第2話:剥ぎ取られる「文明」

第2話:剥ぎ取られる「文明」


瞼の裏に焼き付いた昨夜の光は、あまりにも唐突な「冷気」によって打ち砕かれた。


「……寒いな」


寝台のなかで身を震わせ、俺は重い瞼を持ち上げた。いつもなら、俺の目覚めに合わせて寝室の暖炉には絶妙な加減で火が入れられ、部屋は春のような陽だまりに包まれているはずだ。だが、今朝の空気は肌を刺すように鋭く、鼻腔に吸い込む息さえもが氷の針を孕んでいるように冷たい。


「おい、誰かいないのか! 火を入れろと言っているんだ!」


声を荒らげ、枕元にある呼び鈴を乱暴に鳴らした。だが、心地よい金属音は響かない。鈴の芯が抜けているわけでもないのに、音そのものが死んだように沈んでいる。


「殿下ぁ……寒いですわ……」


毛布の塊の中から、マリアが震える声を出した。彼女のバラ色の頬は青ざめ、自慢の金髪も湿った空気のせいで力なく垂れ下がっている。


「どうなっているんだ。王宮の管理体制はどうした!」


俺は絹のナイトウェアの上に、慌てて毛皮のガウンを羽織った。だが、そのガウンすらも、どこかじっとりと冷えている。 ようやく寝室に姿を現したのは、いつも俺の靴を磨き、影のように控えていた老従僕だった。だが、彼の顔にはいつもの恭しさはなく、煤で汚れた絶望の色が張り付いている。


「申し訳ございません、殿下。……薪がございません」


「薪がない? 冗談を言うな。王宮の倉庫には、冬を三度越せるほどの備蓄があるはずだ」


「……昨夜、公爵閣下の指示で、アシュクロフト商会がすべての『納入品』を引き揚げました。薪、石炭、魔石、そして……食料も。今ある薪は、雨ざらしになっていた端材だけでございます」


老従僕が指差す先、暖炉の中では、湿った薪が「じりじり」と不快な断末魔の音を立てていた。そこから立ち上るのは暖かな焔ではなく、目に染みるようなくすんだ灰色の煙だ。


「……ははっ、なんだ、その程度のことか」


俺は鼻で笑った。喉の奥に込み上げる苛立ちを、優越感ですり替える。 「公爵も、やる事が子供じみているな。薪を止めれば私が泣きつくとでも思ったか? 器の小さい男だ。マリア、見なさい。これがリリアーナの背後にいた男の本性だ。情けないとは思わないか?」


「ええ……。でも殿下、わたくし、お腹が空きましたわ。温かいものを食べれば、きっと元気が出ますわよ」


マリアの震える手を引き、俺たちは食堂へと向かった。 暗い廊下には、魔導灯の淡い光さえない。窓から差し込む冬の薄ら寒い光だけが、豪華な絨毯の汚れを無慈悲に照らし出している。


だが、食堂で待っていたのは、俺の想像を遥かに絶する「現実」だった。


「……なんだ、これは。何の嫌がらせだ」


テーブルに並んでいたのは、銀の器に盛られた宝石のような果実でも、香ばしいクロワッサンでもない。 ひび割れた皿の上、冷え切って凝固した脂が浮いている、灰色のスープ。 そして、石のように硬く、黒ずんだ麦パン。


「殿下、本日の朝食にございます……」


給仕が差し出したスープを一口啜った瞬間、俺はそれを吐き出しそうになった。 「ぬるい……! 味がしないじゃないか! 泥の水を飲ませる気か!」


「申し訳ございません……。厨房の魔導コンロが、魔石の供給停止により作動いたしません。これは、昨日から残っていたスープを、煙の出る薪でなんとか温め直したもので……」


「白パンはどうした! 新鮮なミルクは!」


「……すべて、公爵家の物流ギルドが差し押さえました。今、市場にある食材は、公爵家の許可なく王宮へ運ぶことを禁じられております。店主たちは皆、『アシュクロフト閣下を怒らせた王宮に売るパンはない』と……」


俺は手に持ったスプーンを、力任せに床へ投げつけた。高い音が、静まり返った食堂に虚しく反響する。 「馬鹿な……! 私を誰だと思っている! 私はこの国の王子だ! 必要なものは奪ってでも持ってこい!」


「殿下、そんな……わたくし、こんな食事、絶対に嫌ですわ!」


マリアが顔を覆って泣き崩れる。彼女の涙は、昨夜のような可憐なものではなく、生存の危機に直面した生き物の、醜い悲鳴に聞こえた。


その時、俺の胸の奥で、微かな、だが致命的な嫌な予感がした。 俺が当たり前だと思っていた「文明」。 朝の温もり。 香ばしいパン。 夜を照らす光。 俺が『王子』として当然のように享受していたそれらすべては、俺の力で生み出したものではなかったのだ。


リリアーナが、あの「人形」のような顔で淡々と処理していた事務的な契約。 公爵が、あの「カチャリ」という音とともに引き揚げた、目に見えない巨大な『信用』という名の糸。


俺の命は、その糸一本で吊るされていた。 公爵が、リリアーナが、「王子にこの生活を与える」という慈悲を認めていたからこそ、俺は輝くシャンデリアの下で愛を語ることができたのだ。


「……ふん、笑わせるな」


俺は、震える手で黒パンを掴み、無理やり口に押し込んだ。 硬い。奥歯が折れそうなほど硬く、湿ったカビの匂いが鼻に抜ける。 咀嚼するたびに、自分の傲慢さが喉を削っていくような気がした。


「見ていろ……。すぐに父上が何とかしてくださる。公爵など、力でねじ伏せればいい。愛があれば、この程度の不便……耐えてみせるさ」


だが、マリアは俺の言葉に応えなかった。 彼女は、煙る暖炉の、消えかかった小さな火を、縋るような、そしてどこか冷めた目で見つめているだけだった。


俺はまだ、気づいていなかった。 剥ぎ取られたのは「文明」だけではない。 俺という存在を形作っていた「王子の皮」が、今この瞬間も、剥がれ落ち続けていることに。


窓の外では、雪が降り始めていた。 それは、昨日まで俺を祝福していた真っ白な色ではなく、俺の罪を包み隠し、そのまま窒息させるための、死の装束に見えた。


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