第12話「終わらせ方」— 返す/返せない/それでも店は開く(最終話)

 鈴が鳴ったあと、店の中の音が一つ減った。

 減った音の分だけ、入ってきた人の気配がはっきりする。


 私はカウンターの端を拭いた。

 拭く布は乾いている。乾いている布は埃を集める。集まった埃は灰色になる。灰色は、今日の光に合う。


 入ってきたのは、紙袋を抱えた女だった。

 抱え方が硬い。硬い抱え方は、落としたくない抱え方だ。紙袋の口が少しだけ歪んでいる。歪みは、握る指の力だ。


 顔を上げないで、私は足元を見る。

 靴が揃っている。揃え方が丁寧だ。丁寧な揃え方は、急いでいない揃え方だ。


 女はカウンターの前で止まった。

 止まっても、肩が落ちない。落ちない肩は、逃げる気がない肩だ。


 私は椅子を勧めなかった。

 勧めると、距離が変わる。変わった距離は、戻しにくい。


 女が口を開いた。

 声は低い。低い声は、疲れている声だ。疲れているのに、言い方は揺れない。


 「売りに来たんじゃない」


 私は返した。

 「買い戻しでもない」


 女は頷いた。

 頷き方が小さい。小さい頷きは、言い切った頷きだ。


 「返しに来た」


 返す、という言葉が店に落ちた。

 落ちた言葉は、棚の背表紙を硬くする。硬くなると、紙の音が減る。減った音の中で、紙袋がわずかに鳴った。


 私は紙袋を見ない。

 見ないで、女の指を見る。指の節が白い。白いのは、力を入れているからだ。


 「何を」


 私は聞いた。

 聞き方は短い。短い聞き方は、優しく見えない。見えなくてもいい。


 女は紙袋の口を開いた。

 開く手つきが慎重だ。慎重な手つきは、紙の角を守る手つきだ。


 中から本が出てきた。

 表紙が擦れている。擦れが強い。強い擦れは、何度も触れた擦れだ。


 私はその擦れを見た。

 見ただけで、手は出さない。出さないと、まだ預からないでいられる。


 女が本をカウンターに置いた。

 置き方が軽い。軽いのに、置かれた瞬間、空気が少し変わる。変わるのは、私がそう感じるからだ。


 「同じものを探して買った」


 女が言った。

 説明は短い。短い説明は、言い訳に聞こえない。


 私は本を見たまま、レジ横の紙の反りを直した。

 直す動作が無意味に見える。無意味な動作が、人を現実に繋ぐ。


 「これがあると、家が止まる」


 女の声が少しだけ擦れた。

 擦れる声は、泣き声じゃない。泣き声じゃないのに、喉が乾く。


 私は言葉を急がなかった。

 急ぐと、正解を選ぶ形になる。正解はこの店にいらない。


 「止めたいのか」


 私は聞いた。

 女は首を振った。


 「止めたくない」


 言って、息を吸う。

 吸った息が浅い。浅い息は、言葉が足りない息だ。


 「でも、止まってしまう」


 止まる、という言葉は生活の言葉だ。

 生活の言葉は重い。重いのに、派手じゃない。派手じゃない重さは、店に合う。


 私は本を指で触れなかった。

 触れると、確認になる。確認は、引き受けに近い。


 「返す相手は」


 私は聞いた。

 女は視線を落とした。落とした視線が本の擦れに吸われる。吸われる視線は止められない。


 「分からない」


 女は言った。

 分からない、という言葉は弱い。弱いのに、生活では強い。


 鈴が鳴らなかった。

 鳴らないのに、気配が増える。増える気配は、鈴を殺す気配だ。


 第8話の相手が、入口の影に立っていた。

 立ち方がいつもと同じだ。いつもと同じなのに、今日は少しだけ近い。


 相手は鈴を鳴らさずに入ってきた。

 入って、女に向かって短く会釈した。会釈が短い。短い会釈は、長い説明をしない会釈だ。


 「手紙、届いた?」


 相手が女に聞いた。

 女は一瞬だけ目を逸らした。逸らした目が床の木目に落ちる。落ちた目は、そこで止まらない。


 女は頷いた。

 頷きが小さい。小さい頷きは、肯定の頷きだ。


 私は息を吐かなかった。

 吐くと、何かが終わった形になる。終わった形は、戻れない。


 「私は、聞いてほしかった」


 女が言った。

 声が少し軽くなる。軽くなるのは、言ってしまったからだ。


 「でも、聞かれたら壊れると思った」


 壊れる、という言葉が出る。

 出る言葉は、責める言葉じゃない。責める言葉にすると、女は折れる。折れると生活が壊れる。


 私は女の顔を見なかった。

