第10話「欠けた日付」— 仕入れ帳の空白が“誰かの手”で開かれる

 朝の路地は、音が少ない。

 音が少ないと、音が目立つ。目立つ音は、店の鍵の音だ。


 私は鍵束を指で分けた。

 金属が触れ合って鳴る。鳴る音が薄い。薄い音は、指の力が抜けている音だ。


 店の前に立つ。

 扉の前の石が冷たい。冷たさが靴底から上がってくる。上がってくる冷えは、冬の冷えだ。


 鍵穴を見た。

 見た瞬間に分かる。分かるのは、毎日見ているからだ。見ているから、違いが立つ。


 鍵穴の縁に細い傷がある。

 傷は一本ではない。一本ではない傷は、試した傷だ。試した傷は、最後までやらなかった傷だ。


 私は息を吐かなかった。

 吐く前で止めた。止めた息が喉に残る。残る息は、言葉になる前の息だ。


 鍵束から店の鍵を選ぶ。

 選ぶ指が少し遅い。遅いのは、鍵穴が気になるからだ。気になるが、そこに立ち止まらない。


 鍵を差し込んだ。

 差し込むと、金属が引っかかるような気がした。気がしただけだ。私は力を入れない。力を入れると、傷の線を認めることになる。


 鍵を回す。

 音が鳴る。鳴る音はいつもと同じだ。同じ音が出ると、私は扉を開けていい。


 扉を開けた。

 ドアベルが揺れる。揺れて、鳴る。鳴る前に、私はベルの位置を見た。


 ベルの鈴が、ほんの少しずれている。

 ずれは小さい。小さいずれは、誰かが触ったずれだ。触ったのに鳴らさないように触ったずれだ。


 私はベルの紐を直した。

 直す指が丁寧になる。丁寧になるのは、静けさを作り直すためだ。作り直すのは、今日の順番を守るためだ。


 床に入る。

 靴底が木を撫でる。撫でる音が小さい。小さい音は、店がまだ眠っている音だ。


 電気を点けた。

 蛍光灯が一度だけ瞬く。瞬いた光が背表紙を白くする。白くなる背表紙は、朝の顔だ。


 私はカウンターへ向かった。

 レジの鍵を開ける。釣り銭を揃える。帳面の角を揃える。揃える動作が、私を現実に繋ぐ。


 仕入れ帳を引き出しから出した。

 出した帳面は厚い。厚いのに軽い。軽いのは、紙が乾いているからだ。乾いた紙は音がしない。


 私は帳面を開かなかった。

 開かないまま、表紙の端を指で撫でた。撫でると、紙の粉が指につく。ついた粉が白い。白さは、古い紙の白さだ。


 鍵穴の傷が頭に戻った。

 戻ったが、私は言葉にしない。言葉にすると事件になる。事件にすると、店は店でなくなる。


 鈴が鳴った。

 普通の鳴り方だ。普通の鳴り方は、客の鳴り方だ。


 遺品整理の業者が入ってきた。

 コートの襟を直さない。直さないのは、ここに長くいないからだ。長くいない人は、用件が短い。


 「昨日、あなたの店の前に誰かいた」


 業者が言った。

 言い方が淡々としている。淡々としている言い方は、報告ではなく確認に近い。


 私は答えなかった。

 答えると、昨日の前に立っていた影を確定することになる。確定した影は、今の傷と繋がる。


 業者は段ボールを置かなかった。

 置かない代わりに、一枚の紙を差し出した。紙はコピーだ。古いコピーだ。端が黄ばんでいる。黄ばみは時間だ。


 私は紙を受け取らなかった。

 受け取ると、紙の責任が移る。移った責任は戻らない。


 業者は紙をカウンターに置いた。

 置く動作が軽い。軽いのに、置かれた瞬間、机の上の空気が少し変わった気がした。気がしただけだ。


 紙に印字された文が見える。

 見えるのは、視線が勝手に拾うからだ。拾うと、そこが線になる。


 預かった瞬間から、終わらせ方まで背負う。

 文は短い。短いのに重い。重いのは、言った人が責任を知っているからだ。


 私は紙を見たまま黙った。

 黙ると、業者の足音が近い。近い足音は、圧の足音だ。


 「これ、覚えてる?」


 業者が聞いた。

 聞き方が軽い。軽い聞き方は、軽くないものを投げる聞き方だ。


 私は紙の端を指で押さえた。

 押さえるだけだ。持ち上げない。持ち上げると、読む形になる。読む形は、過去を開く形だ。


 「客は来る」


 私は言った。

 言葉を置く。置いた言葉は線になる。線がないと、店の外の話が店の中へ入ってくる。


