第9話:ディアスキアの祈り
第9話:ディアスキアの祈り
意識が、熱い泥の中に沈んでいくようだった。
「……はぁ、はぁ、……っ」
喉を焼くのは、冷気ではなく肺の奥から突き上げてくる熱病の炎だ。 開拓地を襲った流行病は、栄養の足りない俺の体を容易に蝕んだ。冷たい石の床に転がされ、荒い息を吐く。視界は白く濁り、かつて自分のものだった贅沢な記憶すら、熱に浮かされて霧のように消えていく。
(……このまま、死ぬのか。……それもいい。……いいさ……)
そう思っていた。自らの傲慢で国を傾け、愛した女に裏切られ、残ったのは泥にまみれた十本の指だけ。こんな命、消えてしまっても誰も困らない。むしろ、世界は少しだけ「掃除」されて綺麗になる。
だが、死の淵にいた俺を掬い上げたのは、誰かの荒っぽいが温かな手だった。
「……しっかりしろ。……おい、死ぬな!」
次に目を開けたとき、俺を包んでいたのは、泥の匂いではなく、微かな石鹸と、干し草の匂いだった。 視線を動かすと、そこは粗末な木造の建物だった。だが、そこには風を遮る壁があり、俺の体には、厚手の――けれど安っぽい、毛羽立った羊毛の毛布が掛けられていた。
「……ここは……?」
「リリアーナ様が作られた無料診療所だよ」
枕元で薬草を煎じていた老婆が、ぶっきらぼうに答えた。 「開拓者たちが倒れて全滅しないようにって、あのお方が自ら私財を投げ打って建てたのさ。お前さん、運がよかったね。あと半日遅ければ、そのまま土に還るところだったよ」
「……リリアーナ……様が……」
その名を聞いた瞬間、心臓が痛いほどに脈打った。 かつて俺が「人形」と呼び、その存在を否定した女。 俺をこの辺境へ追いやり、名前も、地位も、すべてを奪ったはずの女。
だが、彼女は奪ったのではなかった。 俺が投げ捨てた世界を、彼女が拾い上げ、こうして「名もなき労働者」の一人として、俺の命さえも守り続けていたのだ。
ふと、入り口の壁に飾られた小さな鉢植えに目が止まった。 淡いピンク色の、小さな花が房状に咲いている。 厳しい冬の終わりを告げるような、健気で愛らしいその花。
「……あの、花は……」
「ディアスキアさ。あのお方がこの診療所にって送ってくださったのさ。花言葉は……なんだっけねえ。たしか、『私を許して』だったかね」
俺は、言葉を失った。
(……私を許して?)
違う。許しを乞わねばならないのは、俺の方だ。 リリアーナ。君は、こんな最果ての地にまで、君の「慈悲」を届けていたのか。 俺がマリアと浮かれ、君を侮辱していたあの傲慢な日々。 君は、俺が将来こうして破滅することさえ見越して、せめて一命だけは繋ぎ止められるように、この世界を、このシステムを、血を吐くような思いで維持していたのか。
「……う、……ああぁ……」
俺は毛布を噛み締め、声を殺して泣いた。 熱病よりも熱い涙が、頬を伝い、枕の干し草を濡らしていく。
「……どうしたんだい、痛むのかい?」
「……いいえ。……あまりに、温かくて……」
俺が求めていた「愛」は、マリアのような甘い言葉でも、激しい抱擁でもなかった。 自分の存在を、名前すら知らない誰かが、ただ「生きていていい」と肯定してくれる仕組み。 それこそが、彼女が守りたかったこの世界の形だったのだ。
俺はそれを、土足で踏みにじった。 彼女が凍える指先で書き続けた帳簿も、彼女が削った命の時間も、すべてを無価値だと切り捨てた。 その罪の重さが、今、この温かな毛布を通じて俺の全身にのしかかってくる。
「……老婆さん」
「なんだい」
「俺は……治ったら、また開拓地に戻ります。……あの、泥の……溝に戻ります」
「何を言ってるんだい、あんた。死にかけたんだよ? もう少し楽な仕事を探せばいいじゃないか」
「いいえ。……俺は、支払い続けなきゃいけないんだ。……俺が奪った世界の分を……俺が蹂躙した、彼女の時間の分を……」
俺は、壁に咲くディアスキアをじっと見つめた。 私を許して。 その言葉は、リリアーナからの祈りではない。 俺が、彼女に対して一生をかけて、けれど決して口にしてはならない言葉だ。
俺は彼女に会いたいとは思わない。 許してほしいとも思わない。 そんな資格、俺には一生訪れないことを知っている。
ただ、彼女が守りたかったこの国の一角を、俺のこのひび割れた手で、少しでも耕したい。 彼女が流した涙の数だけ、泥を掘りたい。 それが、俺に許された唯一の、そして最後の日課なのだから。
窓の外では、雪が溶け始め、湿った土が春の匂いを放っていた。 俺は、震える手で温かな粥の器を掴んだ。 それは、リリアーナの「義務」という名の、あまりにも深く、慈しみ深い愛の味がした。
「……いただきます。……リリアーナ」
俺は、誰にも届かない声で呟き、その一口を、自らの血肉に刻み込むように飲み下した。
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