 見ないで、カウンターの角を指で撫でた。撫でる指に埃が付く。付くと、指先が現実に戻る。


 「同じだ」


 私は言った。

 短く言った。短い言葉は、慰めに聞こえない。聞こえなくていい。


 第8話の相手が私を見た。

 見る目が静かだ。静かな目は、責めない目だ。責めない目ほど疲れることもある。


 女が紙袋をもう一度開いた。

 中から、薄い紙が出る。紙は白い。白いのに白すぎない。繊維が少し見える。見える紙は、触ると引っかかりそうな紙だ。


 便箋だった。

 私はそれを言わない。言うと、名前が付く。名前が付くと、説明になる。


 女は便箋を私に渡さなかった。

 渡さないで、握りしめた。握りしめる指が白い。白さが増える。


 「書いたのは、私じゃない」


 女が言った。

 言い方が小さい。小さい言い方は、責任を軽くしたい言い方だ。


 「頼んだ」


 女は続けた。

 頼んだ、という言葉は重い。重いけれど、ここで重くするしかない。


 第8話の相手が頷いた。

 頷き方が平らだ。平らな頷きは、事実として受け取る頷きだ。


 「私は、あなたに聞かせたかった」


 女が言う。

 聞かせたい、という言葉は押し付けに近い。近いのに、女の声は押し付けになりきらない。


 女は目を上げた。

 上げた目が逃げない。逃げない目は、疲れているのに強い。


「でも、聞かれたら壊れると思った」



 同じ言葉を女が繰り返した。

 繰り返すのは、そこが核だからだ。核は、言い換えても同じだ。


 私は返さなかった。

 返すと、正しさになる。正しさは人を疲れさせる。


 鈴が鳴った。

 今度は普通の鳴り方だった。普通の鳴り方は、客の鳴り方だ。


 入ってきたのは、遺品整理の業者だった。

 顔は覚えている。覚えている顔は、店の外の顔だ。


 業者は段ボールを持っていない。

 持っていないのに、手が空いていない。手が空いていないのは、紙を持っているからだ。


 業者は私を見る。

 見る目が軽い。軽い目は、怖さを隠す目だ。


 「今日は、賑やかだね」


 業者が言った。

 私は返さない。返すと、馴れ合いになる。馴れ合いは店にいらない。


 業者はカウンターに紙を置いた。

 古いコピーだ。紙が黄ばんでいる。黄ばみは時間だ。


 紙には文字がある。

 私の字に似ている。似ているだけだ。似ている、と止める。


 「預かった瞬間から、終わらせ方まで背負う」


 業者が読み上げた。

 読み上げる声がゆっくりだ。ゆっくりな声は、逃げ道を塞ぐ声だ。


 私は紙を見なかった。

 見ないで、レジのロール紙を押さえた。押さえる指が硬くなる。硬い指は、冷える前の指だ。


 「覚えてる?」


 業者が聞く。

 私は答えない。答えると、記憶になる。記憶は証拠になる。


 「話すなら客として話せ」


 私は言った。

 言い方が硬い。硬くすると距離が戻る。


 業者が笑った。

 笑いが短い。短い笑いは癖だ。


 「客としてなら買う」


 業者が言った。

 「あなたの欠けた日付を」


 欠けた日付、という言葉が出る。

 出た言葉が、引き出しの位置を指す。指すだけで、手は出ない。


 第8話の相手が業者を見た。

 視線が静かだ。静かな視線は、折らない視線だ。


「売買なら成立する、って言ったよね」



 第8話の相手が言う。

 業者は肩をすくめた。すくめ方が軽い。軽さは悪意に見える。見えるが、断定しない。


 女は黙っている。

 黙り方が逃げの黙り方じゃない。黙り方が、耐える黙り方だ。


 私は引き出しを開けなかった。

 開けない代わりに、引き出しの上に手を置いた。置いた手が冷たい木に触れる。触れた冷たさが、私の掌に残る。


 第8話の相手が言った。

 「触らない。見せるだけ」


 相手は自分の手元から、小さな紙片を出した。

 紙片の端が黒い。黒い端は焦げに近い。近いが、焦げと言い切らない。


 相手は紙片を私の手の近くに置いた。

 置く距離が近い。近い距離は、侵す距離だ。


 私は紙片を見た。

 見ただけで触れない。触れないと、まだ線が残る。


 紙片の欠け方が、破りではない。

 破りは繊維が立つ。立っていない欠けは、熱の欠けに近い。


 業者が息を吸った。

 吸った息が浅い。浅い息は、興味の息だ。


 「それ、事故じゃないんだね」


 業者が言った。

 私は答えない。答えないことが、答えになることもある。


