第6話:追放、そして「ただの人間」へ

第6話:追放、そして「ただの人間」へ


王宮の北門。かつて儀仗兵たちが銀に輝く槍を揃えて俺を敬礼で迎えたその場所は、今や冷たい鉄格子の檻の口を開けていた。


「……アルフレッド。いや、もはや名もなき罪人よ」


宣告を行ったのは、父の代理人として現れた老文官だった。彼の声には、怒りすら含まれていない。ただ古い帳簿の不備を抹消するかのような、事務的な響きだけがあった。


「本日を以て、貴様の王籍を剥奪し、この国から放逐する。二度とその足で王土を踏むことは許されぬ。貴様が身に纏うそのボロ布だけが、貴様に許された全財産だ」


「待て……名まで奪うというのか! 私はこの国の……!」


言いかけた言葉は、背後から突き飛ばされた衝撃で雪の中に消えた。 ドサリ、という鈍い音。視界が真っ白に染まる。顔を上げると、巨大な鉄門が無慈悲な音を立てて閉じられた。ガチャン、という重い金属音が、俺という存在が世界から切り離された終止符のように聞こえた。


俺は、這いつくばったまま、泥の混じった雪を噛み締めた。 冷たい。死ぬほど冷たい。だが、それ以上に俺を苛んだのは、通りを歩く民衆たちの「無関心」だった。昨日まで石を投げつけていた者たちですら、もはや俺を視界に入れていない。名も、権力も、未来も失った男は、ただの「風景の一部」に過ぎなかった。


「……リリアーナ」


ガタガタと震える膝を突き、俺は雪を掻き分けて歩き出した。向かう先は、王都の一等地にそびえ立つアシュクロフト公爵邸。 そこに行けば、彼女がいる。彼女に謝れば、この地獄は終わる。彼女は「人形」のように情に流されない女だ。ならば、俺が利用価値があることを証明し、屈辱を差し出せば、再び「王子」という温室に戻してくれるのではないか。


そんな浅ましい、傲慢な期待が俺の足を動かしていた。


公爵邸の白亜の門の前に辿り着いた時、俺の意識は朦朧としていた。指先の感覚はなく、吐く息は白く、心臓の鼓動だけが「生きていろ」と耳の奥でうるさく脈打っていた。


「リリアーナ! リリアーナ、会ってくれ! 私が悪かった! 君が必要なんだ!」


門番に突き飛ばされ、俺は門前の冷たい石畳に額を擦り付けた。 土下座。かつて王族として最も忌むべきとしていた行為が、今は唯一の生存戦略だった。鼻につくのは、馬車の轍が残した泥と馬糞の匂い。それを吸い込みながら、俺は必死に叫び続けた。


どれほどの時間が過ぎただろうか。 不意に、雪を静かに踏みしめる音が聞こえた。 そして、目の前の視界に、汚れ一つない純白のドレスの裾が現れた。


「……お顔をお上げください、名もなきお方」


鈴を転がすような、けれど芯まで凍てつく声。 ゆっくりと顔を上げると、そこにはリリアーナ・ヴァン・アシュクロフトが立っていた。 彼女は厚手の毛皮を羽織り、手に温かな湯気を立てる磁器のカップを持っていた。その瞳は、やはりあの夜と同じ、感情の色彩を一切排除した「氷晶の色」だった。


「リリアーナ……! ああ、リリアーナ。許してくれ。マリアは罠だったんだ。私は騙されていた。私を愛していたのは、君だけだったんだ……!」


俺は彼女の足元に縋り付こうとした。だが、彼女の周囲に控える騎士たちが、即座に剣の鞘で俺の腕を叩き落とした。


「愛、でございますか」


リリアーナは、感情を読み取らせない微笑をわずかに浮かべた。彼女の背後にある公爵邸からは、薪が燃える豊かな香りと、温かなスープの匂いが漂ってくる。それが、今の俺にはどんな拷問よりも残酷だった。


「アルフレッド様。……いいえ、今はもう名もなき方。あの日、あなたは仰いましたわね。愛のない私を捨て、真実の愛を掴むと。そして、愛さえあれば、王家の義務も、私という人形も、すべては不要な重荷であると」


「……それは……」


「私は、あなたの仰る通りにいたしました。私が管理していた王家の資産をすべて引き揚げ、あなたが望んだ『愛だけの世界』をあなたに差し上げたのです。……さて」


リリアーナは、手に持っていたカップを傾けた。 中に入っていた温かな茶が、俺の目の前の雪の上にこぼれ、ジュウと音を立てて雪を溶かし、泥を浮き上がらせる。


「その『真実の愛』で、空腹は満たせましたか?」


その問いは、刃物よりも鋭く俺の臓腑を切り裂いた。 空腹。そうだ。胃が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅している。マリアが囁いた愛の言葉は、一口のパンにも、一滴のスープにもならなかった。愛は、文明という名の器がなければ、ただ空気に消える幻に過ぎなかったのだ。


「愛が、あなたを温めてくれましたか? 愛が、あなたの誇りを守ってくれましたか?」


リリアーナの声が、遠くなる。 俺は何も答えられなかった。 愛で腹は膨らまない。愛で凍傷は治らない。 彼女が「人形」として淡々とこなしていた事務作業の集積こそが、俺という命を繋いでいた「慈悲の血」だったのだ。


「……リ、リア……な……」


俺は震える手を伸ばした。だが、彼女は一歩後ろへ下がり、優雅に背を向けた。


「さようなら、アルフレッド様。……いいえ、ただの人間。どうか、その愛という免罪符と共に、どこまで行けるかお試しなさいませ」


門が閉まる。 ガチャン。 再び、俺を世界から拒絶する音が響いた。


俺は雪の中に沈んだ。 冷たさが心地よくなってくる。感覚が失われ、思考が白く濁っていく。 雪の上にこぼれた茶の熱は、すでに失われていた。


俺の胸の中に残っていたのは、マリアへの怒りでも、リリアーナへの未練でもなかった。 ただ、「自分がいかに無価値で、空っぽな男であったか」という、完膚なきまでの絶望の自覚。


俺は、雪の中に沈んでいく。 かつて王子だった男は、この日、ただの「飢えた獣」として、冬の静寂の中に葬り去られた。


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