第7話 市場の騒ぎと、鍋の蓋の盾

 翌朝。ヴァルノの市場は、朝日が屋根瓦を温める前から、人の声で煮立っていた。干し肉の匂い、焼き菓子の甘さ、魚の内臓の生臭さ。匂いが重なるほど、言葉が分からなくても「ここは生きてる」と分かる。けれど、今日は違った。


  黒い薄が、屋台の足元をゆっくり舐めている。

  薄い霧は、布の切れ端みたいに軽く見えるのに、人の顔だけを重くする。笑っていたはずの男が急に険しい目になり、握った手がほどけない。声が大きくなるほど、霧が濃くなる。


  市場の中央で、商人が二人、胸ぐらを掴み合っていた。片方は果物屋で、もう片方は布屋らしい。果物の籠が倒れ、赤い実が石畳を転がる。布屋の方は、巻いた布を杖みたいに振り回し、果物屋の肩へ叩きつけようとする。


  果物屋が怒鳴る。布屋も怒鳴り返す。

  言葉は分からない。だが、二人の口から何度も同じ音が出ているのが見えた。約束、のような音だ。約束したはずなのに、何を約束したかが抜け落ちている。抜け落ちた穴に、霧が入り込んで膨らんでいく。


  ローマーは足を止めた。胸の奥の影が、昨日より早く顔を出す。

  ――仲裁しても無駄だ。――また失敗する。――叩いても届かない。

  影が言葉を増やし、息が浅くなる。


  その影の上を、ヘルマンが踏みつけた。

  ヘルマンは二人の間へ突っ込み、鎧の胸当てを太陽へ向けた。ぱん、と光が跳ね、布屋が反射で目を細める。次の瞬間、ヘルマンは鎧の肩当てを叩き、わざと大きく鳴らした。カチャ、カチャ。音が市場に響き、周りの視線が一斉に集まる。


  「ほら! こっち見なさい! 殴り合いより私の鎧が先!」


  言葉は届かない。けれど「見る方向」を変えるだけで、拳の勢いが少し鈍る。布屋の手が止まり、果物屋の握り拳がほどけかけた。そこへ、ベルジャコフが屋台の裏から飛び出した。


  ベルジャコフの手には、でかい鍋の蓋があった。まだ湯気の匂いがする。屋台の料理人が「おい!」と叫んだが、ベルジャコフは振り返らない。鍋の蓋を胸に構え、まるで城壁の盾みたいに前へ出る。果物屋の腕が振り下ろされても、蓋が受け止める。ガン、と鈍い音が鳴った。


  ベルジャコフはその反動でよろけ、わざと大げさに尻もちをついた。尻もちをつきながら、鍋の蓋を頭にかぶせて亀みたいに丸まる。周りの人が一瞬、ぽかんとした顔をして――次の瞬間、笑い声が漏れた。


  笑いが出た隙間へ、霧が伸びかける。

  だが、ベルジャコフは笑わせるのを止めない。鍋の蓋の縁から顔だけ出し、目を寄せて「私、今、鍋の中?」みたいな顔をする。ヘルマンが耐えきれず肩を震わせ、鎧がカチャと鳴った。鳴った音が、笑いの拍になった。


  ネマーニャはすぐ動いた。地図筒の底から紙を何枚も出し、炭で大きな字を書く。果物の絵、布の絵、その下に矢印と数字。取引の順番と量を、見える形にしたのだ。ネマーニャはそれを柱へ貼り、二人の商人の前へ指で示す。


  布屋の眉が動く。果物屋の肩が少し下がる。怒鳴り合いの言葉が、紙の上の矢印へ逃げ道を作られる。ネマーニャは次の紙に、手を握り合う絵と、明日の四角を二つ描いて、片方を薄く消した。明日が抜けるなら、今日の約束を紙に残す。そう言っている。


  ローマーはその紙を見て、壁画の欠片の並びを思い出した。六つの音。霧を裂く拍。胸の影が「今さら」と囁く前に、スビツァがローマーの包帯の上へ指で軽く触れた。触れたまま、昨日の間隔を、空中に三つ刻む。


  コツ、……コツ、……コツ。


  ローマーはリュートを抱え、胴の縁を叩いた。コツ。次に、弦をひとつだけ弾いた。ひょろい音。最後に、胴をもう一度叩く。コツ。三つの音が、市場のざわめきの隙間へ落ちる。


  霧が、ほどけた。

  霧が引いた途端、止まっていた市場が一気に動き出した。人は動けば腹も動く。さっきまで怒鳴っていた客が、いきなり値切りを始める。値切りの声が大きくなると、霧がまた影の縁でうずく。ローマーはぞっとして、リュートを抱え直した。


