第3話 酒場の即席舞台と、先喰い霧
その日の夕方、交易都市ヴァルノの通りは、鍋と汗と香辛料の匂いが入り混じっていた。城壁の内側だけで天気が変わったみたいに、人の声が反射してやたら近い。荷車の車輪が石畳を叩き、呼び込みの鈴が鳴る。ローマーは肩のリュートを押さえながら、周りに流されないよう歩いた。
ネマーニャは地図筒を抱え、角を曲がるたびに紙へ目を落とす。屋台の影でいったん立ち止まり、指先で線をなぞって、次に進む方向を決める。言葉が分からない場所でも、段取りだけは迷子にならない。ローマーが腹を押さえると、ネマーニャは屋台の鍋を指し、首を横に振った。値段が高い、とでも言いたげだ。代わりに、通りの奥の赤い灯りを指差した。
看板には、読めない文字と、泡立つ木のジョッキの絵。扉を開けた瞬間、熱い空気が頬へ当たった。笑い声と、皿がぶつかる音と、煮込みの湯気。ローマーの喉が勝手に唾を飲み込む。
だが、床の隅で、黒い薄がひっそり這っていた。
客は気づかないふりをしているのか、気づけないのか。笑っていても、笑い終わった顔がすぐ重くなる。目の下に影が落ち、肩が縮む。ローマーは背中のリュートを撫で、指先の痛みで自分を繋ぎとめた。
奥の壁際で、椅子が積み上がった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。乱暴に置けば崩れるはずなのに、積み方が妙に丁寧だ。椅子の脚がまっすぐ揃い、背もたれが同じ向きを向いている。その上に、木板が一枚、橋みたいに渡された。
「ほら、これで舞台。落ちないようにねー!」
明るい声が飛んだ。女がひとり、袖をまくっている。肘のあたりに粉がついていて、さっきまで厨房でも手伝っていたのだろう。女は椅子のぐらつきを指で確かめ、最後に板を両手で叩いて「よし」と頷いた。
ローマーとネマーニャが近づくと、女はすぐ席を詰めてくれた。空いた椅子を二つ引き寄せ、テーブルの端を指で叩く。座れ、の合図だ。ネマーニャが小さく会釈し、ローマーも真似して頭を下げた。
店主らしい男が近づいてきて、手を広げ、指を擦った。金、のジェスチャー。ネマーニャはポケットを探って、何もないと見せる。ローマーも同じだ。二人そろって情けない顔をしていると、女が腰に手を当て、店主へ早口で何か言った。口調は軽いのに、目は外さない。店主は眉をひそめ、女と目で押し問答をしてから、渋々頷いた。
女はローマーのリュートを見て、両手をぱっと開いた。弾け、の合図。ローマーは慌てて首を横に振り、指を見せる。豆が潰れかけて赤い。女は「それなら」と言うように、手を叩いた。パンッ、パンッ。拍手が二つ鳴った。
「あなたは鳴らすだけでいい。上手くなくていい。客は笑う。笑ったら、今夜は腹が満ちる!」
言葉は全部分からない。けれど、腹のところを指して笑う仕草は、世界共通だった。ローマーは目を泳がせ、ネマーニャを見る。ネマーニャは紙を取り出し、短い線を二本引いた。舞台の絵。その横に、ジョッキの絵。さらに、皿の絵。最後に、丸を描いて親指を立てた。
――やるしかない、ってことか。
ローマーは舞台へ上がった。椅子がきしむ。下の客が「おっ」と声を上げ、誰かがジョッキを机へ叩きつけた。女は舞台の端で、司会みたいに腕を振り回す。客の視線を集め、笑いを呼び込む動きだ。女が胸を叩いて名乗り、指で自分を指してから、ローマーの方を指した。
ローマーは、なんとなく胸を叩き返し、口を開いた。
「ローマーです。……えーと、弾けません」
誰も日本語は分からない。けれど、ローマーが真面目な顔でリュートを抱え、次の瞬間、弦をつまんで「痛っ」と跳ねた。客が先に理解した。笑いが起きる。女も腹を抱えて笑い、舞台の板が少し揺れた。
ローマーは助けを求めるように、女を見る。女は目尻の涙を拭き、手を叩いてリズムを作った。パン、パン、パン。客も真似して叩き始める。酒場の空気がひとつの拍に揃う。
