第2話 地図筒の女と、倒木の橋
翌朝、森の空気は昨日より乾いていた。ローマーは倒木の陰で身を起こし、リュートを抱えたまま肩を回した。昨夜、パンを紐に結んでおいたのを思い出し、結び目を指で探る。指先がまだ痛い。痛みがあるから、夢じゃないと分かるのが腹立たしくて、少しありがたかった。
パンを小さくちぎって口に入れ、噛みながら歩いた。霧は森の奥へ引いたように薄いが、足首に残る冷たさが気持ち悪い。視界の端で黒い薄が揺れると、胸の奥にまた影が芽を出す。不安が心に潜む影となる。昨日の夜に学んだはずなのに、影はしぶとい。
森を抜けると、地面が急に割れた。谷だ。湿った岩肌がむき出しで、下から冷たい風が吹き上げてくる。谷の向こうへ渡る道は、一本の倒木しかなかった。雨で苔が光り、木肌はぬめっている。橋と呼ぶには心もとなく、落ちたら終わりだと、体が先に言い出した。
その倒木の手前に、ひとりの女がしゃがみ込んでいた。背中に長い筒――地図筒を背負い、膝の上に紙を広げている。紙には真っ直ぐな線と、丸がいくつも描かれていた。女は細い木の枝で線をなぞり、丸に順番をつけるように指先で叩く。声は出さない。代わりに、目が忙しく動く。
ローマーが一歩近づくと、女は顔を上げた。まぶたを瞬かせてから、紙の端を少しだけ持ち上げ、こちらへ見せた。線の上に、小さな点が二つ。点の片方には「先」、もう片方には「後」と書いてある。言葉が読めるのに、音が違う気がする。不思議な感覚に、ローマーは眉をひそめた。
女は自分の胸を軽く叩き、次に紙の上の点を叩く。そして倒木を指さし、最後に腰の横の袋を指した。袋の口から、きれいに巻かれたロープが覗いている。
「えーっと……俺が先で、あんたが後で、ロープは――保険?」
ローマーが指で輪っかを作って見せると、女は小さく頷き、紙の上にさらに線を一本引いた。線は倒木の横へ伸び、最後に小さな矢印が付く。落ちたらロープで引き戻す。声にしないのに、段取りだけはやたら明確だった。
ローマーは胸の前で両手を広げ、わざと大げさに震えてみせた。女は紙を丸め、肩をすくめてから、指を一本立てた。一本、つまり「行け」。その顔が真面目すぎて、ローマーは笑いそうになった。
倒木へ足を乗せた瞬間、靴裏がぬるりと滑った。冷たい汗が背中を流れる。ローマーは両手を広げ、バランスを取る。谷底から風が吹き上げ、耳の奥で鳴る。落ちる音が、まだ鳴っていないのに聞こえそうだった。
「大丈夫、大丈夫……俺、歩ける……橋くらい……」
言いながら、言葉の最後が震えた。影が増える。影が増えると、足が固くなる。固くなると、また滑る。嫌な循環が、足先から始まる。
半分ほど進んだところで、苔の盛り上がりに足を取られた。体が横へ傾き、視界が一気に谷底へ落ちる。胃が浮いた。
「うわっ!」
落ちる――と思った瞬間、背中がぐいっと引かれた。腰に巻かれたロープが張り、体が倒木へ戻される。ローマーは倒木にしがみつき、息を吐いた。吐いた息が笑いになりかけて、むせた。
谷の向こうから、女がロープを引く姿が見えた。足を開き、膝を曲げ、体重を後ろへ預けている。口元はきゅっと結ばれたままなのに、目だけが「ほらね」と言っている。
ローマーは親指を立て、片手で胸を叩いた。助かった、というつもりだ。女は頷き、もう一度指を一本立てた。一本、つまり「続けろ」。優しいのか厳しいのか分からない。分からないから、妙に信用できた。
今度は木肌を手で触りながら、ゆっくり進んだ。指先が痛む。痛みが、今の一歩を支える。谷の向こうへ降り立った瞬間、ローマーは膝に手をついて深く息をした。心臓が、さっきからずっと走っている。
女が倒木に足をかける。ローマーはロープを握り、引っ張る準備をした。女は紙のとおり、体を低くして進み、滑りそうな場所では片手で木を抱き込んだ。動きが無駄に少ない。危ないところだけ、呼吸が浅くなるのが見えた。ローマーは言葉が分からなくても、そこだけは分かった。