 業者が笑った。

 笑いは短い。短い笑いは、機嫌がいい笑いではなく癖の笑いだ。


 「じゃあ、客として話すよ」


 業者が言った。

 そう言っても、買う棚を見ない。見ないのに、ここへ来る。来るのは、買い物じゃない。


 私は紙を裏返した。

 裏返すと、印字が見えなくなる。見えなくなると、少しだけ楽になる。楽になるのは、線が薄くなるからだ。


 「十年前、あなた、遺品の本を預かった」


 業者が言った。

 言い方がゆっくりだ。ゆっくりだと、言葉が刺さる。刺さるのは、音が少ないからだ。


 「話すなら客として話せ」


 私は言った。

 言い方が硬い。硬くすると、距離が戻る。距離が戻ると、店が店になる。


 業者が肩をすくめた。

 すくめ方が軽い。軽い動作が、わざとに見える。


 「客としてなら買う」


 業者が言った。

 「あなたの欠けた日付を」


 欠けた日付、という言葉が机の上に落ちる。

 落ちた言葉が転がる。転がる先が引き出しの方だ。引き出しは、私の線の内側にある。


 私は引き出しを見なかった。

 見ないで、レジ横の紙の反りを直した。直す動作は無意味に見える。無意味な動作が、人を現実に繋ぐ。


 業者が紙の角を指で弾いた。

 乾いた音がする。乾いた音は冬の音だ。冬の音は、店の中でよく響く。


 「売買なら成立する」


 声がした。

 扉の鈴は鳴っていない。鳴っていない鈴の後の声だ。声が近い。近い声は境界を侵す声だ。


 私は視線を上げなかった。

 上げなくても分かる。分かるのは、鈴を殺す入り方を知っている相手だからだ。


 第8話の人物が、店の中にいた。

 コートの裾が揺れていない。揺れていないのは、動きが少ないからだ。少ない動きで距離を詰める人は、慣れている。


 人物はカウンターに近づいた。

 近づき方が自然だ。自然な近づき方は、ここが自分の場所だと思っている近づき方だ。


 「帳面」


 人物が言った。

 言い方が淡々としている。淡々としている言い方は、頼みではなく確認に近い。


 私は手を止めなかった。

 止めると、相手の言葉に反応した形になる。反応した形は、相手に主導権を渡す。


 「触るな」


 私は言った。

 短く言うと、言葉が刃に見える。刃に見えても、これは拒絶ではない。境界の確認だ。


 人物は笑わなかった。

 笑わない代わりに、引き出しの上を指で叩いた。叩く音が小さい。小さい音がよく響く。響くのは、店の中が静かだからだ。


 「触らない」


 人物が言った。

 「見せるだけ」


 人物の指先が、ポケットから小さな紙片を出した。

 紙片は紙ではない。紙に見えるが、質が違う。焦げた紙の欠片のように見える。見えるだけだ。


 人物は紙片を私の前に置かなかった。

 置かないで、指の間に挟んだまま見せた。見せる距離が近い。近い距離は、逃げ場を減らす距離だ。


 欠片の端が欠けている。

 欠け方が不自然だ。手で破った欠け方ではない。裂けた線が直線じゃない。直線じゃない裂け目は、熱が入った裂け目に近い。


 私は欠片を見たまま息を吐けなかった。

 吐けない息が胸に残る。残る息が冷たい。冷たい息は、過去の息だ。


 業者が欠片を覗き込んだ。

 覗き込む顔が近い。近い顔は距離を侵す。


 「燃えた跡?」


 業者が言った。

 言葉が軽い。軽い言葉は、重いものを雑に扱う言葉だ。


 人物は業者を見ない。

 見ないまま、欠片を少し揺らした。揺れる欠片が光を拾う。拾った光が黒い。黒い光は、焦げの光だ。


 「事故じゃない」


 人物が言った。

 断定のように聞こえる。聞こえるが、人物は続けない。続けないのは、責任を置かないためだ。


 私は欠片に触れなかった。

 触れると、欠片が私のものになる。私のものになった瞬間に、私は背負う形になる。


 「欠けた日付は、あなたの帳面の中にある」


 人物が言った。

 言い方が穏やかだ。穏やかな言い方は、怖い。


 私は帳面を開かなかった。

 開かない代わりに、引き出しの取っ手に手を置いた。置いた手が冷える。冷える手は、鍵穴の傷を思い出す手だ。


