第11話「鍵と布装丁」— 背に題名のない本を“開ける”
開店前の店は、棚が先に起きる。
背表紙が固く見える。固く見えるのは、光が冷たいからだ。
私は最上段を見上げた。
見上げるだけで、手を伸ばさない。伸ばさないと、棚は棚のままでいられる。いられるはずだ。
埃が光っている。
粒が揺れて見える。揺れて見えるのは、私の息が動いているからだ。動いている息を止めると、粒は止まったように見える。
私は視線を下げた。
下げて、流しへ行く。行く順番はいつもと同じだ。
蛇口をひねる。
水が出る。出る水は冷たい。冷たい水は、音が硬い。
手を洗う。
指の間を擦る。爪の根を擦る。手首の内側を擦る。擦る回数が増える。増えるのは、終わらせる準備ができていないからだ。
石鹸を泡立てた。
泡は白い。白い泡は、落ちたように見える。見えるだけだ。
私は水を止めた。
止めたあと、手に残る冷えが取れない。取れない冷えは、店の外の冷えだ。
タオルで拭く。
拭く布が乾いている。乾いた布は水を吸う。吸うたびに、指が少し軽くなる。軽くなっても、落ちないものがある気がした。
私はカウンターへ戻った。
帳面の角を揃える。レジの鍵を確認する。釣り銭を揃える。揃える動作が、私の顔を仕事に戻す。
最上段をもう一度見ない。
見ないことで、見上げた事実も薄くなる。薄くならないものもある。
鈴が鳴った。
普通の鳴り方だった。普通の鳴り方は、客の鳴り方だ。
入ってきた人は、足を揃えている。
揃え方が丁寧だ。丁寧な揃え方は、礼儀の揃え方だ。礼儀があるのに、距離の詰め方が早い。
コートの襟が整っている。
整っている襟は、来る前に直した襟だ。直してきた人は、用件を決めている。
「すみません」
声が柔らかい。
柔らかい声は、店に合う。合う声ほど、店の中に入りやすい。
「鍵を探しています」
言葉が出る。
出方が迷わない。迷わない言い方は、探しているのが鍵そのものじゃない言い方だ。
私は棚を見た。
見るのは習慣だ。習慣で見ているふりをすると、考える時間が稼げる。
「店に鍵はない」
私は言った。
嘘だ。嘘は短く言う。短い嘘は、形が崩れにくい。
相手は微笑んだ。
微笑みは薄い。薄い微笑みは、引かない微笑みだ。
「なら、穴を探します」
穴、という言葉が空気を変えた。
変わった空気は、棚の背を硬くする。硬くなると、音が減る。減った音の中で、相手の靴底がよく響く。
相手は店内を見回さない。
見回さない代わりに、私の手元を見る。見る場所が近い。近い場所を見る視線は、引き出しへ繋がる。
私は手を止めなかった。
止めると、相手の言葉に反応した形になる。反応した形は、相手に主導権を渡す。
鈴が鳴らなかった。
鳴らなかったのに、気配が増える。増える気配は、鈴を殺す気配だ。
第8話の相手が、入口の影の中に立っていた。
立ち方が軽くない。軽くない立ち方は、ここを知っている立ち方だ。
相手は、鈴を鳴らさずに中へ入った。
入って、奪う側の隣に立つ。並び方が自然だ。自然な並び方は、初対面じゃない並び方だ。
「ここは売買の場所」
第8話の相手が言った。
声が静かだ。静かな声は刺さる。刺さるのは言葉が少ないからだ。
「奪う場所じゃない」
奪う側は笑った。
笑いは短い。短い笑いは、機嫌じゃなく癖だ。
「売買なら買う」
奪う側が言った。
「帳面も、鍵も、本も」
「売らない」
私は言った。
短く言うと、言葉が刃に見える。刃に見えても、これは拒絶じゃない。境界の確認だ。
奪う側は首を傾けた。
傾け方が丁寧だ。丁寧な仕草は、圧を柔らかく見せる。
「じゃあ、壊す」
壊す、という言葉が落ちる。
落ちた言葉が床に転がる。転がる先が、引き出しの前だ。
私は引き出しを見なかった。
