第7話:泥濘(でいねい)の開拓地
第7話:泥濘(でいねい)の開拓地
「おい、110番! 手を止めるな! 日が暮れる前にその溝を掘り終えろと言っただろうが!」
背中に走る痛烈な衝撃。監督官が振るった泥だらけの鞭が、麻のシャツ越しに俺の肌を裂いた。
「……あ、う……」
喉の奥から漏れたのは、言葉にもならない掠れた呻きだった。かつて王宮のバルコニーで民衆に慈悲深く語りかけた俺の声は、今や凍てついた空気の中で白く霧散するだけの、無力な吐息に成り果てていた。
ここは、王国北端の辺境――死の開拓地。 雪解けの泥と、剥き出しの岩肌が広がる絶望の地だ。俺は「名もなき労働者」としてここに放り込まれた。
「……っ」
凍えきった手で、鉄製の重いシャベルを握り直す。 指先は、もはや自分の体の一部とは思えないほどに感覚がなかった。しもやけが赤紫に腫れ上がり、乾燥と酷使で皮膚が「パキッ」と音を立てて裂ける。そこから滲み出る血は、泥に混じってどす黒く固まっていた。
かつて、リリアーナの指先に触れたとき、俺は「冷たい女だ」と吐き捨てた。 あの、羽ペンの持ちすぎで中指に微かなタコができていた、白く細い指先。
(……ああ。……そうか。こういうことだったのか……)
俺は、泥の中に膝をついたまま、自分のひび割れた指を凝視した。 俺が「事務作業」だと馬鹿にしていた、彼女の日々。 彼女は、俺が温かな暖炉の前でマリアと愛を語っていたあの時も、冷え切った執務室で、何万という数字と格闘していた。 食料の配分。軍の維持費。商会との契約。 一文字書き間違えれば、一人の領民が飢える。一箇所の計算が狂えば、一つの村が消える。
彼女の指先が冷えていたのは、彼女が冷酷な「人形」だったからではない。 この国という、あまりにも巨大で重苦しい「現実」を、たった一人の少女の肩で支え続けていたからだ。 その重圧が、その孤独が、彼女の体温を奪い去っていたのだ。
「……すまない……リリアーナ……すまない……」
俺の口から、泥混じりの嗚咽が漏れた。
「おい、何をぶつぶつ言っている! 働け! 働かない奴に、今夜の粥はないぞ!」
「監督官……様……。お、お伺いしたいことが……あります……」
俺は泥を這い、監督官の足元に縋り付いた。プライドなど、とっくに冬の北風に吹き飛ばされていた。
「あ? なんだ、110番」
「この開拓地の、予算は……どこから……。ここの食料を、運んでいるのは……誰なのですか……」
監督官は、面倒そうに鼻を鳴らした。 「決まっているだろう。アシュクロフト公爵家だよ。あのお嬢様が、王家の放漫財政で死にかけていたこの地を、自ら図面を引いて立て直していらっしゃるんだ。おかげで、お前のようなクズにも、砂混じりとはいえ食わせる飯があるんだ。感謝しな」
「……リリアーナが……彼女が……」
俺の視界が、急激に歪んだ。 涙ではない。自分という存在の、あまりの小ささと醜さに耐えかねた魂の悲鳴だった。
俺は、自分の手で泥を掘るまで、パンがどうやって作られるのかさえ知らなかった。 俺は、自分の足が凍傷で腐りかけるまで、靴一足がどれほどの「労働」の対価なのかも理解していなかった。 俺が「真実の愛」と呼んで蕩けさせていた時間は、彼女が削った命の残り香を、勝手に貪っていただけに過ぎなかったのだ。
「……あ、ああああああ……!」
俺は泥の中に顔を埋め、獣のように叫んだ。 土の匂い。カビの匂い。そして、自分の無能さが放つ、死の匂い。
リリアーナ。 君は、どんな気持ちで俺の横に座っていた? 君は、どんな思いで、俺の「愛」という名の空虚な戯言を、その冷え切った指先で帳簿に記していた?
俺の指先は、もう二度と、滑らかなシルクを撫でることはないだろう。 俺の指先は、一生、この冷たい土と岩を掻き出すためだけに存在する。 だが、それでいい。 この痛みだけが、今の俺が彼女と繋がれる、唯一の「真実」なのだから。
「……掘る。……掘らせてくれ。……もっと、痛く、重く……」
俺は、血の滲む手で再びシャベルを握りしめた。 リリアーナ。 君が守ろうとした世界の、その一番底にある泥の中で、俺は初めて、君の「愛」という名の責任の重さを、この身に刻みつけている。
夜が来る。 気温が下がり、骨の髄まで凍りつくような死の静寂が訪れる。 俺は、裂けた指先に灯る、唯一の熱――「後悔」という名の焔だけを抱いて、泥の中に丸まった。
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