ローマーは、その拍に合わせて、弦を軽く弾いた。痛みが走る。音は頼りない。情けないくらい細い。だが客は、細さを面白がるように笑った。誰かが「もっと!」と叫び、さらに拍手が増える。
その瞬間、床の黒い薄が動いた。
笑い声が途切れた隙間から、薄い霧がすっと伸び、テーブルの脚を舐める。笑っていた男の口角が落ち、目が泳ぐ。女がそれを見て、笑い声を絶やさないように、腕を大きく回した。客を煽る。客は笑う。だが霧は、笑いの切れ目を探すように這う。
ローマーの胸の奥に、あの影が顔を出した。
――結局、無理だ。――笑いはすぐ終わる。――明日は来ない。
影が言葉を増やす。喉が乾く。指が震える。ローマーは、拍手の音が遠くなるのを感じた。
そのとき、舞台の板が、きゅっと鳴った。
女が足を踏み替え、椅子の脚が少しずれたのだ。ローマーは反射でリュートの胴を抱え直し、木を掌で叩いた。コツン、と鈍い音が響く。弦ではない。木の腹の音。
黒い薄が、波を打った。
ほんの一瞬。床を這っていた霧の端が、布みたいに揺れ、足元から離れた。客の視線が戻り、誰かが「今の何だ?」と笑い混じりに叫ぶ。女は、その揺れを見逃さなかった。女の目が、霧からローマーの手へ、そしてリュートの胴へ移る。次に、客の拍手へ移る。
女は口を大きく開けて笑い、わざとらしく肩をすくめた。客がまた笑う。笑いが重なる。ローマーは胴をもう一度叩いた。コツン。霧がまた揺れる。今度は揺れが少し長い。
ネマーニャがテーブルの端で、紙へ大きく丸を描いた。丸の中に、小さな波線。音で揺れる。視線がローマーの指先へ落ち、ネマーニャはそっと自分の包帯を差し出した。ローマーは受け取り、指の腹へ巻きつける。痛みが、少し鈍くなる。
酒場の空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
重い鍋の匂いが、ただのうまい匂いへ戻る。客の肩が上がり、誰かが隣の背中を叩いて笑う。霧はまだ床にいる。けれど、這う速度が遅くなった。
舞台が終わると、店主が渋い顔のまま皿を並べた。煮込み肉の湯気が立ち、パンが添えられる。ローマーは箸の代わりの木匙を握り、まず匂いを吸い込んだ。腹の奥が熱くなる。ネマーニャも黙って食べ始め、食べる速度がゆっくり落ちていく。食べながら周りを見る癖が、段取りの一部なのだろう。
女――ベルジャコフは、ローマーの向かいに勝手に座った。ジョッキを置き、指で床を指す。次に、リュートを指す。最後に、自分の胸を叩く。
「見た。今の。……私も、行く」
言葉は短い。だが、テーブルの上へ小さな銀貨を二枚置いた。店主への支払いだ。ベルジャコフはそれを店主へ押し出し、ローマーたちへは皿を押し出した。食え、と言っている。ローマーは慌てて首を振り、銀貨へ手を伸ばすが、ベルジャコフは手の甲で軽く叩いて止めた。
「今夜、笑った。明日も笑う。だから、いい」
ローマーは言葉が通じないまま、胸が少しだけ詰まった。助けられるのは、いつだって急だ。礼の言い方が間に合わない。代わりにローマーは、包帯を巻いた指で、ぎこちなく親指を立てた。ベルジャコフは同じように親指を立て、笑った。
外へ出ると、夜の石畳は冷え、黒い薄が路地へ溜まっていた。酒場の扉が閉まった途端、笑い声が遮られ、霧が濃くなる。ベルジャコフは前を歩き、迷いなく細い道へ曲がる。ネマーニャは一瞬立ち止まり、地図筒を抱え直してから追った。ローマーもリュートを抱え、二人の背中を見失わないように歩く。
路地の奥で、子どもの咳が聞こえた。
乾いた音。息が短い。誰かが低い声で「大丈夫」と繰り返すが、返事が弱い。霧がその場だけ濃く、灯りが沈んでいる。
ベルジャコフが立ち止まり、ローマーを振り返った。さっきまで笑っていた口が閉じ、目だけが「行くよ」と言った。ローマーは包帯の指でリュートの胴を撫で、頷いた。ネマーニャも、紙を畳んで懐へ入れ、無言で一歩踏み出す。
三人は、咳の音の方へ走った。
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