第4話:崩壊する王国

第4話:崩壊する王国


王宮へと戻る道中、俺を運ぶものは自分の足しかなかった。マリアに馬車を持ち逃げされ、泥濘に足を取られながら辿り着いた城門では、いつもなら仰々しく槍を立てる近衛騎士たちが、一人もいなかった。


ただ、冷たい風が「ヒュウ」と虚しく通り抜けるだけだ。


「……おい、誰かいないのか! 王太子である私が戻ったのだぞ!」


返ってくるのは、自分の声の惨めな反響だけ。 廊下は死んだように暗い。壁に飾られた歴代王の肖像画が、薄暗がりの中で「無能な末裔」を嘲笑っているように見えた。


玉座の間へ辿り着くと、そこには父であるエドワード国王がいた。だが、王冠は傍らの卓に放り出され、父は毛布を幾重にも羽織って、脂汗を流しながら震えていた。


「……アルフレッドか。戻ったか」


「父上! 城の警備はどうなっているのです! 公爵の横暴を許してはなりません、今すぐ近衛を招集し、アシュクロフト邸を包囲させるのです!」


俺の叫びに、父は力なく笑った。その笑いは、枯れ葉が擦れるような乾いた絶望の音だった。


「近衛……? もういないよ。今朝、騎士団長がやってきてな。『給料の保証をしていた公爵家の銀行が、王家への融資を完全に停止した。家族を飢えさせるわけにはいかない。我々は今日から公爵家の私設警備隊へ転職する』と……。彼らだけではない、文官も、料理人も、皆去った」


「そんな……! 反逆ではありませんか!」


「反逆……? 違うな、これは『破産』だ。アルフレッド、お前が昨夜、あの娘を……リリアーナ嬢を捨てた瞬間、この国を支えていた『血液』が止まったのだ」


父は震える手で、卓上の空っぽのワイングラスを指差した。


「国庫は空だ。公爵の支援がない王家など、ただの古びた家屋に過ぎん。……いいか、アルフレッド。お前は今すぐアシュクロフト公爵邸へ行け。そして、リリアーナ嬢の靴を舐めてでも、泥を啜ってでも、許しを乞うてこい。彼女を王妃に迎えると、泣いて縋れ!」


「……っ! 何を仰るのです! 私は、マリアとの真実の愛を選んだのです。リリアーナのような冷酷な女に、王家の誇りを売れというのですか!」


俺は叫んだ。空腹で腹が捩れるような痛みを抱えながら、それでも「愛」という名の免罪符を、溺れる者が藁を掴むように握りしめていた。ここで謝罪すれば、俺の「正義」は、ただの「無知ゆえの暴挙」に成り下がってしまう。


「愛……? まだそんな寝言を言っているのか!」


父が立ち上がり、俺の胸ぐらを掴んだ。その手は氷のように冷たく、老人特有の死の匂いがした。


「その『愛』とやらで、消えた騎士たちを呼び戻せるか? その女の抱擁で、空っぽの金庫を金貨で満たせるか! お前が昨夜捨てたのは、人形ではない。この国の『心臓』だったのだ!」


「……私には、誇りがあります。王族としての、男としての誇りが!」


「誇りだと? 笑わせるな! 誇りとは、満たされた腹の上でしか機能しない贅沢品だ。お前にあるのは誇りではない、ただの浅ましい『傲慢』だ!」


父は俺を突き放した。床に転がった俺の視界に、埃の積もった絨毯が飛び込む。


「……謝りません」


俺は地を這うような声で言った。 「リリアーナは私を愛していなかった。あんな冷たい女に頭を下げるくらいなら、私は……」


「……そうか。ならば勝手にしろ」


父は再び毛布に包まり、背を向けた。 「だがな、アルフレッド。今夜、この城で火を焚く薪はもうない。明日の朝、お前を『殿下』と呼ぶ者は誰もいない。お前が信じる『愛』の温もりで、凍死を免れるがいい」


玉座の間を出た俺を待っていたのは、完全な闇だった。 魔導灯の石は尽き、城内は極寒の牢獄へと変わり果てていた。 自分の吐く息が、白い霧となって闇に消えていく。


俺は自室へと戻り、冷え切った寝台に身を投げ出した。 マリアの温もりを探したが、そこにあるのは冷たいシーツと、洗われていない布の饐えた匂いだけだった。


(……私は間違っていない。これは試練だ。真実の愛には、これほどの犠牲が必要なのだ……)


そう自分に言い聞かせるが、胃がキリキリと鳴り、虚無が腹の底から這い上がってくる。 誇りと傲慢の境界線が、闇の中で溶けていく。 俺はまだ、自分が守ろうとしている「誇り」が、他人の血と汗で織り上げられた豪華な絨毯の上でしか成立しない、虚飾の城であったことに気づいていなかった。


遠くで、城の門が閉まる重苦しい音が響いた。 それは、俺を「文明」から切り離す、最後の断絶の音だった。


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