見ないで、カウンターの紙の反りを直した。直す動作が無意味に見える。無意味な動作が、人を現実に繋ぐ。
「壊すのは、あなたが?」
第8話の相手が聞いた。
奪う側は答えない。答えないで、微笑む。微笑みが少し深くなる。深い微笑みは、選択肢が減る微笑みだ。
私は決めた。
決めるまでが長い。決めたあとは短い。
引き出しの鍵を握る。
鍵が冷たい。冷たい鍵は、朝の冷たさじゃない。冷たさが残る冷たさだ。
鍵穴に差し込む。
差し込むと、金属が小さく鳴る。鳴り方が薄い。薄い鳴り方は、力を入れていない鳴り方だ。
回す。
回すと、音がする。音がするのは、閉じていたものが開く音だ。
私は引き出しを開けた。
開けると、紙の匂いが出る。新しくない匂いだ。新しくない匂いは、触れてきた匂いだ。
中に、紙片の束がある。
束は整っていない。整っていないのに、崩れていない。崩れていないのは、何度も手が入った束だからだ。
紙片の端が黒い。
黒さは焦げだ。焦げは、燃えた跡に近い。近いが、燃えたと言い切らない。言い切ると、事件になる。
紙片の下に、布装丁の本が二冊ある。
二冊とも背に題名がない。ないのに、違いがある。違いは布の色だ。片方は少し暗い。もう片方は少し明るい。
奪う側が息を吸った。
吸った息が浅い。浅い息は、手が出る息だ。
第8話の相手が、奪う側の前に半歩出た。
半歩が線になる。線があると、奪う側は動けない。動けないふりをする。
私は奪う側を見なかった。
見ないで、本をカウンターに置いた。置く動作が丁寧になる。丁寧になるのは、壊さないためだ。
「これが欲しいなら、買え」
私は言った。
奪う側が即座に返す。
「いくら?」
「金じゃない」
私は返した。
奪う側は口角を上げた。上げ方が少しだけ残念そうだ。残念そうなのは、金で済ませたかったからだ。
私は紙片を一枚だけ取り出した。
取る指が乾いている。乾いた指は紙に引っかかる。引っかかりが小さく音になる。音は、店の中だとよく響く。
紙片を広げる。
広げると、端の欠けが見える。欠けは破りではない。破りではない欠けは、熱の欠けに近い。
日付がある。
日付は途中が欠けている。欠けているのに、同じ欠け方を見たことがある。あるのは、帳面の空白だ。
短い文がある。
字が小さい。小さい字は、急いだ字じゃない。急いでないのに、長く書いていない。長く書かないのは、残すのが怖いからだ。
「あの日、預かった」
「返せなかった」
「終わらせ方を選べなかった」
名前はない。
ないのは、消したからじゃない。最初から書かなかった形だ。
第8話の相手が言った。
「あなたは名前を書かなかった」
私は紙片を指で押さえた。
押さえると、紙が動かない。動かない紙は、逃げない紙だ。
「書けなかった」
私は言った。
言っただけで、説明はしない。説明すると、過去が輪郭を持つ。輪郭を持つと、今が動く。
奪う側が言った。
「なら、開けろ」
言い方が静かだ。
静かな言い方は、命令の言い方だ。
「中身が答えだ」
答え、という言葉は嫌いだ。
嫌いだが、私はそれを言わない。言うと、価値判断になる。価値判断は店にいらない。
私は布装丁の明るい方を手に取った。
手に取ると、布が少しだけ滑る。滑りは手垢の滑りだ。手垢は、何度も触れた手垢だ。
背を撫でない。
撫でると、撫でた跡が残る。残った跡は、私のものになる。
私は表紙を開いた。
開いた瞬間、紙の匂いが違う。違う匂いは、紙が紙じゃない匂いだ。紙じゃないと言い切らない。言い切ると、説明になる。
中に挟まっているものがある。
文章じゃない。文章じゃないものが重なっている。
レシートの切れ端。
切符の半券。
病院の診察券の控えに似た紙。
封筒の切れ端。
どれも小さい。
小さいものは、捨てられるものだ。捨てられるのに、ここにある。
