第3話:信用の消失、愛の変質

第3話:信用の消失、愛の変質


「殿下、もう我慢できませんわ。あんな埃っぽいスープに、石みたいなパン……。わたくし、喉が痛くなってしまいました」


マリアが、赤く腫れたまぶたをハンカチで押さえながら訴える。彼女の肌からは、昨夜までの瑞々しい輝きが失せ、代わりに焦燥という名の薄い膜が張り付いているようだった。


「わかっている。……あんなものは、アシュクロフト公爵が仕掛けた子供騙しの嫌がらせだ。街へ出れば、なじみの商人がいくらでもいる。君に、最高の朝食と、昨夜の埋め合わせの宝石を贈ってあげよう」


俺は震える手で、革の財布を掴んだ。中には、王家の紋章が刻まれた高額紙幣と、いくつかの金貨が入っている。これさえあれば、世界は再び俺の膝元にひれ伏すはずだ。そう自分に言い聞かせ、俺たちは冷え切った王宮を抜け出し、王都の目抜き通りへと馬車を走らせた。


だが、街の空気は、昨日までとは決定的に違っていた。


いつもなら俺の馬車が通るだけで道を空け、深々と頭を下げる民衆たちが、今日はあからさまに視線を逸らす。あるいは、ひそひそと指を差し、嘲笑に似た熱を孕んだ視線を投げつけてくるのだ。


「……気にすることはない、マリア。皆、公爵の圧力を恐れているだけだ」


俺は、王都で最も格式高い宝石店『エトワール』の前に馬車を止めさせた。リリアーナへの誕生日の贈り物も、かつてはここで選ばせていた。店の主人は、俺の顔を見るなり、床に額を擦り付けるのが常だった。


だが。


「……お引き取りを、アルフレッド様」


豪華な装飾が施された扉を開ける間もなく、店主の冷徹な声が響いた。 扉の前に立ちはだかったのは、かつて俺の靴を舐めるような勢いでお世辞を並べていた店主本人だった。その瞳に、かつての卑屈な光はない。あるのは、厄介な汚物を見るような、乾いた軽蔑だ。


「……何と言った? 私を誰だと思っている。アルフレッド王子だぞ。マリアに贈る新作の首飾りを見せろ。支払いはいつも通り、王家のツケでいい」


俺は財布から王家の紋章を見せつけた。だが、店主は鼻で笑った。


「『王家のツケ』? 冗談は休み休み仰ってください。アシュクロフト公爵閣下より通達がございました。王家との取引は、本日を以て全額即金、それも『金貨現物』のみ。……ですが、あいにく当店には、あなた様に売る石は一粒もございません。閣下の許可なく、王族に品物を流したとあっては、我が店が王都から消えてしまいますのでな」


「貴様……公爵の犬に成り下がったか! 金ならある、この紙幣を見ろ!」


俺は高額紙幣を店主の顔に叩きつけようとした。だが、店主はそれを指先で弾き飛ばした。


「アルフレッド様。……その紙切れは、アシュクロフト公爵家の銀行が価値を保証しているからこそ、紙幣として通用するのです。閣下が保証を取り消した今、それはただの『絵が描かれた紙』ですな。あなたの名は、今やその紙切れ以下の価値しかありませんわ」


店主は、俺が呆然と見守る前で、店の看板を下ろし、重厚な閂(かんぬき)を閉めた。


「……紙切れ以下の、価値……?」


足元の泥の上に、王家の紋章が描かれた紙幣がひらりと落ちた。 通行人が、それを踏みつけていく。誰も、それが「王子の財産」だとは気づかない。ただのゴミとして、冬の風に吹かれていく。


「殿下。……今の、どういうことですの?」


背後から、凍りつくような声がした。 振り返ると、そこには俺の知っているマリアとは別人のような女が立っていた。 可憐に潤んでいたはずの瞳は、今は爬虫類のような冷酷さで俺を射抜いている。


「宝石は? 温かい食事は? ……わたくし、殿下についていけば、リリアーナ様よりも贅沢な暮らしができると信じていましたのに。これでは、昨日のパンの方がまだマシではありませんか」


「マ、マリア……。大丈夫だ、他の店へ行けば……」


「いいえ、同じですわ」 マリアは、俺が差し出した手を、汚いものに触れるかのように振り払った。 「殿下。わたくし、気づいてしまいました。わたくしが愛していたのは、あなた様ではありません。『あなた様に宝石を贈らせる、王子という肩書き』だったんですわ」


その言葉は、宝石店の店主の言葉よりも深く、俺の胸を抉った。


「……君も、そうなのか? 真実の愛、と言ったじゃないか」


「愛? あら、愛なんて、お腹がいっぱいの時にしか語れない贅沢品ですわ。……殿下。あなたがリリアーナ様を『人形』と笑っていた時、わたくしも笑っていました。だって、あなたが彼女から奪っていた富を、わたくしが代わりに受け取れると思っていたんですもの。でも、彼女がいないあなたには、パン一切れを用意する力さえない……。ただの、着飾った無能ではありませんか」


マリアはそう吐き捨てると、俺の馬車を勝手に使い、どこかへ走り去ろうとした。


「待て、マリア! 行かないでくれ!」


「離して! 暑苦しい! ……これからは、自分で何とかすることですわ。ああ、公爵閣下が仰っていた通り。……お掃除の時間は、もう終わったんですのね」


馬車が走り去る。 冬の冷たい風が、一人取り残された俺の頬を叩いた。


宝石店のショーウィンドウに映る自分の姿を見る。 王族の衣装を着て、髪を整えているが、その顔は驚くほどに空っぽだった。 俺がマリアを愛していた理由……。それは、彼女の可憐さではなく、彼女を宝石で飾ることで、自分の「力」を誇示できたからではないか。 リリアーナという「正妻」を蔑ろにすることで、自分が「自由な権力者」であると錯覚したかっただけではないか。


俺が愛していたのは、彼女ではない。 彼女を隷属させるための「王子という特権」そのものだったのだ。


それが剥がれ落ちた今、俺には何が残っている? 紙切れ以下の価値しかない名。 泥に汚れた革靴。 そして、腹の底から湧き上がる、耐え難い空腹と孤独。


「……くそっ、公爵め……。リリアーナめ……」


俺は震える声で呪詛を吐いた。だが、その声は誰の耳にも届かない。 街の喧騒は、俺を無視して流れていく。 俺という存在が、この世界から少しずつ「消去」されていく恐怖。


俺は、重い足取りで歩き始めた。 どこへ行けばいいのかも分からない。 ただ、手に残った泥だらけの紙幣を、握りしめることしかできなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る