第6話 巻物の図と、「未来の闇を払う者」
夕方。白い塔の影が長く伸びるころ、六人は寺院の石段を上がった。塔の鐘は薄い金属音で、街の喧騒を上から撫でる。門の内側に入った瞬間、外の香辛料の匂いがふっと薄れ、代わりに冷えた石と蝋の匂いが鼻へ入った。
「静かに歩ける? 鎧の人」
ベルジャコフが小声で笑いながらヘルマンの胸当てを指でつつく。ヘルマンは「当然よ」と言いたげに胸を張った。次の一歩で、鎧がカチャ、と鳴る。ベルジャコフがすぐ両手で口を塞いで「今のは私が鳴らした」とでも言うように目を丸くした。ヘルマンは口の端を上げ、わざとらしく足をすり足に変えた。今度は鎧ではなく、石床がキュッと鳴った。
シェイフが腹を押さえ、寺院の壁に刻まれた果物の彫刻を指差した。指差しただけで唾を飲み込む。スビツァが視線だけで「後」と告げる。シェイフは頬を膨らませて頷き、すぐに息が漏れる。腹がまた鳴った。音が寺院に響いて、本人が一番驚いた顔になった。
案内役の若い僧が、眉をひそめて振り返った。ネマーニャはすぐ紙を出し、腹の絵と、空っぽの皿の絵を描き、最後に小さく祈る人の絵を付け足した。腹は空でも失礼はしない、と言いたいのだろう。若い僧は一瞬だけ口元を緩め、扉を開けた。
図書室だった。棚が高い。巻物の匂いが濃い。空気の中に、古い紙の粉が漂っている。ベルジャコフが一歩踏み出した瞬間、床板がぎしっと鳴り、埃が舞った。シェイフが鼻をむずむずさせ、くしゃみを堪える顔をする。堪えたまま、頬がぷるぷる震える。
「……ふんっ!」
結局、くしゃみが出た。音が大きい。若い僧が肩を跳ね、ヘルマンが「今のは敵の奇襲!」みたいに腕を広げた。ベルジャコフが腹を抱えて笑いそうになるのを、両手で必死に押さえる。笑いが漏れたら床の黒い薄が寄ってくる。昨日の路地で学んだばかりだ。
ネマーニャは笑いを飲み込み、中央の机へまっすぐ向かった。そこに、埃だらけの巻物が束ねられている。紐をほどく手が、少しだけ震えていた。ローマーは何も言わず、隣の椅子を引いた。椅子の脚が擦れる音が小さく響く。ネマーニャはそれを聞いて、ほんの少し肩の力を抜いた。
巻物が広がる。黄ばんだ紙の上に、太い線で描かれた楽器があった。丸い胴、短い首、弦の並び――ローマーのリュートと同じ形だ。ネマーニャが指先で胴の輪郭をなぞり、次に壁を指した。
壁画にも、同じ楽器が描かれていた。しかも、胴の横に小さな欠片が五つ、色違いで並んでいる。青、紫、白、黒、赤。欠片の下には、丸い印が六つ並び、そこから波線が伸びていた。音の数だ、と直感で分かる。
ネマーニャは巻物の文字を追い、途中で一度だけ唇を噛んだ。声に出さないのに、読み上げるリズムだけが机の上に落ちる。スビツァが背後から覗き込み、指である一行を叩いた。そこに大きな文字があった。
「未来の闇を払う者」
スビツァの口がその形を作った。ローマーには意味は分かるのに、文字は読めない。その悔しさが喉へ上がる前に、ベルジャコフが紙をひらりと差し出した。ネマーニャが頷き、翻訳するみたいに絵を描き始める。
まず、黒い霧の絵。次に、カレンダーみたいな四角の並び。その上に、×の印。最後に、小さな人が座り込み、頭の上から紙が剥がれていく絵。明日が抜き取られる、ということだ。
ローマーの胸の奥が、ひやりとした。森で目を覚ましたときの空白が蘇る。あの空白が、街全体へ広がる――。
ネマーニャは紙の端に、日付らしい記号を写した。丸と線、点の組み合わせ。彼女は自分の指を三本立て、次に片手を広げて五本立てた。三と五。さらに、塔の絵を描き、鐘を三つ付け足した。
「あと十五日、夕鐘が三度鳴るころ」
ネマーニャは日本語では言えない。けれど、数字の指と絵で伝えた。ローマーは喉が鳴るのを感じ、唾を飲み込んだ。
ベルジャコフが慌てて笑いの形を作ろうとした。口角を上げ、頬を指で持ち上げる。笑え、笑え、と自分に命令している顔だ。ヘルマンも胸を張り、鎧を指で二度鳴らした。コン、コン。落ち着け、と言っているようだった。シェイフは腹を押さえたまま、なぜか真顔で頷き、次に「腹が減っても明日は来るのか」とでも聞きたげに目を泳がせた。
