弾けないリュートで明日を取り戻す

mynameis愛

第1話 森で目を覚ます、弾けないリュート

 冬の入り口の夕方だった。空は早く暗くなり、ブナの葉は濡れた紙みたいに重たく枝へ貼りついている。ローマーは湿った落ち葉の上で目を開けた。胸の上に、見覚えのある木の胴が乗っている。抱き枕みたいに抱えたまま寝ていたらしい。


  「……うそだろ」


  息が白くならない。なのに寒い。肌を刺す冷たさが、湿気と一緒に服へ染みていた。周りは見知らぬ森だ。木の間を抜ける風が、どこか甘い土の匂いを運んでくる。遠くで鳥が一羽だけ鳴いて、すぐ黙った。音が少ないほど、目の前の暗さが増す。


  ローマーは胸の上の楽器を持ち上げ、顔を近づけた。リュート。日本で衝動買いしたやつだ。商店街の小さな楽器店で、木の匂いとニスの甘さに酔ってしまった。壁に並ぶギターの奥に、丸い胴がひっそり置かれていて、触った瞬間「これだ」と思った。店員が「映画で見たやつですか?」と笑い、ローマーは照れ隠しに頷いた。


  弦の数だけは多い。ケースも立派。値札を見て一度は引いたのに、気づけばレジへ持っていっていた。袋を受け取った帰り道、駅のホームで「さて、どうやって弾くんだ?」と我に返り、見知らぬ乗客に変な顔をされた。


  弾けないのに楽器を買った。今ここに、その証拠がある。


  試しに一番外側の弦をつまむ。指先に硬い金属が食い込み――


  「痛っ!」


  思わず手を振った。指の腹がひりつく。家で何度か触って豆ができ、絆創膏を貼っても懲りなかった自分を、今さら笑いたいのに笑えない。森の音が静かすぎる。笑い声がないと、自分の息遣いだけがやけに大きく聞こえた。


  立ち上がろうとして、足がふらついた。目の前が揺れる。胃の奥が空っぽで、体の芯が薄い。ローマーはリュートを抱えたまま、木にもたれて深呼吸した。ポケットを探る。スマホはない。財布もない。あるのは、肩掛け紐と、痛い指先と、現実味の薄い森だけだ。


  ――どうしてこんな場所に。


  問いかけると、胸の奥に黒い影がひとつ生まれた。影は言葉にならず、ただ冷たい塊として残る。不安が心に潜む影となる。考えまいとするほど、その影は輪郭を濃くしていった。


  影のせいで、頭の中に「明日」が浮かばない。会社の予定、夕飯の買い物、友だちとの約束。普段なら勝手に並ぶはずの明日が、棚から抜き取られたみたいに空白だった。空白の怖さが、さらに影を増やす。


  木々の間に、かすかな煙が見えた。人がいる。ローマーはその煙を頼りに歩き出す。落ち葉が靴の下でぬるりと滑り、何度も転びかけた。転びそうになるたび「今のは地面チェック」と口にして、誰もいないのに誤魔化す。言ってみると、ほんの少しだけ心が軽くなるのが悔しい。


  森を抜けると、小さな畑と、木の柵が見えた。そこへ――鹿が突っ込んだ。


  「おいおいおい! 今の角、反則だろ!」


  鹿は柵に角を引っかけ、ばきばきと板を折って暴れている。向こう側で、農家らしい男が顔を真っ赤にして何か叫んだ。言葉はまったく分からない。だが、怒っているのは分かる。ローマーも反射的に手を上げ、口で「ストップ!」と言いながら駆け寄った。


  鹿の足が抜けない。暴れるほど、木片が飛ぶ。ローマーはリュートを背中へ回し、両手で柵の板を押さえた。指が痛いのを忘れていた。力を入れると、手のひらにささくれが刺さる。鹿の息は荒く、目玉がやけに白い。恐れが伝染してくる。


  「お前も怖いよな。分かる、分かるけど……今は落ち着け」


  言葉が通じなくても言ってしまう。言っている自分が可笑しくて、笑いそうになった。農家の男は、ローマーの動きを見て息を呑んだ。男は縄を持ってきて、鹿の角へ回す。ローマーは頷いて、縄を引く方向を身振りで示した。二人で引っ張る。鹿が一瞬だけおとなしくなり、角が抜ける。