私は一枚を指で押さえた。
押さえた瞬間、音が来る。来る音は、前よりはっきりしている。
笑い声。
子どもの笑いじゃない。若い大人の笑いだ。短く、息が漏れる笑いだ。
私は目を閉じた。
閉じると、光が減る。減った光の中で、音が残る。残った音が、机の上を走る。
机じゃない。
机のような硬さ。硬さの上で、紙が擦れる。擦れる音が続く。続く音は、待たされる音だ。
私は口を開いた。
開いて、言葉を一つだけ落とした。
「……駅」
言ったあと、喉が乾く。
乾いた喉は、言いすぎた喉だ。
第8話の相手がこちらを見る。
見る目が静かだ。静かな目は、知っている目だ。
奪う側は笑わない。
笑わない代わりに、指を動かす。動かした指がカウンターの角を撫でる。撫でる指が早い。早い指は、待てない指だ。
「次」
奪う側が言った。
私は本を閉じた。閉じる動作が丁寧になる。丁寧になるのは、壊さないためだ。
私はもう一冊には手を出さなかった。
出すと、もっと来る。来るものを全部受け止める準備がない。
引き出しの奥から、別の本を引いた。
表紙が擦れている。擦れが強い。強い擦れは、何度も撫でられた擦れだ。
題名が読めない。
読めないのに、そこに題名があったことは分かる。分かるのは、文字の跡が残っているからだ。
第9話の客の声が一瞬だけ重なる。
「母が……捨てられなくて」
私はその声を追わない。
追うと、線が繋がる。繋がった線は、今ここへ来る。
第8話の相手が言った。
「それ、あなたが預からないと言いながら、預かった」
私は否定しなかった。
否定すると、理由が必要になる。理由は言葉になる。言葉は逃げ道にもなる。
「返す相手がわからなかった」
私はそれだけ言った。
言っただけで終える。終えると、店が店でいられる。
奪う側が言った。
「相手は、もう来る」
その言い方が、期限の言い方だ。
期限の言い方は、店の空気を硬くする。
第8話の相手が、静かに返した。
「来させる」
私は顔を上げた。
上げるのは稀だ。稀な動きは、負けに近い。
「来させるな」
私は言った。
声が少し強くなる。強い声は余裕がない。
奪う側は何も言わなかった。
言わない沈黙が、答えみたいに残る。残るのは答えじゃない。残響だ。
鈴が鳴った。
今度は普通の鳴り方だった。普通の鳴り方は、客の鳴り方だ。
私は扉を見る。
見ると、入ってきた人の手が見える。紙袋を抱えている。抱え方が硬い。硬い抱え方は、落としたくない抱え方だ。
母親だった。
第4話の母親に似ている。似ているだけかもしれない。似ているという言葉で断定しない。
母親はカウンターの前で止まった。
止まって、紙袋の口を押さえる。押さえる指が少し震える。震えるのは寒さかもしれない。かもしれない、で止める。
「……あの本、まだありますか」
声が低い。
低い声は、泣き声じゃない。泣き声じゃないのに、店の空気が少し湿る。
私は答えなかった。
答えると、終わらせ方が確定する。確定した終わらせ方は、戻れない。
私は鍵を握った。
握った鍵が掌の熱を奪う。奪われた熱の代わりに、紙片の黒い端が頭に戻る。
奪う側の気配が、半歩近づく。
第8話の相手の気配が、半歩前に出る。
母親の紙袋が、少しだけ鳴る。
私は本を見ない。
見ないで、紙袋の上の指を見る。指が白い。白い指は、力を入れている指だ。
私はカウンターの上を拭いた。
拭く布が乾いている。乾いた布が埃を集める。集めた埃が灰色になる。灰色は、捨てられなかったものの色だ。
今日、私は開けた。
開けたのに、まだ開けていない。開けていないものが残っている。
残るのは答えではない。
残響だけが、店の中に残る。
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