 女が紙片を見る。

 見る目が止まる。止まった目は、知っている目だ。


 女の声が小さくなる。

 「それ……」


 言いかけて止めた。

 止めたのは、言うと壊れると思ったからだ。壊れる、という言葉は出さない。出さなくても分かる。


 私は決めた。

 決めるまでが長かった。長かったのは、聞かないで済ませてきたからだ。


 私は引き出しの鍵を取り出した。

 鍵が冷たい。冷たさが、朝の冷たさじゃない。


 鍵穴に差し込む。

 差し込むと金属が小さく鳴る。鳴り方が薄い。薄い鳴り方は、力を入れていない鳴り方だ。


 回す。

 回す音がする。音がするのは、閉じていたものが開く音だ。


 引き出しを開ける。

 紙の匂いが出る。新しくない匂いだ。


 私は布装丁の本を一冊だけ出した。

 二冊あるうちの暗い方だ。暗い色は、触れると落ち着く色だ。


 私は本を開いた。

 中に挟まっている紙が見える。紙は小さい。小さい紙は、捨てられる紙だ。


 私は半券を取り出した。

 取り出した紙が薄い。薄い紙は、指の熱で曲がる。


 次に、診察券の控えに似た紙を出す。

 紙に印字がある。あるが、読むために出すんじゃない。出しただけだ。


 女の手が止まる。

 止まった指が紙袋の縁を掴んだまま固まる。固まる指は、逃げない指だ。


 「駅」


 私は言わなかった。

 言わないで、半券をカウンターに置いた。置くと、紙が乾いた音を立てる。乾いた音は冬の音だ。


 業者が半券を覗き込む。

 覗き込む距離が近い。近い距離は、売り物を見る距離だ。


 「病院もある」


 業者が言った。

 言ったのは、紙を見たからだ。見ただけだ。説明はしない。


 第8話の相手が言った。

 「ここまで来たら、続きはあなたが選ぶ」


 選ぶ、という言葉が刺さる。

 刺さるのは、私は選ばないで済ませてきたからだ。


 女が口を開いた。

 「終わらせ方を選べなかったのは、あなたじゃない」


 女の声が揺れた。

 揺れた声は、泣き声じゃない。泣き声じゃないのに、湿る。


 私は首を振った。

 振り方は小さい。小さい首振りは、否定じゃない。確認だ。


 「選ばなかったのは、俺だ」


 俺、という言葉が口から出た。

 出る言葉は、今日だけの言葉だ。いつもは言わない。言わない言葉が出ると、喉が乾く。


 業者が黙った。

 黙り方が珍しい。珍しい黙りは、商売の黙りじゃない。


 奪う側がいないことに気づく。

 気づくのが遅い。遅いのは、私は店の中しか見ていないからだ。


 その代わり、入口の外に気配がある。

 覗く気配だ。覗く気配は、時間を待っている気配だ。


 女は紙袋から、もう一冊の本を出した。

 擦れた本だ。擦れた表紙は題名を失っている。失っているのに、手が覚えている。


 女が言った。

 「これがあると、家が止まる」


 私はその言葉を繰り返さなかった。

 繰り返すと、同情になる。同情は押し付けになる。


 私は擦れた本を手に取った。

 取る手つきが丁寧になる。丁寧になるのは、壊れやすいからだ。


 私は包み紙を取った。

 新品だ。新品の紙は白い。白い紙は、何でも包める顔をしている。


 本を包み直す。

 角を合わせる。余りを折る。折り目を指で押さえる。押さえる指が乾く。乾く指は、覚悟の指だ。


 麻紐を取る。

 細い紐だ。細い紐は、結ぶと切れやすい。切れやすいものほど、結び目を丁寧にする。


 女が聞いた。

 「誰に」


 私は結び目を作りながら言った。

 「あなたの子に」


 女の息が止まる。

 止まった息は、驚きの息だ。驚きの息は、声にならない。


 女は首を振りかけて止めた。

 止めた首は、まだ決めていない首だ。


 「読ませるためじゃない」


 私は紐を引いた。

 引くと、紙がきゅっと鳴る。鳴る音は、決めた音だ。


 「持たせるため」


 女が言った。

 「まだ小さい」


 私は言った。

 「小さいから、持てる」


 言ったあと、私は女の顔を見なかった。

 見ないのは、説教にしたくないからだ。説教は、この店の外へ流れる。


 業者が鼻で笑った。

 笑い方が雑だ。雑な笑いは、踏みにじる笑いだ。


 「きれいごと」


 業者が言った。

 言葉が短い。短い言葉は、突き刺さるための言葉だ。


 私は業者を見た。

 見たのは、今日初めてだ。初めて見る目は、重い。


