第10話:名もなき贖罪

第10話:名もなき贖罪


辺境の開拓地を覆っていたあの絶望的な灰色は、今や見渡す限りの黄金色に塗り替えられていた。


風が吹けば、たわわに実った麦の穂が「さぁ」と波のように鳴り、土の香ばしい匂いと、日向の温もりが肺を優しく満たしていく。かつて泥濘の中で凍死を待っていた死の地は、今では多くの入植者たちが笑い、子供たちが駆け回る「生命(いのち)」の場所へと生まれ変わっていた。


俺は、年季の入った鍬(くわ)を置き、額の汗を拭った。 その手は、かつてシルクのハンカチーフしか持たなかった白さを完全に失っている。節くれ立ち、日に焼け、数えきれないほどの傷跡が刻まれた、無骨で無骨な農夫の手だ。


「おい、アル! 今日はもう上がれよ。これ以上働くと、土が疲れちまうぞ」


隣の畑を耕す男が、朗らかに声をかけてくる。 「アル」。それが今の俺の名だ。アルフレッドという輝かしい名は、数年前の雪の中に埋めてきた。


「ああ、そうするよ。この区画さえ終わればね」


俺の声は、以前よりも低く、大地に響くような太さを帯びていた。 腹が減れば自分で育てた野菜を齧り、喉が渇けば井戸の水を飲む。夜になれば、自分の労働の疲れとともに、深い眠りにつく。 そこには「愛」だの「誇り」だのといった空虚な言葉はない。ただ、今日を生きるための真っ当な苦労と、それに応えてくれる土の感触があるだけだ。


作業を終え、俺はあばら家の前にある小さな庭に腰を下ろした。 ふと、街から戻ってきた行商人が置いていった古びた新聞の端切れが、風に舞って足元に転がってきた。


そこには、遠い王都の華やかなニュースが記されていた。


【アシュクロフト公国、建国。リリアーナ公女、隣国の大公と婚儀へ】


紙面の中央。 そこには、かつて俺が「人形」と罵った、あの美しく冷徹な瞳の女性がいた。 だが、今の彼女は以前とは違っていた。氷のような冷たさは消え、その瞳には自らの足で国を支え、民を守り抜いてきた者の、深く穏やかな慈愛の光が宿っている。隣に立つ新しい伴侶の手を、彼女はかつての俺を支えていた時のような「義務」ではなく、確かな「信頼」とともに握りしめていた。


「……よかった。本当によかった」


俺は、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。 胸の奥を突き刺すような痛みは、もうなかった。あるのは、凪いだ海のような、どこまでも深い静寂だった。


あの日、俺が捨てた世界。 あの日、俺が蹂躙した彼女の時間。 それらは決して取り戻せないし、俺が犯した罪が消えることもない。俺は今も、これからも、彼女にとっては「いない方がよかった過去」の一片に過ぎないだろう。


だが、俺は今、彼女が守りたかったこの国の一部として、土を耕している。 彼女が流した涙の代わりに、俺は汗を流している。 それが、俺にとっての唯一の、そして最高の「支払い」なのだ。


俺は、庭の隅に咲いた一輪の白いチューリップを見つめた。 花言葉は「許し」。


俺は、彼女に許されたいとは思わない。 だが、この花を見るたびに、俺は自分自身の中にある「かつての傲慢な俺」を、静かに弔うことができるようになった。 「許し」とは、誰かに与えてもらうものではなく、自らの罪を正しく引き受け、それでも今日を生きるという「決意」のことなのだと、この泥だらけの手が教えてくれた。


俺は、茜色に染まり始めた空を見上げた。


「……ありがとう。リリアーナ」


その言葉は、風に乗り、麦の穂を揺らし、やがて高い空へと消えていった。 彼女に届く必要はない。 彼女が幸せであり、この国が健やかであること。その「結果」こそが、俺がこの地に刻み続けてきた贖罪の答えなのだから。


「アル! 飯だぞ! 焼きたてのパンがあるんだ、早く来い!」


仲間たちの呼ぶ声がする。 俺は、一度だけ空に向けて深く頭を下げ、そして力強く立ち上がった。


俺の胸に咲いた白い花は、もう枯れることはない。 それは、かつて王子だった男の、名もなき、けれど誇り高い魂の墓標。


俺は、自分の足で、自分の土を踏みしめながら、温かな灯りが見える家へと歩き出した。 新しい季節が、また始まろうとしていた。


(完)




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