 「売買なら成立する」


 人物がもう一度言った。

 業者が笑った。


 「成立するなら買うよ」


 業者が言った。

 「話を買う。欠けた日付を買う。鍵も買う」


 鍵、という語で、人物の目がわずかに動いた。

 動きは小さい。小さい動きでも分かる。分かるのは、私も小さい動きで生きているからだ。


 私は業者を見なかった。

 見ないで、コピー紙を指で揃えた。揃える動作は、話を紙に閉じ込める動作だ。閉じ込めたつもりで、閉じ込められないものもある。


 人物がカウンターに封筒の束を置いた。

 置く動作が軽い。軽いのに、紙質が目に入る。白いのに白すぎない。繊維が少し見える。触ると指に引っかかりそうな質だ。


 第4話の便箋と同じ手触りに見える。

 見えるだけだ。確かめるには触る必要がある。触ると来るものがある気がする。


 束の下に、送り状のコピーが混じっていた。

 第2話の差出人不明の小包の送り状に似ている。似ているのは、文字の配置だ。配置は同じでも、書いた手は違うかもしれない。


 人物は「送った」と言わなかった。

 言わないで、「送らせた」と言った。


 「誰かが送った」


 人物が言った。

 「私が、送らせた」


 業者が口角を上げた。

 上げ方が嬉しそうだ。嬉しそうな顔は、面倒な顔だ。


 「誰に」


 業者が聞いた。

 人物は答えない。答えないで、封筒の端を指で揃えた。揃える動作は、名前を置かない動作だ。


 「誰かが、あなたに鍵を渡させたがってる」


 人物が言った。

 業者が噛んだ。


 「鍵?」


 業者が言った。

 言い方が子どもみたいだ。子どもみたいな言い方は、興味の言い方だ。


 私は業者を見ずに言った。

 「帰れ」


 言葉が短い。

 短い言葉は、刃に見える。刃に見えても、これは追い出しではない。線の確認だ。


 業者は帰らなかった。

 帰らない人は、買うと言い続ける。買うと言えば、相手が折れると思っている。


 「じゃあ買う」


 業者が言った。

 「話を買う。過去を買う。あなたが預かったっていう事実を買う」


 私はその言葉を拾わなかった。

 拾うと、預かった、が確定する。確定したら、私は背負う形になる。


 人物が欠片を仕舞った。

 仕舞うときの指が丁寧だ。丁寧な指は、壊したくない指だ。壊したくない指が、壊れた欠片を持っている。


 「あなたは聞かない」


 人物が言った。

 声が静かだ。静かな声は刺さる。刺さるのは言葉が少ないからだ。


 私は何も言わなかった。

 言うと、聞かない理由を説明することになる。説明は、店の外へ流れる。流れたら戻らない。


 業者がコピー紙を指で押さえた。

 押さえた指が紙を少し滑らせる。滑る紙が木目を撫でる。撫でる音が耳に残る。残る音は、触れたくなる音だ。


 「聞かないで守ったつもり?」


 人物が言った。

 問いが形を取る。形を取った問いは、逃げにくい。


 私はペンを持った。

 持って、仕入れ帳の表紙を一度だけ撫でた。撫でると、指先に紙の粉がつく。粉が白い。白い粉は、言葉の代わりになる。


 「聞かないのは、俺のためだ」


 私は言った。

 言ってから、喉が少し乾く。乾く喉は、言いすぎた喉だ。


 業者が目を細めた。

 細めた目が、勝ちの目に見える。勝ちの目は疲れる。


 私は続けた。

 続けるのは、言った以上、止められないからだ。


 「聞いたら、背負う」


 「背負ったら、壊す」


 言葉は短くした。

 短くしないと、言葉が言い訳になる。言い訳になると、店の中が濁る。


 人物が言った。

 「だから逃げた」


 私は否定しなかった。

 否定すると、別の説明が必要になる。説明は増える。増える説明は、読者の疲れになる。疲れを置かない。


 沈黙が落ちた。

 落ちた沈黙が床に広がる。広がる沈黙の中で、外の風の音が大きく感じられる。感じられるだけだ。私は風を見ない。


 業者が小さく聞いた。

 「じゃあ、あの時の人はどうなった」


 私は答えなかった。

 答えると終わる。終わらせると、今ここにある欠けが塞がる。塞がると、次が来る。次が来るのが怖い、とは言わない。手が冷える。