スビツァが巻物の別の行を指した。そこには短い句があり、ネマーニャが紙へ写す。
「五つの欠片が木の腹を目覚めさせ、六つの音が未来の闇を裂く」
ローマーはその紙を見つめ、背中のリュートへ手を伸ばした。木の胴を抱えると、さっきより重い。重さが怖いのではない。重さが「役目」みたいに感じるのが怖い。
ローマーは、胴の縁――スビツァが昨日示した場所を、指で押さえた。コツ、……コツ、……コツ。三つ。間を揃えて叩くと、机の上の埃が震え、壁画の欠片の絵の辺りで、黒い薄がほんの少しだけ揺れた。
若い僧が目を見開き、口元を押さえた。音は小さいのに、霧が反応するのを見たのだろう。ベルジャコフがすぐ、同じ間で手を叩いた。パン、……パン、……パン。ヘルマンは鎧の留め具を軽く叩き、スビツァは指を鳴らし、シェイフは机を叩こうとしてネマーニャに手首を掴まれた。シェイフが「今のは腹じゃない!」みたいな顔で抗議し、ベルジャコフが危うく笑い声を漏らしかける。
ネマーニャは笑いを飲み込みつつ、巻物の端に描かれた地図を指した。北の崖、穴の開いた修道院の印。そこへ矢印が引かれ、青い欠片の絵が添えられている。スビツァが頷き、ローマーは頬の内側を噛んでから、静かに息を吐いた。
怖さは消えない。だが、紙の上の矢印は、空白よりずっと親切だ。ローマーはネマーニャの震える指先の近くへ、自分の指を置いた。触れない。けれど、逃げない距離。
ネマーニャがローマーを一度見て、紙の端へ小さな丸を描いた。仲間、の印だ。ローマーはその丸の横に、下手な波線を一本足した。音、の印だ。
若い僧は、動揺したまま棚の影へ消え、すぐ戻ってきた。木皿に乾いた果物と、薄い干しパンが乗っている。シェイフの目が一瞬だけ輝き、次の瞬間、手を引っ込めた。先に差し出したのはローマーではなく、ネマーニャだった。ネマーニャは果物を半分に割り、若い僧へ戻すように差し出す。受け取れ、というより「ありがとう」を形にした仕草だった。
若い僧は戸惑いながらも受け取り、胸の前で両手を合わせた。目が少し潤んでいる。言葉は分からない。けれど「明日が消える」の怖さは、同じ顔をしていた。
ベルジャコフは干しパンをひとつ取り、わざと大げさに硬さを確かめた。歯で噛もうとして「無理!」と肩をすくめ、拳で叩いて割る。パキッ。音が思いのほか響き、全員が一斉に壁際を見る。黒い薄が、棚の下でむくりと盛り上がった。笑いの切れ目を嗅ぎつけたみたいに。
ヘルマンがすぐ鎧を鳴らし、明るい顔で大げさに胸を張った。カチャ、カチャ。音が派手で、しかも間が一定だ。スビツァがそれに合わせて指を鳴らす。ネマーニャは紙を一枚ちぎり、指で擦ってサッ、……サッと音を出す。ベルジャコフは割れたパンを持ち上げ、噛めないのに噛んだふりをして頬を膨らませ、シェイフがそれを見て肩を震わせる。
笑い声は出ない。けれど笑いの形が、部屋の空気を少し軽くする。黒い薄は棚の下へ引っ込み、若い僧がほっと息を吐いた。
ローマーは自分の手のひらを見た。豆が硬くなり、包帯の下で熱を持っている。これで何ができるのか。胸の影がまた囁きかけたとき、スビツァがローマーの手をちらりと見て、黙って自分の薬草袋を差し出した。中から、油の匂いのする小瓶を出し、ローマーの包帯の上から一滴だけ落とす。沁みるほど少量。だが指の動きが少しだけ滑らかになる。
ローマーは礼を言えない代わりに、リュートの胴を軽く叩いた。コツ。スビツァは口元だけで笑った。笑ったように見えた。それだけで、胸の影が少し黙った。
塔の鐘が、外で三度鳴った。
六人は同じタイミングで息を吸い、同じタイミングで吐いた。明日を取り戻すために、まず今夜の呼吸を揃えた。
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