エピローグ:黄金のしべ、再生の庭

エピローグ:黄金のしべ、再生の庭


開拓地の厳しい冬がようやくその手を緩め、大地が湿った土の匂いを放ち始めた頃。俺は、かつて泥を掘っていたその手で、小さな花の球根を一つ一つ、丁寧に土へと埋めていた。


サフラン。


かつて王宮の厨房で、黄金色のパエリアや芳醇なスープの「色付け」としてのみ認識していたその植物が、今の俺にとっては命そのものだった。


「アル、またそんなに植えるのかい? ほどほどにしねえと、腰を悪くするぞ」


隣の畑の農夫が笑いながら声をかけてくる。俺は、土に汚れた顔を上げて、自分でも驚くほど穏やかな笑みを返した。


「ああ、分かっているよ。でも、ここの土地はサフランにぴったりなんだ。夏はからっと乾燥して、冬はしっかり冷え込む。この地中海のような極端な気候が、この子たちを強くしてくれるんだ」


俺は、掌の中にある茶色い球根を見つめた。 サフランの栽培には、日当たりと風通しが欠かせない。十分な日光――一日に六時間以上の光を浴びなければ、花はまともに咲いてくれない。水はけの良い土壌、酸性を嫌うその性質に合わせて、俺はあらかじめ苦土石灰を混ぜて土を調整してきた。粘土質のこの土地を、数年かけて砂を混ぜ、水が溜まらない理想的な平坦地へと作り替えてきたのだ。


「……まるで、俺みたいだな」


俺は、かつての自分を思い出した。 甘やかされた温室の光ではなく、厳しい自然の光。粘土のようにまとわりつく傲慢さを捨て、水はけの良い、風通しの良い「一人の人間」へと自分を耕してきた数年間。


秋が深まり、空が高く澄み渡ったある日の朝。 俺が手入れを続けてきた斜面は、一晩にして「奇跡」に塗り替えられていた。


「……あ……」


目の前に広がっていたのは、深い紫色の絨毯だった。 繊細な花弁が風に揺れ、その中心からは、燃えるような三本の赤い「めしべ」が顔を覗かせている。


俺は、その場に膝をついた。 サフランの花言葉。陽気、喜び、歓喜、愉快。 そして――「節度の美」。


かつての俺には、節度など微塵もなかった。 際限のない欲望。無限にあると信じていた特権。他人の犠牲の上に成り立つ贅沢。 だが、今、この土の上で腰を屈め、一輪一輪の花と向き合う俺の心には、確かな「喜び」が満ちていた。


「……綺麗だ」


俺は、ひび割れた指先で、慎重に赤いめしべを摘み取った。 一グラムのサフランを得るために、百数十輪の花が必要だという。かつての俺なら「なんて効率の悪い、無駄な作業だ」と切り捨てただろう。だが、今の俺は、この一本のめしべに込められた時間の重さを知っている。


この一本一分が、誰かの料理に彩りを添え、誰かを笑顔にする。 この高価なスパイスを、俺はもはや「食材」としてだけではなく、自分自身の「生きる喜び」として愛していた。


「リリアーナ……」


俺は、摘み取ったばかりの、微かに甘く、どこか土の匂いのするしべを鼻に近づけた。 彼女が守りたかった「節度の美」が、今の俺にはよく分かる。 分不相応な贅沢ではなく、自ら耕し、自ら育て、その収穫を分かち合う、慎ましいけれど揺るぎない喜び。


俺は、空を見上げた。 雲一つない青天の下、紫の花々は「歓喜」を歌うように揺れている。 俺の胸にある白いチューリップの墓標は、いつの間にか、この鮮やかな紫の海の中に溶け込んでいた。


「さあ、始めよう。みんなが待っている」


俺は、籠を腕に下げ、再び腰を落とした。 指先は冷たい秋風にさらされているが、心臓の奥には、消えることのない温かな焔が灯っている。


俺は、花の球根を植え続けた。 自分を許すためではなく、ただ、この世界が美しいことを、もう一度信じるために。


陽気な風が吹き抜け、開拓地の丘は、かつての王子の絶望を飲み込み、黄金の芳香とともに新しい季節へと向かっていく。 俺はもう、泥を啜る男ではない。 花を愛し、風を愛し、節度ある喜びとともに生きる、ただの「人間」だった。


(本当の完結)


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悪役令息の贖罪 春秋花壇 @mai5000jp

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