第4話 薬草屋の男と、浅い呼吸
夜の路地は、昼の喧騒を嘘みたいに畳んでいた。石畳は冷え、湿った壁からは古い煮汁の匂いがしみ出している。ベルジャコフが先を歩き、肩で空気を押し分けるみたいに曲がり角を切った。ネマーニャは遅れないよう地図筒を抱え直し、ローマーはリュートを胸へ寄せて走った。
咳は、さらに近い。乾いた音が二回続き、間に短い喘ぎが挟まる。ベルジャコフが扉を叩いた。拳で叩くのではなく、掌の腹で、相手を驚かせない強さ。すぐ内側で、女の声がかすれて返る。
扉が少しだけ開いた。中は暗い。灯りは小さな油皿ひとつで、煙が天井へ薄く溜まっている。寝台に子どもが横たわり、胸が上下するたび、息が浅く切れる。母親は子どもの額に手を当て、指先を震わせていた。目の縁が赤い。泣いたのか、泣けないのか、その境目みたいな顔だった。
床の隅に、黒い薄が溜まっている。霧は静かに見えるのに、子どもの息を奪うタイミングだけは正確だ。咳が来る直前、霧が少しだけ盛り上がり、喉の奥へ吸い込まれるように薄くなる。ローマーの胸が冷えた。自分の中にも、同じ動きの影がいる気がした。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
日本語で言っても届かない。ローマーは言葉の代わりに、両手を見せてゆっくり息を吐いた。母親もそれを真似した。真似したのに、すぐ咳が来て、子どもの肩が跳ねる。母親の指が、さらに強く額を押さえた。
ベルジャコフが母親の背中へ回り、肩へそっと掌を置いた。押さえつけない。温度だけ渡すみたいに、離れそうで離れない距離。母親の肩の力が、ほんの少し抜けた。
そこへ、薬草の匂いが流れ込んだ。乾いた葉と、焦げた根と、甘い蜜の混じった匂い。戸口の外から男が入ってきた。背は高くない。だが足音がやけにしっかりしていて、床板が一度だけ「コツ」と鳴った。
男は鍋を抱え、湯気の立つ器を二つ持っている。ひとつを母親へ、ひとつを子どもの唇へ。男は子どもの顎を指先で支え、器を傾ける角度を細かく変えた。急がない。焦げた匂いの湯気だけが、先に子どもの鼻をくすぐる。
子どもが小さく眉を寄せた。次に、喉が動いた。飲み込めた。男はそれを見て、母親の肩を軽く叩いた。叩き方は、拍手より静か。合図みたいな二回だけ。
ローマーは息を詰めて見守った。咳が一回。二回。さっきより短い。母親が口元を押さえ、声にならない何かを漏らした。泣き声の寸前で踏みとどまる音だった。
男はローマーたちへ視線を移し、何か言った。言葉は分からない。けれど、手の動きが分かりやすい。自分の胸を叩き、指で薬草袋を指し、次に「外」を指した。薬草屋なのだろう。来い、と言っている。
ネマーニャは返事の代わりに、紙を出して男の動きを写し取った。胸の絵、袋の絵、外の矢印。男はそれを見て目を細め、うなずいた。理解の形が似ていると、言葉がなくても息が合う。
ローマーが寝台の脇へ一歩近づくと、霧が足元でぬらりと揺れた。子どもの呼吸がまた浅くなる。ローマーは反射でリュートの胴へ手を当てた。温かい。自分の体温が移っただけのはずなのに、木はまるで「今だ」と言うみたいに脈打った。
ローマーは、胴を軽く叩いた。コツン。
霧が、ほんの一瞬、ほどけた。薄い布が引っ張られたみたいに、角がゆらりと崩れる。母親が息を吸い、子どもが一回だけ深く息を吐けた。
「……今の、効いた?」
ローマーの声は震えていた。ベルジャコフが唇を尖らせて頷き、両手で大きく丸を作った。効いた、もっとやれ、の顔だ。ネマーニャは紙に大きく波線を描き、叩く動作を重ねた。
男――スビツァは、ローマーのリュートへ近づいた。目は笑わない。けれど眉が動く。木目をじっと見て、指先で胴の縁をなぞる。なぞりながら、小さく呟いた。
「……ふるい」
日本語の音に聞こえた。偶然か、似た言葉か。ローマーは思わず「え?」と返し、スビツァの指先を追った。スビツァは胴を二度叩き、次に壁の奥を指した。そこには、掛け布の陰に古い木箱がある。箱の角が欠け、金具が緑に錆びている。
