンの鎧がカチャと鳴り、スビツァの指がパチンと鳴り、ネマーニャの紙がサッと鳴り、シェイフの鳴石がカンと返し、ローマーのリュートがコツと答えた。


  霧が、床へ落ちた。落ちた霧は薄い布みたいに広がり、穴の開いた壁の風に煽られて外へ流れていく。ローマーは青い欠片を胸に抱え、息を吸った。吸った息が、さっきより深い。


  ネマーニャが青い欠片を紙の上へ置き、欠片の輪郭をなぞった。その横に、残り四つの丸を描く。ベルジャコフは桶の蓋を盾みたいに振り、ヘルマンは鎧の肩で鼻歌の拍を取る。スビツァはローマーの包帯の上へ、また一滴だけ油を落とした。シェイフは青い欠片を見て、腹を押さえながらも目だけで笑った。


  修道院の穴から、夜風が吹き抜けた。

  冷たいのに、どこか新しい匂いがした。ローマーは欠片をリュートの胴へそっと当てた。木が、ほんの少しだけ温かく震えた気がした。

  外へ出ると、崖の上の空は星が近かった。ヴァルノの灯りがもう見えない。代わりに、遠い村の窓灯りが点で揺れる。ネマーニャはその灯りを数え、紙に点を写した。点が並ぶと、帰り道が「線」になる。線があれば、霧が明日を食べても足が止まりにくい。


  ベルジャコフは拾った枝を並べ、風除けの壁を作った。作りながら、枝の先で地面へ丸を描き、そこに鼻の絵を付ける。鼻歌、の印だ。ヘルマンが笑って鎧を脱ごうとすると、スビツァが首を横に振った。夜の冷えは甘くない、と言いたげだ。ヘルマンは渋々肩当てだけ緩め、代わりに鎧の内側へ布を詰めて音が鳴りすぎないよう工夫した。


  シェイフは我慢しきれず、赤い実をひとつ取り出した。食べる前に、ローマーへ半分差し出す。ローマーは首を振ったが、シェイフは引かない。ベルジャコフが後ろからシェイフの頬をつねり、ネマーニャが紙に「半分」の絵を描いて見せる。ローマーは観念して受け取り、ひと口だけ齧った。甘さが舌へ広がり、胸の奥の影が一瞬だけ薄くなる。シェイフはそれを見て満足そうに頷き、残りを一気に頬張って、腹を押さえて転がった。


  スビツァが小さな湯を沸かし、薬草を一片だけ落とした。香りが立ち、全員が同じタイミングで息を吸う。息が揃うと、今日の「北の崖」が、ちゃんと今日の中に収まる。明日へ逃げない。ローマーは青い欠片を布へ包み、ネマーニャの縄の結び目を確かめ、リュートを抱いて背中を地面へ預けた。


  風の音が穴を抜け、遠くで笛みたいに鳴る。ローマーはその音に合わせて、胴を三つ叩いた。コツ、……ひょろ、……コツ。ベルジャコフが小さく「ラ」と返し、ヘルマンの鎧がかすかに鳴り、シェイフが寝返りの拍で鳴石を蹴ってカンと鳴らし、全員が同時に肩を震わせた。笑い声は出さない。けれど笑いの形が、崖の夜を少しだけ柔らかくした。


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2026年1月2日 07:35
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弾けないリュートで明日を取り戻す mynameis愛 @mynameisai

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