  ネマーニャは、すぐに「声が大きくなる前の手」を動かした。紙の端をちぎって札を作り、果物の絵、布の絵、肉の絵を描く。札に数字を書き、列の先頭の客へ渡す。客は最初きょとんとしたが、隣の客が覗き込み、次の客が真似して列に並ぶ。紙があると、順番が目に見える。順番が見えれば、怒鳴らなくて済む。


  ベルジャコフは鍋の蓋を盾にしたまま、列の横へ立った。盾を構える姿はやたら勇ましいのに、顔は「私、今、守ってる? 守ってるよね?」みたいに不安そうだ。列の客がくすっと笑い、ベルジャコフは勝ち誇ったように胸を張る。胸を張った瞬間、蓋がずれて頬に当たり、ベルジャコフが「痛っ」と声を漏らした。列がまた笑う。笑いが続くあいだ、霧は伸びにくい。


  ヘルマンは列の先頭へ行き、鎧の肩当てを三回、一定の間で鳴らした。カチャ、……カチャ、……カチャ。合図だ。騒ぐな、の合図ではない。始めるよ、の合図だ。ローマーはその間に合わせ、胴を叩いて三音を返した。コツ、……ひょろ、……コツ。間抜けな返事なのに、合図が返ると場が落ち着く。人は、合図があると待てる。


  スビツァは屋台の端で、小さな袋を開けて香りを漂わせた。鼻に抜ける草の匂いが、熱くなった頭を少し冷ます。苛立った顔の客が鼻を鳴らし、次に、肩の力を抜いた。スビツァは表情を変えないまま、袋の口を閉じる。やりすぎない。効きすぎると、今度は誰かが頼りたくなる。


  シェイフは札を配る係になった。走るたび腹が鳴るのが本人には不満らしく、腹を押さえながら必死に走る。走っているのに、途中で落ちた果物を拾い、持ち主へ戻す。戻した直後、拾った手を自分の口へ持っていきかけ、ネマーニャの視線に気づいて慌てて引っ込めた。ベルジャコフが「今の顔!」とでも言いたげに指を差し、シェイフが耳まで赤くする。列がまた笑う。


  笑いが続いたおかげで、黒い薄は影の縁でふにゃりと沈み、足元へ伸びられなかった。


  布の端が引っ張られるみたいに、黒い薄の角がゆらりと崩れる。足元を舐めていた霧が引き、石畳の模様がはっきり見えた。二人の商人が、同時に息を吸い、同時に吐いた。怒鳴り声が、言葉になる前に小さくなる。


  ベルジャコフが鍋の蓋を脱いで、汗だくの顔で親指を立てた。ヘルマンも眩しい笑顔で親指を立て、鎧を軽く鳴らす。ネマーニャは紙を指で叩き、スビツァは薬草袋の紐を結び直した。シェイフは、いつの間にか転がっていた赤い実を拾い、持ち主へ両手で戻した。戻したあと、自分の腹を押さえて、目だけで「食える?」と聞く。


  果物屋が、しわだらけの手でシェイフの頭を軽く叩いた。昨日の老人と同じ叩き方だ。怒っているのに、叩き方が優しい。シェイフは鼻をこすり、へらっと笑った。果物屋は赤い実をひとつ、シェイフの手に押し込んだ。シェイフは驚いて固まり、次に、ゆっくり頭を下げた。


  ローマーの胸の影が、また少しだけ黙った。

  明日が抜けるなら、紙に残す。笑いが切れそうなら、音で繋ぐ。全部完璧にはできない。けれど、今日の市場の匂いは、昨日より少しだけ軽かった。


  ネマーニャが紙を畳み、地図筒へしまう。しまう前に、取引の順番の紙をもう一枚書き、商人へ渡した。商人は何度も頷き、紙を胸へ押し当てる。ヘルマンが鎧の胸を叩き、道を示すように塔の方角へ顎を上げた。


  「夜になったら、北へ行く。腹ごしらえも忘れない」


  ベルジャコフが鍋の蓋を料理人へ返しながら、両手で大げさに謝る。料理人が眉を吊り上げるが、すぐに笑って蓋を受け取った。笑い声が市場へ広がり、黒い薄が影の縁へ押し戻されていく。


  六人は、赤い実の甘い匂いを背に、寺院の白い塔を目指して歩き出した。足音が揃うと、胸の中の呼吸も揃う。十五日のうちの一日が、確かに残った。


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