第8話:紫のヒヤシンス

第8話:紫のヒヤシンス


辺境の開拓地に、容赦のない朝が訪れる。 風は剃刀のような鋭さで、ぼろ布のような麻のシャツを通り抜け、俺の痩せこけた皮膚を削り取っていく。


「……っ、げほっ、ごほっ!」


肺の奥まで凍てつくような冷気を吸い込み、俺は激しく咳き込んだ。口の中に広がるのは、鉄の味――血の混じった唾液だ。 俺は、感覚を失い、赤紫色の丸太のようになった指を震わせながら、岩だらけの土壌にシャベルを突き立てた。


「おい、110番。今日はその東側の岩盤をどかせ。終わらなきゃ、昼の塩水も抜きだ」


監督官の罵声を背中で聞き流し、俺はただ無心に土を掘った。 かつて王宮で、最高級の羽毛布団に包まれて「退屈だ」と宣っていたあの男は、もうどこにもいない。今の俺は、ただの「穴を掘る装置」だ。


その時だった。


灰色の土と、泥濘んだ雪の隙間に、一際鮮やかな「色」が視界に飛び込んできた。


「……あ……」


俺は動きを止めた。 そこには、周囲の荒涼とした風景とはあまりにも不釣り合いな、一輪の紫のヒヤシンスが咲いていた。 凍てついた土の割れ目から、誰に頼まれるでもなく、毅然と、けれど儚げにその首をもたげている。


「ヒヤシンス……」


かつて、リリアーナが温室で育てていた花だ。 彼女がその花を愛でていたとき、俺は背後から「そんな地味な色の花、何が楽しいんだ」と笑った。マリアが好む、派手で香りの強い薔薇こそが愛の象徴だと思い込んでいたからだ。


だが、今、この絶望の地で見る紫の輝きは、何よりも気高く、そして残酷に美しかった。


俺は、吸い寄せられるようにその花の前で膝をついた。 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


「……悲しみ、悔恨……」


脳裏に、学んだはずの知識が蘇る。紫のヒヤシンスの花言葉。 それは、今の俺の心そのものだった。


俺は震える手を、その花へと伸ばした。 けれど。


(……汚い)


自分の手を見て、俺は息を止めた。 爪の間に食い込んだ真っ黒な泥。凍傷でひび割れ、黄色い膿と血が滲み、土に汚れた醜い指。 この手は、リリアーナの真心を「地味だ」と切り捨て、マリアの偽りの愛を掴もうとした手だ。 この手は、国を支えていた仕組みを、自分のわがままで壊した手だ。


「……触れては……いけない」


俺は、伸ばした手を宙で止めた。 この美しく、清らかな後悔の象徴を、俺の汚れた指で触れることなど、許されるはずがない。 俺が触れれば、この花は一瞬で腐り落ち、泥にまみれてしまうだろう。


「……すまない……っ、すまない……」


俺は、地面に額を擦り付けた。 石の冷たさが額に伝わり、泥の匂いが鼻を突く。


リリアーナ。 君は、ずっとこの「悲しみ」の中にいたんだな。 俺が隣にいながら、君を一度も一人の女性として見ず、ただ「便利な装置」として使い潰していた間、君はこの紫の花のように、たった一人で凍てついた世界を支え、耐え忍んでいたんだ。


「俺は……なんて……なんてことを……」


初めてだった。 声を上げることさえ忘れ、ただ眼球が熱くなり、熱い液体がボロボロと泥の上に落ちていく。 それは、マリアに裏切られたときの悔し涙でも、空腹に耐えかねた惨めな涙でもない。 自分の「罪」の正体を、完璧なまでの美しさの前で突きつけられた、魂の嗚咽だった。


「110番! 何を遊んでいる! 早くしろ!」


監督官が近づいてくる。 俺は慌てて、自分の体でそのヒヤシンスを隠すように覆い被さった。 この男に、この花を踏ませるわけにはいかない。 この清らかな悔恨を、暴力で汚させてはいけない。


「……今、やります。……今、やりますから……っ」


俺は、涙を泥だらけの袖で拭い、再びシャベルを握った。 手のひらの傷が痛み、肉が裂ける。けれど、その痛みが心地よかった。 痛ければ痛いほど、俺の罪が、ほんのわずかだけ、世界のどこかで形を変えているような気がした。


リリアーナ。 俺は、この花を摘まない。 俺はこの花のように、泥の中で、誰にも知られず、ただ自分の罪を噛み締めて生きていく。


君に許されることなど、万に一つも望まない。 ただ、この紫の色が、俺の網膜に焼き付いている限り――。 俺は、俺自身を決して許さない。


それが、今の俺にできる、唯一の「愛」の形なのだと、冷たい風が耳元で囁いた。


夜。 あばら家の片隅で、俺は自分のひび割れた指先を見つめていた。 そこには、昼間の紫の色は残っていない。 ただ、消えることのない「悔恨」という名の熱だけが、凍傷の痛みとともに、俺の心臓を刻み続けていた。


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