 「買うなら、金じゃない」


 私は言った。

 業者は肩をすくめた。すくめる肩が軽い。軽い肩は、責任がない肩だ。


 第8話の相手が、入口の方へ視線を投げた。

 投げた視線が外を刺す。刺す視線は、来るものを知っている視線だ。


「来る」



 相手が言った。

 言い方が短い。短い言い方は、期限の言い方だ。


 私は鍵を取り出した。

 真鍮の鍵だ。鍵の重さが掌に残る。残る重さは、長く持った重さだ。


 合鍵の途中の金属片も取り出した。

 金属片は完全じゃない。完全じゃない形は、途中の形だ。


 私は金属片を業者の前に置いた。

 置く音は小さい。小さい音が店の中ではよく響く。


 「壊すなら、これで壊せ」


 私は言った。

 業者の目が一瞬だけ大きくなる。大きくなる目は、予想外の目だ。


「渡すの?」



 業者が聞いた。

 私は頷かなかった。頷くと、許可になる。許可は出さない。


 「壊すのは簡単だ」


 私は言った。

 「終わらせ方を選ぶ方が難しい」


 言葉が少し長い。

 長くなるのは、今日だけだ。


 業者は金属片を掴みかけて止めた。

 止めた指が宙で迷う。迷う指は、まだ壊していない指だ。


 業者は金属片を置いたまま、息を吐いた。

 吐いた息が白くない。白くないのに、冷たい。


 「今回は引く」


 業者が言った。

 引く、という言葉は逃げじゃない。保留の言葉だ。


 業者は振り返らずに出ていった。

 鈴が鳴る。鳴った鈴が店を戻す。戻る店の中で、女の紙袋がわずかに鳴った。


 第8話の相手が言った。

 「壊れなかった」


 私は返事をしなかった。

 返事をすると、安心にする。安心は油断になる。


 女が包みを両手で受け取った。

 受け取る指が硬い。硬い指は、落とさない指だ。


 女は礼を言わなかった。

 言わない礼がある。言わない礼は、生活の礼だ。


 女は包みを抱えて帰った。

 鈴が鳴る。鳴り終わる。鳴り終わったあと、店の音がまた減る。


 第8話の相手はカウンターの前に残った。

 残り方が静かだ。静かな残り方は、用件が終わっていない残り方だ。


 「これで終わり?」


 相手が聞いた。

 私は首を振らなかった。首を振ると、続きが確定する。確定はまだ要らない。


 「店は開く」


 私は言った。

 それだけ言う。


 相手は笑わなかった。

 笑わないで、入口の方を見た。見た目が短い。短い目は、確認の目だ。


 相手は扉へ向かった。

 鈴を殺さずに出ていく。今日は鈴を鳴らした。鳴らす礼儀がある。ある礼儀は、今日の形だ。


 扉が閉まる。

 閉まっても、店は店のままだ。ままだが、少しだけ違う。


 私は仕入れ帳を開いた。

 開くページに、空白がある。空白は埋まらない、と決めていた空白だ。


 私はペンを取った。

 ペン先が紙に触れる。触れた瞬間、音が小さく鳴る。鳴る音は、書き始めの音だ。


 今日の冊数を書く。

 数字は小さい。小さい数字でも、数字は数字だ。


 空白にしていた一行にも、数字を書く。

 書くと、紙が少しだけ現実になる。現実になるのは、逃げないからだ。


 欠けた日付のページは戻らない。

 戻らないまま、帳面は続く。続くことが、終わらせ方の一つになる。


 私は最上段を見上げなかった。

 代わりに、棚の端を拭いた。拭く布が乾いている。乾いた布が埃を集める。集めた埃が灰色になる。


 拭っても終わらないものがある。

 あると知った上で、拭く。拭くのは、仕事だからだ。


 鈴が鳴った。

 新しい客が入ってくる。客はコートの襟を整えながら足元を見ている。足元を見る人は転ばない。転ばない人は時間を急がない。


 私は「いらっしゃい」と言わなかった。

 言わないまま、カウンターの上を整えた。整える動作が、店の返事になる。


 客が棚の前で止まる。

 止まって、背表紙を指でなぞる。なぞる指が丁寧だ。丁寧な指は、紙の時間を尊重している。


 私は釣り銭を揃えた。

 揃える音が小さい。小さい音が、店を続けさせる。


 終わったのは、何かの結論じゃない。

 結論は言わない。言うと、押し付けになる。


 残るのは、今日の数字と、結び目の感触だ。

 感触は手に残る。残った手で、私は次の仕事を始める。

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