スビツァは母親へ短く言い、木箱を開けた。中から、干した根と、薄い石片と、木片が出る。木片には、曲線の溝が刻まれていた。リュートの胴の曲線と、どこか似ている。スビツァはその木片を指で弾き、音を確かめた。カン、ではなく、コツ、と鈍い。ローマーの叩く音に近い。
スビツァは、木片を掌に載せたまま、ローマーのリュートへ耳を近づけた。弦ではなく、胴の側面へ頬を寄せる。変な格好なのに、顔は真剣だ。ローマーも真似して頬を寄せた。冷たい木の感触が、耳の裏へ伝わってくる。
「……ここ」
スビツァは胴の縁の一点を指で押さえ、別の指で軽く叩いた。コツ。音が少しだけ澄む。今までの鈍さの中に、薄い響きが混ざる。ローマーが同じ場所を叩くと、霧の端がわずかに引いた。
ローマーは勢いづいて、あちこち叩き始めた。コツコツコツ。机の端も叩く。床も叩く。壁も叩く。自分の胸も叩く。やっているうちに、どれが正解か分からなくなって、顔だけは真面目に首を傾げた。
ベルジャコフが「ちょっと待って」と言いたげに両手を広げ、ローマーの額を指で弾いた。ピン、と軽い音。ローマーは痛くないのに目を回すふりをして見せた。母親がまた一瞬だけ笑い、すぐに目尻をぬぐう。その笑いが消える前に、ベルジャコフはさらに変な顔を続けた。
スビツァはため息をつくように鼻で息を出し、ローマーの手首をそっと掴んだ。強く握らない。逃げられる強さ。けれど「これ」と示す意志ははっきりしている。スビツァはリュートの縁の一点へローマーの指を置き、ゆっくり三回叩かせた。
コツ、……コツ、……コツ。
間が同じ。息を吐く長さも同じ。ネマーニャがすぐにそれを見て、紙へ三つの点と、点の間の長さを描いた。ベルジャコフは同じ間で手を叩き、母親も寝台の木枠を叩く。四つの音がそろうと、霧が「入る隙」を失うように、壁へ押し込まれていく。
子どもの咳が止まった。代わりに、眠りの浅い寝息が聞こえる。母親は両手で口を塞ぎ、泣き声を押し殺した。泣きながらでも、胸は上下している。息が続いている。母親はそれを確かめるように、子どもの胸へ指先を置き、何度も頷いた。
ベルジャコフが身を乗り出し、わざとらしく喉を鳴らしてみせた。ローマーが見ていると、ベルジャコフは咳の真似をして、次に大袈裟に深呼吸してみせた。笑わせたいのだ。母親が一瞬だけ口元を緩め、すぐに泣きそうな顔へ戻った。笑いが消える前に、ベルジャコフは指で自分の頬をつまんで引っぱり、変な顔を作った。
ローマーは危うく吹き出しそうになり、咳を飲み込んだ。飲み込んだ拍子に、胸の影が「笑うな」と囁いた。ローマーはその囁きを無視して、胴をもう一度叩いた。コツン。霧が揺れる。子どもの呼吸が、ほんの少し深くなる。
スビツァが掌を上げ、ローマーの叩く間隔を示した。二回、間を空けて一回。次に、母親へも同じ合図を送る。母親は震える指で、寝台の木枠を叩いた。コツ。音が小さい。それでも霧が、また少し揺れた。
ネマーニャが紙へ点を並べ、点と点を線で結んだ。三つの点。リズム。息。順番。ネマーニャは自分の胸へ指を当て、息を吸って吐き、指で点の順に机を叩いた。母親がそれを見て、涙をこぼしながら真似する。泣きながらでも、手は止めない。
部屋の中で、鈍い音が重なった。リュート、木枠、机、床。上手さはない。けれど音がそろうと、霧が広がれない。黒い薄は壁際へ追いやられ、子どもの胸が少しだけ大きく上下した。
スビツァは鍋の蓋を取り、薬草湯をもう一口飲ませる。母親が「ありがとう」と言ったように見えた。スビツァは「まだだ」と言うように首を横に振り、指で外を指した。霧の源を探す、そんな目だった。
ベルジャコフがローマーの背中を軽く叩き、親指を立てた。ネマーニャは紙を畳んで胸へしまい、短く頷く。ローマーはリュートを抱え直し、子どもの顔を一度だけ見た。子どもの唇が、さっきより青くない。
「……明日、来いよ」
声が小さくても、言わずにいられなかった。スビツァがその言葉は分からないはずなのに、ローマーの目を見て、同じように短く頷いた。
外へ出ると、路地の霧が少し濃く見えた。だが四人の足音は、さっきより揃っていた。揃った音が、石畳の上で「ここにいる」と鳴っていた。
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