悪役令息の贖罪
春秋花壇
『アルフレッドの贖罪 〜泥の中に咲くヒヤシンス〜』
『アルフレッドの贖罪 〜泥の中に咲くヒヤシンス〜』
「リリアーナ・ヴァン・アシュクロフト! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
自分の声が、王宮大舞踏会の高い天井に反響し、心地よい痺れとなって脳を揺らした。 耳を劈(つんざ)くような静寂が会場を支配する。シャンデリアの無数のクリスタルが、俺の「正義」を祝福するように、これ以上ないほど眩しく輝いていた。
腕の中には、震える肩をしたマリアがいる。安物の香水の、けれど刺激的で甘い花の匂いが鼻を突き、俺の征服欲を煽った。彼女の温もりは、隣に立つ婚約者――リリアーナの氷のような冷徹さとは対照的だった。
「……アルフレッド殿下。今のお言葉、本気でいらっしゃいますか?」
リリアーナが口を開いた。 その声は、冬の泉の底に沈んだ銀の鈴のように、冷たく、感情の起伏が一切なかった。彼女の瞳は、一点の曇りもない氷晶の色。その「完璧すぎる淑女」の姿が、今の俺には吐き気を催すほど不気味な人形に見えた。
「本気だとも! 私は目覚めたのだ。君のような、血の通わぬ契約の塊ではなく、マリアという真実の愛に!」
俺はマリアの腰を引き寄せ、あえてリリアーナに見せつけるように微笑んだ。 周囲の貴族たちが息を呑む。その驚愕は、俺にとって「王としての威厳」を示した証拠のように思えた。
「リリアーナ。君はいつも『王家としての義務』だの『次期王妃としての品位』だの、耳を塞ぎたくなるような事務的な話ばかりだ。私が必要だったのは、私の魂を理解してくれる伴侶であって、王宮の帳簿を管理する自動人形ではないんだよ!」
「……さようでございますか。私はただ、陛下からお預かりしているこの国の資産と、王家というシステムの維持を……」
「それだ! その可愛げのない言い草が、私の心を殺してきたんだ!」
俺は彼女の言葉を遮り、勝ち誇ったように叫んだ。 リリアーナの背後。影のように佇んでいたアシュクロフト公爵が、ゆっくりと視線を上げた。 眼鏡の奥で、底知れぬ深淵のような瞳が俺を射抜く。だが、俺は鼻で笑った。公爵がいかに有力者であろうと、俺は次期国王だ。王の決定に、臣下が口を挟めるはずがない。
その時、公爵が手にしていたクリスタルのワイングラスを、側にいた給仕のトレイに置いた。
――カチャリ。
それは、時計の針が止まるような、奇妙に乾いた音だった。 その音とともに、会場の熱気が一気に引き潮のように引いていくのを感じた。肌が粟立つような、正体のしれない「断絶」の感覚。
だが、全能感に酔いしれていた俺は、その違和感を「俺の迫力に公爵が屈した音」だと都合よく解釈した。
「アルフレッド殿下」 リリアーナが、最後のアドバイスだというように、わずかに首を傾げた。 「その『真実の愛』が、冬の夜を越せるほどに温かいものであることを、心よりお祈りいたしますわ」
彼女は完璧なカーテシーをして見せた。一分の隙もない、芸術品のような動作。 それが、俺と彼女を繋ぐ最後の糸が切れた瞬間だった。
「お父様、帰りましょう。もう、ここに私の居場所はありませんもの」
リリアーナは公爵の腕を取り、一度も振り返ることなく大扉へと向かった。 公爵は無言のまま、ただ俺の喉元を切り裂くような一瞥(いちべつ)をくれた。
「ふん、負け惜しみを。行こう、マリア! 今日こそが、私たちの新しい建国記念日だ!」
俺はマリアの手を取り、楽団に演奏を再開するよう合図した。 だが、流れてきた旋律は、どこか調律が狂ったように不協和音を奏で、煌びやかだったはずの会場の灯りが、心なしか黄色く濁って見えた。
マリアが、俺の腕に顔を埋めて囁く。 「殿下……凄いですわ。あんなに恐ろしい公爵様を、一言で追い払ってしまうなんて。わたくし、殿下の強さに一生ついていきますわ」
「ああ、任せておけ。君にはこの国のすべてを約束しよう」
俺は彼女の甘い言葉を、真実の愛だと信じて疑わなかった。 自分の足元から、王宮を支える巨大な礎石が一つ残らず抜き取られたことにも気づかずに。
給仕たちが次々と会場を去り、料理の補充が止まったこと。 窓の外で、公爵家の息がかかった守備兵たちが、音もなく持ち場を離れていったこと。 王室の金庫を管理する官僚たちが、青ざめた顔で書類を抱え、夜逃げの準備を始めたこと。
俺は何も見ていなかった。 マリアの瞳に映る、俺自身の「王冠」の輝きに陶酔していた。
「愛しているよ、マリア」
その誓いの言葉が、冷え始めた会場の空気に溶けて消える。 聖夜の鐘が、遠くで鳴り響いた。 それは祝福の鐘ではなく、俺という男の「終わりのカウントダウン」を告げる、弔いの鐘だったのだ。
俺はまだ、知らない。 明日、俺の喉を潤すはずだった白ワインが、すべて酸っぱい泥水に変わることを。 俺の肩を温めるはずだったマントが、ただの汚れた布切れになることを。
俺はただ、絶頂のなかにいた。 その先に待つ、底なしの泥濘(でいねい)が、すぐそこまで迫っていることも知らずに。
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