女が渡り切ると、ローマーは反射的に手を差し出した。女は一瞬だけ戸惑い、すぐ握ってくれた。手が冷たい。冷たいのに、握り返す力は強い。
礼を言いたくて、ローマーは口を開いたが、うまく言葉が出ない。代わりに背中のリュートを外し、両手で差し出した。女は「え?」という顔をした。ローマーは首を振り、弦を指でつまんでみせる。痛い顔をして、わざと大げさに指を振った。それから肩をすくめ、両手を広げる。「弾けない」。全身で言う。
女の口元が、ふっと緩んだ。声は出さないのに、笑ったのが分かった。笑いは短い。けれど、その一瞬で谷の風が軽くなった気がした。ローマーも笑ってしまい、つられて腹が鳴った。昨日のパンは、もう最後の欠片だった。
女は地図筒の口を開け、小さな乾燥肉の包みを出して半分に割った。紙に何か書き、ローマーへ見せる。文字は読めた。「ネマーニャ」。次に、ローマーの胸を指し、ペン先を差し出す。
ローマーは受け取り、紙の空いたところに「ローマー」と書いた。書いた途端、胸の影が少しだけ縮んだ。名前があると、道が一本増えるらしい。
ローマーはその紙を指さし、口だけで「ネ・マ……ニャ?」と音を作ってみた。最後の「ニャ」で自分でも笑いそうになる。ネマーニャは眉を上げ、指で二拍、三拍と机を叩くみたいに空を叩いた。ローマーも真似して、手を叩く代わりに膝を二回、三回と叩く。
「ネ・マー・ニャ。……あ、伸ばすのか」
今度はそれっぽく言えた気がして、ローマーは満足げに頷く。ネマーニャはようやく小さく頷き返し、今度は自分の地図筒を軽く叩いた。紙を広げ、交易の印らしい四角と丸を描き、最後に城壁の形を添える。ヴァルノへ地図を届けるらしい。ローマーは指で自分のリュートを示し、次に腹を押さえ、最後に街を指した。笑いで飯を手に入れるしかない、と言っているつもりだ。
ネマーニャは乾燥肉の残りをさらに小さく割り、ローマーの手に押し込んだ。押し込んだあと、ロープの端を握らせ、結び目の形を指でほどいて見せる。ほどけない結び目の作り方を、声を使わずに教えてくれている。ローマーは指先の痛みをこらえながら結び直し、うまくいくと胸の前で小さくガッツポーズを作った。ネマーニャはそれを見て、口元だけで笑った。
ネマーニャは紙を丁寧に折り、地図筒の中へ戻した。次に、遠くの方角を指さす。木々の切れ間の先に、石の壁と赤い屋根が見えた。交易都市ヴァルノらしい。ローマーは「街だ!」という顔をして、わざと両腕を広げた。ネマーニャは首を傾げ、同じ動きをしてみせた。広げ方が少し控えめで、そこがまた可笑しい。
二人で歩き出すと、谷の下から黒い薄がゆっくり上がってきた。朝なのに、影が伸びる。ローマーの指先が冷たくなる。ネマーニャは立ち止まり、紙を取り出して、黒い薄の位置を線で囲った。囲いの外へ道を引き直す。足元の小石を蹴り、別の踏み跡を探す。段取りが早い。
ローマーは背中のリュートへ手を伸ばし、弦をそっと鳴らした。下手な音が、空気を掻く。黒い薄が、ほんの少しだけ揺れた。ネマーニャの目がこちらへ向き、リュートと霧を交互に見た。ローマーは指で「今の、見た?」と空を指し、もう一度弦を鳴らす。揺れが、確かになる。
ネマーニャは唇を噛み、紙の端に小さく丸を書いた。丸の横に、短い線。音と霧。まだ言葉にしないまま、二人の間に小さな約束が落ちた。
ヴァルノの城壁が近づく。門の前には人が集まり、荷車が並び、声が飛び交う。けれどその声の隙間に、黒い薄が床を這うのが見えた。笑い声が途切れるたび、霧が濃くなる。
ローマーはリュートを抱え直し、ネマーニャの横へ並んだ。怖さは消えない。だが、今は一人じゃない。ネマーニャは紙を握り、ローマーの歩幅に合わせて一度だけ頷いた。
二人は門をくぐり、ざわめきの中へ踏み込んだ。
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