 私は引き出しの鍵を握った。

 握った鍵が掌の熱を奪う。奪われた熱の代わりに、指の関節が白くなる。白くなるのは力だ。力は、戻れる場所を作る。


 人物がカウンターに小さな金属片を置いた。

 金属片は短い。短いのに重い。重いのは、合う形をしているからだ。


 鍵穴に合う形に見える。

 見えるが、完全じゃない。欠けている。欠けた形は、途中の形だ。


 「合鍵の途中」


 人物が言った。

 言い方が淡々としている。淡々としている言い方は、事実を置くだけの言い方だ。


 業者が息を吸った。

 吸った息が浅い。浅い息は、興奮の息だ。


 「壊すこともできるって言ったよね」


 人物が続けた。

 私は返さなかった。返すと、誰に言ったかが確定する。確定したら、十年前の線が繋がる。


 人物が言った。

 「私は壊したくない」


 「でも、壊す人がいる」


 壊す人、という言い方が曖昧だ。

 曖昧なのに具体的だ。具体的なのは、近いからだ。近いから、匂いがする。匂いはしない。しないのに、消毒液の匂いが刺さるような気がした。気がしただけだ。


 私は聞いた。

 「誰だ」


 人物は答えない。

 答えないで、金属片を指で回した。回る金属が光る。光り方が鈍い。鈍い光は、手垢の光だ。


 「明日、ここに来る」


 人物が言った。

 「あなたが渡さないなら、奪う」


 奪う、という言葉が店の背表紙を硬くする。

 硬くなった背表紙は音を減らす。減った音の中で、鈴のない入り方が残る。


 私は金属片に触れなかった。

 触れると、途中の鍵を預かる形になる。預かる形は、やらないことになっている。


 業者が笑った。

 笑いは優しくない。優しくない笑いは、正しさの側に立つ笑いだ。正しさの側は、いつも人を疲れさせる。


 「面白くなってきた」


 業者が言った。

 私は言葉を返さなかった。返すと、この場が取引の場になる。取引の場は、店の顔を変える。


 人物が扉へ向かった。

 向かう足音が軽い。軽い足音は、悪意ではなく遠慮のなさだ。遠慮のなさは親しさの形にも見える。見えるが、私はそこに寄らない。


 人物は扉を押さえた。

 鈴は鳴らない。鳴らない鈴が、今日の始まりの傷と重なる。


 扉が閉まった。

 閉まっても、封筒の束はカウンターに残る。残った束は、預かっていないのに店の中にある。


 私は封筒に触れなかった。

 触れないまま、帳面を引き出しに戻した。戻す動作が丁寧になる。丁寧になるのは、線を守るためだ。


 業者が紙を一枚だけ抜いた。

 抜いた紙の端が黄ばんでいる。黄ばんだ端は、捨てられなかった端だ。


 私は言った。

 「客ならベルを鳴らせ」


 業者が肩をすくめた。

 「鳴らしたよ」


 鳴らしたのは鈴だ。

 鈴じゃない音で鳴らした鈴だ。私はそこを拾わない。拾うと、今日の傷が事件になる。


 私はカウンターの上を拭いた。

 拭く布が乾いている。乾いた布は埃を集める。集めた埃が灰色になる。灰色は、昨日の終わりの色だ。


 業者はまだ立っている。

 立ち方が軽くない。軽くない立ち方は、引かない立ち方だ。


 「買うよ」


 業者がもう一度言った。

 私は答えない。答えないことで、まだ終わっていないを残す。残すのは答えじゃない。


 私はベルの紐をもう一度直した。

 直した紐が真っ直ぐになる。真っ直ぐな紐は、静けさの形だ。形があると、私は今日を続けられる。


 業者が帰らないまま、私はペンを取った。

 仕入れ帳の今日の欄に日付を書く。書いた日付の数字が、どこか欠けて見える気がした。気がしただけだ。


 私はペン先を紙で拭いた。

 拭いた紙が黒くなる。黒くなった紙は捨てる。捨てる紙は、預からない紙だ。


 紙屑をゴミ箱に落とした。

 落ちた紙が乾いた音を立てる。乾いた音は冬の音だ。冬の音が、鍵穴の傷を思い出させる。思い出すが、私はそこへ戻らない。


 残るのは、答えではない。

 残響だ。

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