第5話:民衆の石、マリアの咆哮

第5話:民衆の石、マリアの咆哮


王宮を追い出された。正確には、もはや誰もいなくなった巨大な墓場に耐えかね、俺は逃げ出したのだ。


喉は枯れ、胃袋は自分自身の内壁を噛み締めるように痛む。昨夜から一口の水さえ飲んでいない。俺は、マリアが「最後に行こう」と言っていた、下町の隠れ家のような宿へと向かった。彼女なら、まだあそこにいるはずだ。彼女の温もりさえあれば、この寒さも、父上の呪詛も、すべては悪夢としてやり過ごせる。


だが、宿の近くまで辿り着いた俺を待っていたのは、怒号と嘲笑の嵐だった。


「……あ、おい! あれ、王子じゃねえか!」


一人の男が指を差すと、飢えた野犬のような視線が一斉に俺に突き刺さった。


「王子様がこんなところで何してんだよ! お前のせいで、うちの親父は公爵様のギルドから解雇されたんだぞ!」 「そうだ! 贅沢三昧しやがって! この疫病神め!」


罵声とともに、何かが空を切り、俺の額を強打した。 鈍い衝撃。温かい液体が目元を伝い、視界が赤く染まる。石だ。道端に転がっている、何の変哲もない石が、王太子の血を流させている。


「やめろ……! 控えろ! 私は……!」


叫ぼうとしたが、声はかすれて出ない。俺は逃げるように宿の裏口へ飛び込んだ。 そこには、荷物をまとめているマリアの背中があった。


「マリア……! ああ、よかった。君だけは……君だけは無事だったんだな」


俺は血の混じった涙を流しながら、彼女の肩を掴もうとした。だが、彼女は驚くほど素早い動作で俺の手を振り払った。その瞳には、昨夜までの甘い光など、塵ほども残っていない。


「……触らないで。汚らしい」


その声は、氷の楔のように俺の胸を貫いた。


「マリア……? 何を言っているんだ。私だよ、アルフレッドだ。君のためにすべてを捨てた、君のアルフレッドだ……」


「すべてを捨てた? 笑わせないで。あなたはただ、アシュクロフト公爵から『捨てられた』だけでしょ?」


マリアは、冷徹な手つきでナイフを鞘に収め、俺を真っ向から見据えた。その瞳にあるのは、深い軽蔑と、任務を終えた工作員特有の事務的な冷たさだった。


「残念だったわね、殿下。……わたくし、隣国ヴォルガの諜報員なの。『誘い鳥』というコードネーム、聞いたことがあるかしら?」


「諜報……員……? 隣国の……?」


「そう。わたくしの仕事は、この国の心臓であるアシュクロフト家と王家の間に楔を打ち込み、内側から崩壊させること。……まさか、あんな稚拙な誘惑に、次期国王がここまで簡単に引っかかるなんてね。おかげで予定より早く任務完了だわ」


俺は膝から崩れ落ちた。耳の奥で、キーンと不快な音が鳴り響く。


「嘘だ……。あの夜の言葉も、あの涙も、すべては演技だったというのか? 私を……愛していると言った、あの熱い吐息も!」


「愛? 本気で言っているの?」


マリアは俺の顎を乱暴に掴み上げ、その顔を覗き込んだ。至近距離で感じる彼女の匂いは、もはや甘い花ではなく、研ぎ澄まされた鋼のような無機質なものに変わっていた。


「殿下。わたくし、あなた個人には、最初から一欠片の魅力も感じていなかったわ。……顔がいいだけ。中身は空っぽ。公爵がいなければパンの買い方すら知らない、ただの『王冠を被った赤ん坊』。そんな男を、一人の女として愛せると本気で思っていたの?」


「……っ!」


「あなたがリリアーナ様を『人形』と呼ぶたびに、わたくし、裏で笑いを堪えるのが大変だったわ。彼女はね、あなたの無能を必死に隠し、泥にまみれてこの国を動かしていた『本物の怪物』よ。その恩恵を貪りながら、彼女を侮辱するあなたを見て、わたくし、本当に吐き気がしたの」


マリアは俺を突き放した。俺は力なく、泥だらけの地面に這いつくばった。


「もうあなたに用はないわ。王家は破産し、公爵は離反した。この国はもう終わり。わたくしは、新しい主人の元へ戻るわ。……ああ、そうそう。あなたがマントの裏に隠していたその宝石、偽物とすり替えておいたから。売ってもパン一個分にもならないわよ」


「待ってくれ……マリア、行かないでくれ! 私にはもう、君しかいないんだ!」


俺は必死に彼女の靴に縋り付いた。だが、マリアは容赦なく俺の顔面を蹴り上げた。


「無能な男に、用はないのよ。……永遠にその泥を啜っていなさい」


マリアは一度も振り返ることなく、闇の中へと消えていった。


俺は一人、泥濘の中に横たわっていた。 額からは血が流れ、頬は泥で汚れ、心臓は砕け散って破片すら残っていない。


「……ははっ……」


乾いた笑いが、喉から漏れた。 俺が信じていた「真実の愛」は、敵国が仕掛けた罠だった。 俺が守ろうとした「誇り」は、俺を飼い慣らしていたリリアーナの慈悲を否定した末の、滑稽な踊りでしかなかった。


俺の周りには、もう誰もいない。 愛も、名誉も、食事も、熱も。 あるのは、ただ、凍てつく冬の夜気と、俺を嘲笑うように降り積もる雪の冷たさだけだった。


「……寒い。……痛い。……リリアーナ……」


初めて、その名を呼んだ。 だが、その名は虚空に消え、誰の元にも届かなかった。


俺は泥を掴んだ。冷たくて、汚くて、けれどこれが今の俺に唯一許された、現実の感触だった。


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