  鹿は「助けたぞ!」と言いたげに一度だけこちらを見て――森へ逃げた。


  ローマーが勝手に親指を立てると、農家の男も真似して親指を立てた。お互い、意味の分からない形で通じ合っているのが妙に嬉しい。男が笑う。ローマーもつられて笑う。たったそれだけで、胸の影が一瞬だけ薄くなる。


  男は家の中へ消え、すぐに焼いたばかりのパンを持って戻ってきた。まだ湯気が立っている。香ばしい匂いが鼻の奥をくすぐって、腹が鳴った。


  「え、いいの? ……サンキュ!」


  ローマーは両手で受け取り、深く頭を下げた。農家の男は胸を叩いてから、空を指さした。そこから、遠くの村の方角へ指を移す。何かを伝えたいらしい。


  次の瞬間、鐘の音が響いた。


  ――ゴォン。


  低く、重い音。音が森の湿気を押しのけるように広がり、耳の奥へ沈む。ローマーは思わず、パンを握りしめた。


  鐘が鳴った直後、村の上に薄い黒が湧いた。霧だ。最初は煙より薄い。だが、息をするあいだに濃くなっていく。黒い薄霧が、空から降りるのではなく、家々の隙間から滲み出しているように見えた。


  霧の向こうで、子どもが笑った気がした。次の瞬間、その笑い声は途切れ、代わりに大人の怒鳴り声が混ざる。何を言っているか分からないのに、喉の奥が締まる。さっきまで軽かった空気が、急に重くなる。


  農家の男の笑顔が、すっと消えた。肩が落ち、視線が地面へ沈む。ローマーの胸の影が、それを待っていたみたいに膨らんだ。


  「……明日、ってさ。ちゃんと来るんだよな」


  誰に言うでもなく呟いた。返事はない。霧が濃くなるほど、誰も喋らなくなる。言葉が減ると、影が増える。影が増えると、霧が滲む。嫌な循環が、目の前の景色で起きている。


  ローマーは背中のリュートへ手を伸ばした。木の胴を抱えると、少しだけ温かい。自分の体温が移っているだけなのに、救われた気がした。


  農家の男が、家の中を指して手を振った。泊まれ、と言っているのかもしれない。ローマーは首を横に振った。言葉が通じないのに、ここで迷惑をかけたくない。何より、霧が濃い場所に長くいたくなかった。


  代わりにローマーは、パンを胸に押し当てて、もう一度深く頭を下げた。農家の男は困った顔をしてから、肩をすくめ、最後に小さく手を振った。


  森へ戻る途中、霧の縁が足元まで伸びてきた。黒い薄が、靴の先を舐める。ひやりとした感触が、皮膚ではなく胸の内側を撫でた。


  ――また失敗する。――また迷う。――また助けられない。


  影が、言葉を覚え始める。


  ローマーはそれを振り払うように、リュートの弦へ指を置いた。痛いのは分かっている。だが、痛みは「今ここにいる」と教えてくれる。明日が食われるなら、せめて今日の痛みは自分のものだ。


  「……一音だけ。頼むから、出てくれ」


  押さえ方も知らないまま、弦を弾いた。指先がきしむ。音は、ひどい。濡れた板を爪で引っかいたみたいな、情けない音だった。


  それでも――霧が、ほんの一瞬だけ揺れた。


  ローマーは目を見開いた。霧の薄い膜が、風に煽られた布のように波打ったのだ。すぐに元へ戻ったが、確かに揺れた。


  「……今、揺れたよな?」


  返事はない。だが、影が少しだけ黙った。ローマーは息を吸い、今度は弦ではなく胴を軽く叩いてみた。コツン。鈍い音。すると霧が、さっきより大きく震えた。揺れは短いが、確かだ。


  「弾けなくても……鳴らせるじゃん」


  言った途端、笑いが漏れた。情けないのに、可笑しい。笑うと胸の影が縮む。縮んだ分だけ、霧の端が薄く見えた。


  夜が深くなる前に、森の外れの倒木の陰を見つけた。落ち葉を集め、身体を丸める。パンを半分かじり、もう半分を布に包んだ。明日の自分が忘れないように、リュートの紐に結びつける。結び目を作る指が痛んで、また「痛っ」と呟く。だがその声は、さっきより少しだけ明るい。


  遠くで、また鐘が鳴った。霧は濃いままだ。けれどローマーは、リュートを抱えたまま瞼を閉じた。


  「……明日。来い」


  胸の影が小さく震えた。それでも腕は緩めなかった。木の胴を抱く手に、少しだけ力を込める。下手でも、痛くても、音は出せる。そう思えるだけで、森の夜がほんの少し短くなった気がした。


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